<「約束された癒しの快感」に張り付く、「普通に善き人」・世之介の人格像の押し売りの薄気味悪さ>
1 偏見の濃度の薄さ ―― 世之介の人格像の芯にある価値ある何か
「普通に善き人」・世之介の柔和なイメージ全開の青春譚・純愛譚の中で、その世之介の人格像を端的に表現している印象的なシーンを起こしてみる。
まず、私にとって最も印象深いのは、単に人間違いで知り合っただけの、未だ「普通の友達」以下の関係でしかない加藤とのエピソードを再現してみる。
散歩に行くと言って、アパートの部屋を出た加藤を、スイカを食べながら随行する世之介。
「なあ、どこ行くんだよ!蚊がいるよ、帰ろうよ」
「ああ、もうお前、帰っていいよ!」
自分で一緒に行くと言いながら、夜の散歩に随行する世之介の言葉を遮った。
「だって、もう公園しかねえよ。夜の公園って、すげえヤンキーとかいて、すげえ怖いって聞いたよ」
そう言いながらも、相変わらず、スイカを食べている。
公園に着いた加藤が、世之介に向かって、思いがけないことを告白したのは、このときだった。
「なあ、俺さ、前に女の子に興味ないって言ったよな」
「ん?そんなこと言ったっけ?」
まだ、スイカを食べている。
「俺さ・・・男の方がいいんだよ」
「え?」
「分るか?」
一瞬、気まずい「間」が生れるが、この「間」の正体がすぐに判然とする。
「それって、俺に告白してる・・・」
世之介は、そう言ったのだ。
爆笑もののカットだった。
そのあとの加藤のツッコミも決まっていた。
「してねぇよ!お前、タイプじゃないし・・・まあ、そういうことだから、今後、俺と付き合いづらいようだったら、もう家、来なくていいし」
「はあ?行っちゃまずいの?」
本篇で最も面白く、笑いのツボに嵌った掛け合いコントのようだった。
物理的に迫って来る世之介との、加藤の絡みも決まっている。
「まずくないけど・・・」
「え、うん?」
「何、お前、動揺とかしてないの?」
加藤の方が驚いているのだ。
「え、何で?」と世之介。
「何でって何だよ。だから、この公園はそういう場所で、俺はその・・・そういう刺激を求めて、ここに来ているわけで」
単刀直入に言えない加藤の表現力は、出色である。
「じゃあ、俺、いちゃまずいじゃん」
「そうだよ、まずいんだよ、だから」
「じゃあ、俺、ここで待ってるわ」
「だから、それ変だろって」
「いいよ、邪魔しないから。ほら、いっといで」
加藤と世之介(右) |
スイカを食べながら、花壇の石に座って、平然と待とうとしている世之介の態度に、すっかり興醒めした加藤は、最後まで、自分のペースを崩さない相棒が放つ柔和な空気感に溶融し、この日の目的を断念するが、ここで交わされた二人の会話の可笑しさは逸品だった。
ここで、一転して、加藤の現代のパートのシーンが挿入された。
この公園でのエピソードが、加藤の記憶を喚起させたのである。
「まあ、大したことじゃないんだけどさ。今日、通りすがりの人が、すんごい汗だくでさ、何か、誰かに似ていると思って、ずっと思い出せなくて、それを今、想い出したっていう・・・」
言わずもがな、現在の同性愛のパートナーに語った言葉から分明な事実は、加藤にとって、世之介がパートナーの価値として相応しくなかったということだ。
それでも、加藤は回顧する。
「あ、何か得した気分。いや、今、思うと、あいつに会ったというだけで、俺はお前よりだいぶ、得した気がするよ」
ビートルズを真似したつもりなのか、天然のかかったマッシュルームカットからして、存分にダサイ。
その体臭が放つ暑苦しさを、常に払う態度を加藤が取っても、気にしない男。
しかし、好感を持てる男である。
だから憎めないのだ。
では、全く空気の読めない鈍感な男なのか。
