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2013年10月18日金曜日

ビルマの竪琴(‘56)     市川崑



<ラストシーンの反転的な映像提示 ―― イデオロギーに与しない相対思考の切れ味>



1  無残に朽ち果てた白骨の爛れ切った風景に呑み込まれて



アジア・太平洋戦争末期のビルマ(現在のミャンマー)で、苛酷な行軍兵士たちの日本軍の小隊があった。

人格者然とした音楽学校出身の井上隊長の指揮下で、皆で合唱することで疲弊感を束の間忘れる方略は、隊員たちの規律の維持に極めて有効であり、安定した統率も確保されていた。

素人合唱団と思しきそんな小隊の中に、サウン・ガウと呼ばれるビルマの民族楽器の竪琴を演奏する名手がいた。

水島上等兵である。

ロンジーと呼称される、ビルマの民族衣装の腰布を着衣すると、まるでビルマ人と間違えられるほど、彼はビルマの文化に外見的に適応できていた。

水島上等兵のこの適応力が認知され、しばしば斥候に出されるや、竪琴による音楽暗号で、小隊に安否の確認情報を知らせていた。

そんな折、英軍に包囲された小隊は、得意の戦法で危機回避を図る。

英軍に気付かれていない振りをするために、「埴生の宿」を合唱するのだ。
  
埴生の宿も わが宿
玉の装い 羨(うらや)まじ
のどかなりや 春の空
花はあるじ 鳥は友
おお わが宿よ 楽しとも たのもしや
ふみよむ窓も わが窓
瑠璃(るり)の床も 羨まじ
清らかなりや 秋の夜半(よわ)
月はあるじ むしは友
おお わが窓よ
たのしとも たのもしや

ヘンリー・ローリー・ビショップ(ウィキ)
ところが、「埴生の宿」の合唱後に危機突破を図ろうとした、そのときだった。

森の向うに潜む英軍兵の一隊が、「埴生の宿」の合唱を始めたのである。

無論、英語の合唱である。

ヘンリー・ローリー・ビショップ作曲の「埴生の宿」は、元々イングランド民謡なのだ。(注1)


かくて、英軍兵の包囲網の突破が困難である現実を知り、井上隊長の小隊が英軍の捕虜となるに至るが、そこには既に、3日前に日本の無条件降伏の事実を知らされた事実が大きく関与していた。


やがて、小隊はムドンの捕虜収容所に送られようになるが、その前に、英軍には早急に片付けねばならない厄介な問題があった。

「三角山」と呼ばれる岩場で、降伏を潔しとしない小隊が、未だに戦闘を続けていて、英軍は手を焼いていたが、今や、完全に殲滅する最終プロセスに入っていたのだ。


「三角山」の守備隊隊長
昨今でも解釈が分かれているが、東條英機が日本の軍人の行動規範の訓令として定めた、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という一文を持つ、「戦陣訓」の「降伏の否定」の思想が、「三角山」の小隊の玉砕を約束してしまっていたのである。

何とか、「三角山」の小隊の救済を具現せんと、井上隊長が英軍と執拗な交渉した結果、「三角山守備隊」への説得の使者として選ばれたのは、井上隊長の信望の厚い水島上等兵だった。

 説得時間として与えられたのは、僅か30分。

水島上等兵は、この危険な役目を遂行してから、ムドンの捕虜収容所に合流する思いを抱いて「三角山」に向かうが、想定していた通り、立てこもる日本兵たちの士気が下がることなく、あえなく説得は頓挫する。

日本人は、こういうとき、必ず「空気」を読む。

所属集団の多数派の声高な「空気」が、それに抗えない「同調圧力」に支配されてしまうのだ。

だから、「三角山」の守備隊隊長が、水島上等兵の提案を受容して、小隊の下士官・兵士の意見を公開の場で求めても、降伏に賛同する者など出現しようがないのである。

結局、時間切れとなって、「三角山」の小隊は、英軍の激しい砲撃に曝され、玉砕するに至った。

爾来、消息不明となってしまった水島上等兵。

一方、ムドンの捕虜収容所で労働の日々を送る井上隊長らは、遂に帰還して来なかった水島の安否を知るために、物々交換で収容所にやって来る物売りの老婆に、ムドンの町に収容されている日本の傷病兵の中に水島らしき男がいないか聞いて欲しい、と熱心に頼み込んでいた。

そんな折、移動中の隊員たちが橋梁建設の作業を終え、収容所に戻ろうとするとき、その橋梁で青いインコを肩に乗せた若い僧侶に出会った。

隊員たちは、水島上等兵に酷似したその若い僧侶に声をかけたが、件の僧侶は顔を背けて立ち去っていく。

井上隊長
僧侶の後姿を、いつまでも見つめている井上隊長。

その後、例の物売りの老婆から、「三角山」で玉砕した兵士の中に、水島上等兵らしき男がいた情報を聞き知り、水島の戦死の事実を疑えなくなっていた。

それでも、物売りの老婆から、件の僧侶にインコを与えたという話を耳にした隊員たちは、万に一つもの可能性を信じて、物々交換で一羽のインコを譲り受けた。


ここから映像は、水島上等兵が戦死していなかったという事実を、「三角山」の玉砕にまで遡及し、フォローしていく。

「三角山」の崖から落下し、九死に一生を得た水島は、ビルマの僧侶に助けられるに至った。

部隊に戻るつもりで、河で剃髪中のその僧侶の着衣を盗んで逃げ出した水島は、自ら剃髪し、ビルマ僧に変装して、飢えと疲弊に難儀する旅を繋いでいく。

命の恩人であるはずの、ビルマ僧の着衣を盗んでしまうシーンは、水島という男が、単に、一小隊の上等兵のポジションにある日本兵である点を表現していて、私としては非常に合点がいく。

