1 「知っていることと、理解することは別物だ」 ―― 困難な「知的過程」を開く作業の大切さ
全てが完成形のハネケ監督の秀作群の中で、「タイム・オブ・ザ・ウルフ」(2003年製作)、「愛、アムール」(2012年製作)と並んで、私に深い余情を残すに至ったこの映画の感動は、間違いなく、外国映画生涯ベストテン級の名画である。
これほどの名画が、主にDVDでしか鑑賞できない現実に、正直、驚きを隠せない。
いつも書いていることだが、私にとって考えさせる映画は、押し並べて「良い映画」である。
考えさせる映画は心に残る。
心に残るから、もう一度観たいと思う。
そのような映画が最も好ましい。
最近、観た映画で言えば、何と言っても、ポール・トーマス・アンダーソン監督の「ザ・マスター」(2012年製作)に尽きる。
観ていて、これほど考えさせてくれる映画もなかった。
その構築的な映像の凄みに身震いするほどだった。
殆どアンチ・ハリウッドのような、このような映画を作ってしまうところに、正直、アメリカ映画の底力を認知せざるを得ない。
「ザ・マスター」より |
だからいつも、へとへとになる。
「3部作(注1)のテーマはお望みなら、コミュニケーションの不可能性と言ってもいい。そのことは私自身、心の最も深い部分に抱いている想念で、私の映画は常に、その問題に迫ろうとしている。人は会話する。だが伝わらない。(笑)関係が近いと、更に悪い。近くなるほど話さない」(『71フラグメンツ』ミヒャエル・ハネケ セルジュ・トゥビアナ対談)
これは、「71フラグメンツ」ついてのインタビューでの、ハネケ監督の言葉。
「コミュニケーションの不可能性」
ハネケ監督は、そう明瞭に言い切った。
「関係が近いと、更に悪い」という物言いには、必ずしも同調しないが、「肉親関係」には大いにあり得ること。
少なくとも、本作では、「近くなるほど話さない」という関係における、「コミュニケーションの不可能性」について、存分なまでに描かれていた。
「71フラグメンツ」から、その11年後に製作された、「隠された記憶」(2005年製作)の両方の要素が含まれていると思える、この映画が観る者に突き付けたのは、3部作の延長としての「コミュニケーションの不在」(「不可能性」というよりも)であり、「人間が分り合うことの困難さ」であると言えるだろうか。
「“現実は断片だ”という考えが、映画の構造にある。断片でなければ、現実は理解できない。断片からでなければ、現実は理解できない。(略)誠実に物語れるのは、断片においてだけだ。小さな断片を示し、その断片の総和が、観客に向かっていささかの可能性を開く。個人の体験に基づいて考える可能性を。つまり、観客を挑発するのだ。感情や思考の機械を回転させる。始動させるのだ。(略)映画を作るときは、常に観客の反応を意識すべきだ。私は誰もがよく知っている断片を描きたい。知っていることと、理解することは別物だ」(同上)
これもハネケ監督の言葉。
ハネケ監督は、自らが構築した映像の提示を通して、「知的過程」を開くことで、観る者との「問題意識」の共有を求めているように思われるが、そこには、「啓蒙意識」のような俯瞰的な視線がなく、まして主張を押しつけることがないから、決して「分った者」の如き説教の欠片すら拾えない。
ともあれ、本作でもまた、「小さな断片を示し、その断片の総和が、観客に向かっていささかの可能性を開く」という、ハネケ監督の拠って立つ強靭な問題意識のもとに、現代の欧州社会が抱えている、移民や人種差別などの深刻な問題も射程に入れているが、そればかりではない。
「近くなるほど話さない」と言うように、心が最も最近接しているはずの関係の、「人間が分り合うことの困難さ」をも重要な射程に入れていて、それが、ラストシークエンスの炸裂となって噴き上げていくのだ。
