<「越えられない距離」にある男女の「自由の使い方」の最高表現力>
1 「越えられない距離」にある男女の「自由の使い方」の最高表現力
「スクリューボール・コメディ」(戦前のロマンティック・コメディ)の代表作とされる、フランク・キャプラ監督の「或る夜の出来事」(1934年製作)と並んで、ラブコメディの最高到達点と評価し得る本作の梗概は、人口に膾炙(かいしゃ)されているので、本稿では、分りやすい物語の構造を読解する手立てとして、「『越えられない距離』にある男女の『自由の使い方』」というキーワードを据えて、以下、言及していきたい。
「教育とは、自由の使い方を教えることだ」
これは、ルイ・マル監督の「さよなら子供たち」(1987年製作)での、カトリックの寄宿学校の校長・ジャン神父の言葉である。
「自由の使い方」さえ間違えなければ、私たちの固有なる人生の本線を大きく逸脱する事態も出来しないだろうし、多くの場合、人生の本線の範疇のうちに、自分の能力のサイズに見合った相応の彩りを添えることが可能であろう。
「自由の使い方」の駆使のスキルが、多様な人生の表現の様態を決定づけるのである。
然るに、「自由の使い方」の駆使のスキルを保証する「教育」の中枢に、人生の本線の固有なる自在な展開を阻む状況に捕捉されてしまったら、果たしてどうなるのか。
ここに、二つの異なった風景があるとする。
一つは、「国家」の名において、言葉の厳密な意味で、「自由の使い方」が本質的に制限される「教育」を受けてきた者。
もう一つは、「家族」の名において、「自由の使い方」が要所要所に制限される「教育」を受けてきた者。
極端なまでに異なった風景であるが、その実在性を否定し得ないから、敢えて例を挙げた次第である。
この風景の差異が、単なる「教育」の風景の差異に収斂されないが故に厄介なのである。
なぜなら、前者は、「教育」を受けてきた者の「生き方」を規定するのに対して、後者は、「教育」を受けてきた者の「身の振り方」に影響を与えるに過ぎないのだ。
通常、この二つの人生がクロスすることはない。
まして、この二つの「人生」が濃密に接触し、感情を融合させ、睦み合うことなど起こり得ない。
この二つの「人生」が、「越えられない距離」にあるからだ。
「越えられない距離」にある者たちの人生の振れ方とは、そういうものだろう。
だから、このあまりに著名な映画は、この二つの「人生」が重なり合った時のお伽噺を切り取ったものに過ぎない。
しかし、上出来のお伽噺である。
私見によれば、この映画が上出来のお伽噺である最大の理由は、「越えられない距離」にある二人の「男女」の人生の、その束の間の振れ方において、「自由の使い方」を間違えなかった人物造形に決定的に成就しているからである。
王女アンは、新聞記者ジョー・ブラドリーの正体を、最後まで知らなかった。
だから、束の間の「自由」を謳歌し、その「非日常」の時間を存分に愉悦する。
王女アンにとって、それだけで充分だった。
「世界に必要なことは、青春時代の希望を取り戻すことです」
王女アンが、初対面のジョーのアパートの部屋で、起こされたときに放った言葉である。
閑話休題。
昭和天皇以降の我が国より逸早く、一夫多妻を認知していないキリスト教圏では、基本的に側室が禁止されているので、男系男子のみに王位を継承させる制度が存在しないが故に、王女の現出には違和感がない。(我が国では、8人10代の「女性天皇」が存在)
物語の王女アンもまた、欧州キリスト教圏の某国の王位継承者であったが、欧州各国の親善旅行のハードスケジュールのお陰で、ストレスフルの状態がピークに達していて、主治医から安定剤の投与を受ける始末。
それでも眠れず、その開放的性格の故にか、躊躇(ためら)うことなく大使館を抜け出し、夜のローマの街を彷徨するが、安定剤が効いてきて、路傍で寝込んでしまう。
若い女性のあられもない姿を視認したのが、たまたま、そこに通りかかった、米国の新聞記者のジョー・ブラッドレー。
結局、見捨てることもできず、アパートの自室に、王女アンを泊らせるに至るが、翌朝、彼女が覚醒し、見知らぬジョーに真情を吐露したときの言葉が、先の決め台詞。
かくて、「青春時代の希望を取り戻す」決意で結ばれた王女アンの、解放的な身体疾駆が開かれていったのである。
2 殆ど予約された「ローマの休日」の甘美な振れ具合の、一回的な恋のゲーム
王女アンは、「非日常」の時間で生まれた自由をフル稼動させ、かつて味わったことがない、「青春の眩い光芒」の感覚に胸の鼓動を高鳴らせていった。
自ら、「王女」の記号でもあったはずのロングヘアをばっさりカットすることで、特別の官位を被らない「平民」に化けた、王女アンの身体疾駆の水先案内人は、言うまでもなくジョー。
そのジョーの思惑を知る由もなく、「青春の眩い光芒」の感覚を存分に体感する王女アン。
スペイン広場で解放感に浸っている王女アンに、その後をつけてきたジョーが話しかけていく。
「思い切って、一日中遊ぶんだ」
「前から憧れていたことをしたいわ。何でも気が向くままにしたいの。一日中。楽しみたいの。冒険も少しは」
このスペイン広場を起動点にして、ローマの名所を巡り、未知のゾーンの潜入を愉悦する。
一方、ジョーは、王女アンの正体に逸早く気づき、友人のカメラマンと図って、ビジネスに利用しようと図るが、断念するに至った。
なぜか。
王女アンに対する、「越えられない距離」にある者への、畏怖の念に怖気付いたのではない。
一人の「女性」の、ピュアな心情を傷つけることができなかったからである。
