<「虚実皮膜」の手品を駆使してまで送波するタヴィアーニ兄弟の真骨頂>
1 映画の虚構の中で特化された、もう一つの虚構の切れ味
子供を対象にした暴力防止の教育プログラムとして、1980年代に米国で考案・作成された「セカンドステップ」は、日本でも、多くの学校や児童養護施設などで実施され、反社会的行動の減少において大きな成果を上げていて、今後、注目される教育実践である。
ところが、先進国の各地で実施されている、このような画期的な教育プログラムとは無縁に生きてきて、あろうことか、組織犯罪に手を染めた挙句、今なお、刑務所の累犯囚という負の記号を繋ぐ男たちがいる。
こんな男たちに対して、果たして、どのような更生プログラムが有効なのか。
例えば、我が国を例に挙げれば、PFI方式(民間が事業主体)の刑務所での実践が注目されている。
NPOの支援によって、米国などで、受刑者向けの園芸プログラムが急増しているが、我が国でも例外ではない。
現時点で、4か所のPFI方式の刑務所(注)の一つである、島根あさひ社会復帰促進センターでは、園芸療法農園が盛んであり、バラのハウス栽培や、新開団地での農作業(茶葉栽培、野菜のハウス栽培を実施)が実施されている。
島根あさひ社会復帰促進センター |
他にも、「癒しの森」での森林管理、地元梨園での援農等を実施、更に、伝統工芸品である石州和紙や石見焼きの陶器作り、等々、意欲的に取り組んでいる。
さて、抜きん出て面白かった本作のこと。
映画という虚構の快楽装置の中で、そこだけが年中行事として特化された、時間限定の虚構が炸裂しているような刑務所がある。
本作の舞台となった、ローマ郊外にあるレビッビア刑務所である。
そこでは、「演劇実習」という名の更生プログラムが主催されている。
この「演劇実習」こそが、「映画の虚構の中で特化された、もう一つの虚構」である。
「映画の虚構の中で特化された、もう一つの虚構」で切り取られた物語の醍醐味は、近松門左衛門の演劇理論として名高い、「虚実皮膜」(きょじつひにく)論を想起させるほどに、「嘘」と「真実」の曖昧な境界が微妙に揺動するさまを描いたところに息づいていると言えるだろう。
「虚実皮膜」の曖昧な境界を再現させた、この年の特別な「演劇実習」という飛び切りの虚構の中で、オーデションで選ばれた複数の囚人たちが演じる戯曲は、「ジュリアス・シーザー」。
「ジュリアス・シーザー」の出演者たち |
共和政ローマ時代の軍人であると同時に、3人の実力者による三頭政治を築いた政治家を経て、終身独裁官として君臨した男・シーザー(カエサル)の暗殺事件の顛末を描いたシェイクスピアの政治劇 ―― それが「ジュリアス・シーザー」である。
「本日、演劇実習の新年度が始まる。我々、刑務所側も全面的な支援をする。勿論、諸君が信念を持ち、努力と情熱を注ぐことが前提だ」
刑務所長のこの言葉で開かれた「演劇実習」の詳細を、演出家のファビオが発表する。
「今年の演目は、シェークスピアの『ジュリアス・シーザー』。彼は、ローマを強大にした偉大な将軍だが、独裁者になり果てた。それ故に盟友に暗殺された人物だ。演出については、ここの“ベテラン俳優”のレーガに協力してもらう。オーディションが始まるから、いつものように申請して欲しい」
ここで言う“ベテラン俳優”とは、終身刑の囚人のこと。
以下、「演劇実習」のオーディションを仕切るファビオの前で、そこに参加した囚人たちの熱演が披露される。
「氏名、誕生日、出生地、父親の名前を二つの言い方で。今、君は国境にいる。奥さんを残して出国するので、泣いて別れを惜しんだ後、住所氏名などを述べる。次に、我々は君に、住所氏名を強制的に言わせる。最初は哀しみを、次は怒りを表現する」
このファビオの要求通りに、オーディションの参加者は、思い思いに表現していく。
哀しみと怒りの二通りの言い方で表現させるテストを通して、本気で泣いてしまうほど入れ込んだ初老の囚人もいる中で、まもなく決定されたキャスティング。