圧巻だった。
この作品においても、BGM効果によって観客にカタルシスを与え、浄化させてしまうことで自己完結させる手法を取らなかったが、いつものように、音楽を物語内に効果的に挿入させていく手法は、充分に冴えわたっていた。
恐らく、日本の観客には見向きもされないテーマを敢えて取り上げ、完璧なフォーマットを構築していくハネケ映画の凄みが、この作品にも溢れていた。
「自分を完全な職人だと思う。“自分の仕事をする者”だ」(同上)
(注1)「セブンス・コンチネント」(1989年製作)、「ベニーズ・ビデオ」(1992年製作)、「71フラグメンツ」(1994年製作)と続く、オーストリア時代に作られた、所謂、「感情の氷河化」の3部作のこと。
2 特段に交叉することなくパラレルに開かれていく群像劇
冒頭のシーンは、多くの仲間の前で、ジェスチャーをしている一人の聾唖の子供の構図だった。
「一人ぼっち」、「隠れ家」、「ギャング」、「心のやましさ」、「悲しみ」、「刑務所?」。
手話で答える子供たち。
しかし、どれも正解を言い当てることはできなかった。
手話は身振り(ジェスチャー)と似ているが、基本的に違うものである。
手話に馴致した聾唖の子供にとって、その手話で、ジェスチャーの答えを言い当てることは困難であるに違いない。
重要なのは、このファーストシーンが、ラストカットとの明瞭な相違のうちに判然とされるというコンテキストである。
その直後に、「いくつかの旅の未完の物語」と題されたサブタイトルが提示される。
一人の女性の日常性を中枢に据えた基本・群像劇が、ここから開かれていくのである。
その一人の女性の名はアンヌ。
多忙を極める女優である。
パリに住むアンヌの元に、報道写真家で、コソボに取材中の恋人・ジョルジュの弟ジャンが泊めて欲しいとやって来た。
「畜産農家を継げ」と言う父との確執で、家出して来たと言うのだ。
「私じゃ解決できないわね」
そう言って、アパートの暗証番号を教え、部屋の鍵を渡して、体良く始末をつけるアンヌ。
一貫して長回しの映像は、アンヌと別れた後の、ジャンの苛立つ歩行を追い駆けていく。
ジャンの行為を視認した一人の黒人青年が、ジャンに駆け寄って注意を促す。
相手の指摘を無視したジャンに、黒人青年が詰め寄った。
「イカれてる」とジャン。
「あそこにいた女の人に謝るんだ」
なお詰め寄って、そのまま無視して歩いていくジャンの前に立ちはだかり、執拗に謝罪を求める黒人青年。
「うるせいな」
口汚く言い放って、通り過ぎようとするジャンの体を掴んで、女性のもとに、黒人青年は力づくで連れて行く。
「何様のつもりだ、放せ!」
取っ組み合いの喧嘩をする二人。
そこに、アンヌが戻って来て制止するが、黒人青年も感情的になっている。
「口を出すな。関係ないだろ。奴のしたことを?」
そこに、二人の警官がやって来た。
「物乞いの女性を侮辱したんだ」
ここで場面は暗転するが、物乞いの女性が、ルーマニアからの不法移民であったことが分明になり、国に強制送還されるという顛末だった。
黒人青年の名はアマドゥ。
マリからの移民二世である。
ルーマニアからの不法移民である、物乞いの女性の名はマリア。
アンヌを中枢に据え、ここに関与した複数の登場人物たちの群像劇が、特段に交叉することなくパラレルに開かれていく。
まもなく、ジョルジュがコソボの取材から帰宅して来て、レストランで仲間との懇談会を設けるが、友人の女性に批判される憂き目に遭う。
「戦争の悲惨さを訴えるため、廃墟や死体を撮り、飢餓のために植えた子供も?思い上がりよ。体験が感じられない写真よ」
ここまで言われたジョルジュは、「確かに」と答えるばかり。
ジョルジュは、まもなく、隠し撮りの挙に及ぶ。
地下鉄で向い合った乗客のポートレートを撮り捲るのだ。
