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2014年3月9日日曜日

南極料理人(‘09)   沖田修一


<美食の本質は「不在なる食」との再会の欣喜にあり ―― メッセージコメディの傑作>




1  俳優たちが伸び伸びと演技する人間模様の風景の圧巻



コメディとして完全受容し、観ることができなければ、「アウト」と言われるような典型的な作品。

私は完全受容し、観ることができた。

だから存分に楽しめた。

ただそれだけのこと。

ただそれでけのことだが、このようなコメディと付き合っていくには、鑑賞スタイルに張り付く観念系の余分な贅肉を削り落し、軽量化した気分の状態で、その映画を心の底から楽しめるかどうか ―― それが全てだと、私は考えている。

コメディに、見当外れのモラルを過剰に持ち込むことの厄介さ。

これには注意したいものである。

ここで、沖田修一監督のこと。

沖田修一監督の映画は、「キツツキと雨」(2011年製作)と、本作の2本しか観ていないのに、分ったようなことは書くたくないが、少なくとも、この2作品と監督インタビューの言葉などを通して受ける、私の率直な印象を言えば、以下に言及する4点によって、私は、この若い監督の技量を非常に高く評価している。

その1  基本・コメディラインの範疇であったとしても、林業労働者の置かれた社会的状況の厳しさとか、「ニワトリ症候群」(注)と言われるほど、「共食文化」の顕著な劣化による現在家族の様態など、幾らでも社会派的なメッセージを被せた映画を作るのができるのに、この2作品には、そんな暑苦しいベタなメッセージが入り込む余地が基本的に排除されていたということ。

その2  両作品とも、主要登場人物の「別離の感動譚」を確信的に削り取っている点に象徴されるように、基本・ハートウォーミング系の作品であるにも拘らず、観る者の姑息な感動を狙った、あざとい物語構成を擯斥(ひんせき)していること。

キツツキと雨
その3  基本・コメディラインの範疇で、日常会話と映像だけで見せることで、気障なだけの「決め台詞」の挿入を潜り込ませなかったこと。

その4  俳優たちの自然な演技を引き出すために、アドリブを許容したであろう巧みな演出によって、役に成り切った俳優たち一人一人の個性を、存分に際立たせる力量が印象づけられること。

とりわけ、個性の異なった男たちによって構成される、本作におけるキャラクターを演じる俳優たちが、皆、伸び伸びと身体疾駆している人間模様を見せられて、それこそが本作の生命線であったと言える。

俳優たち一人一人が自給し得る力量の、その「最高表現力」を引き出す演出能力の一端が垣間見られ、次回作を楽しみにできるような映画監督の出現を歓迎したい思いである。


(注)「この言葉は、子どもの間に広まっている孤食・欠食・個食・固食(または粉食)という4つの食習慣を総称する。以上の頭文字をつなぎ合わせるとコケッココ(孤欠個固)となる」(日経BPネット)



2  隊員たちの日常の風景 ―― そのオフビート感の切れ味



ブリザード
ブリザード吹き荒れる冒頭のシーン。

逃げ出す若い隊員と、それを追う二人の隊員。

「どこ行くつもりなんだ。逃げ場なんか、どこにもないんだよ!」
「もう、嫌なんですよ。勘弁して下さい!」
「甘ったれてるんじゃねえよ!いいか、お前はな、俺たちの大事なメンバーなんだよ。  お前が強くなるしかねぇんだよ!」

