1 「12人の使徒」に贈る、「最初にして、最後の晩餐」という極上の「お伽噺」
この映画は、粗食を旨とせざるを得ない共同体の内実が、いつしか劣化させていた「信仰」と「共食」の文化の日常性を、唐突に侵入してきた非日常の「美食」の文化が1回的に、しかし、それが内包する熱量の圧倒的な凄みの内に包括し、それらが融合することで、本来、そこに息づいていた心地良き共同体のエキスの結晶に変換させていく「お伽噺」である。
「12人の使徒」に贈る、「最初にして、最後の晩餐」のイメージをも被す、大人の「お伽噺」である。
それも極上の「お伽噺」である。
その極上の「お伽噺」の中で、伝統的な文化の劣化を防ぎ、本来、そこに息づいていた風景の復元を切望するマーチーネとフィリパ。
貧しい小村の牧師館で、神に捧げる人生を送る老姉妹である。
しかし、この老姉妹は、「善良な行い」を遂行する日常性で繋がっているから、「精霊」が棲み込む必要性がないほどだった。
それでもなお、風景の劣化を防ぎ切れない、自分たちの無力感を晒すばかりだった。
そんな折に、「革命」が起こった。
非日常の「美食」の文化を持ち込むことで、風景を決定的に変容させる「革命」である。
この「革命」の主体は、マルクスやエンゲルスが「プロレタリア独裁」と呼び、彼らの共産主義運動に大きな影響を及ぼした、「パリ・コミューン」という名の、その暴力的な風景の被弾者であった一人の女性だった。
極上の「お伽噺」を持ち込んだ、その女性の名はバベット。
バベットの「革命」は、風景の「革命」だった。
「プロテスタント」と「カトリック」に共通する、キリスト教の「三位一体」で言われる「精霊」こそ、バベットのイメージに最も相応しい。
だから彼女は、その神から得た全ての財産をつぎ込んで成就させた、1回限りの「晩餐」という名の「無血革命」の後、神に捧げる一生を繋ぐ老姉妹との「共生」を望んだのである。
「最初にして、最後の晩餐」の、そこだけが特化された時間を終焉させ、「芸術家の心の叫び」を表現し切った今、不運な老姉妹の小さな宇宙の温和なる世界の只中に、質素な生活にも馴致し得る「精霊」が棲み込むに至ったという訳である。
以上が、私の本作に対する基本的把握のコンテキストである。
宗教色の濃度の高い映画だから、こんな奇矯な解釈も許されると思って言及した次第である。
極めて独断的なこの私の問題意識に沿って、この畢生の名画を読み解いていきたい。
2 神の天罰を恐れる「魂を危険に晒す魔女の饗宴」への共同戦線
首都コペンハーゲン(シェラン島)がそうであるように、周辺の多くの島々を従えるように北に伸び、唯一、ヨーロッパ大陸と陸続きになっているデンマーク王国の、ユトランド半島の小さな漁村の一角に、ルター派の厳格なプロテスタント牧師が住んでいた。
マーチーネとフィリパ。
カトリック司祭と違って、女性牧師を正式に認めているプロテスタントにおいて、件の牧師の後継者と運命づけられた人生を歩む姉妹の中で、マーチーネが恋をする。
マーチーネに一目惚れした、そんなローレンスが失恋するに至ったのも、姉妹の父の存在だった。
一方、失意の念深く、村を去っていったローレンスに代わるようにして、ストックホルム公演の際に、ユトランド半島に観光気分でやって来た、フランス人バリトン歌手のアシール・パパンが妹フィリパに恋をし、毎日のように、歌のレッスンを始めていくが、姉の悲恋を目の当たりにしたフィリパは、男女感情を持ち得ない相手から、自ら身を引くに至る。
時は、ナポレオン戦争に巻き込まれたことで、400年間余続いた「カルマル同盟」(デンマーク,ノルウェー,スウェーデン間で締結された同盟)が崩壊し、更に、プロイセン王国とのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争に敗れて、北欧の没落を体験したデンマークが小国へと転落し、経済が危機的状況に瀕してまもない頃の19世紀後半。
そんな折、パパンからの手紙を持参して、憔悴し切った一人の女性が姉妹を訪ねて来た。
暴風雨が吹き荒れる夜のことだった。
手紙によると、彼女の夫と子供は殺され、彼女も処刑の危機に直面し、ユトランドに住む姉妹のことを思い出したので、料理の名手である彼女を何とか助けて欲しいというもの。
