1 疑心暗鬼で揺れる若き捜査官の良心を甚振り、利用する男の容赦なき狡猾さ
「俺、刑事になりたいんです」
自ら志願し、ロス市警の刑事部・麻薬取締課に配属された、妻子持ちのジェイクの言葉である。
彼の相棒となったのは、ベテラン刑事のアロンゾだった。
いきなり、「トレーニング」という名目で、麻薬売買の現場に立ち会い、マリファナを買った白人の若者に銃を突きつけ、逮捕する過程をジェイクに見せつけ、協力させて、その場は一件落着し、白人らを解放させるだけ。
アロンゾに誘導された車内で、路地裏でレイプされかかっている少女を視認したジェイクは、降車するや、二人のヤク中と格闘し、少女を救うに至るが、それを見ていたアロンゾは、レイプ男を叩きつけたばかりか、金を強奪する始末。
「3人の賢者」(市警の上司)から令状を買い取って、潜入捜査官の部下と共に、麻薬密売人・ロジャーを襲い、逮捕の代わりに、床下に埋めてある大金をせしめ、それを仲間で山分けした挙句、証拠隠滅のために、そのロジャーを撃ち殺すのだ。
この一件を収めるためにアロンゾが取った手段は、潜入捜査官がロジャーに撃たれたことで、ジェイクがロジャーを撃ち殺したという乱暴な行動だった。
一週間前からのシナリオだったのである。
防弾チョッキを着ていながら銃弾が貫通して、重傷を負った潜入捜査官と共に、アロンゾから騙されたことを知ったジェイクは、そのアロンゾが与える金を拒絶する。
それでも、「正当防衛」なので罪に問われないジェイクに対して、なお、自分の仲間であることを思い込ませようとするアロンゾ。
「3人の賢者」たちと、後述するヒスパニック系のギャングらの話によれば、事件の背景には、ラスベガスでロシアン・マフィアの幹部を殺害したアロンゾが、その代償として、100万ドルを支払うタイムリミットが迫っていたという由々しき事実があった。
そのため、アロンゾは「ロジャー襲撃事件」を捏造(ねつぞう)したである。
そして今、ジェイクを同行し、アロンゾはヒスパニック系のギャング・スマイリーの家に連れていくが、ジェイクを置き去りにし、本人は帰ってしまうのだ。
置き去りにされたジェイクは、ヒスパニック系のギャングらとポーカーをさせられるが、アロンゾの100万ドルのタイムリミットが今日である事実を知らされた挙句、ギャングらに監禁されるに至る。
ここで、ジェイクが置き去りにされた理由は、恐らく、「ロジャー襲撃事件」に絡む悪徳警官・アロンゾの秘密を知っていて、一切の証拠を残さないというアロンゾ流のあくどいやり方で、金を払って、自分に服従しないジェイクをギャングらに抹殺させようと企んでいたからだろう。
しかし、そのジェイクを救ったのは、例のレイプ未遂の14歳の少女だった。
ジェイクが拾い、携帯していた、件の少女の身分証明書を目にしたスマイリーが、少女の叔父だったことで、少女の確認を得るに至り、ジェイクが解放されたという顛末(てんまつ)だった。
解放されたジェイクは、アロンゾとの対決に向かっていく。
愛人宅にいたアロンゾに銃を向け、追い詰めるが、激しい銃撃戦が展開される。
狡猾(こうかつ)なアロンゾに徹底的に甚振(いたぶ)られるジェイク。
「お前は何もできねぇさ」
アロンゾから奪った金を証拠にして、反撃するジェイクはアロンゾに銃を向け、今度こそ、「警官を殺す警官」になろうとするが、アロンゾの挑発的言辞に反応し、アロンゾの尻を撃つのみ。
「俺は全能だ。俺がこの街を仕切ってるんだ!」
全てを失った瞬間である。
100万ドルのタイムリミットを切ったことで、待ち伏せしていたロシアン・マフィアによって被弾し、蜂の巣になったアロンゾの死体が晒されていた。
2 「公正」の観念によって葬られる、「上下関係で固められた、構造化された秩序」
典型的なバディムービー(二人組を主人公にした映画)である本作は、根本的に並立し得ない自己基準の爛(ただ)れ切った「ルール」と、それに背馳(はいち)する「正義」の確執によって、一方が他方を間接的に葬ってしまう物語である。
また、「正義」とは、そのアロンゾによって、「トレーニングデイ」を強いられるジェイクが拠り所にする観念系のこと。
ここで改めて、「正義」(JUSTICE)という曖昧な概念について整理したい。
ここでは、「正義」を社会に応用した「社会正義」(SOCIAL JUSTICE)の視座で考えれば 分りやすい。
個人の道徳的規範の価値の高さに関わる「善」と異なって、「正義」は他者との関係性の中で問われる価値であるので、「社会正義」という概念こそ至要な視座となる。
