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2014年4月8日火曜日

明日の記憶(‘05)    堤幸彦


<「夫婦」という記号だけが置き去りにされた、一人の男と一人の女の物語>




1  屋上の縁に立って、不安の極点を身体表現する男を襲う悪魔の鼓動



いつも、それは唐突にやって来る。

唐突にやって来るから困惑し、動揺し、狼狽する。

狼狽してもなお、より深刻になる状況に翻弄され、内側で何かが煩く騒いで止まなくなる。

内側で確実に、しかも加速的に惹起する悪魔の鼓動を、それを乗せている脳の中枢が初めて捕捉するとき、殆どもう、手遅れの状態だった。

 悪魔の鼓動の正体は、若年性アルツハイマー病。

通常、65歳以上の高齢者の罹患が大半のアルツハイマー病(老年性アルツハイマー病)と違って、早くは20代、多くのケースの発症が40代から65歳とされ、現在、遺伝性の強い脳疾患仮説が主流になっているが、少なくとも生物学的には、脳内で分泌されているβ(ベータ)アミロイドと呼ばれる蛋白質が脳内で分解されず、それが蓄積される疾病であるという仮説が有力視されている。

その意味で、脳卒中によって神経細胞が決定的ダメージを被弾する脳血管性認知症と切れている。

しかし、何より深刻なのは全国に3万から10万人とも言われる患者が存在するにも拘らず、発症が働き盛りの時期に起こることであり、しかも、有効な治療法が存在しないという現実の圧倒的重量感・恐怖感である。

脳の神経細胞が委縮し、最終的に死滅してしまうという、由々しき生物学的現象によって惹起される知的能力の確実な、且つ、致命低下 ―― これは、本作の主人公が嗚咽の中で吐き出した、「俺が俺じゃなくなる」という事態が現実化する圧倒的恐怖以外の何ものでもないだろう。

その予兆はあった。

「打ち合わせの時間を忘れるなんて、長いサラリーマン生活で初めてのことだった。年のせいか?50を迎えるというのは、こういうことなのだろうか?」

本作の主人公・佐伯雅行自身のモノローグである。

 49歳で、広告代理店の営業部長を務める、企業戦士の代名詞のような男。

 そんな男が、少しずつ、しかし確実に、且つ、加速的に崩れていく。

 著名なハリウッド俳優の名前を忘れたり、車のキーを置き忘れてしまったり、結婚予定の一人娘と会うための運転中に、高速道路の出口を見過ごしてしまったり、等々。

激しい頭痛を訴えたのも、その際の運転中だった。

その疲労感で、娘と婚約者の前で、居眠りしてしまう始末。

この辺りでは、会社での激務が原因であると、本人も家族も考えていたが、更に、得意先の宣伝課長との打ち合わせの時間を忘れる事態が起こるに至る。

「申し訳ありません」

深々と頭を下げる佐伯。

「老化現象じゃない?」

得意先の宣伝課長に厭味を言われる始末。

ここで、冒頭のモノローグに繋がるのだ。

その一件で、本人の中で、それまでの自己の完璧な仕事との落差を意識化するようになるが、それが看過し難い違和感にまで把握されるには、その直後に惹起した出来事まで待つしかなかった。

社食の場で、頭の中がグルグル回転し、自分が置かれた状況の混乱に捕捉されてしまうのだ。

「部長、どうしたんですか?」

部下に言われても、未だ状況を把握できない男がそこにいた。

佐伯が、自ら医学事典を調べたのは、その夜のことだった。

佐伯夫婦
彼は「うつ病」や「不安神経症」の項目を調べるが、妻の枝実子から、毎日のように、シェービングクリームを買って来たことを指摘されるに及び、その妻に促され、重い腰を上げて、某大学病院神経内科を訪れる。


佐伯が、アルツハイマー病治療の専門の主治医から受けた診察は、長谷川式認知症スケールと呼ばれるもの。


「年齢」、「今日の年月日」、「曜日」などの質問を、佐伯本人に答えてもらうが、「ここはどこですか?」などと聞かれて、「子供騙し」の診察内容に、佐伯の忍耐も限界にきていた。

そんなとき、「単純な計算」、「数字を逆に言わせる」という発問をクリアしていった佐伯が先に記憶を求められた、「桜、電車、猫」の復唱に答えられず、ばつの悪そうな表情を見せる。

