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2016年5月17日火曜日

サイダーハウス・ルール(’99)   ラッセ・ハルストレム

<「人生の重み」 ―― 「戦略的離脱」に打って出た青春が手に入れた至高の価値>





 1  「こんな充実感は初めてです。僕は残ります。役に立ってると思うから。ここで学ぶのは、どんな小さなことも、僕には新鮮です」





 「よそでは、若者は家を出ると、自分の未来を探して、広く遠く旅をする。その旅のエネルギーは、悪を倒すという夢や、めくるめく恋や、一攫千金の夢などだ。だが、ここ、セント・クラウズで、それは難しい。ここでは、駅に降り立つにも決心がいる。子供をもらうにしても、預けるにしても、ここへ旅する目的は孤児院なのだ。私は、孤児と不幸な妊婦のために、医師として赴任。英雄気取りだったが、ここには、そんな余地はなかった。暗く、すさんだ孤児の世界に、英雄など無用なのだ。それで私は、孤児たちの世話役になった。父親役をつとめた子も一人。名はホーマー・ウェルズ」

 セント・クラウズの孤児院長・ラーチのモノローグは、ギリシャ神話の詩人に倣(なら)った映画の主人公・ホーマー・ウェルズ(以下、ホーマー)を引き取るところから開かれる。

「セント・クラウズでは、規則を作るも破るも、最優先されるのは孤児の未来だ。養子先を二度失敗したのは、いい兆しではない。だが、私には分っていた。特別な子だと。私は彼の将来のために、医術を教えた」

 その「特別な子」ホーマーが青春期を迎えた際に、ラーチ院長ははっきりと言い切った。 

「もし、ここに留まるつもりなら、私の役に立て」 

それが、ラーチ院長の父親としての愛情表現だった。 

かくて、医大どころか、高校すら行っていないホーマーに、孤児の世話と中絶の手伝いをさせるラーチ院長。 

「以前から、私は心に決めていた。堕胎で女性を救うと。それが私の道だ。だが、ホーマーはその道を拒んだ」(モノローグ) 

1943年3月。ニューイングランド(合衆国北東部の6州)のメイン州にあるセント・クラウズでのことだった。 

米陸軍航空軍の爆撃機・B-24(「解放者」という愛称で知られる)のパイロットのウォリー・ワージントン少尉(以下、ウォリー)が、その恋人・キャンディ・ケンドル(以下、キャンディ)随行させて、セント・クラウズにやって来たことから、物語は動いていく。 

恋人・キャンディの中絶手術が目的だった。 

手術が無事終わり、孤児院を出る決心をしたホーマーが、その意思をラーチ院長に伝えた後、院長の警告を押し切ってまで、ウォリーとキャンディの帰還と共に、初めて、外界の空気を吸うための旅に出たのである。 

その場所は、ウォリーの実家があるケニス岬。 

生まれて初めて見た海の風景に感動するホーマーは、まもなく、ウォリーの実母が経営するリンゴ園で働くことになる。

 黒人農園労働者たちの宿舎・サイダーハウスを生活の拠点にするホーマーは、いきなり、文字の読めない一人の黒人の要請で、暗い宿舎の壁に貼ってある規則を読み上げていく。

「ベッドでタバコ禁止」・「酒を飲だら粉砕機を操作せぬこと」・「屋根の上で昼食を取らないこと」・「どんなに暑くても、屋根の上で寝ないこと」などと書かれていた。 

「俺たちが書いた規則じゃない」 

そう言って、ホーマーの行為を中断させたのは、農園労働者のボスであるミスター・ローズだった。 

ウォリーが自ら志願し、第二次大戦の危険な前線に従軍したのは、ホーマーがリンゴ園の作業に当たり始めたときだった。 

そのリンゴ園で、ミスター・ローズの親切な指導を受け、ホーマーはあっという間に適応していく。 

リンゴ園で収穫したリンゴを、セント・クラウズに贈るホーマー。 

一方、セント・クラウズのラーチ院長は、「狂信的なキリスト教徒」(院長の言葉)が集う理事会に解任されようとしていた。 

それを防ぐために、ラーチ院長はホーマーがハーバード大学医学部卒の学位を持ち、医師の免許を偽造したばかりか、理事会の場で、インドで伝道活動をしていると説明するのだ。 

