<「両親が何者であり、父が何をするか」を知っている少年の有罪意識の在りよう>
1 完成形の作品が居並ぶ稀有な映画監督の、優れて構築力の高い映像の凄み
ハネケ監督の映画を観た後、必ずと言っていいほど、私は次の映画の批評に入る気分が失せてしまっている。
ハネケ監督の作品で、映像総体の完成度のハードルが一気に高くなってしまった堅固な壁を、難なく跳び越えていく映画と出会う確率が低いという諦めの気分が、私の中で生まれてしまうのである。
情緒過多・説明過多で、不必要なまでにBGMを多用する映画の批評に向かう気力など、とうてい起こりようがないのだ。
全ての映画が私の厭悪する作品ばかりでない事実を認知しつつも、中々、次の作品の批評に向かえないのだ。
何かどうしようもなく、それ以外の映画が稚拙に見えてしまうのである。
しかし、このような映画の見方は、決して歓迎すべき心的現象ではない。
全ての映画とは言わないが、幾つかの作品には、作り手特有の作風や個性や、どうしても訴えたいテーマもあり、その構成において、破綻なく描かれている作品の価値を否定することなどできようがないのだ。
時として、偏見の濃度の高い瑕疵を露呈する私の感覚的な尖りの自己修復を、忽(ゆるが)せにできない課題として内化すべきと、今は括っている次第である。
それというのも、殆ど全ての映画が完成形の作品が居並ぶ、この稀有な映画監督の、優れて構築力の高い映像の凄みがもたらした産物なのである。
本篇の「ベニーズ・ビデオ」も、そんな作品の一つだった。
2 「両親が何者であり、父が何をするか」を知っている少年の有罪意識の在りよう ―― その1
以下、本作のDVDの特典映像の、「ミヒャエル・ハネケ セルジュ・トゥビアナ対談」を下地にして、「ベニーズ・ビデオ」の批評を結んだ文章である。
まず、べニーの少女殺しについて考えてみよう。
学校も違う見知らぬ少女との会話が弾まず、何とかピザを食べ合う関係の延長上に、べニーは自慢のビデオを見せていく。
父親の屠殺場で、豚の殺戮現場を録画したビデオである。
このビデオから、「死体を見たことがあるか」という話題に転じた少女に、べニーはとっておきの秘蔵物を見せる。
父親の屠殺場から銃丸入りで盗み出したスタンガンである。
牛や豚のような畜産動物の屠殺は、額にスタンガンを撃ち込んで気絶(時には絶命)させた後
、頸動脈を切り裂いて出血死させられるのが通常で、スタンガンには屠殺銃の別名がある。
ベニーが撮影した豚の殺戮現場のビデオ |
その豚の殺戮で使用されたスタンガンを、少女に自慢げに見せるベニーは、「撃てよ」と言って、少女を挑発する。
その挑発に乗らない少女は、スタンガンをテーブルに置く。
「弱虫」とべニー。
「あんたこそ」と少女。
逆に挑発されたべニーは、「撃てば」と言う少女に対して、スタンガンを向けた瞬間だった。
「弱虫」という少女の言葉が再び発せられるや否や、スタンガンの引き金を引いてしまったのである。
腹部を撃たれて悶絶する少女を前に、慌てふためくべニー。
「助けてあげる。静かにして」
そう言って、少女を保護しようとしても、悶絶する少女に拒絶されるだけ。
その直後のべニーの行為は、録画したビデオの世界を「現実」と幻想する、思春期中期の脆弱性を露呈するものだった。
再びスタンガンを手にして、恐らく、額に撃ち込まれて絶命した豚が静かになったように、自ら「死体」を作り出す行為に及んだのである。
少女 |
これが、べニーの少女殺しの顛末だが、この事件の一部始終を、べニーのビデオカメラが撮影していたのだ。
このべニーの行為の一連の流れを見れば判然とするように、べニーの少女殺しが計画的ではないばかりか、スタンガンを手にしたときでさえ、「殺人」という経験への誘発力が中枢の起爆剤になったか否かですら不分明である。
「衝動」という都合のいい言葉が、こういう状況説明に最も相応しいが、それには、「抑えにくい内部的な欲動」というモチーフを不可避とすることを考えれば、厄介な状況下での「人間の心理と行動」の関係を、短絡的に説明することが如何に難しい事柄であるか瞭然とするだろう。
この辺りは、常々、ハネケ監督が警鐘を鳴らしているところである。
「もちろん、最初から相手を傷つけようという悪意のある場合もある。だが、普通はもっと複雑で、偶発的なものだと思う。“有罪性”というものは、人が罪を犯す行為は漠然としている。明確なものではない」(ハネケ監督の言葉)
事件後、“有罪性” の意識が希薄であった少年の行為に、「変化」と呼ぶべき何かが生まれていく。