「傷ついてもすぐに立ち直れるし、いろいろなことを言われてもすぐに忘れられる。どんな時もくよくよしないで、へこたれずに、物事を前向きに捉えていく力のこと」(「鈍感力」渡辺淳一著、集英社)
これは、渡辺淳一が定義する「鈍感力」。
確かに、世之介には、このような側面が垣間見られたが、しかし決して、彼は全く空気の読めない男ではない。
一言でいうと、この男の価値観の尺度には目立ったバイアスがなく、相当程度において、偏見が希釈されているのだ。
偏見とは、特定の事象に対する過剰な価値観が氾濫し、そこに情感投入しやすい観念・行動傾向である。
世之介には、これがない。
だから当然、さして根拠がない事象に対して、過剰に主観的で、恣意的な判断基準に振れていかないのである。
頭脳明晰とは言えないが、相対化し得る能力を劣化させる脆弱性によって、バイアスの濃度を高める事態に流されていく危うさからも解放されているのだ。
この偏見の濃度の薄さこそ、世之介の人格像の芯にある、かけがえのない価値ある何かであると言っていい。
2 「普通に善き人」というあまりに分りやすく、特化されたイメージに収斂されてしまう危うさ
初対面で弾む祥子との会話 |
世之介の偏見の濃度の薄さが、全く育ちの異なる祥子に対する態度のうちにも表れていた。
「お嬢様」育ちの祥子を、特段に色眼鏡で見ることがなく、異性感情なしでも、世之介に惚れる祥子を自然に受容し、会話を繋いでいく。
会話を繋いでいくうちに、いつの間にか育んでいた異性感情が、身体表現されるに至る。
しかし、未知のゾーンに絡まれて、世之介は不器用な反応しかできない。
多くの青春がそうであるように、彼は経験の累加の行程で成長していく典型的若者なのだ。
偏見の濃度の薄さが彼の成長を約束させ、確実に内化させていく心的行程を律動的に開いていく。
「お嬢様」育ちの祥子との、一連のエピソードの第一弾は、長崎に帰郷した折の、浜辺でのデートのエピソード。
夜の浜辺で、肩を組む世之介と祥子。
「あの祥子ちゃん・・・」
「はい」
「これは・・・口に出すべきことか分らないんだけど」
「はい」
「キスしていい?」
当然、祥子は受け入れる。
「じゃ、その・・・失礼して、あの何と言うか・・・顔の角度を、もうちょっと少し・・・」
笑いのネタにしたつもりだろうが、あまり笑えない。
設定が稚拙過ぎるからだ。
ともあれ、この絶好のチャンスは、ベトナム難民騒動に巻き込まれて、頓挫する。
今度は、スキーに行って、怪我して入院している祥子を、世之介が駆け付けて来たエピソード。
「何で、すぐ知らせてくれないの?」
「ごめんなさい。言ったら、心配なさるかなと思って」
「心配するよ。心配するのが仕事っていうか、心配させてよ。もし、俺が怪我とかしたら、真っ先に祥子ちゃんに知らせるからね」
この世之介の優しさに感動する祥子は、言葉を失っている。
その情感が言語に結ばれたとき、祥子は、二人の心理的関係の距離を縮める思いを込めていた。
「私、これから世之介さんのことを呼び捨てにします。いいですか?」
「うん・・・いいけど」
「はい。・・・あのう、世之介」
「じゃ、し、しょうこ・・・」
「はい。世之介」
「祥子」
頷きながら、世之介は明瞭に言い切った。
頷きながら、世之介は明瞭に言い切った。
二人で、笑い合いながら、いつまでも、交換不能な裸形の「固有名詞」をキャッチボールしている。
世之介の成長速度は、ここまで一気に身体表現するに至ったのである。
因みに、このネタも、稚拙過ぎるから笑えない。
世之介の「純愛」と「草食性」を強調する発想が度が過ぎると、彼の人格像に対して、「普通に善き人」というあまりに分りやすく、特化されたイメージに収斂されてしまう危うさを感じてしまうのである。
