1 血染めの赤に塗り潰された、重くて、救いようのない瞑闇の風景の中で
既成の映画文法の押し付けを拒絶し、好き放題に撮った映画の面白さ。
それが、この映画に凝縮されている。
北野作品群の中で、「娯楽」と割り切って作ったこの映画が、私は一番好きだ。
恐らく、「ソナチネ」(1993年製作)で完成形に達する、北野武流バイオレンス映像のルーツが、この「その男、凶暴につき」という際立って特異な映画の中に、其処彼処(そこかしこ)に詰め込まれている印象が強いからである。
私には、この「其処彼処」という辺りが気に入っているのである。
致命的瑕疵(かし)に陥りやすい危うさの際(きわ)を突き抜けて、好き放題に撮り捲(まく)った映画の魅力こそ、この映画の生命線であると思うからだ。
―― 以下、梗概と批評。
「ホームレス狩り」で暴れ捲る、非行少年グループのリーダー格の少年を殴り倒した一件(後述)の翌日、港南署刑事課に勤務するその男は、新任したばかりの吉成署長から呼び出しを受け、現場を目撃しながら、現行犯逮捕しなかったことで注意を受ける。
新任の刑事・菊池に高級パブに誘われたのは、その夜だった。
その直後の映像に、儲けを求める覚醒剤の売人・柄本を殺した清弘(きよひろ)が登場するが、まもなく、我妻の「最強の敵」と化すシーンの伏線となっていく。
菊池を随行し、柄本殺人事件の現場に立ち会った我妻が、知り合いの刑事から1万円を借り、その金で自宅アパートに戻るが、そこで、退院してまもない灯が男を連れ込んでいる現場を視認したことで、男を送っていくという口実をつけて、抑制的な暴行に及ぶのだ。
「妹、もらってくれんだろうな」
相手にそのつもりがないのを知っていながら、曖昧な返答する男を恫喝する我妻。
そして、殺人事件で浮かび上がった男を逮捕するために向かう刑事たちの一行の中に、当然、我妻もいた。
しかし、金属バット以外の武器を持たない相手の男の激しい抵抗に、次々に倒されていく刑事たちの中で、怒涛の憤怒を抱く我妻の暴力は炸裂する。
菊池の制止も聞かず、同乗していたパトカーで男を二度も轢(ひ)き、更に、その男に暴行を加え続ける我妻。
この追跡シーンが突出して面白いのは、犯人を追走する我妻が、相手のペースについて行けずに、疲弊し、歩き始め、結局、菊池が運転するパトカーに同乗したり、或いは、拘束すべき被疑者にメンチ切るや、その被疑者に裸足で蹴られ捲(まく)ってKOされた刑事たちが、顔の傷を絵柄に出しながらも、何食わぬ顔して、再び追走劇の戦力に復元していったり等々、人間同士の格闘を極めてリアルに描き切ったところにある。
この面白さは、今まで私たちが散々見せられてきた、「格好いいスーパーマン刑事ドラマ」における綺麗事満載のステレオタイプの描写を、完璧に破壊し切った一点にあると言っていい。
しかも、その即物的な描写が自然で、類型的パターンの破壊を意図的に狙ったあざとさを感じさせないので、観る者を一気に惹きつける訴求力に満ちていた。
物語を続ける。
柄本の死から覚醒剤のルートを探っていく我妻は、売人・橋爪を恫喝することで、あろうことか、このルートに友人である防犯課長の岩城(いわき)が絡んでいることを知り、苦境に陥る。
その岩城の縊首(いしゅ)の死体が川の欄干で発見され、自殺と見せかけた殺人であることを確信する我妻は、必死に覚醒剤のルートを調べ上げていく。
しかし、この橋爪殺しを、覚醒剤の元締めである仁藤(にとう)から叱責される清弘もまた、その単独行動に不信を抱く仁藤にとって、いずれ消さねばならない一介のヤクザでしかなかった。
当然、岩城を殺したのも、この仁藤の指示による清弘の犯行だった。
橋爪と共に覚醒剤を売っていた酒井が、清弘の脅威に晒されていた現場を確認した我妻は、その酒井から、清弘の存在と、その背後にいる仁藤という男の名を聞かされ、自分が追い詰めていく敵の影が判然とする。
早速、行動に移す我妻。