ホーマーが戻って来ると信じ、彼を自分の後任にするためである。 

そのホーマーを遊びに誘い、キャンディはウォリーのいない孤独を癒していく。 

セント・クラウズの定番の「キングコング」以外の映画を存分に観て、車の運転をし、海岸で遊びまくり、そして、二人は結ばれていく。 

季節労働者がリンゴ園から去っていく中で、ホーマーだけは農園に残っていた。 

「先生には悪いけど、今の生活を楽しんでます。エビ捕りや農園の仕事。こんな充実感は初めてです。僕は残ります。役に立ってると思うから。ここで学ぶのは、どんな小さなことも、僕には新鮮です」 

心臓が悪く、気管支炎を患い、常に、酸素テントでの生活を余儀なくされたファジーが死んで、悲しみに耽るラーチ院長のもとに届けられたホーマーの手紙の一文である。 

今度は、恋に耽溺するホーマーの成長ぶりを感じ取った、ラーチ院長からの手紙が届けられる。 

ホーマーを知り尽くしているラーチ院長の、その観察眼の鋭さが窺えるシーンだった。

 それでも、その手紙のやり取りの中で、医師の仕事を継ぐことを求めるラーチ院長と、それを拒むホーマーの落差は、なお埋まっていなかった。




2  「僕の新生活が始まった」




季節が変わり、農園労働者たちが戻って来た。 

戻って来た農園労働者たちの中で、ローズ・ローズ(ミスター・ローズの娘/以下、ローズ)の具合の悪さに気づいたホーマーは、彼女の病気が妊娠に起因する事実を知って、援助しようとするが、拒絶される。 

「赤ん坊は産めないわ。自分で始末をつけるわ」 

ローズの煩悶が極まっていた。 

キャンディとローズ
そのローズにキャンディが接触し、彼女の煩悶の原因が、父親・ミスター・ローズの溺愛による近親相姦である事実が判明する。 

衝撃を受けるキャンディとホーマー。 

その噂を、直接、ミスター・ローズに尋ねるホーマーに対して、「俺は愛してる!娘を傷ものにはせん」と激しく反駁(はんばく)するミスター・ローズ。 

「彼女は妊娠しているぞ」 

このホーマーの一言に、今度は、ミスター・ローズが衝撃を受ける。 

そして、もっと衝撃的なニュースが、キャンディとホーマーを襲う。 

ビルマ戦線に従軍していたウォリー大尉が、日本の戦闘機に撃墜され、B型肝炎に罹患し、下半身麻痺になり、歩行困難な状態に陥ってしまったのである。 

「僕はどうすればいい?」
「何もよ」
「なりゆきを待てと?」
「いいえ。何もしないで。彼を待つわ。でも、会うのが怖い」 

暗鬱な未来しかイメージできないキャンディとの会話の中で、ホーマーは言い切った。 

「決心すべきなのは僕だ」

ミスター・ローズ
家出しようとするローズを、父親が必死に止めている現場をホーマーが見たのは、その夜だった。 

「僕は医者だ。だから、力を貸したいんだ」 

初めて、自己を規定したホーマーのこの言葉が、風景を一変させた。 

かくて開かれた、ローズに対するホーマーの中絶手術。 

それを傍で見て、懊悩するミスター・ローズ。 

無事に終了した中絶手術後、娘に刺されたミスター・ローズは、娘の堅固な意思を知り、家出させるのだ。 

そして、そのナイフで自分の体を繰り返し刺し、自殺するミスター・ローズ。 

娘のローズに罪を被せないためだった。 

「俺はきっちり、筋を通したいんだ。そうするには、規則も破る」

 この言葉が、ミスター・ローズの遺言となった。 

そんな折、ラーチ院長の訃報がホーマーに伝えられ、度重なる衝撃的な出来事の連射で激しく落胆し、嗚咽するホーマー。 

痛みを和らげ、入眠しやすいように、麻酔作用の効果を持つエーテルの常用が原因だった。 

慌てて身支度をして、セント・クラウズに向かうホーマー。

ホーマーの旅は終わったのだ。 

ホーマーの帰還で湧き上がるセント・クラウズの孤児たち。

ホーマーの帰還
帰還したホーマーは、そこで意外な事実を知らされる。 

ラーチ院長が旅に出る際に渡したホーマーの心臓のX線写真は、実は、心臓の悪いファジーのX線写真だったのだ。 

ラーチ院長がホーマーの出征を免れるために、ホーマーに嘘を教えたのである。 

ホーマーの心臓は健康だったのだ。 

「僕の新生活が始まった。名前も変わり、環境もすべて一新して、まるで夢心地だった。昔の思い出は、絶望ばかりに満ちている。どのくらい続いたかさえ、よく分らない。分っているのは、もう終わったということ」 

