1 「骨のない手」の浮遊感覚を自浄させる、「異界のゾーン」での「モラトリアム期間」の物語 ―― その1
これは、良くも悪くも、「嘘だらけの外の世界」(世俗世界)の劣悪な環境に流され、浮遊していただけの思春期後期の時間の一部を切り取って、それを「モラトリアム期間」にしたことで、「人生の実感的リアリティ」の肝に関わる、「境界性パーソナリティ障害」と呼称される自我の不安定な内部危機を、「嘘だらけの外の世界」で「生きるのを選ぶ」と言い切るまでに自浄させ、乗り越えていく一人のヒロインの物語である。
その「嘘だらけの外の世界」(世俗世界)の方がマシだと相対化し得るほどに、思春期後期の時間の一部を「モラトリアム期間」にした「異界のゾーン」とは、回想風の自伝(「思春期病棟の少女たち」)の原作者が「パラレル・ユニバース」(隣にある別世界)と呼ぶ精神療養施設の女子思春期病棟。
この「パラレル・ユニバース」を通過することによって、そこで実感的に経験した人生の厳しい現実が、思春期後期という難しい時期を、当て所なく漂流していたヒロインの脆弱な自我の、いみじくも格好な「学習教材」と化し、自らを相対化し得ていくのである。
そこはまさに、精神療養施設(クレイモア病院)のカウンセラーのウィック医師が言う、「自分の弱点をどうするか」という「人生の岐路」に直面する少女の、反面教師となるに相応しい「学校」だった。
なぜ、ヒロインのスザンナが、反面教師となるに相応しい「学校」を必要としたのか。
これについては後述するが、ここでは、スザンナがアスピリン1瓶とウォッカ1本を飲み干して、救急病院に搬送された際に、救急医に吐露した印象深い言葉に注目したい。
「手を調べて。骨がないから・・・同じ場所に居続けることが、時々、辛くて・・・」
更に、彼女は、クレイモア病院を紹介した、父の友人の医師とも、同様の会話をしている。
「骨のない手で、どうやって薬を飲む?」
「そのときは骨が戻る・・・時々、時間が乱れて、遡ったり進んだり、ごちゃごちゃになって制御不能に・・・私には自分の気分が分らない」
「骨のない手」とは、身体と心が乖離することで生まれる、「人生の実感的リアリティ」を手に入れられない者の浮遊感覚であると言っていい。
これは、クレイモア病院への入所後のポッツ医師とのカウンセリングで、「君はいつも悲しい」と言われた後、自殺未遂の行為を問われたとき、「消そうとしたの」と答えたスザンナの内面世界にも通底するだろう。
確かに、スザンナが吐露した言葉の中に、本人自身も制御不能で、不安定な自我の浮遊感覚を読み取ることは容易であるが、ただ、その辺りの心的状況は、E.H.エリクソンが「ライフサイクルの8段階」で指摘した、「アイデンティティ(同調的性向)」対「混乱(非同調的性向)」という、思春期後期の発達課題のアポリアによって説明できなくもない。
要するに、この心理文脈は、「自分の居場所は、この世界のどこにあるのか?」という、人生の根源的テーマから回避し得ない極めてナイーブな時期に、世間体のみを気にする両親、とりわけ、「母のようにはなりたくない」とまで言わしめるレベルの、自我の確立運動を開いてしまった青春(大学に進まず、「作家」を目指すという言辞)の、少々荷の重い「通過儀礼」に対して、十全に対峙し、突き抜けていく精神的余力を持ち得ない者の魂の喘ぎでもあると考えられなくもないのだ。
然るに、精神療養施設に入所することは、「私には自分の気分が分らない」という思春期後期の少女に対して、入所するに値する「病名」をつけねばならないのである。
フランコ・ バザーリア(ウィキ) |
「役割呼称」の変換は、「役割呼称」で結ばれる人間関係のうちに、「医師・看護師」vs「病人」という「権力関係」が発生した事実を意味すると言っていい。
(注1)世界初の精神科病院廃絶法、且つ、世界で唯一の法律として有名なバザリーア法が公布されたのが、今から35年も前のこと。当然、精神科病院への新規入院は禁止されたばかりか、仮に「患者」が出ても、治療は患者の自由意志のもとで行われる。客観的に強制治療の必要が求められても、二人の医師の個別の判断をクリアしない限り認証されない。