それは、少女殺しが予定の行動ではなかったが故に、時が経つにつれ、少年の心に葛藤が生じているようにも見えるが、一貫して不透明であることには変わりがない。
「罪悪感」に結ばれるほどのものではないが、思春期中期の未成熟な自我に生まれた混迷の処理に戸惑したのか、程なく坊主頭になり、それを叱咤する父に対して反抗的な態度を顕在化させていくのである。
そんなべニー少年が、少女殺しのビデオを、両親に見せるに至ったのは、事件を占有する愉悦感とは切れた「非日常」の時間に耐えられなかったとも思えるし、異様に見える「告白」の方略によって事件を「共有・転嫁」しようとしたのかも知れない。
それだけ、事件に対する彼なりの「重量感」を感受していたのだろうが、この「重量感」が明瞭な贖罪意識に結ばれていくには、遥かに険阻なハードルが立ち塞がっているのだろう。
言うまでもなく、贖罪意識とは、自分の犯した罪や過失を償わんとする意識である。
だから、その主体の内側に有罪意識がなければ成立しない概念だ。
有罪性とは、当該社会の規範や倫理に反する行為の総体である。
べニー少年に声をかけられる前の少女 |
べニー少年に、この類の意識の形成が、果たしてどのような様態のうちに見られたのか。
そこにこそ、この映画の基本的問題意識がある。
改めて、考えてみよう。
事件後、べニー少年は、母とのエジプト旅行に出ることで、有罪性の意識を希釈化させるアンモラルな行動に振れていくが、すっかり「死体」の後始末を終えた父の待つ自宅に帰宅したときの、父子の会話があった。
「聞きたいことがある」
「何?」
「なぜ、あんな事したんだ?」
「あんな事?・・・分らない。どんなものかと思って。たぶん」
「どうかって・・・何が?・・・そうか」
父と子 |
これだけである。
「“どんなものかと思って・・・”これは私にとって、現実と関わりを持てない人間の言葉だ。なぜなら、人はメディアを通して、人生を知り、現実を知る。そして欠落感を覚える。”僕には何かが欠けている。現実感がない”と。もし、私が映画しか見なければ、現実は映像でしかない」(ハネケ監督の言葉)
「どんなものかと思って・・・」というべニーの言葉に張り付く感覚は、ビデオ三昧の生活の日常性のうちに拾われた「現実感覚」の中で、既に少年の未成熟な自我が、限定的な生活のゾーンで入手した情報吸収の感度を既定する、経験的なアクチュアル・リアリティ(現勢的現実)の様態を希釈化させている事実を端的に検証していると言っていい。
そんなべニー少年の、心の変容の契機を伝える重要な描写があった。
母とのエジプト旅行で、有罪性の意識を希釈化させる幾つかのエピソードを経て、母子はホテルのベッドでテレビを観ていた。
テレビ画面は、エジプトの女性シンガーグループが、民族性の豊かなポピュラー音楽を楽しそうに歌っていた。
それを漫然と観ていた母が、突然嗚咽し、見る見るうちに号泣に変わっていくのだ。
傍らで横たわているべニーの表情には、全く予想だにしていなかった母の反応に当惑し、衝撃を受けた者の精神的混迷の相貌性が炙り出されていた。
「どうしたの・・・?」
心配げに言葉をかけても、一度吐き出された情動の氾濫を抑える術など何処にもない。
天井を仰ぎ、考え込む様子のべニーの内面に何かが起こったように見える。
少なくとも、このときのべニーの表情には、エジプト旅行で束の間、浮かれるパフォーマンスを露わにした軽走感覚が削り取られていた。
然るに、このときのベニーの感情を支配していたのは、必ずしも、母親に対する憐憫の情などではないだろう。
恐らく、自らが犯した行為をどこまでも過失だと考えているが故に、母の号泣を目の当たりにしたことで、両親の有罪性を再確認させられるだけだったのではないか。
ハネケ監督はこのシーンに言及していないが、私はこのシーンこそ、常軌を逸したようにも思える、両親の告発というべニーの行為の決定的モチーフになったと考えている。
いずれにせよ、このワンシーン・ワンカットの構図が、母とのエジプト旅行のラストカットになって、忌まわしき事件のあった場所に帰宅するに至った。
べニーの父 |
「エジプトへの旅行は、当然ある種の“サイン”で、少年は逃げたのだ。責任から逃れるために旅立った。だが、そのために罪はもっと深くなる。母は、夫が何をするかを知っている。少年は罪を知っている。撮影したのだから。両親が何者であり、父が何をするか。少年はよく知っている」(ハネケ監督の言葉)
ハネケ監督の言うように、べニーは両親の有罪性を知っているのだ。
「両親が何者であり、父が何をするか」を知っているのだ。