そう叫んで、寝転んだ隊員を起こし、抱きあげ、抱擁する。

「やれるな?」

頷く若い隊員。

「よし!やれるな、麻雀」

そう言って、笑みを浮かべる中年隊員。

冒頭から吹き出してしまうような、実現不能な「脱出譚」で、観る者はいきなり、このオフビートの味付けに鷲掴みにされるだろう。

因みに、ここで逃げ出した隊員の名は、大学院生である、雪氷サポート・兄やん。

抱擁した男の名は、雪氷学者である本(もと)さん。

そして、次のシーンが、「中国文化研究会」という赤い横断幕の前で、麻雀卓を囲む4人の隊員たち。

左から二人目が本さん、中央が兄やん
当然、その中には、先の二人が、まるで何もなかったかのように麻雀を楽しんでいるのだ。

コメディライン全開の上手い導入である。

合計8人で構成される南極隊員の他の3人は、映りが悪いテレビを見ていて、「もう少し静かにして」などと、雀卓を囲む連中に頼み込む。

実に自然な風景だから、こういう何の変哲もない台詞だけで、私は吹き出してしまう。

ここにいるのは7名で、他の一人は、海上保安庁から派遣された、調理担当の西村。

本作の主人公・堺雅人扮する「南極料理人」である。

以下、その西村のナレーション。

「ここ、ドームふじ基地は、沿岸部にある昭和基地から、およそ1000キロも遠く離れた内陸の山の上に位置する。平均気温、マイナス54度。標高は富士山より高い、およそ3800メートル。ペンギンやアザラシはおろか、ウィルスさえ生存できない極寒地。気圧は低く、日本のおよそ6割程度。何をするにも息が切れる」

南極にある日本の基地(ウィキ)
氷床から取り出された筒状の氷の柱である、氷床コアの採取を目的にする「氷床深層掘削計画」の実施こそが、ドームふじ基地の主要任務である。

それによって、過去約100万年間の気候変動が判明するものと期待されているが、この辺りについては、雪氷学者である本(もと)さんが、彼を手伝う西村に説明する描写があった。

「やりたい仕事がさ、たまたま、ここでしかできないだけなんだけどなあ、ここがさ、電車とかで通えれば良かったのにね」

これは、心配する妻の反対を押し切ってまで南極にやって来た本さんが、苦渋の表情で西村に吐露した言葉だが、仕事に厳しく熱心な雪氷学者の心象風景が窺える。

だからこそ、大学院生である、雪氷サポート・兄やんの逃亡事件で、熱くなった彼の行為が、「よし!やれるな、麻雀」という、オフビートのジョークに収斂されてしまうレベルの問題では済まないことを確認できるだろう。

本さんの仕事の重要度を、他の隊員たちも認知しているが、各自、掛け替えのない任務を負っているが故に、敢えて話題になることもない。

但し、仕事への執着の度合いで温度差があることも事実だから、隊員たちの人間関係の交叉の中で、許容し難い確執が生れるのもまた必至だったという訳である。

こで、8人で構成される南極隊員を紹介しておこう。

前列左から平さん、盆さん、主任。後列左から兄やん、本さん、西村、ドクター、タイチョー
まず、その本さんは、国立極地研究所から派遣された雪氷学者。

その本さんの仕事をサポートするのは、先の大学院生・兄やんで、彼の失恋譚は、コメディラインの物語の中で、最も光っていたと言っていい。

そして、本さんと同様、国立極地研究所から派遣された大気学者が平さんで、目立たないが、後半に、狂気とも思える馬力を発揮する。

通信社から派遣され通信担当・盆さんは、滅法、明るいが、食い意地が張っている性向が、しばっしばトラブルメーカーにもなってしまう人物。

しかし、トラブルメーカーの筆頭は、何と言っても、自動車メーカーから派遣された、車両担当の主任で、その協調性がない態度の根柢には、南極隊員として派遣された事態を「左遷」と漏らす不満がある。

そして、気象庁から派遣された気象学者・タイチョーは穏健だが、「僕の体はラーメンでできているんだよ」と公言するほど、麺とスープに眼がない人物で、ラーメンが底を打ったときの落胆ぶりは、物語で拾い上げた重要なエピソードに変換されていた。

