<決定的頓挫の敗北感を引き摺って、裏口から逃げ去る男の物語>
1 「敏腕弁護士」が搦め捕られた事件の闇
冬のシカゴで、その事件は起きた。
カトリック教会の枢要な聖職である大司教・ラシュマンが、自宅で惨殺されたのである。
まもなく、事件の容疑者は逮捕された。
その名は、アーロン・スタンプラー。
19歳のアーロンは、かつてホームレス状態であったとき、ラシュマンに救われ、「救いの家」という施設に預けられ、大司教に仕えてきた
一貫して、冤罪を主張するアーロン。
大司教殺人事件とあって、メディアスクラム(集団的加熱取材)の様相を示す連日のテレビ報道。
逸早く動いたのは、元検事の弁護士・マーティン。
さすがに、「アンビュランスチェイサー」(事件の勧誘のために救急車を追いかける弁護士)のような卑しさはないが、話題性に富む事件の弁護を引き受けることで、雑誌の表紙を飾れるという名誉欲が駆動したのである。
「敏腕弁護士だ」
そう言い放って、「プロボノ(無償弁護)」を引き受けるマーティン。
「あなたにお任せします。逃げたのは警察のサイレンが怖かったんです」
マーティン(左)とアーロン |
アーロンの冤罪の主張は変わらない。
その日、事件現場に何者かがいたように思われると、マーティンに吐露しつつも、アーロンの記憶は不分明だった。
状況証拠において不利な中で開かれた初公判。
マーティンのかつての部下であり、恋人でもあったジャネットが担当検事になり、情実を排する強い気持ちで臨んだ彼女は、アーロンを第一級殺人罪で起訴するに至る。
マーティンは公判戦略として、アーロンに無心な顔で座っているようにと指示するが、これは、凶悪犯というイメージを印象づけないアーロンの相貌に注目したもの。
「彼を無実と信じる陪審員が、一人いりゃいい。あの子の顔を見てね」とマーティン。
「確かに、あの顔にはほだされるわ。しゃべり方も」とジャネット。
まもなくマーティンは、精神科医のアーリントン女医に、事件現場でのアーロンの、「喪失した記憶」の分析を依頼する。
そんな折、マーティンは、川岸宅地開発計画を中止にしたことで、大司教が投資家たちから恨まれていた事実を知った。
ショーネシー州検事 |
その川岸宅地開発事業の計画の中止の一件に、事件との関連を読み取ったマーティンは、かつての上司であるショーネシー州検事も絡んでいる事実を知るに及んで、法律事務所の助手らの協力を得て、真犯人の調査に乗り出していくが、後に、貴重な証言者であるヤクザの不審死によって頓挫する。
「B32-156」。
この間、大司教の遺体の胸に刻まれた、この謎の文字の意味を、ジャネットは突き止めていた。
B32の部分は、教会の地下の書庫の整理ナンバーで、ナサニエル・ホーソン(19世紀米国の作家)の代表作として名高い小説・「緋文字」のこと。
その「緋文字」の156ページを開くと、一節にアンダーラインがあり、“内なる顔と、外部に対する顔を使い分ける者は、やがて、どちらが真の顔が、自分でも分らなくなる” と書いてあった。
「殺人犯が動機の手がかりを、故意に現場に残したのでは?」
ジャネットの推理に虚を衝かれたマーティンは、アンダーラインを引いたか否かをアーロンに問うが、否定するアーロン。
「確信がある。彼はやってない」
アーロンを疑う助手に言い切った、マーティンの言葉である。
一方、アーロンと繰り返し接見し、精神分析を進めていたアーリントン女医は、事件後に失踪したリンダの存在に注目し、アーロンに問い質すが、動揺を隠せない反応を見せるばかりで、要領を得なかった。
アーロンがアーリントン女医の前で、今まで見せたことのない怖い顔つきを見せて、驚かせたのは、その直後だった。
アーリントン女医(左)とアーロン |
アーリントン女医がアーロンに対して、多重人格のイメージを抱懐するに至った由々しきエピソードである。
また、アーロンの部屋に忍び込んでいたアレックスを捕捉したマーティンと、相棒のトミーは、アレックスから震撼するような事実を聞くに至った。