ローマ生まれで、麻薬売買で刑期は17年。
暗殺の首謀者・キャシアス役にはレーガ。
1975年に逮捕され、累犯及び、殺人の罪で終身刑。
“ベテラン俳優”として指名された囚人である。
シーザーの腹心であった元老院議員で、劇の主役のブルータスには、ストリアーノ。
組織犯罪で刑期14年。
フィリッピの戦い(紀元前42年)で、シーザー暗殺の首謀者・キャシアスやブルータスを葬るアントニー(アントニウス)役にはフラスカ。
ディシアスにはボネッティ。
累犯、刑期26年。
以上、この主要なキャスティングを得て、狭い監房の其処彼処(そこかしこ)で、「ジュリアス・シーザー」を演目にした「演劇実習」の稽古が開かれていく。
(注)美祢社会復帰促進センター(山口県美祢市・セコム)、喜連川社会復帰促進センター(栃木県さくら市・セコム)、播磨社会復帰促進センター(兵庫県加古川市・綜合警備保障)、島根あさひ社会復帰促進センター(島根県浜田市・大林組・ALSOKグループ)
2 不特定多数の鑑賞者を意識せずに表現し切れない、選ばれし囚人たちの熱演の炸裂
キャシアスとブルータスの二人は、シーザー暗殺の計画を立てていく場面を必死に練習する。
キャシアス役のレーガは、この台詞を言った後、「我が町、ナポリも」と脱線してしまい、ファビオに謝罪する。
「ジュリアス・シーザー」の「演劇実習」は、組織犯罪の累犯で終身刑を受けているレーガにとって、ナポリのマフィア・カモッラを思い出させるのだろう。
そんなレーガの心情を読み取ったのか、ブルータス役のストリアーノは、ブルータスに成り切って、「独裁者」に反逆するキャシアスへの「友情」を結んでいく。
「君の企てが、私を巻き込むことも承知だ。考えてみるよ。だが、忘れるな。私は、独裁者に頭を下げるより、ブタ飼いになる」
選ばれし囚人たちは、このシャークスピア劇のそれぞれの役割を得て、自分とは違う別の人格を演じ切っていくのだ。
思うに、これは極めて組織的で、難度の高いロール・プレイング(役割演技)である。
このロール・プレイングこそ、複数の人物が、各自に与えられた役を演じる疑似体験を通して、様々な事態への合理的な対応を可能にする学習方法の一つである。
だから、刑務作業をしながら稽古に励む、この演劇的手法による教育的なアプローチは、選別されし受刑者と、そこに関与する多くの囚人たちの格好の更生プログラムと化していく。
役割演技をすることによって得られる結晶の内実は、自己を客体化する「正の内的過程」を通して、園芸療法よりも遥かに直接的な効果を引き出す、懲りない男たちの累犯阻止の、一種の「セカンドステップ」であると言えるかも知れない。
「相互の理解」、「問題の解決」、「怒りの扱い」。
「ある状況におかれた登場人物の気持ちをそれぞれ想像し、子ども達に自由に発言してもらい、みんなで話し合いながら、問題を解決していく」(「NPO法人
日本こどものための委員会」のサイトより)という、この3つの要素の段階的学習こそ、「セカンドステップ」の構成要件であるからだ。
しかも、このビッグイベントを観劇する多くの市民たちを一同に集めた、仮構のステージをイメージしながら、本格的なロール・プレイングを遂行するのである。
選別されし囚人たちは、刑務所という限定されたスポットの狭い空間の中で、懸命に台詞を覚え、そして、共演者たちとの真剣な台詞の遣り取りを繰り返していく。
この「演劇実習」の肝は、それを成就させるためにレッスンを繋いでいく時間にこそある。
かくて、自分と全く違う役柄を演じる練習風景の中から、一つの大きな変化が生れてくる。
これは、この劇の主役であるブルータス役を演じる、ストリアーノの内面的な変容過程に象徴されていた。
ブルータスが、主謀者のキャシアスらに宣言する重要なシーンがある。
「真の男なら、互いの眼を見れば分る。心の中の苦悩や怒り、卑劣な時代を恥じる心、その心に命を賭ける。今夜、集まったのも、そのためだろ?覚悟できないなら、帰って寝ろ。誓いは無用だ。誓うのは、神官や臆病者。老いた女衒や悪党。誓うのは、おしゃべり男や、寝とられ男だ。我々の企ては壮大だ」。