「同時に、それは大いなる挑発でもある。“対決”なんだ。少年はこう思っている。“見ろよ、これがあんたらが俺にしたことだ” 私にとって、これは家族の再生などではない。むしろ完全な断絶だ」(ハネケ監督の言葉)
恐らく、ハネケ監督の言う通りだろう。
べニーの母 |
べニーが両親にビデオを見せたとき、両親の信じ難い反応に違和感を抱いたこと。
「見ろよ、これがあんたらが俺にしたことだ」というハネケ監督の指摘が正鵠を射るならば、両親の信じ難い一連の行為への違和感が、事態をより厄介なものにしてしまったというネガティブな感覚が惹起し、一気に不信感にまで肥大化していったのだろう。
過失であるに過ぎないと信じる出来事を由々しき事件として処理し、死体を解体・末梢するという「死体遺棄事件」にまで広がりを持たされてしまったこと。
この不信感が、両親に対する告発という行為の心象風景として横臥(おうが)していると、私は考えている。
両親に対する告発という行為によってのみ、少年の内側でとぐろを巻いている、訳の分らない情動を処理していく術がなかったのではないか。
そう思うのだ。
3 「両親が何者であり、父が何をするか」を知っている少年の有罪意識の在りよう ―― その2
「現実感の喪失」
ベニー(左) |
これが、本作の映像化の契機である。
「ホラーもSFも、 アドベンチャーも、自分が状況を支配できるという幻想を持つことから生まれる。監督は状況を支配できる。映画は監督の創作だから。観客の立場は、罠に落ち
ても自分は無事だと分かっている。安全だと。驚きはしても、痛い目に遭うことはない。とても快適な状況だ。だから映画に金を払うが、実は危険でもある。つまり、前の話に戻れば、現実の生活でそれをやろうとすると、ものすごく危険だ。それが『べニーズ・ビデオ』だ」
ハネケ監督の言葉である。
本作で重要なポイントは、スクリーンの中で呼吸する、もう一つのスクリーンの存在性という点である。
この手法は、スクリーンの中に封印された殺人事件を観ることで、恐怖の疑似体験(広義の意味で、「スケアード・ストレイト」にも通じる)をして、帰路に就くという「約束事の世界」に、安楽に「愉悦」する観客の立場を微妙に揺動させるのだ。
ベニーの部屋 |
映像が異化されたのである。
人の感情を揺動させる効果を持つ音楽の導入によって、よりいっそう増幅されたことで、「約束事の世界」が混乱させられた観客は、予想だにしない不安に駆られ、観客が観ている「物語」それ自身によって、反転的に問われるに至る。
少女殺しの「物語」のエピソードが現実ではないことを知っている観客は、「スクリーンの中のスクリーン」の手法によって、映像が惹起した恐怖の感情の共有を迫られ、一瞬、「約束事の世界」という退路を断たれる錯誤に陥るかも知れない。
更に、そこにはユーゴスラビア紛争の実写画像が、メディアの象徴であるテレビ画面からも繰り返し流されていく。
予想だにしない不安に駆られている観客の混乱は、作り手のコントロール下にある「物語」に張り付く、「スクリーンの中のスクリーン」の「現実」と、メディアが垂れ流す実写画像の「現実」との境界の希釈化によって、複層的に構成される映像のトラップのうちにインボルブされ、クローズド・サークル(出口なし)の状況を極めるのだろうか。
ここで再び、べニー少年の心理を追っていこう。
両親にビデオを見せて、事件の顛末を知らせる。
「スクリーンの中のスクリーン」 |
「スクリーンの中のスクリーン」の「現実」を、「スクリーンの中の両親」に知らせるのだ。
「まともな人間は、お前を含めて皆、社会の一員として決まりの中で生きている」
「スクリーンの中のスクリーン」の「現実」を知らされたとき、こんな常識的なことを言っていた父が、怒鳴ることもせず、「誰かに気付かれたか?」、「眠れそうか。明日は登校するな。何か食べて、もう寝なさい」などという自己防衛的な反応をするばかり。
「スクリーンの中のスクリーン」の「現実」を受容できず、オロオロするだけで、言葉を挟めない母は、「腹が減った」というベニーの食事を作ろうとさえする。
その直後、別室にこもって、両親が相談するシーンが映像提示される。
当然の如く、「議論」のイニシアチブを取るのは、べニーの父。
「仕事への影響も大きい。通報せずに済む方法は、一つ、始末・・・」
ここで思わず、妻は笑ってしまう。
日常性からあまりに乖離した、違和感を覚えさせる言葉が、夫から発せられたからである。
人間の心理を鋭利に切り取る会話の挿入に感嘆するばかりだ。
人間は往々にして、精神的に追い詰められると笑ってしまうのは、顕著な不安や緊張からの回避行動をとる自我の防衛機制であると言っていい。
