ほぼ完成形のエンタメムービー。
面白過ぎて、快哉を叫びたいほどだった。
完璧に伏線を回収する構成力と人物造形力、演じる俳優たちの完璧な表現力。
近年の邦画で、これを超えるコメディは出ないと思わせる説得力が、本作にはあった。
前半の緩やかな展開から、記憶を復元させた「殺し屋」が支配する物語の、予測困難な変転とする展開が、得てして、スラップスティックに流れやすい、複雑に交叉する状況を収斂させていくリスクを克服し切った、ある種の「シチュエーション・コメディ」の腕力に、正直、脱帽する。
以下、簡単な梗概。
失恋自殺に失敗した三文役者の桜井は、たまたま見つけた銭湯券で銭湯に入るが、そこで、一人の男が石鹸で足を滑らして頭を強打し、救急車で搬送された事故のどさくさに紛れて、ロッカーの鍵をすり替えて、その男に成り済ます。
元々、悪意がなく、男に成り済ました桜井は、あろうことか、男の高級車を乗り回し、財布の大金を使って、これまで貯め込んだ借金を返済していく。
一方、病院に運ばれた男は、神経機能麻痺に起因する軽度の記憶喪失と診断され、以降、桜井にポジション・チェンジした男は、偶然、父親の見舞いに来ていた、婚活中の女性編集長の香苗と出会い、退院後も、彼女のサポートを得て、必死に記憶を取り戻そうと努力する。
実は、男の正体は、依頼主も顔を見たことがない、伝説の「殺し屋」・「コンドウ」だった。
桜井だと思い込んでいる「コンドウ」は、自分が役者である事実を知って、真面目に努力する日々を送っていく。
「コンドウ」を婚活の対象人格と特定するに至った香苗を交えた、三者三様の人生模様が、そのコンドウに「殺し」の依頼をした極道の工藤が複雑に絡み合って、先の見えない変転著しい物語が展開していく。
2 「努力こそ最強の能力」という思考を持ち得る者たちと、粗慢なる男との際立つ能力差
本作の中で、私にとって印象深いシーンは、二つある。
「コンドウ」(山崎)と三文役者の桜井 |
あまりに面白いから、これを再現してみる。
役者とは思えぬほど、リアリティの欠如したアクションで、「殺し屋」にダメ出しされる桜井。
「何だ、それ?いいか、突然、腹を刺された場合、そんなに早く体は反応できない。まず、衝撃。それから事態の把握。緊張。それから、痛みだ。もう一回やってみろ!」
「衝撃」⇒「事態の把握」⇒「緊張」⇒「痛み」。
この流れによる「死」のリアリティの欠如を、「殺し」のプロから、的確に指摘されるのだ。
もう一度リハーサルしても、一言でダメ出しされる桜井。
「ダメだ、お前は演技の基本ができていない」
「殺し屋」の指摘は声高になっている。
「緊張のところができていないんだよ。もっと、客観的に自分の体を捉えろ」
そこまで言われて、三文役者の虚栄心が、立ち上がりざま、思わず反応する。
「俺の中では、しっかり緊張は感じてたよ!」
演技の基本を中傷されたから、余計、感情が入り込んでいるのだ。
「感じてたって、ダメなんだよ!どう見えるかが全てだ!」
睨み合う二人。
「俺の演技は、ストラスバーグのメソッドを基本にしてるんだよ!もっと、心理的アプローチを使ってプランを立てたい」
「お前の部屋にあったストラスバークの本、最初の8ページしか読んだ形跡なかったぞ。他の事も全部そうだ。ちょっとやる気だして、勉強しようと思っても、本、買って来ただけで満足しちゃう、一番ダメなタイプの人間だろ、お前は」
「人殺しに説教されたくないよ」
本人たちが真剣であるが故に、却って、吹き出してしまう会話である。
だからこそ、まさに本質を衝かれて、今はもう、このようにしか反撃できない桜井には、「殺人リハーサル」を拒否する術がない。
「時間がない。もう一度やるぞ」
このシーンは、「殺し屋」のこの一言で閉じていくが、物語の主役二人の性格傾向が、鮮やかに表現された描写だった。
残念ながら、この二人の、「殺人リハーサル」はあっさりと頓挫する。
そのリハーサルを実演中に、そこにやって来たのが肝心の工藤一派ではなく、記憶喪失中の「殺し屋」であると知らずに、熱心に彼をサポートしていた婚活中の女性編集長・水嶋香苗であった。