隊員たちの心のケアも担当する、北海道の私立病院から派遣された医療担当のドクターは、明るく包括力のある好人物で、南極生活に最も愉悦していて、何と、トライアスロンに挑戦するために、裸でマウンテンバイクに乗って練習するほどの気合の入り方(この夢は帰国後、実現するシーンあり)。

そして最後は、皆から、「西村くん」(大学院生だけは「西村さん」)と呼ばれる、本作の主人公の「南極料理人」・西村。

西村の家族
事故を起こした海上保安庁の先輩に代わって派遣されたが故に、家族の心配をひしと感じていて、生意気盛りの娘の小学生の乳歯をお守り代わりにするほど、家族思いの好人物。

西村を除いて、一癖も二癖もあるそんな連中の日常は、朝の洗面所から開かれる。

「雪はあるが水はない」

この張り紙を前にして、洗面所で、歯磨きや髭剃りの順番を待つ隊員たち。

このスペースには、トイレがあり、そこで大便する隊員がいる。

「見るな!」

一喝する本さん。

半ドアなので、眼が合ってしまうのだ。

「見ると、出ないからね」と隊長。

そう言いながら、皆で眺めている。

本さんが笑みで反応する。

無事、排便を完了したのである。

他の隊員たちも笑顔になる。

そして、体操のビデオでの、赤いレオタードの若い女性たちの動きに合わせながら、「お~!」という歓声を上げ、「赤いっていいね」などとニヤつく隊員たち。

左が本さん、右がタイチョー
もう、笑いのツボを刺激するのに、充分過ぎる構図である。

朝の体操の後、食卓でのミーティング。

その日の任務を、各自が報告し合うのである。

その後、それぞれ任務に出る隊員たち。

ここで、西村のナレーション。

「一人の人間が、一年で飲み食いする量。およそ1トン弱。食材がないからと言って、近所のスーパーに走ることはできない。食材は全て、冷凍、乾燥、缶詰が基本。凍ったらダメになるこんにゃく類は持ってきていない。低気圧のため、お湯は85度と、やや低い温度で沸騰する。麺などはそのまま茹でると、芯が残る。せめて野菜を育てることができないかと、様々な種を持ち込んでみたものの、できるのはカイワレやモヤシばかりだ」

「南極料理人」の仕事の苦労を紹介するナレーションだが、ざっとこんな調子で、たっぷりと笑いの詰まった、隊員たちの日常の風景がスケッチされていく。



3  厳しい環境が強いる「非日常」のリスクを分散して生きる、防衛戦略の優れた知恵



仕事に厳しく熱心な雪氷学者・本さんの、45歳の誕生日の際のエピソードが興味深い。

国際電話する本さん、右が兄やん
国際電話での、本さんの娘との遣り取りである。

「パパ、お誕生日おめでとう」
「ありがとね。あの、ママは?」
「うん、ママに代わるね」

ここで、「間」ができる。

他の隊員たちは、この会話での「感動譚」を共有しようと、本さんの傍に集合し、耳をそばだてている。

「ママ、喋りたくないって」

この一言で、思わず吹き出すが、前述したように、「やりたい仕事がさ、たまたま、ここでしかできないだけなんだけどなあ」と吐露する本さんの辛さが胸に染みる。

「西村くん、ここは南極だよね?」

ショックを受けた本さんは、自分の誕生日のために、夕食のローストビーフが食卓に上って驚くが、元気がない。

そんな本さんを、夕食後、雪氷サポート・兄やんが中心に、仲間が元気づけるのだ。

「本さん、メガネが似合ってる」
「本さん、奥さん、喋ってくれないよ」


車両担当の主任を除いて、下手なボーカルの兄やんを中心に、マラカスを持つタイチョー、タンバリンを持つ平さん、ギターを弾く盆さん、太鼓を叩くドクターたちが、本さんを笑いの中で元気づけようとする。