そんな旅でも、行き交うビルマの人々から食物の施僧を受け、それをガツガツ食べる偽僧侶の水島。


小乗仏教とも揶揄される上座部仏教の国・ビルマの僧侶は民衆から尊敬される存在なのだ。


小隊への帰還を目指す水島に変化が起こったのは、供仏施僧(くぶつせそう)の旅を繋ぐ行程の只中だった。

ムドンの町がある南に向かって、ひたすら急ぐ水島の脚が突然止まったのだ。


辺り一面、日本兵の死体が蝟集(いしゅう)していて、既に皮膚や筋肉、内臓などの組織の大半が抜け落ち、無残に朽ち果てた白骨が荒廃し、節くれだった地表に散乱し、野晒しになっている惨状を視認したからである。

空を舞う鳥の群れが腐臭を嗅ぎ分けて、煩く騒いでいた。


人物の特定もできない日本兵の死体や白骨が、無残に放置されている現実に形容しがたい衝撃を受けた水島は、日が陰ってもそこに残って、自分で為し得る限りの葬いを挙行する。


荼毘に付し、土饅頭を作り、敬礼した水島は、まもなく、ムドンの収容所に急ぐように向かった。

しかし、その途中で、水島は、辛うじて抑え込んでいた内面の揺動を決定的に変容させる風景を視認してしまう。

英軍病院の看護婦たちが讃美歌を歌いながら、「日本兵無名戦士の墓」の前で祈っていたのである。

彼はもう、これで逃げられなくなってしまった。

情感が反転してしまったのだ。

「日本兵無名戦士の墓」の前で祈りを繋ぐのは、日本人でなければならない。

そう、括ったのだろう。

しゃがみ込み、頭を垂れ、煩悶で自縄自縛になり、脳裏に浮かぶのは、腐臭が鼻につく無残に朽ち果てた白骨の爛れ切った風景だった。


(注1)「埴生の宿」は、英国の作曲家ヘンリー・ローリー・ビショップの作曲で、訳詞は里見義(ただし)。この歌は、「蛍の光」などと並んで、四つ目の「ファ」と、七つ目の「シ」がない「ド・レ・ミ・ソ・ラ・ド」で作られた、所謂、「ヨナ抜き音階」である。これは、西洋音楽を摂取するために、明治半ばに文部官僚が考案した音階で、後に「小学校唱歌」に取り入れられるが、昭和時代以降、日本人の感性に合う音楽として、今でも、演歌など流行歌の主流となって歌われ続けている。その代表は、「リンゴ追分」、「上を向いて歩こう」、「木綿のハンカチーフ」等々。



2  涅槃像の表層を覆う鉄扉の厚みの、拠って立つ心の風景の決定的距離



英軍病院の看護婦たちの行為を見て、意を決した水島は、収容所に最近接しながら、元の道を引き返すのだ。

その途中で遭遇したのが、労役から収容所に帰参する、井上隊長をリーダーにする原隊の一群だったのである。

感情を殺して、水島は原隊をやり過ごしていく。

「やっぱり自分は、皆と一緒に帰る訳にはいかない」

そう呟きながら、北上の歩行の速度を上げていく水島が、そこにいる。


その直後の映像は、ビルマの住民たちが遠巻きに見ている中で、単身、河原で無名の日本兵の埋葬を続ける水島の姿だった。

疲弊し切って座り込んでしまった水島の姿を見て、今度は、ビルマの住民たちが埋葬を手伝っていく。

水島が、眩い輝きを放っているビルマのルビーを掘り出したのは、住民たちの協力を得て再駆動させた埋葬の最中だった。

不思議がるビルマの住民たち。

「死者の魂に違いない」

一人のビルマ人が、語気を強めた。

そのルビーを堅く胸に抱いて、水島は、埋葬の意志を確認する決意を結んでいく。


一方、水島の生存を信じて、彼を探し続ける井上隊長らは、偶然、水島らしき男と出会う機会に恵まれた。

英軍の戦没兵士の慰霊祭に特別参加を認められた井上小隊は、パゴダ(ビルマの仏塔)の前を通過していく僧侶の中に、白木の箱を抱いて、ゆっくり歩む一人の僧侶を視認し、彼こそ例の橋梁で見た青年僧であることを確信した。

あの青年僧は、やはり水島だったのか。

一同は、ただ、ビルマの僧侶のラインに溶融したかのような、一人の僧侶の形姿に釘付けになっていた。(注2)

「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ」

これは、井上隊長が、物売りの老婆から譲り受けた、一羽のインコに教え込んだ言葉。

「女々し過ぎます」という伊東軍曹の忠告があっても、井上隊長が、ここまで確信的な行動に振れるのは、白木の箱を抱いている僧侶の行為が、遺骨を運ぶときの日本人の習慣であることを想起したことで、その僧侶こそ水島であると信じ切ったからである。

白木の箱を抱いている僧侶=水島である事実を確認するために、井上隊長は隊員を説得してまで動いていく。

「戦没英兵臨時納骨所」に置かれている、白木の箱を身近で確認すること。

これが、井上隊長の行動の内実だった。

その結果、白木の箱が置かれている空気に触れただけで、井上隊長は確信するに至った。

「水島、やっぱりお前だったんだな。納骨堂に祀られているこの箱を見て、私には、はっきり分った。水島、お前は三角山で、どんな経験をしたんだ・・・私には、何にも分らない。しかし、お前の気持ちは分るような気がする。偉い決心をしたもんだな。どんなに辛かっただろう・・・」

その後、白木の箱を開ける井上隊長の視界に入ったのは、赤色が眩いルビーだった。

そのルビーの輝きの中に、日本兵の魂が遺骨と化しているイメージが想起され、未だ葬られていない無名戦士の葬送の儀式に命を懸ける水島の覚悟を、井上隊長は読み取ったのである。