大司教の指示で、「悪魔祓い」という名の「セックス・プレー」が、アレックス、アーロン、リンダの間で行われていて、その卑猥な行為を収めたビデオテープを捨てるために、アレックスがアーロンの部屋に忍び込んだのである。
法律事務所で、そのテープを見て、アーロンの無罪を信じていたマーティンは、事件の枠組みが根柢から崩されていく現実に苛立ちを隠せない。
マーティンが、その足で拘置所のアーロンの元に駈けつけ、テープの存在を話し、「裁判は負けだ」と苛立ちを吐き出した。
追い詰められたアーロンが豹変したのは、そのときだった。
全く別人のようなアーロンに暴力を振るわれるマーティン。
彼もまた、アーロンの多重人格の現実を目の当たりにして、事件の構造を理解するに至った。
「分った。アーロンは、何かに困ると君を呼ぶ」とマーティン。
「奴は腰抜けだ。いつもオドオドしやがって。あのバカ。あの時も血を見て取り乱した。震えあがって、俺の言う通りにせず、逃げて捕まりやがった」
「やはり、アーロンがラシュマンを?」
「違うよ!その耳は、何を聞いてんだ?あの腰抜けが人を殺す?俺だよ」
ロイは、テープの存在が犯行の動機であることを語り、そのテープを見たをマーティンを殴りつける。
その瞬間、アーロンに戻るロイ。
裁判が負けたと嘆くマーティンに、アーリントンは、「証言台で、彼が正常でないと証言するわ」と答えるが、公判の答弁の変更は許されないと落胆するマーティン。
精神異常への変更という、公判の答弁が許されない厳しい状況の中で、マーティンが打った手は、証拠のテープを密かにトミーに届けさせ、ジャネット検事の方から法廷に提出させることによって、陪審員の前で、大司教の悪事を曝け出すことだった。
それは、「敏腕弁護士」が搦(から)め捕られた事件の闇の深さが、未だ視界に入っていない現実の前哨戦でしかなかった。
2 人格転換を具現させる戦略の束の間の勝利
かくて、最終公判が開かれる。
まず、証言台に立ったトミーが、大司教が関与した「セックス・プレー」を録画したビデオテープの存在を暴露する。
騒然となる陪審員席。
動揺する被告人席のアーロン。
次いで、アーリントン女医の証言は、アーロンが多重人格障害者で、その背景について語るものだった。
「幼年期に父親から受けた性的暴行が発端です。それに耐えるため、被告は二つの人格を作った」
「スタンプラーが殺人を犯せると思いますか?」
アーリントン女医 |
このマーティンの尋問に、アーリントンはきっぱりと証言する。
「いいえ。自分の怒りはひたすら押し殺し、別人格のロイに感情の発散を託すのです」
当然、争点の変更に異議を唱えるジャネット検事は、「法精神医学」の専門ではなく、「神経精神医学」を専門とするアーリントン女医の証言の信憑性の低さを衝いていく。
そのアーリントンは、アーロンが「ロイ」に人格転換する現場を視認した事実を証言するが、録画に残していない点をジャネットに衝かれて、不利な状況に立つ。
休廷を取って再会された公判で、アーロンへのマーティンの尋問が開かれる。
「ロイ」への人格転換を具現させ、アーロンが多重人格障害者である事実を陪審員に見せること ―― マーティンは、これ以外にアーロンを無罪にする方法がないと考えたのだ。
マーティンがアーロンに詰め寄って、「男らしくしろ」という言葉を添えたのも、この戦略の一環だった。
アーロンの表情は、なお変わらないが、マーティンの示唆を受容したように見える。
アーロンに対するマーティンの尋問の本質が、このメッセージにあることが判然とするのは、この直後のジャネット検事の反対尋問で露わになる。
「彼はあなたにセックス・プレーをさせて、それを、傍で見ていたのですね?」
「私なら、そんな男は躊躇せずに殺すわ!」
アーロンがロイに人格転換したのは、その瞬間だった。
「こっちを見ろ。メス犬め!」
そう叫ぶや、被告人席から跳び越えて、ロイに人格転換したアーロンがジャネット検事の首を絞め、今にも絞殺しそうな暴走が止まらない。
騒然となった法廷は、一時(いっとき)秩序を失って、ロイの暴力を抑えるのに総掛かりだった。