その直後に、工藤一派が出現することで、「殺人リハーサル」が頓挫するという経緯になるが、工藤一派に逆に追われる3人組は、相互に詳しい事情を説明し合う余地もなく、車で遁走するという流れになっていく。
実は、単なる便利屋で「殺し屋」ではなかった「コンドウ」(=山崎)には、当然、本物の殺しを実践したことがないにも拘らず、下手な役者相手に、完璧な演技を求めて指導するには、彼なりの学習的努力の蓄積がなければ不可能なのである。
何事においても、完璧に仕事を遂行する男の能力の秀抜さの源には、当然ながら、このような努力の累積が裏付けられているということ ―― これが大きかった。
何しろ彼は、軽い脳震盪で、外傷性のものではないとは言っても、一過性の神経機能麻痺で記憶喪失の状態になっているが故に、「自己同一性感覚」の喪失という、人間にとって最も根源的な自我の危機に直面したのである。
「記銘」⇒「保持」⇒「想起」⇒「忘却」という流れによって成る、記憶のプロセスの喪失が意味するのは、「自分が何者であるか」という自己同一性感覚が奪われる事態の深刻さであった。
この由々しき事実を確認するために、山崎は、自己リサーチのためのノートを作り、そこに、「好きな物は焼き鳥・・・」、「演技とは?」、「性格・悲観的?計画性がない?浪費家?涙もろい」などという言葉を書き連ねていく努力を、寸分も惜しまないのである。
そんな男に、同じような価値観を持つ、広末涼子演じる香苗がアプローチし、深い関心を抱き、短い期間に心が通じ合い、プロポーズしていくという柔和なエピソードが拾われていたのは、生前中の父に、「結婚した娘」の姿を見せたいという思いがあったにせよ、この二人の関係を強化づけるモチーフに流れていたのは、「努力こそ最強の能力」であるという価値観の共感感情であったと言える。
「結婚してくれませんか?」
唐突な香苗のプロポーズに逡巡する山崎に、香苗は直截に表現する。
「努力してくれませんか?結婚を前提に、あたしと一緒に頑張ってもらえませんか?」
この奇妙なプロポーズに対する山崎の反応は、真顔であっただけに吹き出してしまうもの。
「頑張ってもいいんでしょうか」
この二人の、この会話だけを切り取ってしまえば、吹き出してしまうかも知れないが、彼らは真剣なのだ。
「努力こそ最強の能力」であるという価値観の共感感情が、二人の関係を強化づけるモチーフになっていたことが理解し得るだろう。
余談だが、この二人の結婚の経緯について、内田けんじ監督のインタビューがある。
「物語の核にあったのが、〈この時代に結婚をどう描くか?〉ということだったんです。香苗はこれまで努力していろんなことを達成してきた女性ですが、唯一努力してもどうにもならないものが恋だった。世間では、婚活をどこか醒めた目で見ているところがありますが、自分の幸福のために頑張っているのに何でダメだろう?って思うんですよね。そういう、思うようにならない恋の難しさをコミカルに描きたいと思ったんです」(「鍵泥棒のメソッド」 内田けんじ監督インタビュー/TOWER+ 2013/5/10号より掲載)
後半の変転とするスピーディーな展開の中で、この二人の関係が途絶しながらも、ハッピーエンドに収斂されていくのは、内田けんじ監督のインタビューを裏付けものであることが検証されるだろう。
恋人を失ったのも、その粗慢さに起因するだろうということが容易に想像できるのである。
そんな男が、銭湯での一件によって「コンドウ」に成り済ましても、それが「人格の変容」を示すものに成り得ないのは当然だった。
失恋自殺に失敗した桜井 |
「そうでもないよ」
この反応に込められたように、「成功した元カレ」の見栄を張った男の下手な芝居すら見透かされて、ちっぽけな虚勢だけが捨てられていたというオチがつく情なさ。
「35にもなって、定職もなくて、こんな所に一人で住んでいれば、死にたくもなりますよね!」
敢えて、語気を強めて、記憶喪失の男の吐露を聞いて、思い出したくもない惨めさが、いつでも三文役者の自我を甚振(いたぶ)るから、中々、「夢のゾーン」での心地良き生活風景を手に入れられないのである。