「アントニーも殺そう」というキャシアスに対して、ブルータスは反論する。
「正義は殺戮ではない。我々は正義を行うのだ。人民の眼にそう映らねば。我々はシーザーの理念と精神に抗するのだ。これは殺人ではない。神への生贄だ」
「殺人」を否定し、「正義」を強調するこの重要な台詞を言った後、ブルータス役のストリアーノは演技に入り過ぎて、思わず、その場で座ってしまう。
「“胸を裂かずに、精神をもぎ取られたら!”」
「眼の前に、友達の顔が浮かんだ。昔、一緒に密輸煙草を売っていたんだ。ある晩、彼が密告者の口を塞ぐことに。彼は俺に言った。ブルータスと同じことを。町の連中に知れ渡り、密告者は彼だと。町中が騒いだ。俺も声を合わせた。だから辛いんだ」
このシーンは、映画という虚構の中で創り上げていく、もう一つの虚構が生んだ真実の心の叫びと化し、本作を通して決定的に重要なシーンであると言っていい。
ここに、重要な証言がある。
ヴィットリオ・タヴィアーニ監督の証言である。
「わたしたちが暗殺を題材にした『ジュリアス・シーザー』を演目に選んだのは、囚人たちが共感しやすいだろうと思ったからですが、そこから引き出された反応は、予想をはるかに超えるものでした。ブルータス役の俳優がシーザーの暗殺計画を口にするとき、わたしはカメラを見ながら思わず身震いしたものです。彼はこのせりふの真の意味を知っているのだ、と!彼らが役柄と対話するさまは、とてもエモーショナルでした」(「服役中の囚人たちがシェイクスピアを上演 『塀の中のジュリアス・シーザー』V・タヴィアーニ監督に聞く」・映画.com 2013年1月25日)
更に、タヴィアーニ兄弟によって与えられた演目が、オーディションで選ばれた主役を演じる、ブルータス役の俳優の心の叫びを引き出し、意想外な映像を仮構し得たということ。
これが、狭いスポットで台詞のレッスンに励む彼らの眼の前で、「映画の虚構の中で特化された、もう一つの虚構」としての「演劇実習」の時間の渦中で、恐らく、作り手のイメージをなぞりながらも、それを越えるほどに、「カメラを見ながら思わず身震い」させる表現に結ばれたのである。
なぜ、それが可能だったのか。
ブルータス役の俳優の性格と濃密に関与し得るだろうが、それと同じ位の比重で言えるのは、最初から、この年の「演劇実習」が、著名な映画監督による「商業作品」としての、映画の製作・公開が約束されているという情報が、オーディションに参加した囚人たちの間で共有されていて、この特化された虚構の世界に、大袈裟に言えば、命を懸ける情念で自己投入していったという特殊な事情が入り込んでいるからである。
映画の向こうにいる、不特定多数の鑑賞者を意識せずに表現し切れない彼らの熱演を、当然、タヴィアーニ兄弟が計算し得ない訳がないのだ。
審査員長を務めたマイク・リー監督や他の審査委員も、それを承知で、この映画に対してベルリン国際映画祭の金熊賞を与えたのである。
「これまで常に自分たちが本当に情熱を感じる題材に取り組んで来たつもりでしたが、今回の経験はわたしたちにとってかつてない驚きと感慨をもたらしてくれました。初めて囚人たちをオーディションしたとき、いつも俳優たちにリクエストするように、名前と出身地を言い、せりふをしゃべってもらいました。ただ彼らへの配慮として、本名や素性を明かす必要はない、言いたくなければ偽名でよいからと伝えたのです。でも驚いたことに偽名を使う人は誰もいなかった。彼らはむしろ、世界から隔離された状態にある自分の存在を、少しでもアピールしたかったのです」
このヴィットリオ・タヴィアーニ監督の言葉こそ、ブルータス役のストリアーノに象徴されるように、映画の向こうにいる不特定多数の鑑賞者を意識するあまり、命を懸ける情念で自己投入していった内的行程を検証するものだろう。(ラストのキャプションで、ストリアーノが既に俳優の仕事を選んでいて、この「演劇実習」が、娑婆に出た彼の外部からの出演である事実が判明しても、そのモチーフは変わらないと思える)