孤児の前で、ホーマーが読む小説のこの一文こそ、ホーマー自身が体験してきた「人生の重み」を、端的に象徴するものだった。 





3  「人生の重み」 ―― 「戦略的離脱」に打って出た青春が手に入れた至高の価値 





「人生の重み」 

これが、「若者の成長の軌跡」を描く映画のコアにある。

孤児として生まれながらも、「永遠の孤児」=「特別な子」として育てられたホーマーにとって、「セント・クラウズの秩序」の狭隘な世界の本質は、単に、体験的に馴致(じゅんち)させられただけの時間の累加でしかなかった。 

「人の役に立て」 

だから、ラーチ院長の言う、この言葉の「特別な意味・価値」を実感できないのは、至極(しごく)当然過ぎるものだった。 

ホーマーには、「セント・クラウズの秩序」以外の外部世界、即ち、外部世界が内包する物理的環境ばかりか、複雑で、幅広い関係性の様態を全く知らないのだ。 

「社会」を知らないのだ。 

従って、青春期に踏み込んだホーマーが、「人生の重み」のリアリティを感受できないのも瞭然たる事実なのである。

同時に、青春期に踏み込んだことで顕在化してきた若者の心の風景が、ラーチ院長との価値観の対立がコアとなって、自分の知らない「新しい世界」への願望の膨張にリンクした現象もまた必至だった。 

「僕は絶対に、堕胎などしたくないんです」
「女性を救う仕事だ。堕胎禁止法で、他では救われない女性を救うのだ」
「堕胎は先生が勝手に教えた」
「どんな人生でも、人の役に立て」 

短いが、価値観の違いが判然とする、ホーマーとラーチ院長との本質的な会話である。 

ラーチ院長との価値観の対立が中絶手術であった心理的背景に横臥(おうが)するのは、愛情深く育てた院長によって否定的自己像に結ばれなかったものの、望まれずに生まれてきたであろうホーマーの内側に生き残された、「お前は生まれてくるべきではなかった」という「前意識」(普段は意識に昇らないが、容易に意識化できる記憶で、無意識と分けられる)であり、この「前意識」が青春期に入って、彼の自立志向とリンクし、膨張していく複層的な感情であると、私は考えてる。 

思うに、中絶手術という艱難(かんなん)な仕事それ自身に、「特別な意味・価値」を実感できないまま、青春期に踏み込ん込んでいったホーマーは言い切った。 

「何か、別の道で役に立ちたい」 

だから、旅に出たのだ。 

そして、その旅で決定的に変わっていく。 

「人生の重み」とは、「人の役に立つ」特別な何かを、外部世界で存分に体験することによってしか得られないものだった。 

外部世界での体験によって、彼の自我の確立運動は充実感を感じながら結晶し、一回り大きくなって昇華されていく。

ホーマーを外部世界から閉ざし、「捨てられた子の世話や、望まれぬ子の出産を手伝わせた」(ラーチ院長の言葉)ラーチ院長自身も、その体験が包含する意味を理解していた。 

だから、カーテンの引いた窓から覗き、寂しさを押し殺して、ホーマーを送り出したのである。 

自分が世話をしてきた、孤児たちの気持ちを裏切ってまで跳躍した若者の旅は、決定的に成就したのだ。 

「お前は私の芸術作品だ」 

ホーマーを知り尽くしているラーチ院長の思いの深さは、全く揺るぎなかった。 

ハーバード大学医学部出身の、この気骨溢れる信念居士は、麻酔作用の効果を持つエーテルを常用するほど、心身ともに疲弊し切っていた。 

ラーチ院長の死は、「女性を救う仕事」に半生を賭けた、言わば、「殉教者」だったとも言える。

 この気骨溢れる信念居士の中枢に届くには、「人生の重み」のリアリズムを実体験することなしに分りようがないのだ。 

「人生の重み」のリアリズムに揉(も)まれることで、「お前は生まれてくるべきではなかった」という、ネガティブな「前意識」を浄化し得たのである。 

弥(いや)が上にも通過せねばならなかった、揺動する青春期のアイデンティティ獲得へのホーマーの旅の本質は、「僕の新生活が始まった」と言わしめるまでの「戦略的離脱」であると言っていい。 