まさに、本作の主人公である、この男こそ、「努力こそ最強の能力」という思考を持ち得ないタイプの人間の象徴だったという訳だ。
だから、この「演技指導」の場面での、両者の能力差が際立っていたのである。
3 エンドロールに流れ込めない、風景の異なる二つの別離の余情と哀感
場所は、「コンドウ」(山崎)によって消されたはずの岩城社長の愛人の綾子が、息子と住む団地の部屋。
岩城社長の金が狙いの工藤は、伝説の殺し屋と信じる「コンドウ」(成り済ましの桜井)に、件の金の奪取と、綾子の殺害を依頼したにも拘わらず、綾子を逃がそうとして裏切った、「コンドウ」が籠城する団地の部屋に集合する。
物語の主要登場人物が、特定スポットで一堂に会するのである。
「コンドウ」の舎弟の振りをする山崎を随伴した、工藤の一味が特定スポットに侵入して来て、そこに横たわっている綾子の死体を見る。
成り済ましの桜井による、一世一代の大芝居の始まりである。
主演は三文役者の桜井、助演は本物の「コンドウ」(山崎)。
そこに、記憶を復元させた山崎の正体(便利屋)を知った香苗が、「シチュエーション・コメディ」の変転とする展開の終焉を決定づける、綾子の息子の「死体役」として「助演女優」の働きを見せるのだ。(この面白さは逸品なので、後述する)
「ちょうど良かった。今、電話しようと思ってたとこだ。工藤さん、仕事はね、美しくなくちゃいけない。私には私のやり方がある。どうやって人を信用させるか、どうやって、女から金の在り処を聞き出すか、全ては順調に進んでました。いつも通り。それをあなたたち素人が、焦って余計なことをしてくれたお陰で、予定が狂った。今回の仕事は美しくない・・・子供を利用して、金の在り処を聞くしかなかった。お前らのせいだぞ!金はない。金がなかったのは俺の責任じゃない。約束通り、ギャラは貰うぞ」
一世一代の桜井の芝居は、ほぼ完璧なように見えた。
工藤の背後にいる山崎も、感嘆しきりという印象を受けるが、この一世一代の芝居が自壊するのも呆気なかった。
さすが、極道のプロの眼のつけ方は違っていた。
工藤は、いつものように、声高にならずに言い放つ。
「お前、舐めてんのか」
そう言った後、工藤はそこに転がっている「死体」、即ち、綾子の腹を思いっきり蹴飛ばした。
思わず、悶える綾子。
死んでいなかったのだ。
「血塗れの死体は、何度か見た。匂いが凄いんだよ、血の匂い。やるなら、本もの用意しなよ」
直前に殺されたばかりの人間の放つ、血の匂いのリアリティを指摘されて、万事休す。
これは、山崎の累積された学習の中に含まれていなかったのだろう。
伝説の「殺し屋」・「コンドウ」を演じ続けてきた山崎の、「便利屋」としての学習の漏れが、そこに垣間見える。
ましてや、エキストラ・レベルの「役者」の範疇に留まっていたであろう桜井には、本物の死体の血の匂いなど、想像も及ばなかった。
工藤に追い詰められる桜井 |
なぜなら、「動かないはずの死体」を工藤らが視認するカットをインサートすれば、「一世一代の桜井の芝居」が、子供騙しの稚拙な物語に堕してしまうことで、スラップスティックに嵌り込んでいくリスクを高めてしまうからである。
スラップスティックのトラップに嵌り込んでしまえば、「一世一代の桜井の芝居」が、ラスト近くでの別れのシーンにおいて、「役者」としての桜井を評価する山崎との関係性の、それ以外にない軟着点に結ばれないのである。
従って、この場面では、「血の匂い」という、予想だにつかない表現のインサートは正解だったのだ。
ついでに書いておこう。
「血の匂い」の原因は、酸素を運ぶ役目を担う赤血球に含まれるヘモグロビンに関係する。
そのヘモグロビンは鉄を主成分とするので、「血の匂い」の本体は、「鉄分の匂い」というのが正解なのである。
この「鉄分の匂い」に「馴致」している極道のプロの怖さが、コメディとして特化された風景と上手な折り合いをつけることで、状況描写を自壊させずに程好く堅持されていた点もまた、物語を相当程度救っていたと言っていい。