この視座で、「不正義」の意味を考える時、その答えは、「ルールなきアナーキーな状態」であると思われる。
私たち人間が、「ルールなきアナーキーな状態」に置かれたら、一体、どうなるか。
強い者勝ちの「弱肉強食」の世界が跋扈(ばっこ)するのだ。
思うに、人類は言語獲得以前から、「道徳的怒り」をコアにする「複合的感情」を手に入れていたという仮説が説得力を持つのは、それが、「正義」のルーツになると考えられるからである。
それ故、「弱肉強食」の世界が跋扈すれば、「公正」の観念が削り取られ、「社会的弱者」は切り捨てられてしまうだろう。
従って、「正義」とは、この「不正義」の状態を反転させた状態であると、私は考える。
だから、「公正」の観念をコアにした、「ルールに守られ、秩序を維持し得る状態」。
これが、「正義」である。
ここで、映画に言及する。
「羊を守るために、狼を捕まえる」
これが、アロンゾのルール。
特定エリアでの「構造化された秩序」が稜線を伸ばしているアロンゾのアイデンティティが、ここに垣間見(かいまみ)える。
この「構造化された秩序」の本質は、「上下関係で固められた、構造化された秩序」である。
当然のことながら、そこでは「公正」の観念が削り取られている。
従って、この秩序は「不正義」であると言い切れる。
こんな男でも、麻薬捜査官になった当初は、「世界を救える」と信じた時代があったらしいが、排出不能の毒素に塗(まみ)れていくのは、あっという間だった。
毒素に塗れていくことで、「羊を守るために、狼を捕まえる」と豪語したアロンゾのルールの中枢は、「狼」に化けると同時に「豚」にも堕ちるという、「約束された不正義」に支配されている。
それが、「上下関係で固められた、構造化された秩序」の爛れ切った裸形の相貌である。
それ故、アロンゾのルールは独りよがりのルールなので、その本質は、「ルールなきアナーキーな状態」と言ってもいい。
「ロシアン・マフィア殺し」の代償で、100万ドルを用意しないと消されるという、退(の)っ引きならない危機に瀕していたアロンゾが取った手段は、「不正義」の極点とも言える「ロジャー襲撃事件」という紛うことなき犯罪だった。
もとより、独りよがりのアロンゾのルールは、「豚」と化した自己基準の腐敗の極みによって、「ルールなきアナーキーな状態」を露わにしていたので、退っ引きならない陥ったら、紛うことなき犯罪にまで暴走するのは自明の理である。
一方、「社会から危険な麻薬をなくすため」という有り勝ちなモチーフで、警察官としての「公正」の観念を有し、自ら志願して、麻薬捜査官に転属したジェイクが「トレーニングデイ」を強いられたのは、身の不覚というより、単に不運でしかなかった。
だからこそ、アロンゾによる「アンカリング効果」(提示された情報が判断に影響を及ぼす心理傾向)が垣間見られる余地すらなく、あまりに長過ぎる、「トレーニングデイ」の凝縮された時間の渦中に巻き込まれ、当惑するばかりだった現実に同情を寄せるのみである。
麻薬捜査官としてのルールを持ち得ず、いかようにも、「構造化された秩序」など内化し得る訳がないのだ。
新米麻薬捜査官のジェイクが拠り所にした判断の基準が、「公正」の観念以外になかったのは当然過ぎることだった。
然るに、ジェイクが拠り所にした、警察官としての「あるべきルールに守られる秩序」という観念の砦は、アロンゾが依拠する、「上下関係で固められた、構造化された秩序」の爛れ切った風景の中では、あまりに脆弱過ぎた。
その結果、ジェイクは徹底的に甚振(いたぶ)られ、命の危機に晒され続けるのである。
彼の命が保持し得たのは、そこだけは、只々、運が良かっただけである。
その運によって、アロンゾに対峙するが、命の危機に遭っても、ジェイクは天敵を殺害するための銃の引き金を引かない。
引けないのだ。
「警官を殺す警官」になることを、一貫して拒絶しているからである。
だから、「疑似相棒」・アロンゾの犯罪の証拠を突きつけて、内部告発するという危険性の高い選択に振れていく。
そういう男として、ジェイクは人物造形されているのである。
「公正」の観念をコアにした、「社会正義」の準拠枠として人物造形されたジェイクは、それ故こそ、易々(やすやす)と殉職してはならないのだ。
詰まる所、この映画は、「上下関係で固められた、構造化された秩序」を、「公正」の観念をコアにした、「社会正義」によって間接的に葬ってしまう物語だったのである。
(2016年5月)
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