私の笑いのツボを完璧に捉えたシーンである。皆、活き活きしているのだ。

 無論、本さんをからかっているのではない。


仲間を元気づけることで、自分たちも元気になる。

そういう心理である。

ここで、私は勘考する。

極限状況での「非日常の日常」で呼吸を繋ぐ男たちが、その極限状況と真っ向対峙してしまったら、多くの場合、途轍もない状況に呑み込まれて、本作の兄やんのように、実現不能な脱出を試みるかも知れない。

人間は脆弱なのだ。

本さんと西村
だから、極限状況と真っ向対峙せずに、自我を「感覚鈍麻」させる自己防衛戦略を駆使する。

生存・適応戦略を駆使して、普通の日常下では取るに足らないような「遊び」に、本気で打ち込んだりすることで、少しでも、厳しい環境が強いる「非日常」のリスクを分散して生きていこうとするのである。

それ故、文明と無縁な場所でも、人間は楽しみを見つけて生きていく。

文明社会では面白くも何ともないことが、「非日常の日常」の極限状況で呼吸を繋いでいく彼らには、その特殊な時間に正のリズムを与え、活力を引き出す楽しみに変換させていくのだ。

典型的な例があった。

肉のブロックを棒に突き刺し、火をつけて追いかけっこをするドクターと西村の、他愛もない児戯性全開のエピソード。

「西村君、どうしよう・・・・楽しい」

西村を追い駆けるドクターの言葉だ。

海上保安庁の先輩に代わって派遣された西村と、南極生活に最も愉悦しているドクターの対比は、「南極料理人」という自己像にアイデンティティーを確保するために、料理の献立への腐心に集中することで、極限状況下に捕捉された自我を「感覚鈍麻」させる戦略を必要とする者と、それを殆ど必要としない者とのコントラスト効果であるが、それでも、取るに足らないような「遊び」に興じる心理において、二人とも大して変わらないだろう。

野球に興じるシーン
イチゴジュースで、ダイヤモンドのラインを引き、皆で野球に興じるシーンもあったが、これも同じ文脈で捉えられよう。

朝のラジオ体操の女性たちを見るだけで、大いに盛り上がる事例も同じこと。

全て彼らの行為は児戯的であるが、本来、何もないところから「遊び」を生み出す人間の、適応能力の抜きん出た知恵を見る思いがする。

しかも、それらは映画的に仮構された不自然なエピソードと完全に切れて、このような特殊なエリアで生きる者たちの、極めて自然な人間的な営為として描かれているから、そこに作為的なあざとさを全く感じさせないのだ。



4  コメディの真骨頂としてのラーメンのシークエンス



「それから2週間後、太陽は雪原の彼方へと沈んでしまった。南極では、6月頃になると、太陽が姿を見せなくなる。極夜と呼ばれるこの時期は、ほぼ一日中、基地は闇に覆われる」