机の上に並べた品物を復唱させるが、ここでも躓(つまず)く佐伯。

診察が終了し、主治医からMRIの検査を求められ、佐伯は急ぐように部屋を出て行く。

「何なんだ、あの医者。人をバカにしているのか」

妻に不満を零す佐伯。

憤怒の表出によって、不安を押し込めているのだ。

しかし、佐伯が押し込めている不安は、会社の会議での場で露わにされていく。

部下のプレゼンに多用されるカタカナ言葉に、「もっと具体的に言え」と厳しく注意するが、それは、佐伯自身の集中力の劣化が苛立ちに変換されたもの。

頭痛、眩暈、目立った物忘れ、そして、このときの怒りっぽくなる行動など、全て典型的な若年性アルツハイマー病初期症状である。

 そして、遂にその日がやって来た。

MRI検査
主治医からMRIの検査の結果の説明を受ける日である。

磁場を利用して、脳などの生体を鮮明に画像化する高精度技術として、唯一の機械であるMRI検査の結果、佐伯は若年性アルツハイマーを告知される。

健常者とアルツハイマー罹患者の、脳内部の萎縮の違い、即ち、短期記憶の中枢を司っている海馬(大脳辺縁系に属する)の神経細胞が破壊され、顕著な萎縮が見られる事実を画像診断で指摘されたことで、最も恐れていた結果に動顛し、屋上に駆け上がっていく佐伯。

屋上の縁に立って、自殺の衝動に駆られても、恐らく、不安の極点を身体表現するだけの佐伯は、もう、それ以上先に進めない。
 
慌てて屋上に駆け上がって来た、妻と主治医。

「先生、若年性アルツハイマーって進行早いんでよね

 佐伯は学習済みだから、主治医に確認を求める。

 「早いケースもあります。ですが、それには個人差があります。ですから、一概には…

 ここまで言いかけた主治医の言葉を、佐伯は激しい言葉で遮った。

 「そんこと聞いてんじゃねぇんだよ!本、見りゃ分んだよ!そんなこと。な、先生。この病気ってさ、止める薬も治る薬もないんだよね」

 主治医の沈黙が、佐伯の言葉の正しさを能弁に語っていた。

 「だったらさ、あんた、ゆっくり死ぬんだって言ってくれよ」

 主治医は、自分の父が同じ病気であることを吐露した後、ゆっくりと冷静に語っていく。

 「佐伯さん、僕はこの仕事に就いて、まだ日が浅いですが、はっきりと分っていることがあります。人の死は、死ぬということは、人の宿命です。老いることも人の宿命です。人体というものは、最初の十数年を除いては、あとは滅んでいくだけなんです。でもだからと言って、何もできないわけじゃありません。もしかしたら、新薬だってできるかも知れない。とにかく今、僕にはできることがある。僕は自分ができることがしたい。それだけです。佐伯さんにも、自分にできることをして欲しい。あきらめないで欲しい」

 主治医のこの言葉は、とても良い。

 
 「人体というものは、最初の十数年を除いては、あとは滅んでいくだけなんです

 些か芝居じみているが、この言葉は、とても良い。

 「でもだからと言って、何もできないわけじゃありませんという言葉に繋がるから、医の倫理に適っていて、的確な表現に結ばれている。

 最後まで「先生」としての「上から目線」ではなく、どこまでも一人の人間として、患者として煩悶する男の心情を理解し、「今、できること」に希望を託して生きていくことの大切さを「共有」したいと願う思いが、観る者に伝わってくるからである。

 しかし、人生は甘くない。

 この主治医の視線がピュアであっても、他者の煩悶まで「共有」できないのだ。

 だから、男は絶望する。 
 

 「俺、俺が俺じゃなくなっても平気か?」

 屋上から降りていく階段にしゃがみ込んで、妻・枝実子に漏らした佐伯の言葉である。

 「俺、俺が俺じゃなくなっても平気か?」
「平気じゃないよ。私だって恐い」
「自信ねぇなあ、俺」
「だって家族だもの。私がいます。私がずうっとそばにいます」

寄り添いながら、嗚咽する二人。

ここまでの、前半の佳境を迎える物語には、映像総体の求心力の低下が見られず、観る者をして、「もし、自分が佐伯だったらどうするか?」という、とても他人事で済まされないような問題意識の共有を迫る訴求性が担保されていた。