現在、イタリアには精神病患者が220万人いるとされるが、急性の患者のみ精神科に収容し、基本的に家族の世話が中心となる。と言うより、精神衛生センターという地域コミュニティ的な役割が重視されている。
ミシェル・フーコー |
いっそのこと、日本でも、この革命的な理想主義を具現して見れば、異なった風景が垣間見られるかも知れないとも思うが、「患者」を家族に戻される事態を怖れる本音が露呈して、呆気なく破綻するイメージだけが、私の中で鮮明になっている。とにかく、何でもやってみれば判然とするだろう。
2 「骨のない手」の浮遊感覚を自浄させる、「異界のゾーン」での「モラトリアム期間」の物語 ―― その2
ここからは、梗概を追っていきながら、批評を結んでいきたい。
「私には自分の気分が分らない」と吐露する情緒不安定な状態で、クレイモア病院の女子思春期病棟に入所して来たスザンナは、その特化されたスポットで、様々な病を抱えた少女たちと出会い、容易に馴致できにくい空気を感受する。
不要でも睡眠薬の強制服薬があり、更に、入院したての頃は、各部屋には頻繁に巡回が入ることで、精神療養施設の「権力関係」の実情を目の当りにするスザンナ。
「なぜ、自分がここにいるのか」
そんな思いを抱くスザンナには、自殺未遂の明瞭な自覚がないだけに、一層、両親を含む周囲の大人に対する不信感を募らせるばかりだった。
スザンナ(左)とリサ |
しかし、父の友人である大学教授と不倫意識もなく関係を結ぶほどに、対人関係の不手際なスザンナが、女子思春期病棟の「病人」たちとの接触を通して、少しずつ馴致していく契機になったのも、一人だけ目立った存在を誇示するリサとの会話が開かれていったことが大きいだろう。
どこか常に、「観察者」として日記をつける習慣を持つスザンナにとって、堂々と本音を吐き出すリサの態度に惹かれていくようだった。
人は自分の中にないが故に、それを持つ対象人格に振れていきやすい傾向があるが、この二人の関係には、表層面で動きやすいティーンエイジャーの人間洞察力の脆弱性が垣間見られていたように見える。
そんなリサが主導した、「真夜中のパーティー」と銘打った確信犯的な逸脱行為で、ポッツ医師の診察室に忍び込み、自分のカルテを相互に盗み見るのだ。
「境界性人格障害。自己像 関係 気分の不安定。目標不明確 衝動的。自傷行為 カジュアル・セックス。反社会性と悲観的態度が顕著である」
これが、両親との面談の際に、聞き慣れない病名を知っていたスザンナのカルテの内実。
カジュアル・セックスとは、「気楽にセックスする」ということ。
因みに、「リサ・ロウ」のカルテの内実は、「感情の起伏 激化。患者関係 支配。服薬の効果なし。症状の緩和 見られず。反社会病質」というもの。
以下、稿を変えて、現在、「境界性パーソナリティ障害」と和約される病質について言及したい。
3 「私には自分の気分が分らない」 ―― 「境界性パーソナリティ障害」の心の闇
まず押えておかねばならない点は、パーソナリティ障害全般に言えることだが、パーソナリティ障害の原因が養育や脳の発達障害、社会環境などと一般に言われているが、実際は未だ不分明であるということ。
と言うより、考えられる様々な要因が複雑に絡み合っているが故に、安直に「診断」を下すことには無理があるということ ―― これに尽きるだろう。
然るに、パーソナリティ障害と思しき者が発現する「状態」が、普通の日常生活を送っていく事態に支障を来す「現実」を放置することによって生じる、本人の様々な不利益を考えるとき、でき得る限り本人の了解を得て、どうしても非科学的な側面を露わにしつつも、薬理学、大脳生理学的アプローチの補完を得て、臨床心理学的アプローチを不可避とする「精神医学」における、心理カウンセリングや精神療法の必要性を無視し難いのもまた「現実」なのである。
現在、そんな状況下で、パーソナリティ障害で共通の認識にまで届き得ている情報は、以下の通り。
①パーソナリティの偏り、即ち、考え方や振る舞い方の特徴が、社会常識からかけ離れていると判断される障害であり、その様式は比較的変容しにくいと言われる。
②青年期後期や成人期前期頃から、考え方や行動の偏り、衝動性などが明確になっていく。