法廷警備員(裁判所事務官)に捕捉され、拘置所に連行されるアーロン。
この一件で、審理無効となり、公判の続行の根拠が失われた現実を目の当たりにしたジャネット検事は、裁判長に裁断を求めた。
「陪審員を解任して、心神喪失を根拠に、被告は無罪に。被告の身柄は病院へ委ね、精神鑑定を」
これが裁判長の答えだった。
3 決定的頓挫の敗北感を引き摺って、裏口から逃げ去る男の物語
マーティンは拘置所に収監されているアーロンに、無罪になった事実を告げる。
「命の恩人です」
その気持ちを表情に表し、感謝するアーロン。
「べナブル検事にお詫びして下さい。首が早く良くなるように」
抱擁し合って、別れ際に、ジャネット・べナブル検事への詫びの言葉を添えたアーロン。
何事もなく帰りかけたマーティンの脚が止まった。
振り返ったマーティンは、アーロンに視線を戻し、監房の扉を開けて、問い質した。
「何も覚えてないはずだろ?なぜ、彼女の首のことを」
ジャネット検事の首を絞めたのは、今、眼の前にいるアーロンではなく、「真犯人」のロイなのだ。
しかし、多重人格障害者であるアーロンには、凶暴なロイの行為の記憶の一切が遮断されているはずなのである。
本来は瞬時に気づくべき由々しき認知に、一歩遅れたのは、小心なアーロンが挑発的な言辞を吐露するなどという発想を、マーティンが初めから排除しているからであろう。
それだけ、アーロンという青年の詐話師的演技が抜きん出ていたのである。
にやつきながら、手錠をかけられた両手でゆっくりと拍手をし、アーロンは確信的に言ってのけた。
「さすが、頭がいいや、マーティン。あんたのうれしそうな顔を見て、つい・・・でも、良かった。本当は打ち明けたくて、どっちに話させようかと。アーロンかロイか。弁護士と依頼人の関係だから、秘密を話そう。僕はリンダを殺した。あの男好きのアバズレ。それに、ラシュマンの野郎。見事に切り刻んだ」
「完全犯罪」のナルシズムに酔っているアーロンの勝ち誇った顔を見たマーティンは、「君は大した奴だ」と言う外になかった。
「ロイはいなかった」
このマーティンの的外れの言葉に、アーロンはきっぱりと言ってのけた。
「存在していないのは、アーロンの方なのさ」
そこまで嘲弄され、もはや、反応する術がないマーティン。
存分に敗残者の惨めさを味わって、独房を出る「敏腕弁護士」の後方から、勝ち誇った者から、なおも言葉が投げられる。
「愛と裏切りは紙一重!裏切る気はなかったんだよ。悪く思うな!一つ利口になったと思って諦めな!」
厳しい表情で、拘置所を出て行くマーティン。
ところが、拘置所の前で、難しい事件の被告人を無罪にした「敏腕弁護士」の取材のために、大勢のマスコミ関係の連中が待機していた。
「敏腕弁護士」の名を更にセールスしようとした男の、一生に二度と体験できないような決定的頓挫の敗北感を引き摺って、男は裏口から、逃げ去るように消えていく。
アーロンの存在感ばかりが目立つが、本篇の構成は、「敏腕弁護士」の名誉欲から開かれて、それが決定的に砕かれていく男の物語であったことを、この印象深いラストシーンにおいて、複雑な陰翳感を引き摺るカットの繋ぎのうちに確認できるだろう。
4 天才詐話師が成り済ました「解離性同一性障害の闇」
私たちは「程ほどに愚かなる者」であるか、殆ど「丸ごと愚かなる者」であるか、そして稀に、その愚かさが僅かなために「目立たない程度に愚かなる者」であるか、極端に言えば、この三つの、しかしそこだけを特化した人格像のいずれかに、誰もが収まってしまうのではないか。
ここで問題なのは、その愚かさが僅かなために、「目立たない程度に愚かなる者」の、しばしば捩(ねじ)れ切った偏頗(へんぱ)な存在性である。
「程ほどに愚かなる者」たちや、「丸ごと愚かなる者」の洞察力の決定的欠如によって、過剰に救われてしまう余地を充分に残していること ―― これが、何より厄介なのである。
その愚かさが僅かなために、「目立たない程度に愚かなる者」のことだ。