不特定他者との内的交叉を極力、回避するかのようなジョルジュの距離感こそが、彼の個人主義の拠り所なのだろうと思わせる。
不特定他者との内的交叉ばかりではない。
物理的に最も最近接してきたはずの関係においても、大して変わりなかった。
そのことが端的に表れたのが、彼の肉親との関係。
畜産農家を営む父の苦労に対して、まるで他人事なのだ。
結局、ジョルジュの父は、端(はな)から長男に期待することなく、次男のジャンに跡継ぎの負荷をかけていく。
その負荷を軽減しようと購入したバイクも、ジャンの再度の家出によって、懐柔策としての効力をも持ち得ず、遂にジョルジュの父は、手塩にかけて育てた牛を屠殺してしまうのだ。
「もう、5時に起きなくて済む」
ジョルジュの父の、この言葉の重さをも、他人事のように聞くだけの「戦場カメラマン」が、故郷の家で漫然と過ごしていた。
では、そんなジョルジュと同棲するアンナの関係風景はどうだったのか。
以下、稿を変えて言及していきたい。
3 「他者の不幸」=「自分の不幸」という、共同体社会の縛りが希薄になった先進諸国が内包する厄介さ ―― アンヌの虚構の世界の虚しさ
私にとって、本作の中で最も鮮烈な印象を受けたのが、アンヌに関する一連のエピソードである。
ドラマという虚構の世界で他者を演じ、束の間、その内面世界に侵入し得る、女優という特殊な仕事を通じて、アンヌは様々な表現を求められ、それに応えて、巧みに演じ分けていく。
その虚構の世界が切り取ったエピソードの中に、由々しきシーンがある。
夫との仲睦まじいプールでの遊泳中のことだった。
この家族は、20階の高層ビルに住んでいるのだ。
夫と共に、慌てて駆けつけていくアンヌ。
何とか愛児を救い出した夫に代わって、アンヌは我が子に平手打ちを加え、自分の犯した行為の危険性について厳しく注意した。
しかし、これは劇中劇だったのである。
夫を演じた男優と共に、仲睦まじい風景を見せるアンヌがそこにいた。
恐らくこの時点で、アンヌの心は、徹底的な個人主義者のジョルジュから離反していたのだろう。
しかし、この映画が問いかけるものは、それ以上に深刻な問題提示だった。
他人を演じ分けて、その内面に侵入し、個体内・対人的コミュニケーションを駆使するプロでありながら、現実のアンヌの日常性は遥かにシビアで、陰翳な雰囲気に包まれていた。
アンヌの日常性に襲来し、その風景を陰翳な雰囲気に包み込んだ事件が出来したのは、アンヌがアイロンがけをしている時だった。
その後、まもなくして、アンヌは幼児虐待の現実を告げる一枚のメモを受け取った。
扉に挟まれたそのメモは、アンヌにとって見覚えのある字であった。
アンヌは、ジョルジュに電話をするが不在なため、向かいに住む、ベッケルという名の老婦人を訪ねていく。
一枚のメモを挿入した主が、その老婦人であると特定したのである。
以下、そのときの会話。
「あなたがこれを?」とアンヌ。
「違うわ。書いていない」と老婦人。
「読んでないのに?」
「メガネがなくて。書いてないわ。こんなメモなんて」
「本当に?何か知ってるなら教えて」
「何のこと?」
「あなたの字かと思って」
アンヌがそう言っても、冷たく扉を閉ざされてしまったのである。
不安な気持ちが晴れないアンヌは、その後、ジョルジュに幼児虐待の一件を相談するが、彼の反応は冷淡なものだった。
「警察官に訴えるか、無視するか、子供の両親に」
「どうでもいい?」
「じゃないが、メモは君宛てだ」
「責任を取らないのが楽よね」
「僕は泣き声も、顔も知らない。その両親もだ。僕は関係ない。人に頼らず、自分で決める大人になれ」
ジョルジュは、そう言ったのだ。
アンヌは、同棲のパートナーに、ここまで難詰(なんきつ)する。
「いない」
同棲のパートナーの答えも、あっさりとしたものだった。
