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2016年8月23日火曜日

真夜中のゆりかご(‘14)    スサンネ・ビア


<「理想自己」と「現実自己」、「現実自己」と「義務自己」の乖離が哀しみや不安・恐怖を生む危うさ>





1  基本ヒューマンドラマ・一篇のサスペンス映画の鋭利な切れ味





「出勤した先に、昔、逮捕した男がいて、トリスタンっていうクズ野郎だ。奴に息子が生まれてた。その子は自分の糞尿にまみれ、凍えてたよ。それで君に電話したくなって。つい、かけたんだ

デンマークの湖畔の一角に住む、誠実な刑事・アンドレアスが、相棒シモンと組んで踏み込んだ、薬物依存症のトリスタンの家に、ネグレクトされた乳児・ソーフスを発見し、その遣り切れない思いで妻・アナに電話をかけ、その思いを吐露する。

彼にはアナとの間に、ソーフスと同様の乳児・アレクサンダーがいて、他人事に思えなかったのである。(トップ画像)

トリスタンとサネ
ソーフスを心配するアンドレアスは、福祉施設への保護を要請するが、トリスタンだけがヤク中で、妻のサネが薬物中毒ではなく、「子供の発育に異常がない」という理由で、ソーフスの保護は却下される。

また、アレクサンダーの夜泣きが続き、散歩に連れて行くアナと別れ、酒癖が悪い相棒のシモンを引き取りに行くアンドレアス。

「信じられない。子供がいるなんて。ピンとこないの」
「あんなに夜泣きしてるのに。後悔してる?」
「何てこと言うの?この子は、世界で一番大事な宝物よ」

そう言った瞬間、「よくも、ひどいこと!」と叫び、夫を攻撃するアナ。

しかし、夜中に悲劇が起こった。

「乳幼児突然死症候群」(SIDS)なのか、アレクサンダーの呼吸が止まっていることに気づき、アナは動顛する。

「起きて!お願いだから…嘘でしょ!いやよ!」

アナの叫びに起こされたアンドレアスは、救急車を呼ぶように妻に求めるが、連絡する行為を拒絶するアナ。

通報しようとする夫に、なお、「引き離さないで」と懇願するアナ。

「息子を連れてったら、自殺する!子供を奪われたら死ぬ」

ここまで言われたら、もう、アンドレアスは何もできない。

通報しないという約束をして、アンドレアスはアナに安定剤を飲ませ、何とか就眠させる。

ここからのアンドレアスの行動は常軌を逸していた。

迷い、懊悩した挙げ句の果ての行動だったが、アレクサンダーの遺体を車に乗せ、ドラッグ中毒のトリスタンの安アパートに行くのだ。

トリスタンの家では、いつものように、荒れ放題の室内に、ネグレクトされた乳児・ソーフスがいて、トリスタンとサネは眠っている。

アンドレアス
その間、アレクサンダーの遺体をソーフスと取り替えてしまうアンドレアス

「アレクサンダーじゃない。別の赤ちゃんだ。…実は、あの二人の子供だ。前に話したろ。トリスタンたちの子さ。アレクサンダーを置いて、この子を連れて来た」

我が子の死を受け入れないアナは、アレクサンダーへの拘りを隠せず、夫を厳しく追及する。

「もう、いないんだ」
「アレクサンダーに会いたい」

トイレに駆け込み、吐き出し、崩れ倒れてしまうアナ。

「僕らは息子を失い、奴らは息子を殺す。耐えられないだろ」とアンドレアス。
「私は耐えてるわ」とアナ。

我が子の死が、他人の子供の〈生〉に切り替えることなどできない、アナの精神的危機を救うために起こした犯罪に煩悶しつつも、極限状態に捕捉されたアンドレアスには、それ以外の手段が思いつかなかったのだろう。