3 「虚実皮膜」の手品を駆使してまで送波するタヴィアーニ兄弟の真骨頂
暗殺直前のシーザーの言葉である。
まもなく、正義のために殉じようとするブルータスらが、ローマ元老院議場内で、シーザー暗殺に決起する。
「ブルータス、お前もか」
ブルータスが最期の一撃を加えるときの、シーザーの言葉だ。
独裁者シーザーを斃したときに、暗殺団の其処彼処(そこかしこ)で上がる雄叫びが、澱んだ空気を浄化するようだった。
「自由だ!独裁者は死んだ!通りに出て叫べ!」
「誰か、公共の演壇で叫べ!自由だ、自立だ、解放だ!」
この雄叫びに呼応して、キャシアス役のレーガが、重量感のあるアドリブを吐き出していく。
「この先、何世紀も、多くの役者たちが、堂々たる我らを演じる。まだ生れぬ国で、まだ創られぬ言語で」
無論、タヴィアーニ兄弟による演出であるに違いない。
「シーザーは舞台上で、何度も血を流すだろう。今日と同じように。我らの牢獄で、石の床に横たわる。ただの亡骸として」
彼らがここで勝ち取った「自由」の価値は、まさに彼らが、その「自由」と無縁に生きる囚人たちの雄叫びとなるというパラドックスにおいて、この映画の生命線を成すものである。
演技を通じて自己を相対化できた分だけ、組織犯罪に漬かった自己史のくすんだ風景を露わにし、それでもなお、十全にコントロールし得ない情動が騒いで、一層、混乱を深めていく。
それこそまさに、このような「演劇実習」の狙いであったものだろうが、しかし彼らは、どこまでも自業自得の犯罪の罪を、国家権力の厳しい監視下で償う運命から免れないのだ。
だから彼らが、虚構の演劇の中で叫んだ「自由」を真に勝ち取るには、彼らがこのような更生プログラムのアプローチを通して、自己を徹底的に相対化し、内面を凝視し、そこで、社会的適応力において継続力を有する人格にまで昇華していく外にないのである。
単に、一過的な「お祭り」として、この「演劇実習」を通過してしまうだけでは、そこから何も生まれることなく、相も変わらず、「累犯者」という記号から脱却できないのだ。
後に減刑になって、現在は俳優となっている、ブルータス役のストリアーノが直面したテーマの本質がそこある。
「芸術を知ったときから、この監房は牢獄になった」
年中行事の「演劇実習」の範疇を遥かに越え、カラーの色彩が眩しい、この年の特別な「芸術」のステージの幕を下ろして、「牢獄」に戻ったレーガの吐露である。
明らかに、本作の基幹メッセージである。
恐らく、タヴィアーニ兄弟のシナリオに沿った決め台詞だろう。
何より、キャシアス役のレーガが本当に吐露したか否かについて詮索しても意味がないので、ここもまた、「虚実皮膜」論の解釈のうちに処理しておこう。
ただ、これだけは書いておきたい。
演劇を通して囚人たちが手に入れた解放感が時間限定であっても、「他者」を演じることで、芸術の深みを知った特定の囚人は、ほんの僅かなものかも知れないが、自らの手で、「特定他者」の自由を奪った被害者の境遇の、その一端への視線に届き得る相応の感性を身につけるに至って、そこで見た「現実自己」の風景の稜線を伸ばしていくという、強制力の及ばない精神の「自由」を得たとも言えるのだ。
タヴィアーニ兄弟 |
だから、レーガの吐露を、私たちは、これからも続くであろう「芸術」での存分な身体表現を通して、観念的に変容する「人生」に、某かの意味を有する「アファメーション」(自己への宣言)という風に捉えたい。
「わたしは彼らに、たとえ刑務所の中でも人生の別の面があることを知って欲しかったのです」
これも、ヴィットリオ・タヴィアーニ監督自身の言葉。
「虚実皮膜」の手品を駆使してまで送波する、老いてなお鮮度の高い映像を世に問うた、タヴィアーニ兄弟の真骨頂を見た思いである。
(2014年3月)
0 件のコメント:
コメントを投稿