井上隊長は、日本兵の魂が凝縮すると信じるルビーを拝んで、納骨堂を立ち去っていく。

その傍らに水島が潜んでいて、嗚咽を堪えていたことなど、当然、知る由もなかった。

その直後の映像は、労役の合間に、釈迦涅槃像(寝釈迦像)の近くで、「荒城の月」の合唱をする井上隊の面々。

「荒城の月」の合唱を釈迦涅槃像の胎内で耳にした水島は、竪琴を奏でることで反応する。

この時点で、水島の生存を確信する井上隊の面々は、釈迦涅槃像に縋り付き、外部から水島に大声で呼びかけるが、涅槃像の表層を覆う鉄扉の厚みは、ビルマの地に骨を埋める覚悟をした者と、やがて日本へ帰国することを至福にする者たちとの、その拠って立つ心の風景の決定的距離だった。

外部に顔を出せない水島の心を理解できている井上隊長は、もう、この騒ぎの中枢に身を置くことがなかった。

小隊に、飛び切りの価値を持つ情報が入ってきた。

3日後に、日本に帰国することが決まったのである。

歓喜の渦に包まれる小隊の面々。

ここにきて、井上隊長を諫(いさ)めていた伊東軍曹は、水島を如何に日本に連れて帰るかと案じる始末。

こういう辺りも、本篇の人間洞察力の妙を感じ入る。

水島の存在を、ごく身近な距離で感受したことで、伊東軍曹の心の風景に微妙な波動が生じたのだろう。

それは、あれほど水島の消息に拘泥していた井上隊長が、もう諦念したかのように、冷めたような態度を顕在化するに至った現象に接して、伊東軍曹が、却ってリアクションに振れていく心理の発露だったとも言える。

ともあれ、今や、彼らと、水島の帰国が不可能であることを理解し切っている井上隊長との、心の風景の距離もまた決定的だったのである。

左から物売りの老婆、伊東軍曹(3人目)、馬場一等兵(4人目)
水島を戻すために、隊員らは収容所の柵ごしに合唱を繋いでいくが、喉を潰してしまうだけで全く効果はなかった。

いよいよ帰国の前日となった。

伊東軍曹は物売りの老婆に、井上隊長によって日本語を教え込んだインコを、例の僧侶に渡して欲しいと頼む以外になかった。

収容所の柵の向こうに、水島が現れたのはその夜だった。

左肩に二羽のインコを乗せた水島が、竪琴を教えたビルマの少年を随伴し、黙って静かに立っていた。

隊員らは、こぞって「埴生の宿」を合唱する。

その先頭には伊東軍曹がいる。

今が最後のチャンスとばかり、彼らは合唱によって、水島の帰隊を必死に切望しているのである。

その合唱の一団の中に、当然、井上隊長は含まれていない。

何もかも知り尽くしている彼は、ただそこで、隊員たちの思いを汲み取って上げるだけなのだ。

すると、水島の傍らの少年が、隊員たちの合唱に合わせて、竪琴を弾き始めた。

そこに変化が起こった。

水島は少年から竪琴を受け取って、「埴生の宿」を弾き始めたのである。

隊員たちの歓声が起こった。

水島の竪琴に応えるように、隊員らの合唱は反響音となって、収容所の一画を高らかに木霊する。

「さあ、早く入って来いよ!」

口々に叫ぶ隊員たち。

隊員たちの必死の呼びかけに、水島は竪琴で応えていく。

彼が弾いたのは、「仰げば尊し」。

言うまでもなく、明治半ばに文部省によって採用された、卒業式の長音階の唱歌である。

水島は嗚咽を交えつつ、心を込めて弾き終ると一礼し、踵を返して、森の奥に歩き去って行った。

「仰げば尊し」は、彼の別離のメッセージだったのである。

水島が見えなくなるまで彼の名を呼ぶ、隊員たちの叫びが宙を舞っていた。

一人残った少年は、そこに生まれた空気とは無縁に、隊員たちの元にやって来るや、お布施を求めるのだった。

このカットの挿入は非常に効果的である。

美談に流れ込んでいく物語を相対化しているからだ。

同時にそれは、「生活の糧」として水島から竪琴を教えられて、逞しく生きていこうとする少年と、その少年の心情を理解しながらも、包括的に「共生」せんとする水島との心理的距離の落差を示している。