「レストランを経営しながら、裏で覚醒剤と人殺しか」
港南署刑事課に連行した清弘に覚醒剤所持の容疑で逮捕し、殴る蹴るの暴行を繰り返す我妻。
そこには、岩城殺しへの憎悪が煮え滾(たぎ)っていた。
「兄弟揃って、キチガイか」
血に塗(まみ)れた清弘が放った、タブーの差別言辞である。
清弘への憎悪が瞬時に殺意に変換され、矢も楯もたまらず、発砲する我妻。
仲間の刑事たちに取り押さえられたことで、我妻の発砲事件は署内で隠蔽されるが、でっち上げの別件逮捕、監禁、拷問等々の無法な我妻の行動によって、吉成署長から辞表の提出を求められる。
このシーンでの長い「間」は、北野作品を貫流する「沈黙の中の心理戦争」を的確に表現していて、とてもいい。
翌日、「沈黙の中の心理戦争」に勝ったとは言え、免職処分を余儀なくされた我妻は、為すべき何ものもなく、街を彷徨する。
ここから、日付をまたいで、ほぼ24時間の、血染めの赤に塗り潰された、救いようのない狂気の世界が開かれていくのだ。
既に釈放されていた清弘から、後ろから、ナイフで腹部を刺される我妻。
そのナイフを左手で握り締め、凄惨な格闘になるが、清弘が放った銃丸で、たまたま居合わせた女性が犠牲となった。
その間、逃げる我妻が一息ついた暗い路地の一角の前に立ち塞がったのは、執拗に我妻を追って来た清弘。
顔面に拳銃を突きつけられた我妻は、左手から抜き取っていたナイフで清弘に刺し返し、再び逃走する。
刑事時代から、曰く付きの見知りの店で、拳銃を手に入れた我妻が向かった先は、仁藤の事務所だった。
その仁藤の弁明を聞くまもなく、我妻の銃丸は仁藤を撃ち抜いていた。
我妻は今、最も憎むべき清弘のアジトへと向かっていく。
あろうことか、「これから殺し合いになる」と言い放った、清弘の命令に恐れをなした手下から肩を撃たれ、立ち上がれない清弘の前に、今度は我妻が立ち塞がるのだ。
自ら銃丸を乱射されながらも、清弘に銃丸を連射し、完全に息の根を止めた。
「クスリ…クスリ…」
妹・灯の声が、我妻の耳に侵入してくる。
今や、誰も救える者がいない状況下にあって、我妻には、この究極の選択肢しか持ち得なかったのだろう。
幾分、ベタな印象を拭えないが、このシーンによって、この映画は、凡俗のサスペンス・アクション・バイオレンス映画を突き抜けてしまったと言える。
全てを破壊し、守るべき者まで喪わせるに至った男に、もう、心地よき未来などない。
未来がないその男が、後方からの銃丸で絶命したのは、物語の必然的な収束点だった。
「どいつも、こいつもキチガイだ」
男を殺した新開が終焉させた物語は、救いようのない瞑闇(めいあん)の風景の中で、仁藤の後釜になるのもまた、狂気の世界を巧みに擦り抜けた、クレバーな極道の約束された着地点だったのだろう。
血染めの赤に塗り潰された、重くて、救いようのない時間が終焉した瞬間である。
ラストシーン。
「岩城の代わり、できるのかね?」
「僕はバカじゃないですから」
菊池の「人格変容」の設定には些か違和感を覚えるが、今や、新開が仕切るビル内の社長室を去っていく菊池を、社長秘書の女性が怪訝(けげん)そうに一瞥するラストカットは見事だった。
一般市民の視線に収斂させることで、グロテスクな暴力が飛び交った物語の総体を客観化しているからである。
2 「野生合理性」という感情システムを内蔵する男の「約束された収束点」
暴力とは、「攻撃的エネルギーが、他者に対して身体化される行為」の総称である。
これが、「暴力」に対する私の定義である。
この把握に則って、「暴力」の本質を定義すると、「他者を物理的、或いは心理的に、自分の支配下に強制的に留め置くこと」であると言えるだろう。
では、本作で描かれた男の暴力の様態を、どう読み解けばいいのか。
それが、本稿のテーマになる。