2  「夫婦」という記号だけが置き去りにされた、一人の男と一人の女



「書いていた。気がつくと日記を書いていた。もし、今までの自分が消えてしまうのなら、何かを書き残しておかなければならないと思った」

佐伯のこのモノローグは、その直後に起こる、由々しき事態の伏線に繋がることを暗示していていることが分明だから、観る者は、テンポ良く流れていく物語に違和感を持つことなく入っていけるだろう。

ところが、モノローグの直後に起こる由々しき事態のエピソードに、私は違和感を持ってしまった。

この辺りから、物語の映画的処理に疑問を感じるようになっていくが、だからと言って、強制終了させるほどの乖離感とは違っていた。

そのエピソードは、以下のもの。

 
渋谷で迷った佐伯
通い慣れていたはずの渋谷で迷った佐伯が、会社に電話し、部下の女性に自分が行くべき場所を逐一指示されながら、慌てて駆け走っていくシーンのこと。

結局、佐伯は再び遅刻することになり、前回同様に、得意先の宣伝課長の前で謝罪一辺倒。

私の違和感は、このシーンに、不必要なまでにBGMが流れ込んできたこと。

そして、このシーンと言わず、この映画で気になるのは、心理的に追い詰められた男の内面風景を、表層的に音楽を被せていく描写があまりに多く、本来はBGMなしに済ませて、丹念に内面風景をフォローしていくことで、一人の男が抱え込んだ困難な問題を深く掘り下げていくという、地に足を付けた手法が効果を生むと思われるにも拘わらず、それが要所要所で、「全身ハリウッド的」な映像処理をする甘さが印象づけられたこと ―― これが、私の中で看過し難かったのである。

情緒的な音楽の多用が、すべて物語をダメにしたとは言わないが、相当程度、一点集中的な音楽の効果的な挿入を希釈・拡散させてしまった。

その後の物語を、簡単に追っていく。

 「病名を知ってしまった以上、お前を庇い立てするのは無理だよ」

佐伯が局長に呼ばれたときに、言われた言葉である。

「佐伯、希望退職って形でどうだ」

退職勧奨を求められた佐伯は、頭を下げて固辞する。

娘の結婚式までは、「ビジネスマン」という記号を外せないのだ。

結局、この記号に拘泥したことで、自己都合退職を余儀なくされた。

辞表を提出した佐伯は、既に退職理由を知悉している部下たちから、辞職を惜しまれながら、「ビジネスマン」という記号を自ら反古にしていく。

嗚咽の中での退職のシーンにもまた、感傷的なBGMの挿入があって、渡辺謙の思惑と乖離して、感動を意識させた作り方に多いに違和感を持った。

煩すぎるのだ。

以降の展開は、若年性アルツハイマーの夫の煩悶を全人格的に受容し、いたわりながらも、家計の維持の故に働き始める妻・枝実子と、留守番宅に閉じこもりつつ、近所にある陶芸教室に通うという、ルーティンを遂行するだけの日々を送る夫・佐伯との、殆ど予想された感情的齟齬と、その修復にストレスを溜めていく微妙な夫婦関係が特化されて描かれていくが、後述するように、不自然な描写が目立つのが気になる。

ここから、特化されて描かれていく夫婦関係が自壊する、ラストシークエンスをフォローしていきたい。

枝実子の同級生で、陶芸ギャラリーのオーナーをしている友人が、新たにオープンする店の店長を任せられてから、枝実子の帰宅が遅くなっていくことで、ストレスを溜めた佐伯は、思わず、妻に暴力を振るってしまう。

情動失禁(情動のコントロールができなくなること)の状態が顕在化してきたことで、佐伯は自らの意思で、枝実子の上司である友人から受け取っていた、認知症ホーム(あすなろナーシングホーム)のパンフレットを手に持って、意を決して訪ねていく。

青春期の佐伯が、恋愛の対象人格であった若かりし妻の幻覚に誘(いざな)われて、奥多摩での陶芸に励んでいた頃の窯跡に踏み入ったのは、認知症ホームへの訪問の帰路だった。