一方、アレクサンダーの遺体と取り替えられたソーフスの死を目の当たりにし、動顛するトリスタンとサネ。

「ソーフスじゃない」

サネは、きっぱりとそう答える。

「いい加減にしろ。死んだら、顔は変わるもんだ。お前のせいで、ムショに戻されてたまるか!この計画はうまくいく。協力しろよ」

サネの首を絞めながら、恫喝するようにトリスタンは言い包めるが、サネは動顚するばかりだった。

言うまでもなく、トリスタンは乳児虐待の罪で仮釈が取り消され、逮捕されることを恐れているのだ。

そして、トリスタンの置かれた状況を察知し、彼が警察に届けることがないだろうと、アンドレアスは読んでいた。

「まず、僕たちは疑われない」とアンドレアス。
「完全犯罪?」とアナ。
「いや、犯罪じゃない。クズ野郎が子供を殺すこと、それが犯罪だよ。僕らは子供を救うんだ」

アンドレアスとアナ
夫の言葉に納得する妻。

そこに、アンドレアスの様子の変調を感じ取り、相棒のシモンがやって来た。

「アナの体調がよくないんだ」

そう言って、シモンを帰らせた直後に、自分のせいにされたアナは狂ったように激怒する。

一方、トリスタンの言う「計画」とは、死んだ子供を隠すために誘拐事件をでっちあげる狂言誘拐だった。

その捜査を担当するアンドレアスに、サネは「誰かが連れ去った」と答えるのだ。

このサネの言葉に不安を抱いたアンドレアスは、トリスタンを追い詰め、赤ん坊の所在を問い詰めていく。

「バカげた作り話だ」とアンドレアス。

サネの尋問を求めるシモンに同意し、二人の刑事はサネを尋問するに至る。

サネの尋問(左はシモン)
ここでもサネは、「ソーフスは生きている」ことを強調し、きっぱりと言い切った。

「子育てする資格のない悪い母親に見えるけど、私は虐待なんかしない」

この間、少し落ち着きを取り戻したように見えたアナは、ソーフスを外に連れ出し、トラックを止めて、同乗を求める。

心配するトラックドライバーに、アナはソーフスを預かってもらうのだ。

そのアナが、橋から川に身を投げてしまったのは、その直後だった。

信じがたい事実を知り、驚愕するアンドレアス。

相棒の置かれた状況を案じて、シモンがアンドレアスを訪ねても、もう、会話が困難な状態になっていた。

この相棒のシモンが今、打って変わったように変身していく。

あれほど好きな酒を完全に絶ち、本来の職業としての警察官に立ち返り、アンドレアスと共に、事件の真相を追及していく。

かくて、トリスタンを自供に追い込み、ソーフスがトイレの床で死んでいたことを認めさせた。

同時に、サネの尋問を繋いでいく。

ソーフスの死を一貫して否定するサネの反応には、まさに、ソーフスの母親としての皮膚感覚的な記憶が復元しているのだ。

このサネの尋問におけるアンドレアスの消極的態度に、肝心の相棒・シモンが疑念を深めていく。

発狂するほど煩悶するサネの言動を目の当たりにし、自分が犯した行為に対する贖罪意識が垣間見えるアンドレアスもまた、誰にも話せない心的状況下で、人知れず、悩み苦しんでいる。

ソーフスの遺体を森に埋めたことを自白するトリスタン。

保釈中であるが故に、虐待の現実を含め、一切をサネの責任にするトリスタンの供述が真実でないことを知っているアンドレアスが、取調室でキレてしまい、トリスタンに暴行を振るうのだ。

この一件で、上司から休養を促され、カウンセリングを受けるように指示されるアンドレアス。

トリスタンとシモン
そして、森の捜索によって遺体が見つかるに至り、検視報告が明日になる事実をアンドレアスに連絡するシモン

遺体の死因がCTとX線写真によって、「硬膜下血腫」(こうまくかけっしゅ/頭の怪我によって、脳の表面に血液が溜まる病気)による出血と特定される。

更に、故意に揺すったときの肋骨骨折があり、「誰かが乳児を激しく揺さぶった」(「揺さぶり症候群」)という監察医の報告を、いの一番に聞いたアンドレアスは衝撃を隠せなかった。