文明社会の様々な脅威を人為的に制御し、緊急状況の頻度を著しく低下させた環境特性に対して、その文明社会に十全に適応できずに残存する、「野生合理性」(野生環境の特徴に適合した適応行動選択システム)という感情システムがある。
その非適合性が、常に臨戦態勢を作り出し、過剰なまでの「道徳的怒り」(人類は言語獲得以前から、「道徳的怒り」のような「複合的感情」を確保していた)の発現によって理性的思考を中断させ、誤作動を惹起させる行動の極端な形態に振れていく。
それが、可視的な権力を背景に、不可視的な「自己権限の範囲」といった「見えない縄張り」を作り出す。
厄介なのは、男の「権限的縄張り」が不可視的過ぎることである。
なぜなら、その「権限的縄張り」の情態は、外部刺激によって惹起された男の感覚系に依拠しているからである。
外部刺激によって惹起された男の感覚系である「権限的縄張り」の情態が、無媒介に、暴力に変換されてしまう典型的なシーンがある。
ファーストシーンである。
「明日、仲間連れて警察に来なさい」
我妻は、そう言ったのだ。
自首を強要して去っていく我妻が放ったこの言辞は、何となく、暴力の合理的埋め合わせのように思われるが、仲間を連れて警察に自首させるには、少年の家が知られた状況下で最も有効な恫喝であったと考えられなくもない。
なぜなら、公園で権力を可視化したら、非行少年グループに逃げられる確率を高めてしまったと言えるからだ。
何より、暴力の怖さを見せつけることが、我妻の行動の本質だった。
これは、間違いない。
これは、間違いない。
逆に言えば、現行犯逮捕したら、暴力を封印せねばならないのだ。
通常、この状況下では、背景にある権力を可視化し、事態収拾のための「合法的処置」という必須の手続きを経るのだが、この男の行動は異様、且つ、特異なものだった。
臨海部の公園における非行少年グループの反道徳的行動こそ、我妻流の「正義」に背馳(はいち)するものだったからだ。
そういう連中を、絶対許さない。
文明社会との非適合性を垣間見せる、「野生合理性」のイメージが色濃い感覚系が、我妻の人格のコアにある。
それ故、「野生合理性」という感情システムを内蔵する我妻には、感覚系が刺激される時の、暴力の発現への感受性が亢進し、「再燃性」が準備される現象が常態化しているのである。
「権限的縄張り」を侵害する者に対して「道徳的怒り」を起動させた、もう一つの重要なシーンを、私は想起する。
でっち上げの別件逮捕で、監禁・拷問を受けた清弘が放った差別言辞を受けた時の、我妻の反応の目立った異様さである。
「兄弟揃って、気違いか」
過剰な「道徳的怒り」という我妻の感覚系が刺激され、憎悪が瞬時に殺意に変換されてしまうのだ。
提示された映像を観る限り、妹・灯の存在こそ、男の「権限的縄張り」の中枢にあった事実が判然とする。
だから、絶対、相手を許さない。
その思いは分る。
不可視的過ぎる男の「権限的縄張り」の中で、妹・灯の存在だけは最も可視的だったからである。
「権限的縄張り」の中枢を侵害したヒットマンに対する、この男の「道徳的怒り」の発現は、抹殺以外の選択肢しかあり得ない。
この瞬間、男の思考は吹っ飛んでいる。
緊急スイッチが入ってしまったのである。
この我妻の行動様態は、まさに、「野生合理性」という感情システムの具現化である。
思うに、この行動様態は、清弘の傍らにナイフを置き、そのナイフを清弘に使わせることで、一気に殺害してしまうという行為に及ぼうとした我妻の、相当に乱暴だが、この男流の思考過程と対比を成している。
この時点での我妻には、狡猾な刑事を印象づける思考過程を窺(うかが)わせるが、その「非日常の日常」の緊張含みの「間」を生む風景が、瞬時に、跡形もなく吹き飛んでしまうのだ。
本来、人間の原初的な感情である「怒り」に基づく「攻撃的加罰機能」は、社会ルールによって抑制され、可罰機能は大幅に損なわれているが、男の場合、激しい「道徳的怒り」の発現によって「警告」機能が削り取られているから、状況次第で、「攻撃的加罰機能」が間髪を容れず、容赦なく暴力に変換されてしまうのだ。