さすがに、和田夏十の脚本の切れ味は健在だった。

なぜなら、この目立たないカットが、物語を小さく反転させるラストシーンの伏線として回収されていくからである。

そして、帰国当日の日。

最後のお別れの品を持って来た物売りの老婆が、水島が教え込んだインコと、隊長宛の手紙を持って来た。

「ヤッパリ、ジブンハ、カエルワケニハイカナイ」

これが、インコに仮託された水島のメッセージだった。

ラストシーン。

復員船のデッキで、井上隊長は、水島の手紙を皆に読み聞かせている。

その内容は、本稿で言及してきた経緯が書かれていたから省略するが、重要なポイントの大部を再現してみよう。

以下、水島の手紙の基幹の文面である。

「山を攀(よ)じ、川を渡って、そこに草むす屍を葬りながら、私はつくづく疑念に苦しめられました。

一体、この世には、何故(なにゆえ)に、このような悲惨なことがあるのだろうか。何故(なにゆえ)に、このような不可解な苦悩があるのだろうか。  

この疑念に対して、私は教えられました。

『何故(なにゆえ)』ということは、所詮、人間には如何に考えても分らないことなのだ。

我々はただ、この苦しみの多い世界に、少しでも救いをもたらす者として行動せよ。  

その勇気を持て。

そして如何なる苦悩、背理、不合理に面しても、なお怖れず、より高き平安を、身をもって証(あかし)する者たるの力を示せと。

このことが、はっきりした自分の確信となるように、できるだけの修行をしたいと思います。

私は最近、三角山で、私を救ってくれた僧侶に頼んで、正式のビルマの僧侶にしてもらいました。

隊長が言われたように、一人も洩れなく日本に帰って、共に再建のために働こう。

あの言葉は、今も、私の胸にあります。

しかし、ひとたび、この国に死んで残る人たちの姿を見てからは、私はそれを諦めねばなりませんでした。

私は幾十万の若き同胞の、今は亡き霊の久安の場を作るために残ります。

そして、幾年の後に、この仕事が済んだときに、もしそれが許されるなら日本へ帰ろうと思います。

或いは、それをしないかも知れません。

恐らく、生涯をここに果てるかと思います」

以上が、井上隊長が読む水島の手紙の、ほぼ全容である。

それを聞き入る井上隊の戦友の嗚咽が、其処彼処(そこかしこ)から洩れていたのは、この状況下において当然過ぎる反応だっただろう。

但し、映画は、この感動譚で終焉しなかった。

この後の映像は、復員船の中で、思い思いの話題で望郷の念を強めていく復員兵たちの話が繋がって、物語が閉じていく流れになるが、しかし先述したように、そこに物語を小さく反転させる実質的なラストシーンがインサートされることで、本作が、「一人の稀有な男の英雄譚」に流れる事態を防ぐ仕掛けが施されていたのである。

以下、稿を変えて、その辺りに言及したい。


(注2)因みに、河原のシーン、井上隊のパゴダ入塔や、この慰霊祭のシーンなどは、ビルマのロケーションに渋る日活側や、ビルマ当局の入国許可証の問題で、撮影がデッドロックに陥ってしまい、結局、何とか入国許可を得て、主役の安井昌二のみを随伴した1週間の強行ロケを遂行し、そこで、スクリーンに映し出した背景画像の前で人物撮影をするという、「スクリーン・プロセス」用のフィルムで撮影した苦労があった事実を、市川崑監督はインタビューで語っている。



 3  ラストシーンの反転的な映像提示 ―― イデオロギーに与しない相対思考の切れ味



この「ビルマの竪琴」を、今回、再鑑賞したと言っても、昔観たはずの映画の記憶など殆どなく、単に、本線となるストーリーのイメージラインを漠然と覚えていたに過ぎなかった。

さすがに安井昌二の剃髪姿だけは覚えていたが、三國連太郎が準主役を演じていた記憶もなく、また、かつて読んだ原作の記憶も然りだった。

だから、今回、初見のつもりで鑑賞するに至った次第である。

井上隊長を演じた三國連太郎
ところが、観始めるや否や、これが一人称のモノローグによる映画であることを認知して、今度は、このモノローグの主体が誰であるかということが気になって仕方がなく、てっきり、井上隊長を演じた三國連太郎か、それとも、馬場一等兵役の西村晃のいずれかと考えていたが、どうも声の質が違うので、最後まで不分明だった。

私の関心領域の、決して少なくない独立系の一部分は、そんなサイドラインの方にも引っ張られる状態だったのである。

そして驚嘆したのが、ラストの復員船の中で、モノローグの主が内藤武敏であることを知ったときである。

実は、これだけ有名な俳優が、本作の中で、殆ど台詞がない事実に不思議で仕方がなかったのだが、その種明かしは、このラストシーンの反転的な映像提示の所以であることを知り、改めて、多くの作品を通して、物語を綺麗ごとに流さない市川昆・和田夏十夫妻の、特定のイデオロギーに与(くみ)しない相対思考の切れ味を感受した次第である。

―― 物語を小さく反転させる実質的なラストシーンの場面を、ここで再現してみよう。

復員船の中での帰郷後の夢を、井上隊の復員兵たちが、思い思いに語り合っているときだった。

そこに、内藤武敏が演じる、小林一等兵が割り込んで来た。

「ねぇ、水島は、一生、帰らないつもりなんだろうか」

不安げに尋ねる小林一等兵。

「なーんだ。水島のことには冷淡だったくせに。いやー、何言ってんだ、お前」

内藤武敏が演じる小林一等兵(中央)
これは、水島を心配し続けていた、小林一等兵に対する他の復員兵の揶揄である。

「水島のことは水島に任せとけ。人間には、それぞれ好きな生き方があるさ」

この台詞が飛び出したとき、正直、私は驚きを禁じ得なかった。

この兵士は、覚悟を括って、ビルマに「殉教」する水島の後半生の人生を、「それぞれ好きな生き方」の一つに過ぎないと言っているのだ。

ここは、竹山道雄の児童向けの原作と完全に切れている。

水島の後半生の人生を相対化することで、原作の中に濃厚に含まれていた、「一人の稀有な男の英雄譚」を希釈し、突き放しているのだ。

「こんな日本人がいてもいい。寧ろ、こんな日本人がいなければ、アジア・太平洋戦争で骸(むくろ)と化したまま、野晒しとなっている無名戦士は永久に成仏できないではないか」

相対化してもなお、いや、相対化したからこそ、水島の後半生の人生を通して、このようなメッセージを送波し得えるのだろう。

「私は今まで、水島のことは考えたことはありませんでした。その時だって、水島のことを考えていた訳ではありませんでした。私の考えていたのは、水島のウチの人が、あの水島の手紙を読んで、どうするだろうということでした。私はきっと、隊長が何とかうまく言ってくれるんだろうなぁと、そんな変なことを一生懸命、心配していたのです」