「しっかりしろ!冷静でなくてどうする!」
「そうね、ごめんなさい。次は?」
ここで、妻は真面目な顔になった。
「解体して、うんと細かくすれば、トイレに流せるわ。骨は?」
「砕くか、切って燃やすか」
そんな不埒な会話の中でも、小さな笑いを零す妻の心理には、自分たちが置かれた状況への「適応力」の速さに、自ら呆れているという感情が垣間見える印象を受けるが、当然の如く、それは心の余裕などではない。
揺動する妻の心理が、夫よりも、状況コントロール能力において圧倒的に脆弱なのである。
揺動する妻の心理に集中的に表現されているように、この会話の怖さは、既に遺体化している少女の存在性が、録画でリピートされる屠殺の豚と等価で扱われていることで、少女の人間学的要素の集合が無化されている現実に止めを刺すだろう。
即ち、完全に物体化されているのである。
ベニーによる少女の死体の処理 |
その違いは、ベーコンやポークステーキとして、人の胃袋の中で消化される行程をトレースしていくか否かであると言っていい。
それは、揺動する妻の自我の防衛機制のバリアが、彼女の視界を極端に狭隘化してしまっている証左でもある。
そして、両親の不埒な会話を、部屋の隙間から録画する息子がいる。
このときべニーは、「両親が何者であり、父が何をするか」を知ってしまったのだ。
それは、両親に対する告発という行為の重要な伏線になっているが、だからと言って、べニーが告発行為の「証拠固め」として、この振る舞いに及んだのでは決してない。
習性なのだ。
「スクリーンの中のスクリーン」の「現実」が暴れ捲るからこそ、この映画が厄介なのである。
べニーと少女 |
なぜなら、いつしか、ビデオ漬けの生活の日常性の中で、物事をコントロールできるという幻想を持つに至った少年の内面風景の現実は、自我関与する事象の一切をビデオに捕捉せずにいられない辺りにまで肥大し、それが「認知の歪み」を常態化してしまっているのである。
「認知の歪み」の常態化。
この表現にシンボライズされる、少年の肥大し切った日常性の生態の本質が、映像総体が放つ由々しき風景に、言語に絶する陰翳感をべったりと張り付けて、離れないものにしている。
そして、極めつけのラストカット。
どこかで予想していたとは言え、この切れ味鋭い映像を自己完結させた凄みに、私は言葉を失った。
少年が惹起した事件が、家族の防衛的で、狡猾な有罪性をインボルブさせた挙句、この家族の一切のものを灰燼と化すネガティブな風景までも、「もう一つのスクリーン」のうちに記録せざるを得ない少年の贖罪意識の在りようとは、一体何なのか。
それこそが、観る者に鋭利に問いかけてきたハネケ監督の問題提示のエッセンスであると、私は思う。
有罪意識の形成を前提にし、自らが犯した罪や過失を償う贖罪意識に結ばれていく肝心なものが、果たして、少年の自我にどれほど胚胎していたのか。
不分明であるとしか言いようがない。
それでも、これだけは言えるだろう。
バーチャルな感覚の中に「現実」を見る少年の自我が、言葉の正確な意味での贖罪意識に届くには、少年の「認知の歪み」の修正がどこまで可能であるかに尽きるということだ。
このままでは、少年の近未来は、限りなく「アウト」のイメージに近いだろう。
一切は、「認知の歪み」を少しでも内化し、その自己修復能力の在りようにかかっていると言っていい。
そう思うのだ。
稿の最後に、ハネケ監督の言葉で括っていく。
「 判断するのは観客だ。私は何も言いたくない。私は見つけようとしている。探しているのだ。“物語る方法”を。観客に問いを投げかけるだけで、何も言わない。 “彼はこう考えてる”とか、“こんなふうにする”とか、判断するのは観客だ。少年が警察で両親を裏切ったとき、こう言う。両親を密告したあとで、こう言うのだ。“帰ってもいいですか?”これは幼さか、あるいは臆面のない冷笑か?好きに解釈すればいい。私は答えを限定しない。“人は、なぜやったか?”。答えを出すのは、観客を安心させて、なだめるだけのこと。つまり、“母親の愛情が足りないからこうなった”とか、くだらんよ。ひとつの犯罪、あるいは事件が生れた理由は、70分で語るには、あまりにも複雑すぎる」
「ひとつの犯罪、あるいは事件が生れた理由は、70分で語るには、あまりにも複雑すぎる」という言葉の重みを、私自身、常に頂門の一針にしている者である。
(2013年9月)
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