まして、「権限的縄張り」の中枢を侵害されれば、男の暴発を抑える術など、どこにもない。
憎悪の対象となっている特定他者を抹殺する。
この悪に対する物理的な破壊力が、この男には目的的な行動様態と化しているが故に、常に、特定・非特定他者への暴力の発現への感受性が亢進し、「再燃性」が準備されているのである。
だから、極めて厄介なのだ。
しかし、「性質の残忍」という一点において、この男は乱暴だったが、決して「凶暴」ではなかった。
妹を性欲処理のため弄(もてあそ)ぼうとした、通りすがりの若者への抑制的な暴力と恫喝を含めて、一般市民への暴力の発現が皆無であった事実を想起すれば分るように、この男は、激しい「道徳的怒り」を惹起させる悪に対してのみ、「攻撃的加罰機能」のスイッチが入ってしまうのである。
それ故にこそと言うべきか、「野生合理性」という感情システムを内蔵する男の収束点が、特定他者を破壊し切った跡の自壊現象であったという凄惨な風景は、哀しくも、胸が詰まるような、殆ど約束された運命だったのだ。
3 「俺の歩きの絵を撮ったとき、おでこから上を消したんだよね」―― 北野武語録
「ハリウッドの、ひたすら殴り合っている映画なんて、大っ嫌いだもん。やり返せるような暴力は暴力じゃないと思ってるんだね。一発で終わりだよ。そういう、自分なりの拳銃に対する考え方とか、殴ることに対する考え方とかをパッと入れちゃっただけだな。それはやっぱり生理だよね」
確かに、彼の映画は死んでも痛みを随伴しないハリウッド映画や、日本の時代劇とは一線を画すと言っていい。
確かに、彼の映画は死んでも痛みを随伴しないハリウッド映画や、日本の時代劇とは一線を画すと言っていい。
「——『その男~』はひどい映画だよね。まあいいシーンもあるけどね。要するに情景がダメだから、もうエッセンスだけ繋げてやっちゃっただけだけど、ほんとは、もうちょっと描きたいとこはあったよね。仕切りもマズかったしね。台本だって、あれ全部頭から変えたんだもん。
撮ることになってから、二日くらいでシノプシス(粗筋のこと)書いて、あと台詞は現場でやって。そっからまたじゃんじゃん変わっちゃてるしね。俺、殴り合いとか嫌いだからね。もう一発でしとめちゃうの。殴られたり、また殴ったり、腹ガンガンやったり。あんなケンカ、嘘だと思うもん。一発で終わりに決まってんじゃねえかと思うから、ああいうの一切出さないね。いまだにダメだもん、殴られてぶっ飛んで立ち上がってきてなんてね、あるわけねえじゃねえかと思うよね」
「カメラが寄らないってのもさ、生理なんだよね。やっぱりその、引いた絵があって、寄るってことは、この人こんな顔でこんなこと思ってるんですよって説明になるじゃない?そうすっと限定してしまうっていうかさ、あの顔イヤだっていう客は降りてしまうって。(略)大して寄らなければ、観てるほうは自分が一番いいものを勝手に想像して観てくれるっていうとこあるから、だからあんまり寄らないんだよ」
「構図でもね、俺ね、そういう、こだわってるとこあるよね。俺の歩きの絵を撮ったとき、おでこから上を消したんだよね。おでこから下だけなんだよ。それを延々横動きで撮ったんだけど、あんときはやっぱりカメラマンがさすがに、こっちだけ下だけって言っても、どうしても上にあげんだよね。そんで、『どうして上げんだよ』っつたら、『ここから下だけって絵ないでしょう。私が笑われますよ』って。何言ってんだこいつと思ったね」
既成の映画文法の押し付けを拒絶するこのシーンは、序盤の出署シーンで印象的に描かれていた。
このシーンは、キレた時に「無思考状態」になる主人公の性癖をイメージしているように思われるが、定かではない。
(2016年5月)
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