③治療には一般に抵抗が強いため、安定した治療関係を作ることが何よりも重要である。
④また、偏見を持たずに捉え、個々の問題について時間をかけて治療に導入していくことが必要になる。
そして「境界性パーソナリティ障害」のこと。
―― 私の手元にある、「カプラン臨床精神医学ハンドブック―DSM―IV―TR診断基準による診療の手引」(メディカルサイエンスインターナショナル刊)という本は、標準的な教科書として定評があり、箇条書きスタイルで簡便にまとめた実際的な手引書として有効であるが、内容が些か難しく大部なので、ここでは、DSM―IV―TRの「境界性パーソナリティ障害」の診断基準のみを、私的に補完しつつ引用したい。
以下の通り。
対人関係、自己像、感情などの不安定性及び著しい衝動性の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。
以下のうち5つ(或いはそれ以上)によって示される。
1. 現実的に、又は、想像の中で見捨てられることを避けようとする 「なりふりかまわない努力」(見捨てられ不安)
2. 理想化とこき下ろしとの両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる、不安定で激しい対人関係様式
3. 同一性障害:著明で持続的な不安定な自己像又は自己感
4. 自己を傷つける可能性のある衝動性で、少なくとも、2つの領域にわたるもの
(例:浪費、性行為、物質乱用、無謀な運転、無茶食い)
5. 自殺の行動、素振り、脅し、又は自傷行為の繰り返し
6. 顕著な気分反応性による感情不安定性
(例:通常は2~3時間持続し、2~3日以上持続することは稀な、エピソード的に起こる強い不快気分、苛立たしさ、又は不安)
7. 慢性的な空虚感
8. 不適切で激しい怒り、又は、怒りの制御の困難
(例:しばしば、かんしゃくを起こす、いつも怒っている、取っ組み合いの喧嘩を繰り返す)
9. 一過性のストレス関連性の妄想性観念、又は重篤な「解離性症状」 (注2)
以上だが、DSM―IV―TRの「境界性パーソナリティ障害」の「定義」の中に、「患者の特徴は、気分、感情、行動、対象関係、自己イメージがとりわけ不安定なことである。患者は神経症と精神病の境界線上にあり、衝動性、自殺行動、自傷行為、自己同一性の問題、空虚感、退屈が目立つ」と記されている。
スザンナ(左)とポッツ医師 |
大体、アスピリン1瓶とウォッカ1本を飲み干した少女を、そのままの状態で放置しておけばどうなったかというイメージを結べば、少なくとも、あの時点でのスザンナにとって、限りなく防衛的な、何某かの「モラトリアム期間」が必要だったという切迫した〈情況性〉を誰も否定できないだろう。
物語のこの後の展開は、クレイモア病院の存在意義が、少なくともスザンナにとって、無駄なだけの「パラレル・ユニバース」ではなかった事実を検証するために設定されたと、私は考えている。
(注2)「解離性症状」とは、自分が自分であるという感覚を喪失している状態のことで、これは、スザンナの「私には自分の気分が分らない」という言葉のうちに集中的に表現されていた。
4 「骨のない手」の浮遊感覚を自浄させる、「異界のゾーン」での「モラトリアム期間」の物語 ―― その3
スザンナに恋人のトビーが会いに来て、女子思春期病棟に好奇の視線が集中する。
二人の恋人との睦みを覗き込むポリーがリサに注意され、泣きながら部屋に戻るというエピソードが挿入されていたが、二人の逢瀬の時間を確保してあげたいというリサらしい率直な行為は、まもなく、女子思春期病棟で出来する「事件」の伏線として回収されていくことになる。
何しろ時代は、キング牧師暗殺事件に象徴される、激化の一途を辿るベトナム戦争の泥沼に嵌った、1960年代末のアメリカが舞台になっているのだ。
良心的兵役拒否とはおよそ無縁な、トビーの誘いを嗚咽交じりで断ったスザンナの、その心理の内奥に横臥(おうが)していた感情は、本人が言うように、「話し相手のいる施設」への「愛着」に振れる感情という文脈で単純に説明できるものではない。