これらのエピソードは、「普通に善き人」・世之介の柔和なイメージだけでなく、一人の「世間無知」を身体化させている若者が、確かな歩みで、一人の「男」として成長していく相貌性をも、固有の律動感の中に垣間見せる重要なシーンであると思えるからである。
私の場合、終始、その辺りの描写が気になって仕方がなかったのは事実。
以下、物語の根幹に関わるので、その辺りについて言及したい。
3 「約束された癒しの快感」に張り付く、「普通に善き人」・世之介の人格像の押し売りの薄気味悪さ
「南極料理人」より |
オフビート感の切れ味鋭い「南極料理人」は、南極という極限状況下で、「非日常の日常」を繋ぐテールリスクの危さを持つことで、少しでも、厳しい環境が強いる「非日常」のリスクを分散して生きていこうとする、どこを切り取っても、構図としての存在感があり、弾けるほどの面白い映画になっていた。
文明社会では面白くも何ともないことが、「非日常の日常」の極限状況で呼吸を繋いでいく彼らには、その特殊な時間に正のリズムを与え、活力を引き出す楽しみに変換させていくから、それが観る者に直截(ちょくさい)に伝わってきたのである。
「南極料理人」の成功は、バックグラウンドのマッチング効果と、そこで特定的に切り取ったエピソードの挿入が、ほぼ完璧に映画的な空間を占有していたこと ―― これが、最も大きな因子になっていたと思われる。
しかし、「横道世之介」という映画は、20世紀後半の文明社会で呼吸を繋ぐ者の、「ごく普通」の日常性をバックグラウンドにして、そこで大したことも起こらない、「ごく普通」の青春像・恋愛模様を、沖田修一監督流の基本・ハートウォーミング系の、その慎ましやかな筆致で切り取っていく作品であるが故に、もう、それだけで相当のハンデを背負ってしまっている。
目立った「非日常の日常」をバックグラウンドにすることなく、「普通に善き人」・世之介の人格像を描くには、それを際立たせるに足る、日常会話と特化された映像だけで、観る者を飽きさせないエピソードを繋いでいくしかないからである。
単刀直入に言ってしまえば、「普通に善き人」・世之介の人格像を際立たせるために、どうしても、そこに余分なものが入り込んできてしまったのは、このハンデを克服し、物語を支配し切れなかったことに起因する。
余分なものの事例を拾い上げてみよう。
例えば、柄本佑扮する、旧友の小沢のエピソードの意味が理解困難でないとしても、明らかに、物語のリズムを寸断させてしまっている。
世之介と千春 |
その小沢経由で出会った、「ミステリアスな年上美人」・千春も同じ。
ラジオパーソナリティというメディアの世界で仕事を繋いでいた、伊藤歩扮する千春の回想シーンで、世之介の「犠牲死」をアナウンスする、とってつけたようなエピソードも不要だったと、私は思う。
世之介の「犠牲死」を感傷で流さない工夫は、幾らでもあるからだ。
ついでに言えば、基本・ハートウォーミング系の映画に溶融し得ない、3.11を連想させる、「バカにしてるの、東北」という彼女の台詞には、ファムファタールをイメージさせる千春を、裸形の人格に引き摺り込む思惑があったにせよ、敢えて、こんな絵柄をインサートしなくとも、普通の人間観察力のある大人なら、誰でも想像できるもの。
稚拙過ぎないか。
また、世之介が、ベトナム難民の赤子を助けるシーンの挿入も、伏線描写としては、あまりにベタ過ぎないか。
コメディラインで掬い取れないほどに、「普通に善き人」・世之介の押し付けがましさが、露骨に表出してしまっているのだ。
倉持と世之介 |
倉持の回想シーンに至っては、単に世之介絡みで、夫人となる唯との出会いを、サンバの合宿の風呂場で告白したというもので、観ていて、冗長なだけの末梢的なエピソード。