これが、ラストのモノローグ。

水島の後半生の人生を、ここまで相対化して見せたのである。

素晴らしい挿入だ。

このモノローグの括りの後、映像は、ビルマの赤い土を歩く、僧侶姿の水島を映し出すラストカットのうちに閉じていく。

物語を小さく反転させた、見事な相対思考のイメージを焼き付ける括りだった。

―― 実は、私が縷々(るる)言及した文脈は、一冊の著書の中に、全て書かれているものである。

その著書とは、「市川崑の映画たち/市川 崑 ワイズ出版 ; 1994」。

この著書のお陰で、作品を通して感じた私の中の澱みや疑問が、極めて本質的なものであることを確認し、正直、安堵した思いである。

その辺りのインタビューを、少し長いが、同著から引用してみたい。

著書の内実は、市川崑監督のインタビューである。(以下、前述した拙稿と重なる愚を許されたい)

「一般的には、日本に帰る船上で隊長が水島の手紙を読み、聞いていた兵士たちがシュンとして、水島はビルマに残る――というところで話が終わったように思われているわけですが、大切なのは、むしろ、そのあとではないでしょうか。映画の“語り手”を務めていた一人の兵隊が水島のことを心配すると、仲間の兵隊から、『何だ、今ごろになって。お前は水島のことに冷淡だったくせに』と言われる。

そこから彼のモノローグになって、『なるほど、私は水島について、あまり考えたことがありませんでした。そのときもそうです』と言う。これはすごいセリフだと思います。自分が水島のことを心配した、その、同じ瞬間の心境なわけですから。直後に画面は、ただひとりビルマの荒野を去ってゆく水島の後姿に切り替わる。

これはつまり、世間で言うところの“崇高な水島”を、いったん客体化して、裏返しているわけですね。市川さんは三十年を隔てて『ビルマの竪琴』を二度作られましたが、私の知る限り、あの厳しいラストシーンについて、そういう角度から述べられた評がないのが、不思議でしかたがないんです。亡くなられた荻昌弘さんが、やや、それに近いことをおっしゃっていたと思いますが・・・」(以下、筆者段落構成)

これは、インタビュアーである森遊机(映画研究者)の発問である。

市川昆・和田夏十夫妻
「市川 あれは、水島も普通の人間だということを、映画の作者、つまり僕と夏十さんが語っているわけですね。特別な人間とか、崇高な人間じゃないということを踏まえて、竹山道雄さんのヒューマンな物語を、映画として解明した。あそこは映画のオリジナルです」

インタビューは続く。

「みんなが水島の行動に打たれて、ヒューマニズムの讃みたいになる一歩手前で、『水島のことは水島に任せておくさ』というセリフが出てくるでしょう。水島のようになれば理想的だし、しかし、そうなれなくても人間的なんだということを、大詰めのラストで、あまりにもさりげなく提示している。私はここに打たれるんですね。ハードボイルドというか、嘘のない深さというか・・・」

「市川 つまり客観性ですよね。それは僕より夏十さんの英知であり、あの人の人間の見つめる眼そのものなんです。そりゃ彼女も人間ですから、ワガママなところもあるし、間が抜けているところもある。だけど、人間に対する姿勢は、いつもピシっと正確だったんじゃないでしょうか」

「そういうものを下敷きにして、竹山さんのヒューマニズムを、映画として表現したのだと」

「市川 ええ。とにかく『ビルマの竪琴』は、あのラストシーンが無ければ駄目なんですから。映画には“謳いあげる”という言葉があるでしょう。『こんなに美しい行為を、皆さん、しっかり見て下さい!』っていう謳いあげかたもあるんだけど(笑)、まあ、夏十さんは、もともとあまり叫ばない人でしたからね。叫びたいことは逆に表現するような人だったから、それが作品に出ているんだと思います」

「観ているほうは、やや、ガク然とするんですよね。謳いあげるのかなと思っていると、最後にひっくり返るのですから(笑)。それにしても、あの語り手のアップから水島のロングへのオーバーラップは、実に映画的な表現だと思います」

「市川 映画っていうのは、ああいうところに凄い武器を持っているんですよ」

まさに、凄い武器を持つ映像世界の独壇場であった。

このインタビューの内実に触れて、私は充分に納得できた次第である。



4   「日本人観客限定」の「ファンタジー・ヒューマニズム」を仮構した反戦ドラマの秀作   



本作は、「ファンタジー・ヒューマニズム」を仮構した反戦ドラマの秀作である。

当時、「天皇の軍隊」によって侵略戦争を遂行した日本が、その侵略戦争の暴虐的本質を描くことなく、一人の兵士の「崇高」な行為のみを美化する欺瞞性を糾弾する批判が、本作に対して集中的に浴びせられたのは、よく知られている事実である。

糾弾する批判の主体が、左翼系文化人であったことは言うまでもない。

彼らは、侵略戦争の暴虐的本質を描く作品のみが反戦ドラマであると考える、宿痾(しゅくあ)の如き、硬直した観念から免れ得ないから、彼らが認知する反戦ドラマの全てが、今や死語になっている、「社会主義リアリズム」に則ったプロパガンダ映画に堕してしまうのは必至である。

なぜ、侵略戦争の暴虐的本質を描かなければ反戦ドラマに成り得ないのか。

本作のように、極限状況に置かれることで変容する、一人の人間の〈生〉の在りようを特化して描く〈小情況〉の物語が、なぜ、特定のイデオロギーの集中的攻勢によって糾弾されねばならないのか。

それ自体、不思議でならない。

閑話休題。

何より、「ファンタジー・ヒューマニズム」というのは、極限状況に置かれることで変容する一人の人間、即ち、水島上等兵の人格造型が、童話の原作でもそうであったように、極めて「崇高」な行為を体現する人物として描かれていたことに因るだろう。