ホーマーの旅は、この「戦略的離脱」の自己運動に成就したのである。 

「人生の重み」 ―― 「戦略的離脱」に打って出た青春が手に入れた至高の価値。 

そういう映画だったのだ。 

―― ついでに、この映画で繰り返し強調された「ルール」について書いておこう。 

「どんなに暑くても、屋根の上で寝ないこと」という、何ともばかばかしい「ルール」に象徴されているように、「黒人には、アホな規則が要るとさ」(サブリーダーの黒人労働者)という言葉によって、端的に、「不必要なルールなど無視すればいい」というメッセージを代弁している。 

それは、「規則を決めるのは俺たちだ。俺たちが毎日決めていく」と言い切ったミスター・ローズの言葉と同義である。

そして、壁に貼られた規則を書いた同じ白人のホーマーが、その紙を燃やすのだ。 

その行為は、中絶禁止の法を破ってまで、孤児を作らないために、使命感を持って中絶をするラーチ院長の行為と重なるものだった。 

「戦略的離脱」に打って出たホーマーが、「医師」と自己規定し、中絶手術を断行したことで、「規則を作るも破るも、最優先されるのは孤児の未来だ」と語った院長の思いの中枢に届いたのである。 

―― それにしても、押し並べて、ラッセ・ ハルストレム監督が描く人物造形は、二文法の「白黒思考」・「善悪二元論」から解放されている。 

見事なまでに、人間を自然に、普通に描くのである。 

「絶対善」など存在しないように、「絶対悪」もまた、存在しないのだ。 

ラッセ・ ハルストレム監督
いずれの人間も、長所・短所を併せ持っている。

 だから誤りも犯すし、援助行為にも振れていく。

 それが人間だからである。 

情緒過多にならず、人間をしっかり描くラッセ・ハルストレム監督の作品の中で、「サイダーハウスルール」は、「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」(1985年製作)に次いで、私の好きな映画である。 





4  妊娠中絶問題という、永久に解決し得ない「文化戦争」の風景

  



「コモン・ロー」(慣習・判例が法になる英米法系)の国・アメリカは、オリジナルの条文が少ない修正条項の国である。

 その中に、「ブラウン判決=ブラウン対教育委員会事件」(黒人と白人の分離教育と違憲にした)で有名な、「法の下の平等保護」を定めている「アメリカ合衆国憲法修正第14条」がある。 

その「修正第14条」は、「適正手続条項」=「デュー・プロセス・オブ・ロー」(刑罰は法の適正な手続きを必要とするという「罪刑法定主義」)を含み、この条項の中に、プライバシーの権利の問題が内包されている。 

この「修正第14条」のプライバシーの権利を根拠に、妊娠中絶の問題に関わる重要な判決がある。 

「ロー対ウェイド事件」判決という、米国最高裁が下した画期的な判決が、それである。 

貧しい未婚女性の妊娠中絶を禁じたテキサス州法を、修正14条で保護される「プライバシーの権利」の侵害であり、違憲であるとした1973年の判決である。(但し、妊婦の生命を救うというケースを例外) 

この「ロー対ウェイド判決」以後、キリスト教保守派を中心に、活発な中絶反対運動が全米で惹起する。 

プロライフ派によるオバマ候補への抗議行動・「孤帆の遠影碧空に尽き」より

判決を支持する「プロチョイス」(中絶賛成)と、判決を否定する「プロライフ」(中絶反対)の双方による、時の政権を巻き込む侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が激しく沸騰し、自らの立場を一歩も譲らず、今なお、アメリカ史における「文化戦争」の様相を呈している。 

アメリカ社会の中で、中絶の是非の問題は、「家庭の統治の問題」が根柢に横臥(おうが)するが故に、家庭という私的な存在が国家建設・維持という公的な領域に組み込まれていったことで、アメリカの妊娠中絶論争が「文化戦争」の様相を呈するのは必至だった。 