重箱の隅を突(つつ)くようだが、、長崎に帰郷した際の幼馴染との絡みは、祥子の嫉妬を惹起させるエピソードの伏線になるだけで、幾らでも代替可能なものである。
更に言えば、アパートの隣の女性絡みのエピソードは、完全に不要ではなかったのか。
「何だろう。最初見たとき、大丈夫とか思ったけど、何だろう、隙がなくなった?」
「隙?」と世之介。
「いや、あるんだけど、前よりなくなった気がする」
「俺もちょっと、成長したのか知れませんね」
こんな感じで、柔和な笑みを浮かべながら、さらっと言ってのける世之介のシーンだったが、「利他的行動」に振れていく「世之介の成長」など、観る者に執拗に映像提示されているので、正直、食傷気味だった。
くど過ぎる。
説明的過ぎる。
デトックス(解毒)効果100%の、基本・ハートウォーミング系コメディの「約束された癒しの快感」に張り付く、「普通に善き人」・世之介の人格像の押し売りに、私は薄気味悪くなっていくばかりだった。
3 「悲しくも『美しき死』」を明らかにさせたことで、強化された感傷を推進力にした、エピソード繋ぎの機能的連関性の底の浅さ
縷々(るる)、辛辣な批評を繋いできたが、以下のラストナレーションでは、完璧に「息子自慢」を越えて、「普通に善き人」の押し売りの決定版と化してしまって、もう、完全に這う這うの体(ほうほうのてい)だった。
「世之介が亡くなって3ヶ月が過ぎようとしています。一人息子に逝かれたものだから、勿論、悲しいのは悲しいけど、いつまでも泣いてばかりはいられないですものね。泣いていると、世之介の顔が浮かぶんですよ。いつも暢気だったあの顔が。最近、おばさんね、世之介が自分の息子で、本当に良かったって思うことがあるの。こんな風に言うのは、可笑しいかも知れないけど、世之介に出会えたことが、自分にとって一番の幸せではなかったかって。お時間があったら、また遊びに来て下さいね。二人で、世之介の思い出話でもできたらって思ってます。きっと、笑い話ばかりになりそうね」
「世之介の思い出話でもできたらって思ってます」
これも、「留学後の空白期間」の存在を想定すれば分明なように、相手の祥子にとって、既に過去形でしかない、ノスタルジックで、甘美なる「初恋譚」として自己完結していると思えるのに、この踏み込んだ言辞には、相手の心情を忖度する気配すらないのだ。
「いつまでも泣いてばかりはいられないですものね」
ここで終わるべきだったのではないか。
「いつか、お会いしたいですね。祥子さんもお元気で」
回想する祥子 |
この「別離の挨拶譚」で充分でなかったのか。
祥子は例外としても、世之介と関わった旧友たちの回想シーンの、あまりに表層的描写によって表現したい内実が、映画的空間の複層的な厚みを出したかったのどうか、一切は不分明だが、連続ドラマでもないのに、余分なものを挿入し過ぎて失ったコストは決して小さくないだろう。
要するに、固有名詞を持つ登場人物たちを、そこに濃淡の差はあれ、某かの関係を作り上げるだけではなく、彼らに印象度の希薄な、サブ・ストーリーにもならないエピソードを絡ませてしまったことで、その度に伏線回収を求められ、その結果、減り張りを失い、冗長で散漫な映画になってしまったということだ。
脆弱なノスタルジアが張り付くそれらのエピソードが、物語の中枢を補完し得る表現効果を生むことなく、却って、物語を拡散させてしまったようにしか思えないのである。
それが、「普通に善き人」・世之介の人格像を客観的視座で浮き彫りにするために、多角的に挿入されたエピソードであることを重々承知し得ていても、はっきり書けば、その挿入には抑揚がなく、粗放ですらあった。
だから、物語が、単なるエピソード繋ぎの冗長な印象を拭えなかったのである。