相当感傷的だが、物語を壊すまでに至ってない。

「英雄譚」だが、前述したように相対化されている。

但し、リアリティの問題として、これだけは確認しておきたい。

思うに、アジア・太平洋の地域に大量に供給された日本軍の中には、かくも優秀な隊長を持つ独立系の小隊があったことを否定すべくもないが、それにしても、天を衝かんばかりの清澄な合唱の継続力のうちに、行軍兵士の疲弊感、飢餓感、不潔感などを浄化させるような画像の提示の連射は、まさに本篇が、それをファンタジーとして構築する意図を確認し得る作品だったと言っていい。


サウン・ガウ(ビルマの竪琴)
ファンタジーという方略を使ってまで、観る者に伝えたいメッセージがあったのだろう。

そう思わざるを得ない映画なのだ。

ファンタジーだから、「映画の嘘」を自在に駆使できる。

その「映画の嘘」の戦略を駆使して作り上げたヒューマンドラマでありながら、本作には、市川昆監督特有の切れ味があったことを認知せざるを得ないのだ。


インタビューで確認できるように、市川崑監督も、「ファンタジーとリアリティの問題」については重々承知しているが、メッセージの力強さだけは削り取られていないのは事実である。


だから、多くの瑕疵を包含していながら、そのメッセージの力強さを鏤刻(るこく)するために、「ファンタジー・ヒューマニズム」を仮構した反戦ドラマが作られたのだと言うしかないのである。

インパール作戦・日本軍への攻撃(ウィキ)
原作者も似たような言葉を残していたが、恐らく、途方もなく無能な人間が組織のトップに君臨して、「戦略」を立て、それを部下に遂行させたときの悲劇の典型のような、インパール作戦の「白骨街道」をイメージし得る設定が、童話作品のメッセージに結ばれていたはずである。

然るに、原作者も訪れたことがないビルマというエリアを借景にして、「映画の嘘」をリピートする杜撰さに対して、眼を瞑れと言う方が無理かも知れないが、それでも、「日本人観客限定」の心の琴線に触れるメッセージの力強さだけは削り取られていなかった。

そこで、肝心要の問題のこと。

リアリズムから遊離した物語としての水島上等兵の「英雄譚」を、「日本人観客限定」という狭隘な条件下で、観る者が共感し得るメッセージの力強さをどこまで受容し切ったのか。

果たして、水島上等兵のような行為は、あのような状況に置かれたときの、ごく普通の兵士の範疇に収斂されるものだったのか。

敢えて言えば、「ビルマの竪琴」における水島上等兵の行為の振幅は、「サバイバーズ・ギルト」(生存者罪責感)の心理学によって説明可能できなくもない。

「なぜ、自分だけが生き残されてしまったのか」

これは、阪神大震災や東日本大震災でも注目された、生存した事実それ自身に罪悪感を抱いてしまうな、純粋に内面風景に関わる由々しき問題である。

その心的状況の凄惨さの中で、自分だけが幸福になることが「悪」であるかのように感じてしまい、笑ったり、バカ話をしたりことさえも咎められる、言語を絶する被虐性の極点にまで振れていく風景をも露わにする。

人間の死が日常化し、且つ、見知りの小隊ではなかったとは言え、水島上等兵もまた、自らが引き受けた「説得工作」に頓挫したことで、全員の玉砕を招来した現実を目の当たりにする風景の凄惨さに、とうてい堪えられなかったのだろうか。

「サバイバーズ・ギルト」を抱える延長上に、次々に累加されてくる同国兵の無残な光景が、愈々(いよいよ)彼の心を痛めつけ、それを葬ることさえできない状況の極点で、英国人による異国の地の無名兵士への祈りの現場を視認する。

この事象によって、サスペンスで言うところの、「クローズドサークル」(出口なしの状況)の心象風景に捕捉されてしまったのか。

思うに、水島上等兵のような日本人の存在が皆無だったなどとは思えないのが、私たちの世界に現出する、多様なる「生き方」を見れば判然とする事象ではある。

然るに、紛れもなく稀有だった。

本篇は、紛れもなく稀有な男の、稀有な行為の断片を特定的に切り取って描いた映画なのだ。

反戦メッセージの力強さを鏤刻(るこく)するために、「ファンタジー・ヒューマニズム」を仮構したのである。

それでも、「完全無欠の英雄譚」に流していない。

それが、物語を小さく反転させる実質的なラストシーンの意味だった。

或いは、穿って言えば、「人間には、それぞれ好きな生き方があるさ」という台詞と、内藤武敏のラストのモノローグを必要とせざるを得ないほど、この映画の情感ラインは、「完全無欠の英雄譚」に流れていく危うさを引き摺っていたのである。

「ファンタジー・ヒューマニズム」の折り合いの付け方の難しさが、そこに垣間見えるのだ。

それは、反戦メッセージの力強さを鏤刻する方略の難しさと同義である。

だからこそ、こういうアイロニックな軟着点に収斂させていく外になかったのだろう。

リアリズムを希釈させた「ファンタジー・ヒューマニズム」の方略と、そのアイロニックな軟着点によって、特定のイデオロギーに与(くみ)しない相対思考の切れ味が生き残されたこと ―― さすがに、和田夏十の脚本は冴えわたっていたと言うべきか。

以上の文脈が、本作に対する私の基本的解釈である。

ところで、私自身、水島上等兵が遂行した行為が、「日本人の死生観」を心理的推進力にする一般的な振る舞いとして、とうてい般化できるものと考えていないので、稿を変えて、最後にその辺りの問題意識のうちに、「日本人の遺骨収集」というテーマについて言及したいと考えている。