命からがら、フランスから遠路遥々、ユトランドにまで逃げ伸びて来た彼女を追い返すこともできず、姉妹は彼女を保護するが、家政婦として雇うだけの経済的余裕がない旨、本人に伝えると、無給でいいから置いて欲しいという彼女の懇願を受容する姉妹。
爾来、彼女は姉妹の召使いとして真面目に働き、馴れない土地の言葉を覚え、質素な生活のスタイルに同化していく。
バベットという名の彼女の不幸のルーツは、1871年3月に起こった「パリ・コミューン」。
パリ・コミューン(ウィキ) |
そんなトラウマを抱えたバベットがユトランドに来てから、14年が経過した。
今や、バベットとフランスとの繋がりは、パリの友人に買ってもらう宝くじのみ。
だから、特徴的なユトランド訛りを持つと言われるデンマーク語を覚え、何もかも異文化の風景に満ちた、冷涼だが、ユトランドの起伏に乏しい緩やかな丘陵に、彼女なりの秀でた才能で最適適応していく人生を選択仕切るのだ。
一方、老姉妹が拠って生きる、小さな宇宙の温和なる世界で、その異文化の風景にささやかだが、決して看過できない変化が起こっていた。
「信仰」と「共食」の文化の日常性を繋いできた村人たちが老化するにつれ、末梢的な出来事で諍いを常態化させていたのである。
深く心を痛めた老姉妹が、皆の心を一つにしようと思いついたのが、「全身牧師」の亡父の生誕百周年を機に、質素な晩餐を主催することだった。
質実な暮らしにすっかり順応したバベットの、フランスとの唯一の繋がりであった宝くじが幸運にも当ったのは、そんな折だった。
それも、1万フランという大金の当りくじ。
独りで考えを巡らしながら、バベットが出した結論は、生誕百周年の晩餐を自ら仕切り、フランス料理を作らせて欲しいというものだった。
しかし、バベットのこの提案が具体化されていく風景を目の当たりにして、狼狽する老姉妹。
バベットが本国・フランスから次々に取り寄せる料理の材料の贅沢さに、老姉妹ばかりか村人たちも動揺を隠せないのだ。
そんな村人たちに、必死に弁明する姉のマーチーネ。
「悪気はありませんでした。バベットの望みを叶えたかったのです。こんなことになるとは、思いも寄りませんでした。魂を危険に晒す羽目になりました。災いを招きそうです。何を食べさせられるか分らないのです。許して下さい。父に何と言ったらいいか。父が見ているようです。娘たちが家を差し出そうとしている。魔女の饗宴に」
ここまで言い切るマーチーネにとって、「信仰」と「共食」の文化の日常性を復元させようとする催しは、質素な晩餐の柔和なイメージを壊す、「魂を危険に晒す魔女の饗宴」以外の何ものでもなかったのである。
「わしらは何も言うまい。食物についてはな」
「お二人のために誓おう。何があろうとも、食べ物や飲み物の話は決してしないと。どんな言葉も口にすまい」
「舌。この不思議な小さな筋肉は、人の誉と栄光と偉業を称えるもの。でも一方では、手に負えない毒の塊だわ。牧師様のお祝いの日には、舌をお祈りに使いましょう」
「全員、味覚がないみたいに振舞おう」
これらの言葉は、そこに集合した村人たちの率直な反応だった。
フランスから次々に取り寄せる料理の材料 |
この恐怖のイメージから身を守るために、今、村人たちは手を繋ぎながら、聖歌を歌い、士気を高めていく。
村人たち一同は、「魂を危険に晒す魔女の饗宴」への共同戦線を張っていくのである。
それは、紛れもなく、神の天罰への恐怖に対する、極めて分りやすい防衛戦略の発動だった。
3 「食事を恋愛に変えることのできる女性」の最高表現力
その日がやって来た。
その中には、かつてマーチーネとの悲恋を経験したローレンスが、遠路遥々やって来て、特別な晩餐の場に同席している。
マーチーネとの再会が目的なのだ。
当然、この晩餐に対して、「魂を危険に晒す魔女の饗宴」などという認知とは無縁である。
だからこそと言うべきか、将軍にまで栄達を遂げ、御者を随伴したローレンスの貫禄は、一際(ひときわ)異彩を放っていた。
彼もまた、村人たちには、異文化の臭気を放つ外部世界の「何者か」であったに違いない。
しかし、凛とした態度が放つ、その「何者か」の存在なしに、破壊的な異文化への恐怖のイメージである、豪勢なフランス料理への取っ掛かりが掴めなかったのである。
聖歌を歌い、覚悟を決めて、「魔女の饗宴」に待機する正装を身に付けた村人たち。