そこで、かつての陶芸の工房の師匠だった老人と再会し、その師匠の導きを得て、野焼きでマグカップを完成させるが、眼が覚めて、辺りを見回しても師匠の存在の形跡がなく、それもまた幻覚だったのだ。

「先生、先生!」

 呼びかけても、全く反応はない。

 「生きてりゃいいんだよ。生きてりゃ」

認知症を患っていると言う、陶芸の師匠が佐伯に残した言葉である。

 
佐伯と陶芸の師匠
言うまでもなく、本作のメッセージであろうが、「生きていることの、どうしようもない辛さ」を、間断なく被弾している者には、時には、あまりに残酷なメッセージにもなることを知らねばならないだろう。

 「人体というものは、最初の十数年を除いては、あとは滅んでいくだけなんです

 脊髄損傷者の私には、主治医のこの言葉の方が、遥かに親和感がある。

一切は、「人生の持ち時間」の多寡の問題として開き直れるからだ。

閑話休題。

「えみこ」と書かれた野焼きのマグカップだけは、そこにあった。

間違いなく、佐伯本人が、昨夜焼いたものだった。

佐伯は、それを愛おしそうに拾い上げて、山を下っていく。

ふと、眼の前に、仕事に出かけたときと同じ軽装姿で、枝実子が立っていた。

笑みで迎える妻。

しかし、夫は眼を下に向け、そのまま通り過ぎようとする。

怪訝な表情の妻。

 「あ、あなた」

振り返る佐伯。

二人は見つめ合うが、佐伯は妻を判別できないのだ。

 「どうしました?大丈夫ですか?」

 不思議な顔して凝視する枝実子に、同じトーンで反応する。

 「僕、駅まで行くんですけど、良かったら?」
 
 事情を察した枝実子の眼から、涙が溢れそうになった。

「はい」

懸命に堪えて、返事をする枝実子。

 そのまま、踵(きびす)を返して歩く夫の後ろから、付いていくしかない枝実子。
 
 「僕、佐伯って言います。佐伯雅行。あなたは?」

 後ろを振り向くことなく、初対面の女性と出会ったときの感覚で、問いかける佐伯。

 「枝実子って言います。枝に実る子と書いて、枝実子」

 嗚咽を堪えながら、反応する枝実子。

 「枝実子さんかぁ、良い名前だな」

 ここで、必死に堪えていた感情が突沸(とっぷつ)してしまう枝実子。

 恐れていた事態が、今、二人の思い出の場所で惹起してしまったのだ。

 号泣する枝実子。 


 それを、不思議そうに見るだけの佐伯。

 夫の視線を受け止めた枝実子は、再び、後方から付いていく。

 最後まで、枝実子は「一人の見知らぬ女性」でしかなかったのだ。

奥多摩の美しい緑の自然の中枢に、遠慮げに架かる吊り橋を、「夫婦」という記号だけが置き去りにされた、一人の男と一人の女が、ゆっくりとしたペースで渡っていく遠景ショットで捉える構図が、物語のラストカットになっていく



 3  「文学的ロマンティシズム」と「理想主義」の不必要なまでの侵入



渡辺謙はいい。

樋口可南子もいい。

共に圧巻の演技力だった。

映画も決して悪くない。

それにも拘らず、あまり心に残らない。

二度鑑賞しながら、同じような印象を受けたのである。

これは驚きだった。

本稿は、その辺りを批評の肝に据えて言及したい。

俳優たちが素晴らしい演技を表現しているのに、なぜ、心に残らないのか。

私は、その理由を、闘病発覚以降の後半の物語に、「文学的ロマンティシズム」(未読の原作のイメージと無縁な意味で)と「理想主義」が、不必要なまでに入り込んでしまったからではないかと考えている。

それによって、無駄な描写を削り取って、テンポ良く繋いできた物語の風景が変色してしまったこと ―― これが大きかった。

冒頭のシーン

加速的に若年性アルツハイマーが進行し、その表情からすっかり感情の表出が消えて、今や、車椅子に頼らざるを得ないほど劣化した筋力を露わにする冒頭のシーンのうちに、重篤な疾病に冒された主人公の現在が映像提示された物語が、後半の変色した風景を包括的に収斂させていく着地点に上手に繋がり切れていないのだ。