5  アニミズム的死生観の普遍的浸透という厄介な幻想



この映画を観ていて、ずっと私の内側で巡っていた観念は、「日本人の遺骨収集」に対する思いの強さというテーマだった。

この問題意識によって、まず、私の中で確認したかったのは、「日本人の遺骨収集」に対する思いの強さがどこまで真実を反映しているのか、という点にあった。

それは、本来的テーマの大前提になる問題である。

この問題を考えるとき、否が応でも思い起こす事故がある。

1985年8月12日に発生した「日本航空123便墜落事故」、即ち、御巣鷹山惨事である。

乗員乗客524名のうち死亡者数が520名で、生存者が僅か4名であった事故の凄惨さは、単独機の航空事故で世界最多であるという一点において如実に示している。

ところで、この御巣鷹山惨事の犠牲者のうち22名が外国人であったという事実は、意外に知られていない。

以下、飯塚訓が著した「墜落遺体」(講談社/1998年)からの報告に注視したい。

それによれば、遺体を引き取りに来た家族の態度が、日本人と外国人(英国・米国・豪州等)とでは大きく異なっていたということ。

日本航空123便墜落事故・昇魂之碑(ウィキ)
生存の可能性どころか完全な遺体の発見すら難しい、御巣鷹山の事故現場の凄惨な様子を目視したある外国人遺族に、日本の警察がいかに身元確認のための努力をしているのかについて説明すると、怪訝な顔をした後、こう質問したそうだ。

「なぜ、手や足まで識別しなければならないのか?」

バラバラになった遺体の身元の確認に、127日間も要した大事故の身元確認の作業に対して、訝しむ様子がありありだったというのである。

「死んでいるということは、精神が宿っていないのだから物体と同じではないか。だから、全てをまとめて火葬にすればいいだけである。それより、補償条件の交渉に入りましょう」

これが、外国人遺族の反応だった。

このような死生観は、子孫へと代々受け継いでいくという、「遺体」の観念を有すると言われる日本人には受容し難いように思えるが、果たしてそうだろうか。

確かに、「一切衆生悉有仏性」(注3)という仏教用語に象徴されるような、一切の「もの」に霊性があると信じ、霊性と物質を明確に区分することができないアニミズム的死生観が、日本人に遍(あまね)く浸透しているかのように見える。

しかし、私から見ると、人間としての肉体は滅びても、信仰の力によって霊体は不滅と考えるが故に、死を受け入れられる国の人々の文化、例えば、「復活」の思想を有し、死を通過点と考える絶対的な一神教の文化であるキリスト教圏の人々の場合に比べると、不文律の如き明瞭な死生観が存在するとはどうしても思えないので、どちらかと言えば、「死」を「終末点」と考える傾向が強いという印象がある。

アニミズム的死生観が、日本人に遍く浸透していると見るのは幻想ではないか。

これが、日本人の死生観に関わる私の基本的把握である。

思うに、科学者から支持されないアカデミズムの現状が燻(くすぶ)っていながらも、17世紀のデカルト的な心身二元論(霊肉二元論)の影響の後押しもあって、肉体を霊魂の容れ物に過ぎないと考える傾向が強いキリスト教圏では、魂こそが重要なのだ。

ミケランジェロ『最後の審判』-システィーナ礼拝堂(ウィキ)
「最後の審判」を受け、そこで、永遠の生命を与えられる者と、地獄へ墜ちる者とに2分化される「復活」の思想があるのは周知の事実。

そのため、遺体を焼く行為を禁忌にする(土葬の習俗)が、それは、肉体を霊魂の容れ物であると考えるキリスト教的死生観と矛盾しないのである。

だからこそ、臓器移植のハードルは極端に低いと言っていい。

御巣鷹山惨事での外国人遺族の反応の心理的風景にあるのは、肉体それ自身への捜索に過剰に拘泥しないキリスト教的死生観であるのだろう。

では、バラバラになった「遺体」の身元の確認に拘泥する日本人の心理的風景を、どう解釈すべきなのか。

一般的に、日本人に明瞭な死生観が存在するとは思えない私から見れば、それでも、自分の家族の「遺体」に拘泥するのは、特定対象への深い愛着心の強さから、何としてでも「早く、楽に成仏させてあげたい」という観念の素朴な集合が具現化するからに他ならない。

そんな観念の素朴な集合が、魂が宿る特定対象の遺品への愛着心に収斂されていくのである。

遺品への拘泥に収斂されていくことで、特定対象への深い愛着心の強さが延長されるのだ。

一般的な日本人のこの遺骨収集への振れ方は、遺体が原型を留めずに腐臭を発生すると、「遺体」が魂の抜け殻に過ぎなくなっていくという実感が違和感を膨張させ、特定対象の生身のイメージを崩してしまうので、逸早く荼毘に付さねばならなくなるという観念をも生み出してしまう矛盾を内包する。

この矛盾に耐えられるのは、特定対象への深い愛着心の強さに結ばれる記憶のみである。

この記憶の強度が、全てを支配する。

記憶の強度が盤石なれば、大事故の身元確認の作業に要した127日間に耐えられるのだ。

本来的言えば、日本人は「遺体」に無頓着であり、火葬によって解体された後に残る、何某かの遺品への愛着心に収斂されていければいいと考えているのではないか。

ここで私は、アルピニストの野口健の報告を想起する。

野口健
内容は、欧米人の登山家は山で仲間が遭難したとき、その遺体は放置したままにして下山するが、日本人の登山家の場合は、仲間が遭難し、遺体になっても、必ず連れて帰ると言うもの。

これは、何を意味するのか。

欧米人のケースは、前述した通り、彼らの宗教的死生観がベースにあるだけでなく、「共倒れは防ぎたい」という合理主義的観念に、欧米人特有の自己責任論という倫理観の関与が考えられる。

なぜなら、自己責任論の範疇で処理できないような対外戦争で、その犠牲になった兵士の行方が判らなくなったら、その兵士の遺体を探し続けていたという話があるが、これは国家責任論の範疇で説明できるからである。