傲岸にも、不特定他者を「決定的に愚かなる者」と決めつける件の主たちは、単に、「決定的に愚かなる者」と決めつけた者たちの、その洞察力の欠如に救われているに過ぎない現実を自己基準で誤読して、いつしかそこに、「自他共に認める」と言い張るほどの、「完全無欠」な「スーパーマン」を立ち上げていくほどの愚かさを、辺り一面に、此れ見よがしに振り撒いてしまうから、遣り切れないほどに質(たち)が悪いのだ。
ここで問題なのは、その愚かさが僅かなために、「目立たない程度に愚かなる者」の、しばしば捩(ねじ)れ切った偏頗(へんぱ)な存在性である。
「程ほどに愚かなる者」たちや、「丸ごと愚かなる者」の洞察力の決定的欠如によって、過剰に救われてしまう余地を充分に残していること ―― これが、何より厄介なのである。
その愚かさが僅かなために、「目立たない程度に愚かなる者」のことだ。
傲岸にも、不特定他者を「決定的に愚かなる者」と決めつける件の主たちは、単に、「決定的に愚かなる者」と決めつけた者たちの、その洞察力の欠如に救われているに過ぎない現実を自己基準で誤読して、いつしかそこに、「自他共に認める」と言い張るほどの、「完全無欠」な「スーパーマン」を立ち上げていくほどの愚かさを、辺り一面に、此れ見よがしに振り撒いてしまうから、遣り切れないほどに質(たち)が悪いのだ。
「敏腕弁護士」を自称し、過分なほどに欲望が満たされ、心地良き快楽を賞味し切ってきたキャリアを持つ、本篇の主人公・マーティンは、なぜ簡単に騙されてしまったのか。
まさに、その華々しいキャリアを通して、最終的には「ビジネス」に収斂されるとしても、今回もまた、名誉欲のために話題を呼ぶ事件に、いの一番に名乗り出て、「プロボノ(無償弁護)」を引き受ける行為に象徴されるように、これまで「丸ごと愚かなる者」の洞察力の決定的欠如によって、過剰に救われてしまってきた経験を累加させた結果、雑誌の表紙を飾る「敏腕弁護士」という自己像を形成してきたのだろう。
ところが、いつものように、「スーパーマン」を立ち上げていった「敏腕弁護士」が弁護する青年は、かつて経験したことのないタイプの犯罪者だった。
それは、未知のゾーンに踏み込んだときの男の誇りを打ち砕くのに充分過ぎた。
多くの場合、「丸ごと愚かなる者」の洞察力の決定的欠如によって、過剰に救われてしまってきたに過ぎないレベルの、「目立たない程度に愚かなる者」の脆弱さを露呈するのだ。
まず、自信過剰に起因する「敏腕弁護士」は、見栄えが良く、穏健な性格のアーロンとの接見を通して、「確信がある。彼はやってない」と言い切った。
分らなさと共存することは、とても大切なことであることを。
自分は常にぼんやりとしか分っていない。
それでも少しは、そのぼんやりとした部分を晴らしたい。
別に、果てしなき進化の幻想に憑かれているわけではない。
分らなさに居直りたくないだけである。
物語の中で、記者に本音を暴露するシーンが挿入されていたとしても、マーティンは、どちらかと言えば、これと対極の傲慢なタイプの男だった。
だからいつも、何でも分った気にになって、難しくも、目立った事件の弁護を引き受けて、名誉欲を満たしてきたのだろう。
「目立たない程度に愚かなる者」の脆弱さの学習が不足し過ぎると、しばしば手痛いバックラッシュに遭う。
東京大学を卒業し、大蔵省に入省・退職した後、実父からの潤沢な資金援助を受けて衆議院議員となった永田寿康が、ウラを取ることなく怪文書を信じ込み、あまりに簡単に詐欺のプロ(後に、別の詐欺事件で松島隆寿が逮捕)に引っ掛かって、自殺に追い込まれた一連の事件で露呈した人間洞察力の決定的欠如に、正直、驚嘆させられたのである。
それは同時に、最終的に総退陣に追い込まれた、時の民主党執行部の人間洞察力の決定的欠如をも随伴したから厄介だった。
「決定的に愚かなる者」と決めつけた者たちの、その洞察力の欠如に救われているに過ぎない現実を見せつけられたこと。
これが全てだった。
総体的に、どれほど他者より多くの情報量を誇っても、所詮、程度の差でしかなく、要は、人間洞察力が経験的に鍛えられない限り、「裸の王様」に過ぎないのである。