ことの一切が、自殺したアナの犯行である現実を知り、ンドレアスは完全に常軌を逸し、自己を失ってしまう。

アナの狂気の振る舞いは、ネグレクトの事実を隠蔽するためのものだったのだ。

アンドレアスとシモン
シモンが相棒に手を差し伸べることを求めても、今や、聞く耳を持たないンドレアス。

そのシモンは、アレクサンダーと一緒にスマホで撮った画像を確認し、監察局のパソコンのデータをチェックする。

その結果、死んだのはアナの子供・アレクサンダーである事実を確信するに至る。

一方、ンドレアスはソーフスを抱き、母やアナの両親の止めるのも聞かず、車に乗り、水辺にあるリトリート(隠れ家)に入り込み、ソーフスに寄り添い、「父と子」の関係を仮構し、ひと時を過ごしていた。

そこにシモンが現れ、親友同士の会話を繋いでいく。

「こうするのが、正しいと思ったんだ」とアンドレアス。
「間違いだったな」とシモン。
「アナの心に気づかなくて…夜泣きで僕を起こしたとき、あの子は助けを求めてたんだ」
「世間は理解するさ。でも、子供は返せ」
「また虐待される」
「施設で保護されるよ。お前は関われない。職は失うが、実刑はないだろう。執行猶予だ」
「サネに会って謝りたい。連れてってくれ」

かくて、ソーフスを連れ、サネの前に現れるアンドレアス。

サネ
ソーフスをしっかり抱き、嗚咽するサネ。

「サネ、許してくれ」とアンドレアス。

小さく頷くサネ。

ラストシーン。

数年後、アンドレアスはホームセンターで働いていた

そこにサネが現れ、ンドレアスに気づくことなく、買い物をしている。

そこに、一人の幼児がンドレアスの視界に入った。

名前を聞くと、「ソーフス」と答える。

そのソーフスをまじまじと見て、柔和な視線を送るンドレアス。

安堵しているのだ。

今、ソーフスは、ネグレクトとは無縁の、邪気のない幼児期を過ごしているのである。

その構図には、既に、服役中のトリスタンと別れ、温もりのある母子家庭を送り、幸福な風景を想像させるに余りあるイメージの余情を残し、基本ヒューマンドラマの一篇のサスペンス映画が閉じていった。





2  「理想自己」と「現実自己」、「現実自己」と「義務自己」の乖離が哀しみや不安・恐怖を生む危うさ





ここでは、アナの複雑な心理的風景を端緒に、「乳児取り換え事件」(以下、「取り換え事件」)の悲劇を考えてみたい。

アナ
自分の孫であるアレキサンダーの顔を全く見に来ない母への反面教師とすべく、アナは「我が子」・アレキサンダーを溺愛しようと思ったのだろう。

この認識が、私のコアにあるので、この文脈で本作を読み解いていきたい。

何より、夜泣きの日々が常態化することで、それでなくても自我が脆弱なアナには、「理想自己」(良い母親になる)と「現実自己」(ストレス耐性が弱い)との乖離が埋められず、言いようがない「哀しみ」が生まれてしまう。

そして、「現実自己」(ストレス耐性が弱い)と「義務自己」(良い母親にならねばならない)の乖離が、より一層の不安や恐怖を生んでしまうのだ。

この心理を「セルフ・ディスクレパンシー理論」(コロンビア大学の教授・トーリー・ヒギンズが提示)と呼ぶが、アナの脆弱な自我を呪縛しのは、まさに、この現代心理学の興味深い仮説で説明できる「何ものか」である。