スザンナにとって、「今」、「このとき」、トビーと共にカナダて暮す近未来の、皓皓(こうこう)たるイメージを結べなかったと考える方が正解に近いはずだ。
それは、「話し相手のいる施設」に入所する以前の、「私には自分の気分が分らない」という「顕著な気分反応性による感情不安定性」を露わにしていた頃の、同一性障害を負った、「持続的な不安定な自己像」と出会ってしまう怖れからの、彼女なりの逃避の感情であったと言えないか。
「骨のない手」と「消そうとしたの」という言葉にシンボライズされた、「人生の実感的リアリティ」を手に入れられない浮遊感覚が、スザンナの心の風景を浄化していくのは容易ではないのだ。
カナダに行っても、彼女の内部世界が何も変わらないことが分っているからである。
いずれにせよ、この一件は、それまでの女子思春期病棟の「自由な空気感」を変容させていく契機になっていく。
ポリーの劣等感が顕在化して、殆ど狂乱状態で部屋に閉じこもってしまったのである。
10歳のとき、アトピーが原因で父親から犬を捨てろと命じられたことに反発し、発疹部分にガソリンをかけたために、顔にケロイド状の火傷跡を負ったポリーの劣等感が、恋愛関係を延長させているスザンナを目の当たりにすることで噴き上がってしまったのだ。
スザンナは、施設の介護人のジョンをインボルブして、そのまま、朝まで眠り込んでしまうのである。
当然、このあからさまで確信犯的なルール違反の一件で、施設を管理する当局のペナルティーが待っていた。
これほどまでにやりたい放題の思春期病棟であっても、「施設当局」と「患者」という「権力関係」の構図が形骸化された訳ではない。
怒り心頭に発したヴァレリー婦長が走って来て、確信犯的なルール違反の主謀者二人は厳しく叱咤されるのだ。
当然の反応である。
別の病棟に収容されたリサと切れて、スザンナは主治医のウィック医師の面談を受けるに至った。
「“これは いかなる世界か。どんな王国か どこの いかなる地か。” とても大きな世界に、あなたは直面している。人生の岐路だわ。自分の弱点をどうするか。何が弱点か。それは弱点か。それを抱え込んで、一生、病院で過ごすのか。大きな問題。大きな決断。無関心を装う方が楽よ」
事態の本質を衝いたウィック医師の言辞には、スザンナの「立ち直り」をイメージするポジティブなレクチャーの含みがあった。
だからこそ、受容せざるを得ない心情が透けて見える。
その直後、真剣に考え込むスザンナのショットは印象深い構図だった。
水風呂に入れられて、怒鳴り散らすスザンナ。
「この病院は、まるでナチスの拷問室だわ!」
「色んな患者の奇行に付き合ってきたけど、あなたはまともだわ」
ヴァレリー看護婦長の言葉には、棘がない。
「じゃ、どこが悪いの?頭の中はどうなってるの?ヴァレリーの診断は!?」
「怠け者で、わがままで、自分を壊したがっている子供よ」
恐らく、スザンナが情感的に全否定しようとも、理性的に否定しがたい何かを、この本質的言辞は含んでいる。
これらの得難い体験の集合が、スザンナの壊れやすい自我の中で、「権力関係」の構図の負のイメージを希釈化させていた。
クレイモア病院という閉鎖系の特定スポットが、スザンナの思春期後期の貴重な時間を、不可避なる「モラトリアム期間」にしたというパラドックスには、反面教師となるに相応しい「学校」と思しき施設の面々が、際立った個性を表現し切っていたからだろう。
いつしか、この「学校」と思しき閉鎖系の特定スポットで、格好な「学習教材」との物理的、且つ、心理的な近接感覚を介し、自らを徐々に相対化し得ていく少女が呼吸を繋いでいた。
5 「骨のない手」の浮遊感覚を自浄させる、「異界のゾーン」での「モラトリアム期間」の物語 ―― その4
ローストチキンしか食べられず、その言動の幼さは、父親からのスポイルを強く印象づけていたが、リストカットの現然たる傷痕が、その父親との関係の偏頗(へんぱ)さをイメージさせるのに充分な身体記号になっていた。
そんなデイジーが、「完治」していないのに施設を退院していたのである。
施設サイドの「不公平」な処置に対して、思春期病棟の少女たちの中で不満が洩れていた事実が、それを能弁に物語っている。