スーパーの中で言い争ったこの一件で、二人の感情の離反は、少なくとも、アンヌの内面で不可避になっていったと思われる。
しかし、不特定他者との関係を極力、回避しているような人生をトレースするジョルジュには、アンヌの内面の変容が理解できない。
畜産で苦労する父との関係がそうであったように、特定他者との関係の中でも、相手の内面世界にまで決して踏み込まないから、理解しようと努力することがないのだ。
これは、「善悪論」の問題ではない。
彼には、このような「距離感」を取った生き方しかできないのだろう。
それもまた、一つの生き方だが、しかし、相当に覚悟を要する生き方であるに違いない。
自分が困った時、誰も救いの手を差し伸べてくれないリスクを抱えているからである。
アンヌの被った事件について、更に追っていこう。
そこに待っていたのが、最悪の事態だったからである。
最悪の事態とは、件の幼児が虐待の結果、逝去するに至ったこと。
映像の流れを読み解けば、それ以外に考えられない画像が提示されていた。
葬式のシーンがそれである。
「幼いフランソワーズは、主の御国に向かいました。いつの日か、我らにも、彼女同様に永遠の命を与えたまえ」
神父のこの言葉が、全てを物語っていた。
その葬儀にアンヌがいて、老婦人がいた。
葬儀を終えて、二人は無言のまま、帰路に就く。
とりわけ、老婦人の沈痛な表情があまりに痛々しい。
今にも崩れ折れそうな老婦人の瘦身を、アンヌが支えている。
鼻水が垂れそうなその顔からは、幼い命を救えなかった悔いの念が滲み出ていた。
しかし、老婦人は、自分の力で出来得る限りの行為を結んだのだ。
自分の力で救えない代わりに、若いアンヌに頼ろうとしたのだろう。
そのアンヌに問われて、嘘をついたとしても、幼児虐待の暴力と直接に関与する事態を回避するために、防衛的な行動を取っただけなのである。
アンヌもまた、彼女が出来得るベストの行動と言えないとしても、幼児虐待の暴力を防ぐための行為に結んだことは事実である。
虚構の世界で我が子を救うアンヌ |
それは、「人間が分り合うことの困難さ」をも包括して、「私権の拡大的定着」によって、「他者の不幸」=「自分の不幸」という、共同体社会の縛り(倫理感覚)が希薄になった先進諸国の共通する問題が内包する厄介さであると言っていい。
この厄介さが、本作のラストシークエンスの伏線となるが、これについては後述する。
4 居場所が存在しない女、白人社会に溶け込んでいく黒人青年
マリからの移民二世アマドゥのこと。
移民生活の厳しさを味わって、白人への恨みから愚痴を零す母、白人社会でのタクシードライバーの父の苦労、弟の虐め、聾唖学校に通う妹。
全て白人社会での適応に苦労する中で、アマドゥだけは積極的に白人社会に溶け込んでいこうとする青年だ。
コソボの写真でジョルジュが批判されるレストランで、白人女性と堂々とデートする。
本作の中で、唯一、「人間が分り合うことの困難さ」を克服せんと能動的に振舞うが故に、冒頭における正義漢ぶりを発現してしまうのである。
そればかりではない。
妹の通う聾唖学校で、生徒たちと共に太鼓を打ち鳴らす授業をサポートし、見事にハーモニーのとれた音楽の調和感によって、パラレルに進行する物語のラストシークエンスの渦中に、「人間が分り合うことの困難さ」に打ちのめされたヒロイン・アンヌの、不安と恐怖の閉鎖系のスポットに風穴を開けていくのである。
聾唖学校の生徒たちが打ち鳴らす太鼓の音だけが、この映画で唯一、心と心が重なり合って決定的な調和感を紡ぎ出していくのだ。
ところで、アマドゥによる正義感の発動によって、図らずも、ルーマニアに強制送還されたマリアについても、簡単に触れておこう。
ルーマニアに強制送還されても、生活の糧となる安定的な収入源がある訳ではない。