「何ものか」の中枢には、アナへの養育に無関心だった、彼女の母親のネグレクトの風景が垣間見える。

哀しいかな、アナは、彼女の母親のネグレクトの風景を繋いでしまったと思われるのである。

未だ実証的ではないと言われつつも、これを「虐待のチェーン現象」と呼んでもいい。

ネグレクトを被弾し、養育された子供は、自らが母親になったとき、我が子に虐待を加えやすいという行動傾向現れるという仮説である。

自らが受けたネグレクトの記憶が心的外傷と化した者が、自らが母親になり、唯一の養育の責任を負うなどという、ネグレクトの記憶が噴き上がってくる由々しき事態に立ち会ったとき、我が子の過剰な心理的距離感を意識してしまい、例えば、我が子の夜泣きの常態化に物理的に近接することで、ごく日常的な夜泣き」の現象を、母親である自分に対する「攻撃性」と感じ取ってしまう。

不安定な親子関係を体験し、虐待への怯(おび)えを持つような生活史を背負ってきた子供が親になった時、十分に愛されず、ネグレクトされた幼児期を想起せざるを得ないからである

「自分は虐待を受けて辛かった。だからこそ、自分の子供には愛情を注ぎ続けよう」

恐らく、このような観念が、アナの出発点にあった。

少なくとも、観念的には、「誰よりも慈母であろう」と夢想したに違いない。

だから、そんな妻と共有する時間の中で、夫のアンドレアスはアナの心遣いを疑わなかった。

「君は子供を持つのが夢だった」

心優しいアンドレアスの言葉である。

全く邪気のないこの言葉は、不安定な親子関係を体験してきたアナは、却って、精神的な重荷になっていく。

この延長線上に、悲劇が起こった。

「揺さぶり症候群」である。

一つの看過できない悲劇は、特定他者を巻き込む次の悲劇に連鎖る。

アンドレアスによる「取り換え事件」である。

この時点で、アンドレアスは、二つの大きな誤りを犯している。

妻の「悲嘆」に寄り添い、それを限りなく軽減しようと努力したこと。

これは間違っていない。

ところが、妻の「悲嘆」の原因が、代替不能の「対象喪失」の「悲嘆」であるにも拘らず、「我が子の死」を、単なる「子供の死」に変換させる行為に及んだこと。

「私に育てられるかしら。不安だわ。子育てに向いてない」

夫婦が乳母車に乗せたソーフスをあやしながら散歩していたとき、アナはそう言ったのだ。

この言葉の重みのルーツを、アンドレアスは誤読してしまったのである。

この致命的な誤りが一つ目。

因みに、この時点で、アンドレアスがアナの「悲嘆」の真相が理解できていなかったことを考慮してもなお、彼が犯した誤りは、明らかに、一つの由々しき犯罪行為であった。

そして、もう一つの誤り。

それは、「取り換え事件」という犯罪を犯したアンドレアスが、その「取り換え事件」の対象であるソーフスの母・サネの母性感覚を理解できていなかったこと。

自分で産み、育て、なお且つ、ドラッグ中毒に冒されていないさサネにとって、我が子とのスキンシップによって得た皮膚感覚を忘れようがないのだ。

アンドレアスは、男性目線で、この重大な犯罪に及んでしまったのである。

同情すべき余地はあるが、もう、取り返しがつかなかった。

夫婦間に、少なからず漂流していた「感情の落差」。

この大きさに、殆ど完璧な「善人」であるが故に、アンドレアスは致命的な誤りを犯してしまったのである。

人間の「善」と「悪」の境界が、あまりに見えにくいのは、それが一つの人格の中で共存しやすいからである。

「善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。(中略)これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である」  

これは、人間の行為の本質を政治に援用した、ドイツの社会学者・マックス・ウェーバーの「職業としての政治」(講演録)の中の言葉ある

マックス・ウェーバー
妻を喪い、職業を失い、拠って立つアイデンティティの基盤を失った果てのアンドレアスが、ラストシーンで救済されたのは、「善」と「悪」の境界で揺動した男が最後に示した、「ソーフスへの無限抱擁」から「ソーフス返還」に至る「善」の行為が、とりあえず、作り手と神に認められたからあると解釈しておこう。