テーブルクロスにアイロンをかけ、燭台、ナプキン、食器など、豪奢なテーブルウエアがすっかりセットされた。
「用意ができたって」
「皆さん、食卓に付きましょう」
覚悟を決めたマーチーネの反応によって開かれる、「魂を危険に晒す魔女の饗宴」。
今まで見たこともない料理が、バベットが用意した優雅な食卓に並んでいた。
食前酒が注がれ、いよいよ、フルコースの食事が始まるのだ。
「いいかね、味わってはならん。牧師様の言葉を唱えよう」
村の長老のこの言葉が滑稽に聞こえないほどに、「魔女の饗宴」を前にして緊張が高まっていく構図は、落ち着き払ったローレンス将軍との対比効果が極まっていて、充分に映画的だった。
ローレンス将軍の馴致した振舞いに倣って、スープを一斉に飲み、次にワインを口にするという具合。
「これは驚いた。アモンティラード(注1)だ。しかも、これほどの物は初めてだ。紛れもなく、本物のウミガメのスープです。しかも、何という味だ」
ローレンス将軍は絶品のワインと、美味のスープに驚く。
村人たちの表情も緩み、フランス料理の美味に、否応なく反応し始めていく。
「ブリニのデミドフ風だ」
キャビアを乗せて食べる、ブリニ(注2)のデミドフ風に驚嘆する将軍。
これは、シャンパンを口にして、「まさしく、ヴーヴ・クリコの1860年物ですぞ」と長老に話しかけるたときの反応だが、その的外れな答えは、以下の言葉。
「そうですな。明日は一日中雪になりそうだ」
この反応には、「何があろうとも、食べ物や飲み物の話は決してしない」というルールがあることを見逃してはならないだろう。
一貫して、「手に負えない毒の塊」としての舌が、とろけるような美味を感じ取っていても、最後までその美味しさを言葉に結ばないが、村人たちは充分に、唐突に侵入してきた非日常の「美食」の文化を味わっているのだ。
「牧師様に会った日のことは、忘れられん。あの日の説教もだ。わしはろくでなしで、飲んだくれだった。だが、良い信者になろうと努力したよ」
あれほど諍(いさか)いが絶えなかった村人たちの中から、こんな言葉が発せられ、その言葉を聞き、かつて将軍と恋に陥りそうになった、マーチーネの表情から笑みが漏れている。
「食事を恋愛に変えることのできる女性」
これは、ウズラのパイ詰め石棺風の料理を口にしながら、パリで有名な「カフェ・アングレ」の店にいた女性シェフがいた話をした際の、ローレンス将軍の言葉。
「情事と化した食事においては、肉体的要求と精神的要求の区別がつかない」
笑みを浮かべるフィリパ。
将軍のレクチャーは、ここで頂点に達する。
「慈悲の心と真心が、今や一つになった。正義と平和が接吻をかわすのだ。心弱く、目先しか見えぬ我らは、この世で選択をせねばならぬと思い込み、それに伴う危険に備え、おののく。我々は怖いのだ。けれども、そんな選択など、どうでもよい。やがて、眼の開く時が来て、我々は理解する。神の栄光は偉大であると。我々は、心穏やかに、それを待ち、感謝の気持ちで受ければ良い。神の栄光は均しく与えられる。そして見よ。我々が選んだことは、すべて叶えられる。拒んだものも与えられる。捨てたものも取り戻せる。慈悲の心と真心が一つになり、正義と至福が接吻をかわすのだ」
映画のエッセンスが詰まったような言辞の後は、晩餐後のフィリパの独唱。
昼の光が消えて
夜の帳が下りる
今が我らの休息の時
神は光の中に住む
天の国を統(す)べ給う神よ
影の谷で我らを照らし給え
我らが命 やがて尽き
夜が昼に取って代わる
世の栄光も 最後の時を迎え
日は短く 過ぎゆく時は速い
神の光よ 永遠なれ
我らを天へ導き給え
フィリパの歌を聴き入る村人たちの中で、今や、つまらぬ諍いを繋いでいた時間が浄化れ、この特化された空間が、神に仕える者たちの思いの結晶になって、「正義と平和」によって成る共同体を復元させていく。
「いつ、どこにいても、あなたと一緒でした。それは、ご存じでしたね?」
「ええ。存じてます」
「これからも毎日、あなたと共に生きる。それもご存じですね。夜ごと、あなたと食事する。肉体がどんなに離れていようと構わない。心は一緒です。今夜、私は知りました。この美しい世界では、すべてが可能だと」
マーチーネに吐露するローレンス将軍の内側には、若き日の「絶対経験」が時間の壁を超えて、「美しい世界」という幻想を恒久化する情感が結ばれているようだった。