飲んだくれの夫に代わって、「出稼ぎ」に行く以外にないのだ。
帰郷を果たしても、「パリはどうだった」と知人に聞かれ、「4カ月間、学校で働いていた」などと嘘をつくマリアが、再び不法入国するに至った背景を知れば、もう彼女には、それ以外の手立てが存在しない現実を理解し得るだろう。
不法入国しても、繰り返し、屈辱を味わった体験を話すマリアの心痛が、観る者の心に共振してくるのだ。
結局、再び不法入国した彼女は、屈辱の物乞いに流れていく。
しかし、マリアの視界に収められたのは、かつて、そこで物乞いをしていた小さなスポットを、他の物乞いの女に占有されていた現実だった。
マリアは、自分が占有し得る小さなスポットを求めて、パリの街の一角を彷徨い歩く。
彷徨い歩いた挙句、漸く見つけた物乞いのスポット。
だが、そのスポットもまた、店員に目敏く目視され、追い返されてしまうのだ。
今やもう、この街には、マリアの居場所が存在しないのである。
既に、物語はラストシークエンスに入っている。
アマドゥ(注2)ら父兄らが中枢に位置し、聾唖学校の生徒たちが大きな一団と化して打ち鳴らす太鼓の響きが、映像総体を支配するBGMとなって、マリアの彷徨から、後述するアンヌの閉鎖系への逃避、更に、帰還場所を失ったジョルジュの孤独へと流れていく括りを包括してしまうのだ。
アマドゥと恋人 |
5 「アンヌの地下鉄体験」に集約される、被差別者としての移民に対する反転的な恐怖感
ここから、この映画で最も重要なシーンについて書いておきたい。
それがラストシークエンスの伏線になっているからである。
3分以上に及ぶこの長回しのシーンを、「アンヌの地下鉄体験」と呼んでおこう。
女優業で多忙を極めているアンヌが、アラブ系の二人の移民の若者に絡まれる恐怖体験―― それが「アンヌの地下鉄体験」である。
女優業で多忙を極めているアンヌが、アラブ系の二人の移民の若者に絡まれる恐怖体験―― それが「アンヌの地下鉄体験」である。
車両の一番端に座っているアンヌに、この二人の若者は執拗に絡んできた。
「トップモデルだろ?こんな地下鉄に乗ってるなんて。ところでお嬢さん、チンピラと話す?社交界の超美人だろ。反応ねえな。美人で横柄なんで疲れるんだろう」
二人の中でリーダーらしい男が、そんな厭味を言いながら、アンヌの隣りの席に坐り込んでいく。
心中で騒ぐ恐怖感を、できるだけ表情に出さないように努めていたアンヌは、彼らを無視するようにして、車両の反対方向の端の席に座った。
ところが、その男は他の婦人をからかいながら、「可愛いアラブが愛を求めている。他の車両に移る?俺が臭うからか?」などと言って、アンヌの座席の横につけてきた。
「俺が臭うからか?」という言辞には、明らかに、自分がいつも嘲罵(ちょうば)を浴びせられていることの憤怒の感情が張り付いているのだろう。
普段から溜め込んでいたストレスを吐き出す男が支配する車両には、多くのフランス人や移民たちが席を埋めているが、このような時に、いつもそうであるように、自分に矛先を向けられないようにして、彼らは無言の状態を続けている。
一瞥して、男との距離を確認する人々。
車両内には、アルピニスト風の若くて大柄な青年もいるが、無論、彼は何もしない。
できないのだ。
この状況で重要なのは、相手が複数であるという事実である。
複数を相手に注意するリスクを考えれば、ただ、見て見ぬ振りをして、事態を遣り過ごすしかないだろう。
それが、普通の人間の普通の反応であるからだ。
見て見ぬ振りをする行為が、日本人の特性のように思っている人が多いが、それは違うと言いたい。
「川崎容疑者逃走事件」に対する「体感治安」の敏感さ |
それは、人の心が「荒涼化」し、「優しさ」を失ったことを意味しないのだ。