野球に興じる隊員たちの直後のナレーションである。

最後に見た太陽(第52次日本南極地域観測隊)
極夜にょって気分も滅入る空気を少しでも浄化するために、「極夜を祝う祭」が開催される。

南極の各国の基地で催されミッドウィンター祭である。

しかし、祭は必ず自己完結する。

「祭のあと」の長い時間を、隊員たちは堪え、仕事や「遊び」に上手に変換させていかねばならない。

この変換にしくじれば、「祭のあと」の長い時間が重圧と化すだろう。


この辺りから、少しずつ狂い始めてくる者が出現するのである。

夜に、ラーメンを食べる者が続出して、ラーメンが底を尽いた事実を、西村から突き付けられ、落ち込むタイチョー。

「大丈夫?」と本さん。
本さんとタイチョー
「何か、めまいがする」とタイチョー。


自業自得ながら、落ち込むタイチョーは、深夜に西村の部屋に現れる。

「西村くん。僕の体はラーメンでできているんだよ。食えないとなると、僕はこれから、何を楽しみに生きていけばいいんだろう」

涙目で話すのだ。

しかし、こればかりは、「南極料理人」の技量をもってしてもどうにもならないから、いよいよ、タイチョーの落ち込みは病理の様相を呈する。

そして、極めつけは、初めから協調性の欠ける、車両担当・主任の「背任行為」。

あろうことか、仮病を使って任務をさぼり、その間、「水は命の源」であるにも拘わらず、一人でシャワーを浴び、洗髪にお湯を使い放題の自己中ぶり。

大気学者の平さんの怒りが、怒涛のように弾けていくが、その狂気の相貌は、闇に覆われた極夜の空気と無縁でなかったかのようだった

盆さん
元々、食欲旺盛な通信担当・盆さんは、西村の眼を盗み、バターにしゃぶりつく。

また、雪氷サポート・兄やんは、彼女から、「好きな人できた」と告白され、失恋し、闇の雪原に出て、泣きながら呟く始末。

「帰りたい・・・あ~あ、渋谷とか行きたい。もういい、ここで、死んでやる!」

一方、主任の騒動に巻き込まれて、娘の乳歯を失った西村は、料理を作る気力を失くし、望郷の念に駆られるばかり。

西村のいない隊員たちは、仕方なく慣れない料理を作るが、そこで作られた唐揚げを食べながら、思わず泣き出してしまう西村。

西村の妻が作った唐揚げの味のひどさに、胃もたれすると言った言葉を想い出し、彼の望郷の念が噴き上げてしまったのである。

そんな折での、ドームふじ基地と衛星回線で繋がった、「ふしぎ大陸 南極展」でのテレビ電話のエピソード。

相手が娘の友花とは分らず、西村は親切に答えていく。

「お母さんだけど、お父さんが単身赴任してから、ずっと元気がないです」
「そうか。今度はユカちゃんが、お母さんにご飯作ってあげるといいよ」
「何で?」
「えへへ、だって、美味しいもの食べると元気が出るでしょ」
「うん、分った」

それだけだったが、「南極料理人」としてのプロ意識が窺える反応だった。

昼食のおむすびを作る「南極料理人」



このシーンは、自分の存在なしに、隊員たちの「食」を満たすことができない現実を知らしめた西村にとって、時を移さず、「南極料理人」の価値を決定的に高めるエピソードの伏線となって回収されていく。