そのデイジーの自宅に、施設から脱走して、フロリダに行く予定のリサとスザンナが立ち寄った。
無論、リサの教唆だった。
今なお、抗不安薬のベイリウムを欠かせないデイジーに、その理由を執拗に尋ねた挙句、父親とのインセストの関係の爛れを指摘する始末。
ここまで聞いていたスザンナが、「やめて!」と叫ぶが、時すでに遅し。
激しい動揺を隠せないデイジーは、そのまま2階の部屋に上がっていった。
そのデイジーが縊首した浴室の現場にスザンナが立ち会ってしまうのは、翌朝、一人でデイジーの自宅を出たものの、不安が過ぎって戻って来たときだった。
「バカな奴」
これがリサの反応だった。
しかし、衝撃を受けて立ち竦むスザンナは、救急車への連絡を取るのが精一杯の行動だった。
「あんたが背中を押したのよ」
デイジーの遺体から金を盗むリサの行為を目視したスザンナは、堪えられず、吐き出した。
「口実を欲しがってたのさ」
その一言を平然と残し、スザンナに盗んだ金を渡して、立ち去っていくリサ。
リサとの逃亡を拒絶したスザンナは、その場に蹲(しゃが)み込み、思わず泣き崩れる。
まもなく、ポッツ医師の迎えの車で施設に戻っていくスザンナの胸には、デイジーの愛猫が抱えられていた。
ディジーを救えなかったスザンナの心は重く、その思いを、ヴァレリー看護婦長に吐露していく。
「分ってあげられない。でも、死にたい気持ちは分る。笑顔の苦しさや、うまくやれない辛さ。心の痛みを消すために、体を傷つける気持ち」
「それを私に話せたのは、とてもいいことよ。次は、同じことを先生に」
「自分で理解できない病気が、回復すると思う?」
「理解してるでしょ。今、はっきりと口にした。それを書き留めなさい。あなたのノートに。吐き出すの。そうすれば立ち向える」
ヴァレリー看護婦長の大きな胸に、飛びついていくスザンナ。
「私、最低だった。バカよ」
嗚咽しながら吐き出す言葉には、明らかに、内省を深める心的行程に踏み込んでいく者の情感が集合していて、そこから開かれる自己相対化への契機を想像させるものだった。
「何も感じたくないとき、死は夢のように思える。けれど本物の死を見ると、死の夢想が愚かに思える。突然、何かが芽生えて、何かが剥がれ落ちる。いずれにせよ、外の社会に戻る道は一つ。この場所を活用し、語ること」
スザンナの内省の日々が続いていたとき、偶然、観ていたテレビで、自らの内面にフィットする言葉が飛び込んできた。
テレビで放送されていたのは、「オズの魔法使い」の映画だった。
そこでの会話。
「何を学んだ、ドロシー?」
この問いに、ドロシーは答える。
「学んだのは、夢を見るだけじゃダメってこと。そして本当の自分探しは、遠くを旅することじゃない。身近にないなら、どこにもないはずよ」
このドロシーの台詞に深く感応したスザンナは、その場を離れていく。
施設の窓から外部世界を覗いたとき、スザンナの視界に入ってきたのは、逃亡中のリサが捕捉され、施設に連れ戻される陰鬱な風景だった。
施設に入って来た二人は睨み合うのみ。
「そりゃいい」
これが、リサの反応だった。
「事件」が起こったのは、その夜だった。
夜中に眼が覚めたスザンナは、地下での話し声に誘われ、不安含みで近づいていく。
地下の一画で、リサは、病棟の少女たちを集めて、スザンナの日記を読み上げているのだ。
「退院を祝って、朗読会を開いている。あんたの知性を学ばせていただこうと」
嘯(うそぶ)くリサ。
明らかに悪意含みの皮肉が込められていた。
「私の日記よ」とスザンナ。
散々、友人の評価を本音で書いていた部分を朗読され、スザンナの心は傷つけられた。
「治った途端、裁く側か」とリサ。
「何のつもりなの?」とスザンナ。
「ファイルも脱走も金も、全部かなえたろ!私は裏で悪口なんか書かない!直接言うさ。デイジーにも本心を言ったまでだ。望み通りの悪役として」
「なぜ、私が?」
「安心できるからさ。いい子になって素直に戻り、悔い改めれば、皆涙して、その勇気を称える。金をくれてやった私は、体を売ったのに!」
想像を超えるリサの激しい攻撃性にうろたえ、震えが止まらず、断崖の際(きわ)に追い詰められたような感情の氾濫の中で、反駁(はんばく)の言辞に結べないスザンナは、言いようのない恐怖心を抱えて、その場を立ち去っていく。