その文脈から言えば、御巣鷹山惨事での外国人遺族の反応は、どこまでも自己責任論の範疇の問題であるからだろう。

では、「遺体」になっても、必ず連れて帰る日本人の登山家の場合は、どのように説明できるのか。

これもまた、御巣鷹山惨事での日本人遺族のケースのように、何としてでも、親愛なる山の仲間の遺族の元に「遺体」を届けることで、「早く、楽に成仏させてあげたい」という観念の素朴な集合の具現化と考えられるが、そこには、遺体を放置したまま下山する行為が許されないという、日本人に根強い「世間体」の構造が重厚に関与していると思われる。

だから、この場合は、宗教的死生観とは無縁な道徳観が働いていると見た方が良い。

寧ろ、宗教的な救済論と切れている分だけ、日本人は、「サバイバーズ・ギルト」の感情に捉われやすいのではないか。

私はそう思う。

「日本人の他界観、そして、強い遺骨信仰であるとしていました。とりわけ遺骨信仰は他の仏教国に比べると強いもので、戦後五十年以上経った今でも日本は遺骨収集団を南方のジャングルに送っています。なぜそれほどまで遺骨にこだわるのか分からないと言います。肉親や家族に対する愛情はどの国においても同じですから、日本人が遺骨にこだわるのは、亡き家族・親族への愛情という一言ではくくれないものがあるのです。その理由は、日本人の根底にあるものをよく表しています。たとえば日本人にとって肉親の遺骨とは、肉親の霊が最も強く宿っている、『肉親そのもの』」と考えているからです」(いのちのパン - 新城教会)

これまでの私の言及から言えば、必ずしも、このような解釈に同意しかねるものがある。

日本人の死生観が、特定対象への深い愛着心の強さに結ばれる記憶によって、遺品への拘泥に収斂されていくことで自己完結すると考えているからである。

そして何より、「日本人の強い遺骨信仰」という観念の文脈を、私はそれほど信じていないのだ。

 
旧日本兵のご遺骨の焼骨式 フィリピンにて(野口健公式ブログより)
ここに、少し長いが、遺骨収集の活動に熱心に取り組んでいる、アルピニスト・野口健のインタビューでの重要な発言があるので、引用したい。

「遺骨収集の活動を通して特に感じているのですが、今の日本には、『生死のリアリティ』が欠落していると思いますよ。死ぬということや生きるということを実感として得られなくなっていると思います。

(略)私の場合は自分で希望してその場所に臨んでいるわけです。 つまり自己責任です。しかし、戦争の場合はそうではありません。赤紙一枚で戦地に送られて亡くなった人がいます。しかも彼らの遺骨は収集も埋葬もされずにそのままの状態なのです。それはおかしいでしょう。これが遺骨収集の活動を始めた経緯です。彼らにしっかりと目を向けることは、死ぬということや生きるということを知る手がかりになります。

(略)国のために殉じた人々に敬意をはらうのは、右も左も関係ないことなのです。しかし、日本はそれをきちんとやっていない。アメリカでは四〇〇名からなる遺骨収集専門のチームがあり、これまでの戦争で亡くなった兵士の遺骨を徹底的に収集しています。

(略)戦没者について語ることを避けてきたからだと思います。ですから、それがどんなに大事なことであろうと意識すらされないのです。私は学校講演の際、環境のテーマから少しだけ逸れて遺骨収集のことを話します。すると講演後に校長先生から『あの戦争の話は余計でした』などと言われることがあります」(中田宏公式HP 2011年1月/筆者段落構成)

 このリアルな報告を聞けば、「日本人の遺骨収集」に対する思いの強さという決めつけが、如何に幻想に充ちたホラ話であるかについて検証するだろう。

 そこには、報告のラストに言及しているように、「あの戦争の話は余計でした」などというエピソードに端的に露呈されている空気感が教育現場に漂流していて、現代人から「生死のリアリティ」を奪っている現実が検証されるものだった。


 私から言えば、日本人の死生観の内実など、たかだか、この程度のものでしかないのである。

隋代の『大般涅槃経』写本(西漢南越王博物館蔵)(ウィキ)
近年、「死生観」に向き合う、サナトロジー(死生学)という概念が独り歩きしている印象が強いが、この学問にしたって、ホスピス運動を経由した緩和医療の進展と相俟(あいま)った欧米ルートの直輸入であることを忘れてはならないだろう。

と言うより、サナトロジーが静かなブームを呼んでいる現象自体が、これまで如何に、現代日本人が死を見つめる営為から逃避してきているか、という現実を立証するものでしかないのだ。

死のタブー化は、現世への愛着の深さと比例する。

だからこそ、このようなバックラッシュが起こるのである。

詰まる所、「幸福な老い」を強く願うが故に、「健康」、「現世長寿」、「サクセスフル・エイジング」(若々しく老いること)、「生活合理主義」を重視する我が国の人々の、その「死生観」は相当にいい加減なのだ。


(注3)「いっさいしゅ じょうしつうぶっしょう」と読む。初期の「大般涅槃経」で説かれている思想で、生きとし生けるものは、全て生まれ ながらにして仏と成り得る素質を持つというもの。但し、仏教全体に共通する教義ではない。


【参考資料】

「市川崑の映画たち/市川 崑 ワイズ出版 ; 1994」  「市川崑大全: 映画秘宝編集部・編」  「ビルマの竪琴」(竹山道雄 ポケット日本文学館)  「日本人の遺体観:死んでまで痛い目に遭うのは・ レルネットHP」   ブログ・「日本人の死生観と他界観 - 日本語と日本文化 - 東京を描く」  PDF文書「インパール作戦とビルマの竪琴」   「中田宏公式HP 2011年1月」   「いのちのパン - 新城教会HP」

(2013年10月)



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