一途に思いを込めた、変わらぬ愛の言葉を置き土産にして、かの将軍は、ユトランドの特化された牧師館を後にした。
晩餐に出席した村人たちの全員が手を繋ぎ、大きなサークルを作り、聖歌を歌った後、三々五々、自宅に引きあげて行った。
このマーチーネの笑みを湛えた言葉に、バベットは静かに反応する。
「私は、カフェ・アングレの料理長でした」
「あなたがパリに戻っても、このことは忘れないわ」とマーチーネ。
「パリには戻りません」
「パリには戻らないの?」とマーチーネ。
「私は戻れないのです。すべて失いました。お金もありません」
「お金がない?あの1万フランは?」とマーチーネ。
「使いました。カフェ・アングレの12人分は、1万フランです」
「でも、バベット。私たちのために、全部使ってしまうなんて」とフィリパ。
「理由は他にもあります」
「貧しい芸術家はいません。お客様を幸せにしました。力の限りを尽くして・・・パパン氏がご存じです。」
「アシール・パパン」
パパンの名を聞いて、驚くフィリパ。
「彼が言いました。“世界中で芸術家の心の叫びが聞こえる。私に最高の仕事をさせてくれ”」
「でも、これが最後ではないわ。絶対に最後ではないわ。天国で、あなたは至高の芸術家になる。それが神の定め。天使もうっとりするわ」
そう言って、フィリパはバベットを優しく抱擁する。
これが、印象深い映画のラストカットだった。
4 晩餐という特化された時間のうちに、「芸術家の心の叫び」を表現し切った名画の訴求力
「12人の使徒」に贈った「最初にして、最後の晩餐」のイメージを被した物語のメタファーをどのように受け止めようとも自由だが、「バベット」という名の「精霊」によって支配された、この特化された時間のうちに、「芸術家の心の叫び」を表現し切った名画の訴求力が絶大だった事実だけは否定しようがないだろう。
思うに、神によって与えられた1万フランを得た、「バベット」という名の「精霊」は、その神の使命に沿った行為を結ぶことで、劣化した共同体を復元させる役割を果たすために動き、それを決定的に成功させるに至る。
自らに与えられた使命を自己完結させたバベットは、今や、老姉妹の懐に潜り込む「精霊」として、新たな人生の1ページを繋いでいくのである。
それが、非日常であることによって、眩いほどに輝く精神的悦楽をも分娩し、それが、限りなく質素な日常性を繋いでいた人々の心に、累加されていた負性の感情を浄化する。
日常の中に、ほんの一時(いっとき)、このような非日常の悦楽が侵入することで、人々の心は、より善き方向に変容していくのである。
まさに、芸術の域に上り詰めた食文化の包活力の凄みが、そこに炸裂したのだ。
思うに、寒冷地の欧州北部には、近年まで麦は収穫されず、当然の如く、人口増加も見られなかった。
寒冷地の欧州に、南米から渡来してきたじゃが芋によって、彼らの食生活に「天の助け」とも言うべき風景が開かれたことは、殆ど革命だったと言っていい。
そんな寒冷地の欧州北部に、尖った地形で一際目立つユトランド半島の先端部は、平坦な土地に北海からの強い偏西風が吹き荒れる、冷涼な気候の大地である。
ここに、極めて印象的なレポートがある。
「プロテスタントのデンマーク人にとってもともと食は、生命を維持するもので喜びでなかったこと、冬は悪天候が続くため、新鮮な野菜を購入することが難しくスーパーで販売されている冷凍食品に頼らざるを得ないこと。幸福大国のデンマーク人にとって食が意味するものは『共生の精神』だったのです」(ブログ・「幸福大国デンマークのデザイン思考/デンマーク人にとって食とは何か?」より)
これを読む限り、映画の舞台になった、19世紀後半のユトランド半島の人々の質素な生活と、粗食を旨とせざるを得ない共同体の内実が手に取るように分る。
同時にそれは、プロテスタント特有の生活風景を想起させるに充分だった。
彼らが拘泥する「信仰」と「共食」の文化依存度の高さは、当然ながら、寒冷地の欧州北部の厳しい環境が生んだのだろうが、自然の恩恵を受容し、感謝の心を忘れない精神文化の中に形成された、ごく普通の日常性なのだ。
そう思わざるを得ない説得力が、映画を通して、ひしと伝わってきたのである。
(2014年3月)
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