3  優しさとか思いやりの感情は成熟した自我から生まれる





ここから、一般論的に言及していきたい。

WHO(世界保健機関)の福祉プログラムの根幹になっているコンセプトに、「母性的養育の剥奪」という概念がある。

養育者による愛情に満ち溢れた世話を受ける機会を喪失(母性喪失)すると、件の乳幼児に発達遅滞の現象が見られるという意味で、「愛着理論」(養育者と子供との間に形成される情緒的な絆の重要性を説いた仮説)で有名なジョン・ボウルビィ(英国の精神科医)によって定式化され、今では、発達心理学の常識となっている概念である。

ここで切要なのは、アンドレアスにも体現「ソーフスへの無限抱擁」されたように、「養育者」=「母親」ではないという把握である。

ジョン・ボウルビィ
当初、ジョン・ボウルビィは、「養育者」=「母親」であると考えていたが、「『母性愛』こそ至上の愛」であるという手強い物語が近代の発明である事実を喝破した、エリザベート・バダンテールらの著作(「母性という神話」)によって、「母性本能」が幻想であることはもはや自明であり、ボウルビィも、のちに修正している。

「母性本能」は「学習行動」であって、それが生来的な能力であるという生物学的な根拠もないのだ。

「母性愛」などという本能を、私たち人間が持ち合わせていないことくらいは、子供を育ててみれば経験的に自明であるのに、それでも、この「物語」に固執するのは、可愛くない子供を育ててしまった恐怖を中和する防波堤にしたいからとも考えられる。

この物語は、言ってみれば、情緒不安定な若い母親を家庭から逃亡させないための巧妙なトリックとも思える。

優しさとか思いやりの感情は、何よりも、「成熟した自我から生まれる」という峻厳な現実を確認しておこう。

従って、「三歳児神話」(三歳頃まで母親によって養育されなければ、子供に悪影響があるという仮説)の理論的根拠の希薄化と通底するが、「養育者」と乳幼児との基本的信頼関係が、母親以外の者でも可能であるということである。

「養育者が赤ちゃんを可愛いと感じる愛情ホルモン=抱きしめホルモン」

即ち、その基礎研究は緒に就いたばかりだが、この「愛情ホルモン」=「オキシトシン」の発見は画期的であり、最近では、妊娠を経験していない女性のみならず、男性にも分泌されている事実が確認されている。

母親がいなければ、父親が「養育者」になる。

両親ともにいなければ、親に代わる他の大人が代行する。

それだけのことである。

思うに、ジョン・ボウルビィの「愛着理論」が切要なのは、乳幼児にとって「養育者」であり、乳幼児に責任を持つ大人の存在こそが、乳幼児の愛着の対象者であるが故に、最も重要な「安全基地」であることを示す仮説であるからである。

「養育者」の存在が乳幼児の視界に収まっていれば、とりわけ、幼児の愛着システムが弛緩し、幼児の自由な探索行動を可能にする事実は、米国の精神科医・マーガレット・マーラーの「分離ー個体化理論」(乳児が母親との一体感から、徐々に分離していく過程を4つに分けた理論)によって検証されている。

以上の言及をベースに、本作のキーワードである育児ノイローゼの深刻さについて考えていきたい。

育児ノイローゼ(イメージ画像)
まず、育児ノイローゼは、誰にでも起こり得る可能性があるということだ。

自分を見失い、自らを制御し得ず、我が子を傷つけてしまうことで、自分を傷つけてしまう負の連鎖。

往々にして、これがあるから厄介なのである。

子供が情緒不安定になるのは言わずもがなだが、その状態を野放しにしておくとで、重症化してしまう危険性があるので、この負の連鎖を食い止めねばならない。

原因には、妊娠継続を助けていた女性ホルモン(子宮を大きくし、乳管を発達させるエストロゲンと、母乳の分泌を促すホルモンとしてのプロゲステロン)の分泌量が多さが、産後、急激に減少することで、母体のダメージが顕在化するという生理的現象が挙げられる。