その辺りが、「文学的ロマンティシズム」と「理想主義」の侵入によって物語を支配していくことで、最も肝心な「自我の死に至る病」の激甚な破壊力を、相当程度薄っぺらなものにしてしまったのではないか。

要するに、本作で描かれる重篤な疾病との真っ向勝負を避けてしまったという印象を拭えないのだ。


まず、前者の「文学的ロマンティシズム」。

これは、奥多摩のシーンに集約されると言っていい。

娘の結婚式のスピーチ
仮に、娘の結婚式の問題があるにせよ、部長待遇としての勧奨退職手当を棒に振ってまで、26年間の「ビジネスマン」という記号に拘泥した男が、結局、自己都合退職を余儀なくされた挙句、「ビジネスマン」という記号と全く無縁な「非日常の日常」を強いられ、殆ど家の中にこもり、散歩や陶芸教室など、限定されたルーティンの狭隘な枠内に閉じ込められてしまう。

当然、自分が置かれた状況把握の喪失症状である、「失見当識」という認知症の中核症状が発現するリスキーな状態下で遠出の外出をしたばかりか、既に幻覚の世界に捕捉され、完全に退行した症状を現出させてしまうのだ。

普段は家の周辺しか出かけない若年性アルツハイマーの夫が、行方不明とも言えるような状況に呑み込まれてしまったのだから、妻の心配は尋常である訳がない。

常識的に考えれば、捜索願を出すケースだろう。

認知症の捜索願の問題が、如何に深刻な事情を抱えているか自明である。

ところが、佐伯の妻・枝実子は、その伏線描写が提示されていないのに、夫の行方を特定できたような気分で、30年近い昔の思い出を残すだけの奥多摩の山道に、軽装の格好で踏み込んでいくのである。

不安や恐怖で炸裂しそうな感情に捕捉されていたと考えられるにも拘わらず、その辺りを表現することなく、奥多摩で一泊していることさえ確証できない夫を、一見、落ち着き払った態度で迎えにいくという設定。

何より理解し難いのは、店長を任されて、多忙な勤務に出かけたときの軽装姿の枝実子が、その日、どのような行動を繋いでいたのかという肝心な点が描かれていないのだ。

この時点で、枝実子は、「あすなろナーシングホーム」という名の、「認知症のホーム」のパンフレットが消えている事実(注)から類推し、夫がそこに行ったと信じたに違いないとも思えるので、そのホームに電話連絡して確認すればすぐ分ること。

その結果、夫がホームに訪ねても、そこに宿泊していない事実を知ったならば、捜索願を出すのが常識であるだろう。

しかし、その形跡もなく、翌日になって、奥多摩に向かうという行為の振れ方には説得力がないのである。

恐らく、心配のあまり、一睡もしないで、不安と恐怖の葛藤に怯えていたと想像するに難くないが、だったらなぜ、そのカットを挿入しなかったのか。

このように、今にも、愛する夫が壊れそうな危うい状況下での振舞いこそ、まさに、「非日常の日常」の事態に立ち会ったときの妻の内面風景のリアルな描写ではないのか。

このラストシーンの不自然さに、正直、私は驚きを隠せない。

これは、明瞭に文学のフィールドであると言っていい。

あまりに都合良く、予定調和的に収斂されていく物語への違和感は、ファンタジーとも思しき、「文学的ロマンティシズム」の世界への丸投げの印象を拭えないのだ。

間断なく流されるBGMのサポートを得て提示された映像は、殆ど単純なハリウッド映画そのものだった。

奥多摩の窯跡
そもそも、奥多摩のシーン自体が要らないのではないか。

佐伯の退行と枝実子に対する認知の自壊、それに、幻覚の中での、かつての陶芸師匠の、「生きてりゃいいんだよ。生きてりゃ」という基幹メッセージは、「非日常の日常」の状況下で、幾らでも代替可能である。

少なくとも、「文学的ロマンティシズム」によって物語を占有させることで、適正サイズのリアリティを壊してしまうより、遥かに映画的な構成が保持し得たと考えられないだろうか。