思うに、テーマに収斂されていくときの物語に、映画的な構築性が感じられなかったというのが、私の率直な印象である。
決して駄作・愚作の類いではないが、前二作と比較すれば、残念ながら、私の期待のハードルが高過ぎたためなのか、正直、失望の色を隠せなかった。
そして何より、私が気になったのは、物語の中盤に拾われた決定的なカットである。
「犠牲死」という、世之介の「悲しくも『美しき死』」のことだ。
たとえそこに、過分な情緒的侵入を抑制的に切り取っていたにせよ、世之介の「悲しくも『美しき死』」を明らかにさせたことで、世之介に対する観る者の視線に不必要なまでの感傷を強化させ、この感傷を推進力にして、エピソード繋ぎの瑕疵を見えにくくさせ、後半の一連のシーンの上澄み効果を決定づけてしまった。
物語を成り立たせている、色とりどりのエピソードの機能的連関性の底の浅さの故に、単にそれらが、主人公の人物像を切り取っていく表層的な説明描写に終始してしまっていて、どうしても、そこに映画的構造性の脆弱さが露呈されてしまったのだ。
ハミルトン流の進化生物学を援用すれば、自らリスクテイカーになることで、瞬時に、他者の利益の確保を優先的に選択する、「利他的行動」の当の主体である世之介をして、あろうことか、「普通に善き人」と括るには、「普通なる者」のハードルが高過ぎないかと、多いに疑問の余地が残るところだが、基本・ハートウォーミング系の映画という準拠枠に収斂させることで納得する以外にないのだろう。
「普通に善き人」・世之介の「美徳」を際立たせるために、世之介の死を明らかにさせた上澄み効果によって、相当程度、丁寧に繋いでいった物語が、却って、映像表現力の効果をも劣化させてしまったことが惜しまれてならないのである。
これが、本作に対する私の不満の全てと言ってい。
物語を作為的とも印象づけられるほど、脂肪交雑=「霜降り度合い」の美味に拘泥したことで、長尺にした瑕疵が、私にはあざといほど眼についてしまったのである。
ここまで辛辣に言及してきたから、キャラ表現の演出ミスにも触れねばならない。
ここでは、その一例を紹介する。
サンバのフェスティバルのビデオを繰り返し見入る世之介に対して、加藤が注意するシーンがあった。
「そのビデオを観るの、いい加減に止めてくんない。サンバのリズムが体に沁み込むんだよ」
そう言いながら、加藤は、サンバのリズムでスイカを切っているのだ。
世之介の体臭を嫌う加藤が、いつものように、能面のような表情で語るこのカットの違和感が失ったものの大きさを考えると、正直、観ていて、作り手のキャラ造形力の技量の浅薄さを疑わざるを得なかった。
全く笑えないどころか、シラケてしまった。
加藤のキャラ造形と、完全に乖離しているからである。
冒頭でも紹介したように、「ボケ」担当の世之介絡みの中で、真顔で「ツッコミ」を入れる、加藤のキャラの受け方が絶妙であっただけに、加藤のキャラ造形のこの不均衡感は、相当程度、致命的であった。
それは、「学食」絡みで知り合った二人の軽妙な会話が、何とも言えない「面白さ」を醸し出していることで分明なように、世之介との「掛け合い」で、キャラ造形の嵌った加藤の表現力が抜きん出ていただけに、サンバのリズムで踊る加藤の構図には、観るに堪えないものがあった。
ついでに言えば、突き抜けた祥子の「お嬢様キャラ」の造形は、コメディラインをも崩す不自然さの故に、明らかに浮き上がっていた。
コアとなる「サンバ」でのしくじりも延長されて、残念ながら、シラケ通しの160分だった。
ハードルを上げ過ぎたために、本作は期待を裏切られたが、次回作に期待したいところである。
(2014年3月)
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