前述したが、「他者の不幸」=「自分の不幸」という、共同体社会の縛り(倫理感覚)が希薄になったことの必然的現象であり、寧ろ、人の心は、より繊細になり、それ故に、かつて平気で無視してきたような末梢的な「事件」に対して、過剰に「体感治安」が敏感になっていくというのが正解である。
人の心が「優しさ」を失った時代という決めつけが、如何に乱暴な議論であるか、既に自明の理である。
物語を追っていこう。
車両内の乗客らが驚嘆する事件が惹起した。
再び、アンヌの隣りの席に無言で座っていたチンピラは、次の駅で止まった瞬間、いきなりアンナの顔に唾を吐いて、下車しようとしたのだ。
その時、一人のアラブ系の初老の男性が、チンピラの背後を足で蹴飛ばした。
彼は、自分の眼鏡をアンヌに預かってもらった上で、ゆくり立ち上がり、チンピラに「恥を知れ!」と一喝したのである。
アラブ人としての誇りを逆撫でする、この一喝に本気度を感じたのか、「何をしやがる!」と言うだけで、下車できなかったそのチンピラは、再び、アンヌの傍らに立って、何もできずに次の駅まで待っていた。
チンピラが何もできなかったのは、相手が同じアラブ系であったからというよりも、一喝する前の初老の男性の落ち着き払った行動にある。
下車できなかったチンピラの前にゆくり立ち上がった初老の男性が、眼鏡を外し、それを傍らのアンヌに渡す行為は、その直後の一喝に繋がることで、チンピラの攻撃性を削り取ってしまったのである。
この辺りの人間洞察力の凄みを見せる映像提示こそ、ハネケ映画の真骨頂である。
この予想だにしない出来事の後の沈黙は、完全に澱んだ空気を支配した初老の男性の、その圧倒的な存在感の大きさを際立たせる効果が生み出したものだった。
電車が駅に着いた瞬間、降車際に、そのチンピラは、「覚悟しておけ、また会おうぜ」と捨て台詞を残した直後、突然、「ワッ!」と大声を上げて、車両内に座っている乗客たちの度肝を脱ぎ、笑いながら下車していった。
「覚悟しておけ」という捨て台詞が、チンピラの敗北宣言であるのは言うまでもない。
ここでは、初老の男性に「ありがとう」と言うのがやっとで、すすり泣くだけだった。
それにしても、ハネケ映画の「描写のリアリズム」には感嘆する。
このような異常な事態に遭遇した二人、即ち、初老の男性とアンヌとの間に、全く会話がないのだ。
元々、見知らぬ他人であっても、異常な事態に関与した者同士が会話を繋ぐが自然であると考えるのは、邦画やハリウッドの限定的世界であると言っていい。
こんなとき、不自然な会話を繋げないのが、人間の心理の自然の発露であるだろう。
なぜなら、アンヌの心は、一方的に被弾された者の恐怖と屈辱の感情に塗れていて、とうてい、初老の男性との会話を繋ぐ精神状況ではなかったのである。
「アンヌの地下鉄体験」を精緻に描くこの状況を、「傍観者効果」の心理学で説明することが可能である。
即ち、「責任分散」(他者と物理的に近接することで責任が分散される)と、「聴衆抑制」(皆の前で恥をかきたくない)の心理学である。
この「傍観者効果」の心理学に、何をするか分らないと思わせる、複数のアラブ系のチンピラに対する恐怖感が張り付いていて、それで、多くの場合、自分に害を及ぶ危険性を回避しようと動くのである。
この現象は、どこの国でも、いつの時代でも普遍的に起こり得るものだが、この映画では、白人社会の中で差別されている移民に対する、反転的な恐怖感が強調されていている点が刮目に値する。
6 パリの街の見えにくい排他的な陰翳感を吹き払う、見事に調和された太鼓の律動感
完璧なラストシークエンス。
地下鉄で不良に辱められたアンヌが、沈み切った様子でアパートに帰って来る。
その後、同じ地下鉄車両で、刑法に抵触しないとは言え、プライバシー侵害の隠し撮りをしていた戦場カメラマン・ジョルジュが、タクシーで帰って来た。
いつものように、アパートの暗証番号を押すが、扉は開かない。