獲物を特定したハンターのように、追い駆けていくリサ。
もう、二人の直接対決は回避し得なくなった。
「何も分っちゃいない!私は自由だ!」
追い駆けながら、後方から罵声を浴びせるリサ。
地下にある重い鉄扉を開け、ドアを閉めようとしたとき、指を挟まれ、思わず絶叫するスザンナ。
その鉄扉を抉(こ)じ開けて、リサの攻勢が一段とヒステリックな様相を露わにする。
スザンナは、もう逃げられなくなった。
開き直るしかなかった。
スザンナが、心の中で押し殺していた情動を炸裂させたのは、この瞬間だった。
「あんたは、もう死んでる!」
人間の死を目の当たりにしたスザンナの、それ以外にない絶叫だった。
リサには、もう〈生〉のリアリティが剥がされていると言っているのだ。
そこには、ディジーの「約束された死」の意味と同義であるという含みがある。
本質を衝いたスザンナの逆襲に衝撃を受け、反応できないリサに対して、今度は嗚咽を交えながら、静かに責め立てるスザンナ。
「・・・だから、誰も押さない。既に死んでいるから・・・あんたの心は冷え切っている。だから、ここに戻る。自由どころか、ここでなきゃ生きられない。哀れね」
絶叫を上げ、慟哭(どうこく)するリサ。
全てを吐き出したスザンナは、全身の力が抜けたように肩を落とし、終わりの見えにくいリサの慟哭を受け止めている。
「一年を無駄にしたわ。外の世界も嘘だらけよ。多分、世の中全てがバカげていて、滅茶苦茶で・・・でも、構わない。そこで生きるのを選ぶわ」
スザンナは、ここで、それ以外にない言辞を結んだのだ。
物語の中で、最も表現したいメッセージだろう。
8年間も思春期病棟に囲われている時間の負の累加の中で、狭隘な閉鎖系のスポットの「ボス」に君臨していただけの無力なる少女が、今、注射器で自死しようとしていた。
それを見て、スザンナは声をかける。
「リサ、止めて。死んじゃだめ」
自死を諦めるリサには、もう反応する言葉もなかった。
十全な社会的適応力を自前で作り出せなかった、無力なる「常習逃亡者」の本質を晒した少女は、混迷の時間を突き抜けていく脚力をすっかり奪われてしまったようだった。
冥闇(めいあん)の夜が明けて、リサとの不可避な直接対決を制したスザンナは、今、退院の瞬間を迎えていた。
しかし、リサとの別離は、スザンナにとって特別な何かだった。
拘束されているリサの爪に、スザンナはマニキュアを塗っていく。
「私は死んでない」
リサは今、嗚咽の中で、そこだけは明瞭に言い切った。
「そうよ」とスザンナ。
「もう、お別れか」とリサ。
「いいえ、あなたが退院して、私に会いに来る」
以下、タクシー内でのスザンナのモノローグ。
それは、物語全体のラストシーンの括りとなるものだった。
「健康だと言われ、世の中に送り返された。最後の診断は、“治療したボーダーラインン”今も意味が分らない。私は異常だった?それとも、世界が異常なのか。心が壊れてしまったり、辛い秘密を持っても異常ではない。揺れが大きいだけ。嘘をついて、それを楽しんだり、ずっと子供でいたいと願ったり、弱点はあっても、皆、私の友達だった。70年代には、彼女らの殆どが社会に戻った。再会したり、しなかった人もいる。けれど、思い出さない日はない」
さすがに、ここまで伝えたいメッセージを、ヒロインの台詞で語らせてしまったら、殆ど批評の余地がないが、私見だけは書いておこう。
“治療したボーダーライン”という診断によって、「健康だと言われ、世の中に送り返された」ヒロインが、「揺れが大きいだけ」という把握に到達しただけでも、恐らく充分に自己を客観視する能力を、少なくとも、「私には自分の気分が分らない」という「顕著な気分反応性による感情不安定性」を露わにしていた頃の、「持続的な不安定な自己像」を幾分かは突き抜けていたはずである。
本稿で繰り返し書いているが、この物語の本質を考えるとき、クレイモア病院という閉鎖系の特定スポットの存在が、巧(たく)まずして、スザンナの思春期後期の貴重な時間を、それなしに済まなかったはずの「モラトリアム期間」に変換し得たという把握が、私の中にある。