最初の妊娠中絶禁止法が、合衆国北東部にあるニューイングランド(北東部の6州の総称)のコネチカット州で成立したのが1821年。 

以降、1965年まで、合衆国の多くの州において、避妊は罪悪視され、違法化されていた。

 そして今、ノースダコタ州で、2013年3月に、米国で最も厳しい中絶禁止法が成立した。 

レイプやインセスト(近親相姦)による妊娠においても、中絶を認めないという信じがたき「州法」である。 

立憲君主制をとる英国と異なり、国王に代わる国家元首を国民が選挙によって選出する大統領制をとった合衆国は、「連邦法」と「州法」との関係の二元性がアメリカ法の特徴となっているが、「連邦法」の優位性(「合衆国憲法が言及している事項についてはいかなる州も反することはできない」という合衆国憲法第6条)が導入されているとは言え、各州が州憲法を有し、各州ごとに存在する裁判所で、州ごとに異なる法を運用するので、このような「州法」(日本の民法・刑法に当たる一般的な法律)が米国に存在するのである。

かくて、この妊娠中絶問題を巡る「プロチョイス」と「プロライフ」の「文化戦争」は、「家庭の統治の問題」に関わる、「宗教国家」・アメリカ合衆国の根柢に流れるキリスト教精神の堅固な要塞に行きついてしまうので、永久に解決し得ないのではないか。 

妊娠中絶問題という、「宗教国家」が抱える要塞の、永久に解決し得ない「文化戦争」の風景。 

そういうイメージだけが、私の脳裏にこびりついて離れないのである。


(2016年5月)




2 件のコメント:

  1. 本当に深い考察に頭が下がります。映画自体も見てみたいですが、もしかしたら、それ以上の体験をさせていただいているとも思います。「きみはいい子」という映画は特に良さそうですね。「そこのみにて〜」をDVDで借りましたよ。

    最近考えていることがあります。
    私は学生の時に、映画は5大芸術の集合体であると教わった記憶があります。岩崎昶の本に書いてあったのかもしれません。
    5芸術というのは、絵画・小説・音楽・彫刻・建築です。
    最近、やはり自分は音楽が一番好きなんだろうなと考えています。
    もちろん映画は大好きなんですが、音楽に関してやはり感動するというか充足感を感じることが多いような気がします。(それは映画を見ている時の音楽という意味ではなく、単純に音楽という意味です)
    私もどちらかというと、シリアスな映画には音楽や効果音はいらないのではないかと思っていますので、ハリウッド映画で大したアクションでもないのに音楽だけで盛り上げていこうという演出には本当に嫌気を感じますが、「キャバレー」や「ヘヤー」など音楽と上手くマッチングした映画には目がないのも事実です。

    実はザ・バンドというバンドを大学時代から好きだったのですが、「ラストワルツ」のDVDを誰かに貸したら帰ってこなくなってしまってから、ここ数年聞いていませんでした。
    ところが、先日機会があり、聞いていなかったアルバムを手に入れました。そうしたら、「うわーやっぱりいいわー」という事になり、最近はもっぱら懐かしのCDを出しては聞いているような日々です。
    やっぱり音楽はいいですね。
    まったく表題の映画と関係なくてすみません。

    「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」は良かったですね!今見たらまた違った印象があるのかもしれませんね。前に書かれた評論は以前に読みました。
    「ギルバート・グレイプ」は、ディカプリオの演技に圧倒されますね。
    それ以降はどうも遠ざかっていました。

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    1. 「サイダーハウス・ルール」で使われた音楽は、物語と見事にマッチしていて、主人公の気持ちを的確に表現する効果を生み出していました。私もハネケ監督のような、物語のシーンとして音楽を挿入するという映画が一番好きなのですが、ハリウッドの娯楽映画で多用されている派手な音響効果には、正直、うんざりします。
      今年観た映画のベストである「フォックスキャッチャー」では、映像を邪魔しない静かな音楽がとても感動的でした。主人公の若者の心の風景を、これほどまでに代弁している音楽はあまり見たことがないので、多分、一生忘れないでしょう。
      昨日、観終ったばかりの「リアリティのダンス」は情緒的ながらも、物語を貫流する物悲しさと溶融していて、これも忘れられない映画音楽になるでしょう。
      やはり音楽は、言葉に表せない人の心を揺さぶる、物凄いパワーを持つ芸術であると痛感します。



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