ラーメンのシークエンスが佳境に入ったのである。


ラーメンの麺にとって不可欠な原料である、かん水を調べた本さんは、あくまで元素記号の話として、西村に説明するシーンから開かれた。


ベーキングパウダー(膨らし粉)に水を混ぜると炭酸ガスが出るので、それに塩を入れると、かん水に近くなると言うのだ。

ラーメン作りに挑む「南極料理人」
本さんの話を聞くや否や、調理室に向かった西村は、プロの顔を剥き出して、ラーメン作りに挑み、遂に成功する。

まもなく、西村が精魂込めて作ったラーメンがテーブルに並んでいる。

ラーメンに見入るタイチョーと、そのタイチョーの顔に見入る西村。

観測を続けている大気学者の平さんと、兄やんが不在なので、6人は待つしかないのである。

「西村くん、我慢できない」

殆ど垂涎の表情で、タイチョーは洩らす。

「じゃ、食べちゃいましょうか」

西村の一言で、勢いよく、6人はラーメンに噛(かぶ)り付く。

宝物を頂くように、タイチョーは、全身の思いを込めて、その宝物を、ゆっくりと胃袋に運び入れていく。

「西村くん、ラーメンだ」

感極まるタイチョーの声。

その声を聞き、西村の笑顔が弾ける。

「南極料理人」としての至福の瞬間だった。

ラーメンが、それまで食卓に上った、あらゆる高級食材に勝ったのだ。

それが「不在」であった現実が、ラーメンの価値を決定づけたのである。

いつにも増して、凄い勢いでラーメンを食べる6人に、全く声がない。

「ラーメン」という名の、特別な「食」に一身に向かう男たち。

そこに、「オーロラが出た!」と報告に来た平さんと兄やん。

「タイチョー、観測しなきゃいけないんじゃないの」

相変わらず、仕事熱心な平さんの督促に対して、タイチョーが発した言葉には凄みがあった。

「オーロラ?そんなもの知るか!」

些か乱暴だが、毒がない。

そこに二人の隊員が加わって、食卓が完成したのだ。

このラーメンのシークエンスもまた、まもなく、ラストカットの重要な伏線となって回収されていく。

以下、簡単に、このタイチョーの言葉に含まれる意味について考えたい。

ここで観客も、凄いと表現した平さんの言うように、オーロラを観たいという気になるだろうから、その画像を挿入することも多いにあり得るが、それをしてしまえば、ラーメンへの執着が「愚かさ」としてのみ強調されるリスクもあり、コメディに不要なモラルを喚起しかねないだろう。

極限状況と真っ向対峙せずに、自我を「感覚鈍麻」させて、楽しみを作り出していく。

このような自己防衛戦略なしに、「非日常の日常」の日々を繋いでいくなど難しい。

些か、誇張されていたが、「素晴らしき自然美より、一杯のラーメンの強さ」を強調したタイチョーの「知るか!」という言辞もまた、このような文脈で受容すべきであると同時に、或いは、実際はあり得ないコメディラインの枠組みの逸話として解釈すべきだろう。

そんな野暮なことは言うなと黙らせる力こそが、コメディの真骨頂なのだ。

私はそう思う。



5  美食の本質は「不在なる食」との再会の欣喜にあり



「えー、どちらにおかけですか?」
「えーと、あなたに」
「は?」
「あなたと話したいんですよ。いつも聞いてて、あなたの声・・・」
「失礼します」
「あ、結婚して下さい」

このシーンは、兄やんの悲哀の焦燥感を切り取ったものだが、観る者としては、人間の心理の機微を的確に表現していて、笑いが堪えられなかった。

既に、袈裟斬りの大失恋に遭っていた兄やんは、清水という名の、中継のKDDIインテルサットの交換嬢の声に惹かれ、自分の思いを告げるのだが、当然、相手はストーカーを警戒する心理で、矢庭に中継を切ってしまう。

咄嗟の反応の中で、飛び出された言葉が、「結婚して下さい」という表現に結ばれるのは、それ以外にない自然な感情の表出でもあった。

その辺りが、人間の心理の面白いところなのである。

そんな悲哀のシーンを経て、漸く、念願の帰国の日がやって来た。

一人の美しい妻が、娘の傍らで男の胸に顔を埋めて、再会の喜びを、嗚咽のうちに表現していた。

その男とは、国際電話で、「ママ、喋りたくないって」と言われた、本さんその人だった。

本さんの妻が国際電話に出なかったのは、夫の声を聞けば、夫を待つ者の辛さが増幅してしまうと考えたからであろう。

インテルサット・オペレーターの清水
一方、到着ロビーの片隅で、一人の若い女性が帰国隊員を待っている。

やって来たのは、袈裟斬りの大失恋に遭った兄やんだった。

見つめ合う二人。

「KDDI、インテルサット・オペレーターの清水です」
「あぁ~、あはぁ」

兄やんの驚きの反応だ。

顔全体に喜びが溢れている。

彼の恋は、ここからリスタートするだろうという余韻を残して、映像は、「南極料理人」・西村の帰国のシーンを映し出す。

充分な「間」を確保しつつも、一貫してカットの切り替えが早い沖田作品には、ハートウォーミング系コメディから過剰な情緒の挿入を拒絶する意志が窺える。

「おかえりなさい 南極越冬隊員」という横断幕の前で、体全体で、父を迎える娘・友花のジャンプする姿と、目一杯、手を振りながら、幼い息子を抱いた妻の姿が、隊員たちの帰国を歓迎する家族の中に垣間見えた。