だからこそ、「一年を無駄にしたわ」と吐露したスザンナの主観的解釈に収斂されない、「モラトリアム期間」の渦中で充分に身体表現し、言いたいものを全てを吐き出した少女の自我は、閉鎖系の特定スポットの存在によって、それなりに堅固な竹矢来(たけやらい)の二重武装の役割のうちに守られていたのである。
「ガキの頃、縛られていた」記憶を持つヒロインの心の闇が、いつしか、「骨のない手」の時間の累加の中で、「人生の実感的リアリティ」を手に入れられない者の浮遊感覚を常態化してしまっても、「今」、「ここ」から、「嘘だらけの外の世界」で生きるのを選ぶに至ったのは、「モラトリアム期間」が存在したからである。
凛として対峙できなくともいい。
煩悶の際(きわ)まで追い詰められても、「今」、「ここ」で自壊したくないなら、ギリギリの辺りで留まり、揺れの大きさを堪え切って、「美学」などという聞こえの良い欺瞞を蹴飛ばしても、自前の観念・身体によって解決していくしかないのだ。
こんな思いを括って、「嘘だらけの外の世界」で、自分のサイズに見合った〈生〉を繋いでいく。
これが私の人生論だが、必ずしも以上の文脈がヒロインの達成点であり、物語全体の軟着点だったと言えなくとも、私は敢えて書きたいのだ。
そのような文脈に変換したいのである。
正直に言えば、映画的に誇張された大団円のラストシークエンスは稚拙とまでは言わないが、ハリウッド流の大袈裟な括りに違和感を覚えつつも、この映画は決して悪くない。
少なくとも、これを本作の基幹メッセージとして、私は受容したい。
だからこそ、語り過ぎが気になっても、私はこの映画を評価したいのである。
6 「正常」と「異常」の境界の中枢
本稿の最後に、この映画のテーマの一つになっている厄介な代物について言及したい。
「正常」と「異常」の問題である。
私が思うに、「正常」と「異常」の境界の中枢がどこにあるかということを、正確に、且つ、本質的に説明できる人間などどこにも存在しない。
人間は不完全なる存在体であるだけでなく、「正常」と「異常」の境界という観念が相対的であるが故に、時代によって移ろい、社会状況によって変化する厄介な代物であるからだ。
しかし、法治国家においては、それが「事件」や「事故」として惹起したとき、それぞれの国の文化風土の中から、恰も「絶対規範」の名の下に上意下達されたり、或いは、巷間を覆う澱んだ空気の中から、「モラル・パニック」(少数派に対する多数派の怒り)として、特定対象に対して必要以上に騒いだりする現象をも誘起するだろう。
「悪」となった「異常」が、「事件」や「事故」として裁かれていくのだ。
未だ「悪」となり得ない「異常」だけが、「アンタッチャブル」な存在として特定的に黙契化され、未だ「善」となり得ない「正常」によって、「かく為すべし」という「当為」(道徳律)の名の下に囲われ、存分に指弾され、時には、逆襲されない程度の距離をとって嘲弄されたりして、その厭悪(えんお)すべき臭気がたちどころに消されるだろう。
これが、一定の成熟を達成した法治国家の宿命である。
それでも、「姦淫」というアンモラルな行為に走った「罪人」=「異常者」に対する、「石打ちの刑」を公開処刑する文化風土を抱え込む国民国家より、多くの瑕疵を包含しながらも、一定の成熟を達成した法治国家の方が決定的にマシであるに違いない。
法治国家においては、未だ「悪」となり得ない「異常」を裁くことができないからだ。
人々は決して、この宿命に異を唱えたりはしない。
自分自身が、未だ「悪」となり得ない「異常」のゾーンに踏み込んでいるか否かについて、確たる自信と客観的担保を手に入れていないからである。
時代によって移ろい、社会状況によって変化する、極めて相対的な観念としての「正常」と「異常」の境界の問題は、常に、私たちにとって手強くも厄介な代物になっているのである。
【参考文献】
「思春期病棟の少女たち」 (草思社文庫) 「カプラン臨床精神医学ハンドブック―DSM―IV―TR診断基準による診療の手引」(メディカルサイエンスインターナショナル刊)
(2013年10月)
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