独断的に言い切ってしまえば、既に幻覚の世界に捕捉され、完全に退行した佐伯が、拠って立つ現実自己を喪失するこの決定的なシーンが開示するのは、若年性アルツハイマー病の進行過程を特化して、それを的確な映像提示によって表現し得ずに、単にストーリーをフラットに追っていくだけで、そこに、俳優の熱演を小器用に嵌め込んでいく演出手法が印象づけられてしまったのである。

 次に、「理想主義」の問題について。

 これは簡単なこと。

 
娘からの電話を受ける夫婦
妻・枝実子が理想形に描かれ過ぎていること。

 これに尽きる。

思うに、高齢者の認知症罹患者と切れて、未だ腕力の劣化が相対的に低いため、暴力、暴言、抑うつ、せん妄(幻視や突発的興奮)など、BPSDという認知症の周辺症状が暴れ捲る、若年性アルツハイマー罹患者を介護する者が繰り返し被弾する、言語に絶する煩悶や懊悩が精緻に表現されていないのだ。
 
「非日常の日常」を強いられた、重篤な認知症罹患者の徒(ただ)ならない危うさは、殆ど爆弾を抱えた者の顕著な緊張感が漂流しているのに、手元不如意の経済的理由があるにせよ、全て「病気のせい」という感じで、多忙な勤務に追われるという二重の負担(認知症の中核症状が発現するリスキーな状態下での献身的介護と、経済的自立の負荷に随伴する、店長という重責の勤務の継続化)を、他者の援助のない一人の妻が引き受けるには、あまりに非現実的過ぎる。

援助のない介護について書けば、退職後、父のアルツハイマー病の情報を共有しているに違いないのに拘らず、その父の介護に四苦八苦する母を見て、深く心配し、案じる娘のシーンがカットされているのは明らかに不自然であり、これは、「会社人間」としての父からの愛情不足があったとしても、既に、結婚式のスピーチや、それ以降の父娘の温和な触れ合いを想起すれば、突然、映画から姿を消す娘夫婦の描き方は粗雑過ぎないか。

孫が産まれて幸福な家族のイメージ
それが、母の負荷を軽減するための、娘からのアウトリーチのシーンが捨てられてしまうことで、一切を夫婦の問題に特化させてしまい、後半のシークエンスに勝負をかける作り手の狙いだったのか不分明であるが、こんな何気なくも、若年性アルツハイマー病患者を介護する者の、その厳しい〈状況性〉を描くことの重要性を丹念に拾い上げるべきだったのではないか。

「展開のリアリズム」との真っ向勝負を回避した、メロドラマへの収斂の物語に大いに違和感を抱くのは、それが、「映画的仮構性」の所産という範疇を逸脱していると思えるからである。


「展開のリアリズム」について言及したついでに、「描写のリアリズム」の粗雑さについても言及したい。


映画の「あすなろナーシングホーム」の最寄り駅が「三つ峠駅」(これは、明瞭に映像提示されていた)であったにも拘らず、この地点からどうして、若年性アルツハイマー病患者の主人公が、奥多摩の山里の険しい道に入り込むことが可能だったのか。

たとえ個人差があると言えども、見当識障害とは全く無縁な、主人公の帰路の些か軽快な山下りも含めて、迷路でのせん妄を払拭し切った態度形成が映像提示されるに及んで、これは充分過ぎるほど「文学的ロマンティシズム」の氾濫であった。

三つ峠駅(ウィキ)
何か、「映画的仮構性」という便利な処理で、「些細な問題」として蹴飛ばされたような思いが、「鑑賞者を舐めるな」という気分にさせるものだったことは事実。

 映像総体として決して悪くないのに、残念と言う外にない。


(注)封筒に入っている「あすなろナーシングホーム」のパンフレットを、若年性アルツハイマー病の進行が際立ってきた佐伯が発見したこと、更に、他人に聞きながらであったとしても、その場所に電車で行く行為の困難さの問題が気になる。或いは、夫がホームに向ったという事実を、枝実子自身が本当に確信を得ていたのかという点について不分明であるが故に、なぜ、このような重要な描写を捨てたのか不思議という外にない。