物語をフォローしていく。
金の在り処しか関心を持たない工藤は、綾子を追求するが、「ないっていったでしょ」の一点張りの反駁に、状況を動かせないでいた。
この状況を動かしたのは、山崎との関係で、この事件にインボルブされた香苗だった。
「一世一代の桜井の芝居」の助演のサポートの中で、子供部屋で「死体」を演じていた香苗が姿を現わして、工藤の狙う現金の全てが、ヴィンテージものの高級品に変換されていたことを指摘するのである。
以下、極道のプロを相手にした、香苗の教養の独壇場のレクチャー。
当然ながら、その表情は恐々としている。
「あの、この部屋に2億円くらいあるんですけど。このギター、エリック・クラプトンが使っていた、59年製のレスポール。確かオークションで、2000万以上したものです。あの絵はパウル・クレーですよね。このおもちゃも、この棚も、このベッドも、全部ヴィンテージのレアものばっかり。全部合わせると、多分・・・」
「嘘よ!」
このとき、香苗のレクチャーを遮断させんとする、綾子の叫びが劈(つんざ)いた。
この言葉に女の嘘を見破った工藤は、逸早く、これらの高級品を手下に運ぶように指示する。
その直後、山崎は、女を始末すると工藤に約束させて、桜井たちを車に乗せる。
工藤の手下によって、トランクに押し込まれる綾子。
工藤らが綾子の部屋に戻って行くのを確認した山崎は、車内から、「空き巣がいます」と警察に電話するのだ。
「複合学習」の被写界深度の深さを内化した、「便利屋」としてのプロの能力が、「単純学習」の限界を突破できない、能天気な「極道」のプロの「読みの浅さ」を、決定的に葬った瞬間である。
あまりの手際の良さに驚く桜井。
その桜井に、山崎は問いかける。
「お前、何で逃げなかった?」
「何でって・・・」
「ま、いいや」
桜井の人間性の本質に迫るような山崎の問いに、答えを持ち得ない35歳の男。
執拗に答えを求めない「便利屋」。
二人の男の距離感を象徴する短い会話の後に待つのは、記憶を復元させた男の素性を知った女との微妙な関係を揺動させている風景を、如何に軟着させていくかという物語のテーマに、一つの答えを提示することだった。
路駐してある香苗の車の前で、山崎が運転する車が止まった。
笑みを送り、手を振る山崎。
香苗の表情を映像は映さないが、笑みを湛えるイメージは考えにくい。
それだけの、素っ気ない別離だった。
そして、もう一つの別離。
「逃げなかった」理由を問われて、答えを持ち得ないような男との別離である。
「惜しかったな、お芝居。結構、俺は感動した・・・金がないくらいで、死ぬことないよ。役者の才能だって、ないわけじゃないと思うぞ」
35歳の男に対する、山崎の精一杯の激励が添えられていた。
桜井の意外な抗弁が、ここで、本人の口から明らかにされる。
桜井の自殺未遂の原因が、失恋であることが判然とするに至るのだ。
「女で死ぬ奴が本当にいるんだな」
そう言い放って笑う山崎。
「俺のこと、笑えんのか?」
別れ際での、桜井の逆襲である。
「じゃあな」
今度は、「便利屋」の方が、相手の本質的な問いに答えることなく、車を出発させてしまうのだ。
風景の異なる二つの別離が丹念に拾われても、映画はエンドロールに流れ込んでいかなかった。
エンドロールに流れ込めない、風景の異なる二つの別離の余情と哀感。
物語のコアとなる、この伏線は回収されねばならないのである。
4 「本物」のラストシーンを待機させた、ハッピーエンドなしに括り切れない一級のコメディ
「やっぱり、納得できない」
既にトランクから解放され、後部座席に座る綾子が、山崎に放った一言である。
「全部、納得して生きている奴なんていないよ。大体、岩城社長は生きていて、また会えるんだぞ」
山崎の精一杯の同情を込めた言辞に、凄い言葉が後方から返ってきた。
「どうでもいいのよ、あんなハゲ」
そう吐き捨てる綾子。
女が本性を見せた瞬間だった。
驚嘆する山崎。
「救済」の対象人格であった女の本性を見せつけられたばかりか、綾子の心が全く読めていなかった甘さが、余程、悔しかったのだろう。