特にエストロゲンが激減することで、精神の安定をサポートする脳内神経物質・セロトニンの働きが悪くなる生理的現象の変化は重要である。

ストレスが溜まりやすく、情緒不安定になり、苛立ちを抑えにくくなるのである。

些細なことでも敏感に感じ取り、悲観的な思考に嵌って、悲しくなって涙が止まらなくなったというケースも多い。

マタニティブルー(産後うつ)である。

一人で悩んで、一人で背負ってしまう。

これが問題なのだ。

本作のアナには、このマタニティブルー(産後うつ)の背景に、ネグレクトの記憶が心的外傷と化していると想像し得るから、余計、深刻だった。

それ故に、アナの自死ほど痛ましいエピソードはなかった。

前述したように、アナの自我には、「理想自己」(良い母親になる)と「現実自己」(ストレス耐性が弱い)との乖離が埋められず、言いようがない「哀しみ」が生まれてしまう構造性を持っていた。

そして、「現実自己」(ストレス耐性が弱い)と、ネグレクトを起因になったと思われる、「義務自己」(良い母親にならねばならない)との乖離が、より一層の不安や恐怖を生んでしまったのである。

観ていて、何とも辛い映画だった。

(2016年8月)



2 件のコメント:

  1. こんにちは。
    〜「母性本能」は「学習行動」であって、それが生来的な能力であるという生物学的な根拠もないのだ。〜
    〜優しさとか思いやりの感情は、何よりも、「成熟した自我から生まれる」という峻厳な現実を確認しておこう。〜

    そうなんですね!ちょっと驚きです。
    私はてっきり母親には男性よりも強い母性があって、いろいろと大変な事もやってのけるのだと思っていました。
    でも、「成熟した自我から生まれた優しさの感情」と考えれば、男性は女性に頭が下がる事ばかりですが、確かにそうなのかもしれません。
    きっと全ての母親が思い悩んで、自分の中から自発的に優しさを見いだす作業をしているのかもしれませんね。それほど子育ては実際過酷な事だろうと思います。男性はどうしても良い側面しか見ないので、私のようないい加減に対応してきた人間には本当に分からない事ばかりです。

    一つ思い出した事があります。
    子供が生まれて一ヶ月後くらいでしょうか。帰宅した時に妻の顔がすごく腫れていた事がありました。
    本当にびっくりするくらいブヨブヨになっていて、ちょっと理由が分からず、妻も動揺していました。
    私も全く理由が分からず、「変な物でも食べたか?」と無神経な事を聞いていましたが、あれは間違いなく極度のストレスによって発症したものだったと今は思っています。
    あれほど思い悩んで、それでも自分しか目の前の子供の面倒を見る人間はいないのだと、腹をくくって全てに対応出来る母親になった女性の強さを、私のような男が「母性本能ってすごいね」と片付けてしまう。
    そういう現実を私も経験してきていますので、ちょっと今回の話しはいつも以上に考えさせられた重いテーマでした。

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    1. コメントをありがとうございます。
      すべての女性には、プロラクチンという生得的に組み込まれた母乳の分泌を促すホルモンがあることで、子育てする生物学的根拠を持っています。しかし、それがどのような環境においても、いわゆる、「母性本能」として一律に発現するとは限りません。まして、文化や養育環境に影響を受けやすい人間の場合、一つ一つの行動が本能レベルで制御されるものではないということです。子育ても、その例外ではありません。マルチェロヤンニさんの言う通り、「母性本能ってすごいね」と片付けてしまえない大変さを共有することが重要なのでしょう。

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