4  「自我の死に至る病」の激甚な破壊力を希薄にすることで失う「完璧なるリアリズム」



ここまで辛辣に書いてきたので、敢えて批評を加えたい。

私が気になったのは、恰も、それが若年性アルツハイマー発症の因子に関連付けて描いているとまでは思えないが、若年性アルツハイマーを宣告されて以降、家庭を顧みない会社人間としての自分の過去を、繰り返し妻から指弾され、抑うつ的な状態の中で自分を責めるシーンが、何かそこだけ特化されて描かれている点である。

極論すれば、経済優先の社会の中で、家族で惹起する多くの問題を全く顧みず、「ビジネスマン」という記号を執拗に繋いで生きてきたことの、累加された「負の産物」が、認知症を引き起こすとも解釈されるような情緒的なメッセージが垣間見えたこと。

陶芸に励む佐伯
仮に、ストレス過多が発症因子となったとしても、一方で、伸び伸びと陶芸に励む心の余裕こそ、現代人が最も失った価値として対比させる、お馴染みの「自然回帰志向」の情緒的なメッセージを張り付けた印象を拭えないのだ。

本来、この二つの因果関係が判然としていないのにも拘らず、それを敢えてリンクさせるメッセージを送りたかったのか、その辺りも中途半端なので、何とも消化不良を起こしてしまうのである。

「難病ものを描いたとしても、よくありがちな、つらく悲しく泣いて終わりという作品にはしたくなかったんです」

 これは、「原作にほれ込んで、主人公を演じたいと思うほど、原作に魅力を感じた理由は?」と問われたときの渡辺謙の答え。

彼は言う。

「衝動とか、そんなに燃えたぎるものではなかったんですが、ただ、本を読んだ後、心の中がすがすがしく温かくなれたんですよ」

「心の中がすがすがしく温かくなれたんですよ」という思いは、彼の闘病の個人史と重なって充分に想像し得る。

渡辺謙(ウィキ)
いや、だからこそ、「すがすがしく温かくなれた」と印象づけられる「闘病映画」を作りたかったのかも知れない。

しかし、物語で拾い上げたエピソードを観る限り、主人公の情動氾濫だけで処理されてしまっていて、「前頭葉の致命的な器質障害」に起因する、失見当識から始まる「認知能力の崩れ」が、「自分が何者であるか分らない」=「自我の崩壊」に降下していく恐怖を、そこだけは一貫して、「完璧なるリアリズム」で再現することなしに、「すがすがしい温かさ」を表現しても、単に「重いテーマ」を希釈・拡散させることで、若年性アルツハイマー病が抱える根源的問題から乖離するという逆効果を生むリスクを高めてしまうのではないか。

それは、観る者の不必要なまでに過剰な、「同情」や「憐憫」を生むだけではないのか。

いみじくも、エリック・トレダノ 、オリヴィエ・ナカシュの共同監督によるフランス映画、「最強のふたり」(2011年製作)の主人公の頸髄損傷患者が、「同情しない」介護者を選んだように、介護の現場では、「同情は上から目線」なのである。

要所要所で、取ってつけたような感動譚を嵌め込むのは自由だが、どうしてもそこだけは譲れない、最も肝心な場面での「完璧なるリアリズム」で描き切る覚悟なしに、「闘病映画」を作らない方がいい。

まして、センチメントが入り込んだ「闘病映画」など作らない方がいい。

ヒューマン・コメディーの筆致で描きながら、そこに安直なセンチメントが入り込まなかったからこそ、「最強のふたり」は意想外に、観る者の「心に残る」映画になったのである。

前述したように、「文学的ロマンティシズム」と「理想主義」の侵入で物語を支配していく映画の怖さを、私たちはよくよく考えるべきであろう。

堤幸彦監督
若年性アルツハイマーという、「自我の死に至る病」の激甚な破壊力を薄っぺらなものに描いてしまうことで失う「完璧なるリアリズム」を、果たして、エグゼクティブ・プロデューサーを兼務した渡辺謙が選んだ堤幸彦監督が、正確に熟知し、覚悟し得ていたのか。

最後まで、私の中で疑問が残った次第である。

思うに、私は未だに、「完璧なるリアリズム」で描き切った、野村芳太郎監督の「震える舌」(1980年製作)を越える「闘病映画」と出会ったことがない。

私の中では、「震える舌」こそ、日本最強の「闘病映画」であることを確信している。

つくづく、「闘病映画」の構築的な難しさを感受する思いである。


(2014年4月)

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