切に、そう思うのだ。
物語に戻る。
「敏腕弁護士」が自身満々で引き受けた、この厄介な事件もまた、遣り切れないほど、人間の心理の分らなさに対する、私たちの能力の限界点の様態を感受せざるを得なかった。
弁護の対象人格であるアーロン(正確には、「アーロン」を仮構した「ロイ」)は、特定人格を演じ、特定他者に、その人格を信じ込ませることに成就した、天才詐話師だったからだ。
アーロンの天才的詐話のスキルに搦(から)め捕られたマーティンは、およそ、「敏腕弁護士」のイメージと乖離して、単に、「目立たない程度に愚かなる者」の快楽を賞味してきた一人の平凡な男を印象づける。
と言うより、彼と同様に、たとえ「解離性同一性障害」が専門でないとは言え、60時間以上もカウンセリングを担当した精神科医・アーリントンも含めて、「目立たない程度に愚かなる者」の「確信的行為」の追随者たちの全てが、天才詐話師の天才的スキルのシナリオ通りに動く者たちでしかない現実を晒すのである。
その一点こそが、最後まで回収されない別の殺人事件のルーズさ等の瑕疵を認めてもなお、この面白過ぎる映画の最大のセールスポイントであると言っていい。
但し、深刻な心的外傷後に起こり得るリスクを持つ精神疾患である、「解離性同一性障害」についての差別的偏見や誤解を解くためのキャプションの挿入が欲しかったと、切に思うところである。
―― ここからは、簡単な心理学の世界に踏み込んでいきたい。
ここで言う、特定他者に信じ込ませた特定人格とは、多重人格者のこと。
今、言及した「解離性同一性障害」と呼ばれる精神疾患である。
かつて、「多重人格障害」と言われた疾病であるが、DSM-IV(精神障害の診断と統計マニュアル)で、「解離性同一性障害」に名称変更された精神疾患である。
私たちは、ここで注意せねばならない。
殆ど例外なく、人間なら誰でも「多面性」を持っている現実を、決して「多重人格者」とは呼ばないということを。
例えば、人柄が優しい人が、同時に、別の局面で厳しく、非情な印象を見せる現象は普通であり、特段に驚くべき何ものでもないであろう。
人間とは、そういう存在体である。
対人関係のレベルの差で、時には防衛的に振舞い、時には、相互の距離感を感じさせないほどに親密に睦み合うが、それを本人が自覚的に使い分けていく。
その使い分けこそ、人の心の豊かさの発現だと言える。
人間の健全性の証であると言い換えてもいい。
人間の性格は非常に複雑で、心理的に最近接している特定他者の内面を覗こうとしても、霞(もや)がかかっていると思えるほど視界に捉えられず、名状し難い奥の深さを目の当たりにする事態に遭遇することもあるだろう。
だから、これまで心理学の分野で、気質・性格類型論が様々に語られてきた長い歴史がある。
だから、これまで心理学の分野で、気質・性格類型論が様々に語られてきた長い歴史がある。
晩年のユング |
「循環型気質」、「分裂型気質」、「粘着型気質」という風に気質類型論を提示した、有名なクレッチマーの気質分類があれば、「外向的」と「内向的」と大別し、それぞれ「思考型」、「感情型」、「直観型」、「感覚型」のそれぞれに分けたユング的気質類型論もあり、古今東西、人間の性質を表す性格や人格について様々に語られてきた挙句、性格診断ブームなどを生んできたのである。
そして何より、それらは、当該人格の中で「統一性」が保持されているからこそ、社会的適応を可能にしたということ。
これは、決定的に重要なことである。
然るに、その中枢の「統一性」が障害を現象化することで,「個」の人格の中に、全く別の人格が現出し、その時々の〈状況性〉に合わせて、極端なまでに防衛的・攻撃的態度を具現するならば、その状態を「精神疾患」と呼んでも間違いないだろう。
そこで顕在化された態度のみならず、アイデンティティと記憶を喪失し、「統一性」の欠陥によって意識の統合性を失い、本人自身が表現した症状についての自覚がなかったら、「解離性同一性障害」の可能性があると言える。