家族に向かって、手を振りながら、走り寄っていく西村の人懐っこい表情には、満面の笑みが広がっている。

これがラストカットだった。

と、思ったら違った。

このような括りを最も嫌う印象を受けるこの監督は、極めつけのラストカットを、その先に待機させていたのだ。

ペンギンのいる遊園地での、照り焼きバーガーを食べ合いながらの、親子3人の会話。

遊園地の休憩所のテーブルで、明朗闊達で饒舌な妻が、娘・友花の誕生会をホームパーティーにすることが決まったので、そのときの料理をどうするかということを、夫に相談する。

「お父さんが料理作ってよ」

この友花の提案で、照り焼きバーガーを食べようとしていた西村の手が止まった。

「そうね。じゃ、お父さん、料理当番ね」

そう言った後、既にハンバーガーを食べていた妻が、「あ、ごめん。食べて」と、夫を促した。

ラストカット
「うま!」

飾り気のない、この西村の率直な反応が、本作の正真正銘のラストカットだった。

まさに、美食の本質は、「不在なる食」との再会の欣喜にあり、である。

これは、財の消費量が増加していけば、財の消費によって生じる「快」の効果は小さくなってしまうという、ミクロ経済学の「限界効用逓減の法則」に通じる心理であるとも言える。

刺身、豚汁、伊勢海老のフライ、ローストビーフ、タラバガニのボイル、エビチリ、シューマイなどの中華、フォアグラ等々、どれほど、豪華なメニューが食卓に上っても、毎朝、カニを食べざるを得ない「究極の事態」を、西村から告げられたシーンで、悄然とする隊員たちのエピソードに象徴されるように、飽きてしまった時点で、「美食」という贅沢三昧の支配欲の悦楽など、呆気なく崩れてしまうのだ。

伊勢海老のフライ
言うまでもなく、この「究極の事態」の悲惨さを端的に象徴したのが、例のラーメンのシークエンスであったという訳である。

それ故にこそ、実に見事なオチだった。

エンドロールは、「ラーメン命」のタイチョーの夢であった、ビーチバレーに興じるシーン。

最高に上出来な、ハートウォーミング系コメディ全開の映画だった。



6  「共食文化」の包括力の凄み ―― 補論として



良識ある大人たちが、何の変哲もない瑣末な事柄で、無邪気な子供のように、腹の底から大笑いしている姿を見ているだけで、思わず、その哄笑(こうしょう)の時空に観る者を吸収させてしまう力が、この映画にはあった。

巧みな役者が、それを自然に表現する。

この自然な空気が存分に醸し出されていて、役者たちの集合的な表現力が、途轍もない化学反応を惹き起しているようだった。

テレビに見入る隊員たち。左からドクター、主任、タイチョー
「非日常の日常」という、そこを抜け出すことが不可能な、絶対的な閉鎖系のスペースの中では、時として、折れやすい心を修復し、それをポジティブなパワーに変換していくには、無邪気に大笑いし合うような時間が、切に求められるのだろう。

本来、良識ある大人たちにとって、ネガティブな感情を心の奥底に封じ込めることなく、寧ろ、人工的に仮構されたスペースの中で、一気に解放させていく現象を循環させる戦略こそが、時間限定で退路を断った男たちの自己防衛戦略であるに違いない。

だから彼らは、存分に笑い、存分に食い、そして存分に遊ぶ。

無論、それは、彼らに与えられた任務を、完璧に遂行していくための心理的推進力になるものだが、この映画は、その心理的推進力になる風景を特定的に切り取って、「使命」を抱懐した男たちの裸形の人間性の様態を、強力なメッセージコメディの筆致で映像提示していく。