不快な女との会話のやり取りを捨てた男は、座席の足元にあった一枚の写真を見つけて、それを深々と凝視する。
失恋の相手であったに違いない女と共に、幸せそうに写っている桜井の写真である。
別れ際での、桜井の言葉が鮮明に想起されたのか、香苗との無言の別離のうちに隠し込んだ感情が激しく揺れて、心中で騒いでいるようだった。
一方、香苗は自宅前に車を停めると、スケジュール帳の予定日に書かれていた、「結婚」という文字を消してしまうのだ。
映画の冒頭で、編集者の部下たちに放った奇妙な「結婚宣言」が、今や、灰燼に帰してしまったのである。
ふと見ると、山崎が置いていった鞄があった。
その鞄から、彼の自己分析ノート取り出し、ページを捲っていく。
「好きなもの」の欄の下に、大きく二重丸に囲まれて書かれた、「水嶋香苗」の文字が眼に留まった。
女の感情も激しく揺れて、心中で騒ぐ。
その瞬間、胸がキューンと高鳴った。
無機質なサイレン音が、女の感情を代弁してくれたのだ。
そのサイレン音は、前方で、電柱に追突した車から放たれる音だった。
山崎だった。
山崎は、心中で騒いで止まない感情を鎮めるために、香苗に会いに来たのだった。
その姿を視認して、思わず、車外に出る香苗。
二人は、ゆっくりと近づいて抱擁する。
その抱擁も、二人が大きく腕を広げて、完全に重なり合う態勢を取るのだ。
まさに、抱擁に対しても万全の準備を怠らないという、几帳面な二人の性格を彷彿させる身体表現だった
このシーンで想起されるのは、香苗の実姉が、妹に確信的に言い放った言葉。
「好きな人の事を考えると、キューンって。このキューンのマシーンて、30過ぎたら鳴らなくなるの。特に結婚相手探し始めたら、もうダメ。多分壊れちゃうのね、マシーンが。だから、あんたも期待しない方がいいわよ。別に恋なんかしなくても、結婚なんかできるけど。私みたいに」
思うに、貧困のあまり、家族に逃げられたトラウマを持つが故に、「中年の恋」に振れなくなっていた山崎は、「俺のこと、笑えんのか?」と言い放って別れた、桜井の極めつけの言辞に敗北するに至ったが、失恋のトラウマを持ち得ない香苗は、30過ぎた今、姉の一方的な決めつけを反古にしたのだ。
「ほぼ、中年の純愛」が、「予定調和」のハッピーエンドに軟着したのである。
この絵柄は、「ほぼ、中年の純愛」と無縁な女の、ファム・ファタール的な打算の人生の風景を、思い切り相対化するアイロニーに満ちていた。
命を救われたとは言え、「どうでもいいハゲ」から手に入れた、「ヴィンテージのレアもの」を失った女だけが、ハッピーエンドの風景から排除されているのだ。
「ほぼ、中年の純愛」を完遂させた二人の睦みを、車内で見ていた綾子が、「やってられない」という情動で、ドアを叩きつけるアクションの挿入の反転的構図は、「ほぼ、中年の人生」のコントラスト効果を際立たせていた。
ラストカットである。
ところが、ここでまた、観る者は騙される。
観る者の誰しも決めつけたであろう、この決定力のあるカットのうちに物語は終焉しないのである。
この映画の訴求力が脆弱化する危うさを内包すると言っていい。
この映画が、この男の狂言的な芝居を推進力にした、「ほぼ、中年の純愛」に収斂される物語として括られてしまうだろう。
だから、当然、山崎と別れたあとの桜井のエピソードが求められる。
どこまでも、この映画は、失恋自殺に失敗した三文役者の、打算欠如の人生の振れ具合の先に待つイメージを提示せねばならないのだ。
それ故にこそ、「本物」のラストシーンが待っていたのである。
ラストシーン。
それは、例のおんぼろアパートの部屋に戻った桜井のエピソードだった。
桜井の部屋に、一匹の猫が迷い込んで来る。
大家に隠れて、こっそり猫を飼っている、隣の若い女性が入って来た。
「あの、すみません」
「君の?」
「可愛い猫だねぇ」
そう言って、猫を撫でる桜井に、女性の胸がキューンと高鳴った。
これだけのエピソードだが、本篇のラストカットとして過不足がない。