道路際に下がったジョルジュは、アパートの部屋を見上げて、アンヌが在宅していることを確認したのか、その脚で向い側の電話ボックスに向かった。
その電話ボックスからアンヌの部屋に電話をかけるが、留守電だったのか、反応がないので、すぐ諦めるジョルジュ。
仮に留守電だったとしても、留守録にメッセージを残さない彼の諦めの早さは、心のどこかで、アンヌとの関係の行き詰まりを感受していたのかも知れない。
結局、ジョルジュは何度も部屋の窓を見上げつつ、タクシーを探すカットが挿入される。
ここで映像は暗転し、物語の終焉を告げていく。
ここで切り取られたフラグメントで描かれたのは、明らかに、アンヌがアパートの暗証番号を変えてしまったという事実である。
映画の舞台になったサンジェルマン大通り・レ・ドゥ・マゴ(イメージ画像・ウィキ) |
彼女の中でジョルジュの存在は、今やもう、その程度の関係にまで降下してしまったのだろう。
この男に何を相談しても、「それは君の問題だ」と突き放されることが想像できるが故に、物理的にも心理的にも最近接の関係であったはずの対象人物との、コードの脆弱さを露わにするばかりだった。
既に、このシーンで、聾唖学校挙げての太鼓のBGMは消えているが、見事に調和された太鼓の律動感がポジティブに、且つ、パリの街の見えにくい排他的な陰翳感を吹き払うが如き、「コード・アンノウン」の縛りを突き抜けていくフォーマットに軟着する、比類なきハネケ映像の力技は圧巻だった。
そして、この映像はとっておきのラストカットを映し出す。
それは、一人の聾唖学校の生徒が、ジェスチャーと思しき手話で話すカット。
しかし、これは、ファーストシーンのようなジェスチャーではないと思われる。
手の動きや言葉の出し方を考えれば、恐らく、教科学習としてのジェスチャーの延長と決めつけるには無理があるからである。
表現する様子を表すだけのジェスチャー(手話の特徴である「模倣」に近い)と異なって、手話の場合、手や顔の動きを組み合わせて、言語として成り立つにも拘わらず、「手話は究極のジェスチャー」と言われるように、手話とジェスチャーは見分けがつきにくいのだ。
ただ、これだけは言える。
一人の生徒の動きを提示するファーストシーン |
しかしラストカットには、一人の生徒の咳が収録されているだけで、生徒たちの姿を映さない。
即ち、映像は、手話を理解できない圧倒的多数の私たち鑑賞者に向かって、この極めつけのカットを提示したのである。
ファーストシーンで置き去りにされた聾唖学校の生徒たちの真剣な眼差しは、ジェスチャーの体現者によって、手話による答えが容易に提示されることで、仲間内で自己完結するが、ラストカットの場合は様子が違うのだ。
私たち鑑賞者が、自ら学習努力しない限り、置き去りにされた状態を延長させてしまうのである。
因みに、わが国には「手話は言語である」という法律(「改正障害者基本法」)があるにも拘らず、聾唖学校で手話を教えることはなく、「口話法」(相手の口を見ながら、話の内容を理解する方法)で教えている。
だから、聾唖者の団体(全日本ろうあ連盟)は、「どこでも気がねなく、自由に手話が使える社会環境が作られること」を目的に、世界ろう連盟の運動の結晶であった、「手話言語法」の制定を目指して頑張っているのである。
ここで、私は勘考する。
この映画は、明らかに、「手話は言語である」という前提に立って描かれていて、それについて全く理解を示さない私たちに、シビアに問いかけてくる映画だったのではないかと。
即ち、聾唖者と健常者との間に横臥(おうが)する、「コード・アンノウン」という状態を延長してはならないというメッセージでもあったのではないか。
私はそう考えている。
(2014年4月)
0 件のコメント:
コメントを投稿