そして、この映画の肝にあるのは、「食卓」という概念に象徴される「共食」こそが、男たちの裸形の人間性を一つに束ねる風景となっていた。

「飯食うために、南極に来たわけじゃないからさ」

氷床コアを持つタイチョーと本さん
これは、仕事に厳しく熱心な雪氷学者の本さんの言葉だが、そんな彼でも、誰にも挨拶もせず、協調性が欠ける主任の態度を戒めるシーンに表れているように、「仲間」との親交を深める「共食」のルールに対しても、厳しさを求める人格像が描かれていた。

以下、本作の基幹メッセージでもある「共食文化」について、署名入りの論文の一部をベースにして簡単に言及することで、本稿を閉じていきたい。

私たち人類の祖先は、相互の信頼関係を強化するために、食料分配という行為を利用し、仲間同士の親睦を深めていった。

そこで構築された多様な協力体制が、集団の堅固な関係を作り上げる基礎的役割を果たしたと言っていい。

食料分配という戦略は、そこに集合する人々の感情を柔和にし、不必要な軋轢を浄化する高度な機能を発現したのである

このような文化の累加によって、エゴイズムを極力抑制し得る集団倫理を確保するに至った。

即ち、自己基準ではなく、相手の立場に立って考える相対思考を身につけていく能力を形成することで、相手に対する思いやりの感情を自然裡に育んでいったのである。

朝食のメニュー
家族が共存する時間が相対的に減少し、前述したように、「ニワトリ症候群」と言われる現代の先進国社会においても、辛うじて、家族が一堂に介するスポットは「食卓」以外にないだろう。

「美味しいもの食べると元気が出るでしょ」

これは、「南極料理人」・西村が、自分の娘と知らず、「ふしぎ大陸 南極展」でのテレビ電話で語った言葉。

元気のない母にご飯を作ってあげることによって、相手に対する思いやりの感情を具現化する。

言わずもがな、それこそが「共食」の醍醐味であると言っているのだ。
 
私たちは、家族内で「共食」することによって、現代家族の決定的な心理的推進力である、「情緒的集合体」を内部強化していくという風景を、未だ完全に遺棄したわけではない。

私たちが、気が遠くなるほどの長い時間をかけて形成してきた「共食文化」は、1969年に、ペンタゴンと大学、研究機関の合同プロジェクトによって開かれたARPANET(アーパネット)をルーツとする、高度なインターネット文化の黄金時代にあっても、どうやら、簡単に安楽死していないようである。

築地「隣人祭り」(ブログより)
それは、フランスを起源にして世界各地で催されている、「隣人祭り」(近隣住民が料理を持ち寄って親睦を深めるイベント)という名で呼ばれる、比較的、鮮度の高い社会的現象が、「文化」にまで発展していくかどうか不分明だが、少なくとも、それを求める人間たちが存在する限り、このような形態の社会的現象が、世代を越えて繋がっていく可能性だけは充分に残されていると言えるだろう

この「隣人祭り」は、「共食文化」の21世紀版である。

今や、家族の価値が、「守られる存在」から「守るべき存在」に変容していっても、「共食文化」の太い幹が容易に折れない事象を検証するものなのか否か、私にはよく分らないが、人類史の長い歴史と共に進化してきた文化の継続力を粗略に扱えないとも思われる。

共食」の包括力が、単に、身体的に必要とされる栄養補給や生理的欲求、味覚満足を満たす機能だけに限定されないことだけは事実である。

少なくとも、食卓を通して、親子関係の繋がりが強化されていった家族力の劣化があっても、人間には、いつも、それに代わる機能を有する文化を構築してしまう強(したた)かさがあるのだ

本作は、「共に食べ合うことの、得難い喜び」を切り取っただけで、そこに、「共食文化」の劣化した現代社会への批判的視座をもって、社会派的な暑苦しいベタなメッセージを被せた映画ではないが、敢えて、「共食文化」の包括力の凄みについて言及した次第である。


【参考資料】


Adobe PDF家族を集める食卓 ~食卓に描かれる人間関係と食卓の意味から~ 兼近朋子」

(2014年3月)



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