ハッピーエンドの風景に潜入していく予感を包摂し、桜井の能力のサイズに見合った、人生の再構築をイメージさせるラストカットだったからである。
見事なオチである。
たとえコメディでさえも、ハッピーエンドが嫌いな私だが、この映画だけはハッピーエンドなしに括り切れない一級のコメディだった。
5 三文役者・桜井の「純粋さ」 ―― その限りなく人間的な振舞いが得た「報酬」
三文役者・桜井の「純粋さ」。
これが、私の中で、ずっと気になっていた性格傾向である。
特段の悪意がなかったとは言え、他人の財布の大金を使い果たす行為は、明らかに、「泥棒」であるにも拘わらず、なぜ桜井は、あれほどまでに純粋な行為に走ることが可能だったのか。
もっとも、他人の財布の大金を、自分の借金の返済に充てたり、「クッキー缶の金」を蕩尽する理由に、綾子のリトリート(隠れ場所)の確保という名目がある事実を想起すれば、桜井の「悪人性」の片鱗を拾いにくいのは事実である。
沖縄辺りでゴルフに興じている事実など、もとより知る訳もなく、殺害されたと信じる岩城社長の愛人である綾子の命を救済するために、ピザ屋の配達員に扮してまで、一連の流れを通して動く桜井の純粋さは、救済対象の綾子の疑心暗鬼を増幅させるばかりで、当然の如く、場所を指定し、かつらで変装して待機していても、用心深い綾子が姿を見せないのは自明の理であるだろう。
「どうしてあなたが、こんなことしてくれるんですか?」
「俺がやるしかないだろ」
これは、綾子を逃がそうとするために奔走する、桜井との短い会話。
この会話に見られるように、隙だらけの桜井の性格の中に、そこに自己防衛的な意識が媒介されているとは言え、見す見す、殺されると分っている女の命を助けようとする純粋さが、この男の固有の性格傾向の中で、独立系の存在価値として伏在している様子が想像し得る。
いや寧ろ、「俺がやるしかないだろ」という言葉の中に、桜井という男の性格傾向が端的に表れていると言っていい。
「大体、何で人助けしようなんて考えた?一生に一度くらい、誰かに褒めてもらいたかったのか?」
これは、物語の大団円を迎える車内で、桜井に対して、山崎が問いかけた言葉。
洞察力のある山崎でさえ、恋愛感情を隠し込んでいない桜井の援助行動の振れ具合は、永遠の謎であるかのようなのだ。
ダダ漏れの計画性の脆弱さと無縁な、山崎のメンタリティーの支配域が、自らに及ぶ危険を顧みず、このような無謀な援助行動に振れる性格傾向とは、基本的に切れているからである。
但し、以下の指摘も無視し難いだろう。
自分が置かれた状況の厳しさへの認識も、アバウトであるが故にこそと言うべきか、その時々の感情を身体表現してしまうのは、自己を精緻に客観化する能力の欠如とも無縁でないから、性格的な純粋さがストレートに表出してしまうということ。
要するに、簡単に自殺未遂に振れる行為に象徴されているように、事態の内包する危うさを内面的に濾過し、メタ認知する能力の欠如によって、通常、人が逡巡するリスクの高い行為へのハードルが低いこと ―― これが、桜井という男の純粋さの内実であるように思えるのだ。
然るに、以下の指摘も抑えておきたい。
全く計画性のない一人の粗慢なる男の中にも、このような勇敢さ=「リスクの高い行為へのハードルが低い純粋さ」が同居している事実は、人間として大いにあり得ることである。
本作の中で、女を救うために、この男が取った行動が杜撰さ・危険性を露わにし、それが却って、結果的に他者をインボルブすることでミスリードしたにせよ、それでも、自分の持ち得る能力の範囲内で、〈状況〉を生き抜いていく人格性の在りようが内部矛盾する何かであったとしても、それが人間のリアルな様態であるとしか言えないのだ。
良かれ悪しかれ、限りなく人間的な振舞いを身体表現し得た男こそ、三文役者の桜井であった。
だから彼は、ラストカットでの「報酬」を、作り手から与えられたのである。
(2014年1月)
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