「解離性同一性障害」と呼ばれる精神疾患の特徴は、物語の中で、精神科医・アーリントンが指摘したように、「幼年期に父親から受けた性的暴行」に象徴されるように、自我が未成熟であるが故に、通常、「快・不快の原理」によって呼吸を繋ぐ、心の耐性の脆弱な幼児・児童期に深刻な心的外傷(心理的・身体的・ 性的虐待やネグレクト)を集中的・且つ、恒常的に受けたケースなどにおいて、思春期以降に「自己統制権」を喪失し、社会適応を困難にする厄介な心的行程の中で、耐性限界点を超える感情を「記憶喪失」という防衛戦略で切り離すことで、別の人格が現出すると言われる。
何らかの役割を引き受け、その人格「部分」である「交代人格」の存在によって、その人格が生き延びていく余地を残すのである。
物語の中で、アーリントンは、「自分の怒りはひたすら押し殺し、別人格のロイに感情の発散を託すのです」と述べていたことが想起される。
しかし、全て嘘だった。
「解離性同一性障害」に熟知した精神科医や臨床心理士が少ない現実もあり、他の疾患に誤診されやすいとも言われるが、物語では、その点を逆手に取って、専門医でないアーリントンに、法廷内で「解離性同一性障害」の診断を下させることで、ロイがアーロンに成り済ましたのである。
結局、私たちの人間洞察力など、高々、この程度のものなのだ。
まして、「丸ごと愚かなる者」の洞察力の決定的欠如によって、過剰に救われてしまってきたに過ぎないレベルの、「愚かさが目立たない者」が、ほんの少し、未知のゾーンに搦(から)め捕られてしまったら、「敏腕弁護士」を自称する傲慢な男の理性系の判断など、木っ端微塵に打ち砕かれてしまうのがオチなのである。
更に言えば、自分の知名度の継続力を保持するために、「プロボノ」(無償弁護)を引き受けた、この「敏腕弁護士」の由々しき倫理的瑕疵は、「裁判の勝利」という一点のみで、最終公判の場で、被告人のアーロンを、凶暴なロイへの「交代人格」の出現を演出させた行為にあると言っていい。
裁判の争点を、「解離性同一性障害」による犯罪というテーマに切り換えられないが故に、敢えて、検事の厳しい追及を誘導するという究極の禁じ手を駆使したのである。
天才詐話師の被告人との「共同作業」が遂行されて、無罪を勝ち取った果てに待機していたのは、その天才詐話師からの痛烈なしっぺ返しだった。
欺瞞的な「敏腕弁護士」は、告白に飢えていた天才詐話師から、完璧な「共同作業」の「返礼」を受けるのだ。
恐らく、児童期で被弾した劣悪な環境によって、凶暴だが、頭脳明晰な知恵で呼吸を繋いできただろう青年が、「アーロン」に集約される人格を駆使し、教会に潜り込んでいたが、大司教との決定的な折り合いの悪さに起因する憎悪感情を炸裂させた犯罪の結果、公判戦略を練り込んで到達した、「解離性同一性障害」の認定と無罪の獲得という究極の生存戦略に賭けた。
それが、あまりに完璧な「共同作業」の成就に至り、その快楽を、欺瞞的な「敏腕弁護士」と「共有」したかった。
だから、告白に及んだのだろう。
「アーロン」を仮構したロイにとって、この快楽を占有することが忍びなかったのだ。
欺瞞的な「敏腕弁護士」より遥かに頭脳明晰な自分の有能さを、件の「敏腕弁護士」に認知させたかったのか。
それほどまでに、完璧な「共同作業」の成就に酔い痴れたかったに違いない。
そこで結論。
天才詐話師の超絶的なスキルのトラップに嵌ったら、そのトラップを突き抜けていくことなど、とうてい叶わないのかも知れない。
そう、考えるしかないようだ。
それにしても、私のお気に入りのエドワード・ノートン。
その後の作品でも検証されているように(特に、「アメリカン・ヒストリーX」、「ファイト・クラブ」、「25時」)、ナチュラル・ボーン・アクターと呼ぶ以外にない凄い俳優である。
【参考資料 拙稿・新・心の風景 「『目立たない程度に愚かなる者』の厄介さ」より抜粋】
(2014年8月)
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