ジョーは、ごく自然理に、相互に特定的な対象人格に変容していく実感の中で、「越えられない距離」にある者との障壁の大きさに平伏(ひれふ)すことなく、王女アンを、一人の「女性」として受容したのだ。
この時点で、彼は本質的に、「越えられない距離」の障壁を観念的に突き抜けていたのである。
しかし、ジョーは認知できていた。
この「恋」が、二人にとって、恒久的な継続力を持ち得ない事実を。
「越えられない距離」の障壁を、観念的に突き抜けるだけで充分だったのだ。
それは同時に、王女アンが、本来的に帰還すべき場所を認知できていたことと符合する。
「私には大使としての義務があります。王女にも義務がおありのように」
「義務の話なら心配に及びません。私が義務をわきまえていなかったら、今晩、帰って来なかったでしょう。この先も永久に」
これは、「大使」としての記号の重さを知る者の当然の説諭に対して、そこだけは明瞭に発した王女アンのメッセージだった。
「私は、この町の思い出をいつまでも懐かしむでしょう」
ラストシーンでの、記者会見での王女アンの正直な吐露である。
「この町」とは、当然ながら、「ローマの休日」を存分に愉悦した町のこと。
思うに、トム・フーパー監督の「英国王のスピーチ」(2010年製作)でも描かれていたように、父のジョージ5世が逝去した後、即位したエドワード8世が、夫を持つアメリカ人・シンプソン夫人を愛人にした挙句、「許されざる結婚」を突き抜けて、「王冠を賭けた恋」を選択したように、「越えられない距離」の障壁を突破した極北的な「生き方」もあるが、その人生の振れ具合は、王女アンの行動の範疇とは明瞭に切れていた。
それは、単に、「ローマの休日」を愉悦したことによって、「籠の中の鳥」の窮屈さから貯留されたストレスを発散したことで、「非日常」の限定された時間を自己完結し得た、王女アンの初発の突破力と、その王女の心情を正確に認知できていたジムの二人の、殆ど予約された「ローマの休日」の甘美な身体表現の、一回的な恋のゲームでしかなかったのである。
そのことは、「禁断の愛」という艱難な壁を跳躍し、「越えられない距離」を突き抜けて、「王冠を賭けた恋」を成就させた男と女の表現し得た、相乗的な化学反応が内包する革命的なエネルギーとは無縁であったことを意味するだろう。
幾分、我がままに育てられた王女アンだが、二人とも「自由の使い方」を間違えなかったのである。
3 難しい時代には、その難しい時代が強いる、容易ではない生き方がある ―― ドルトン・トランボを英雄視する短絡的な発想の愚について
本稿の最後に、「ローマの休日」のシナリオライターだった男の話に触れたい。
彼についての言及は、この「人生論的映画評論」の中で繰り返し言及しているが、近年、「ハリウッド・テン」に屈しなかった「不屈のヒーロー」のように語られていることに、正直、大いなる違和感を持っているので、彼に言及した拙稿から加筆引用しておきたい。
以下、ドルトン・トランボの唯一の映像作品・「ジョニーは戦場へ行った」(1971年製作)と、アーウィン・ウィンクラー監督の「真実の瞬間」(1991年製作)の批評からの抜粋である。
彼について、私が知り得る限りの印象的なエピソードについて言及する。
その一つは、彼が「ハリウッド・テン」の一人として、1947年10月23日の第一次喚問を受けたときのこと。
「ローソンが議会侮辱罪に問われて、証言席から引きずりおろされたあと、続いて立ったドルトン・トランボも、やはりステートメントを読み上げるのを許されないため、彼は『私のステートメントのどこに、当委員会がアメリカ国民をまえにして読まれて恐れるところがあるのか、知りたいものだ』と講義する。
トランボはさらに、自分の書いた20本ほどのシナリオを委員会にもちこんで、テーブルに積みあげ、そのなかのどの一行に共産主義陰謀の文字があるのか、委員会は証明してみせる責任がある、とも迫った・・・・
「ローソンが議会侮辱罪に問われて、証言席から引きずりおろされたあと、続いて立ったドルトン・トランボも、やはりステートメントを読み上げるのを許されないため、彼は『私のステートメントのどこに、当委員会がアメリカ国民をまえにして読まれて恐れるところがあるのか、知りたいものだ』と講義する。
トランボはさらに、自分の書いた20本ほどのシナリオを委員会にもちこんで、テーブルに積みあげ、そのなかのどの一行に共産主義陰謀の文字があるのか、委員会は証明してみせる責任がある、とも迫った・・・・
しかし、トランボは結局、64ドル質問(当時ラジオ番組で流行ったクイズの賞金額の最高額が64ドルだったので、とどのつまりの質問=共産党員か否か、の質問ということ)までいかないうちに、スクリーン作家ギルドの会員かどうかまできたところで、侮辱罪に問われ、かれは『これはアメリカ強制収容所の・・・・はじまりだ!』と叫びながら強制退去させられる(ただし、この言葉も公式議事録にはあらわれない)」(「ハリウッドとマッカーシズム」陸井三郎著 現代教養文庫より/筆者段落構成)
次に1970年に、当時を回顧したときのトランボの言葉を含む記述を引用する。
「・・・1970年には映画作家ギルド最高の賞であるローレル賞を受けたドルトン・トランボは、その受賞演説で、『あの長い悪夢の時代に罪なしに生きぬいたものは ―― 右派、左派、中間派を問わず―われわれの間に一人もいない』とし、みんな時代の犠牲者だったのだから『ゆるしあおう』と発言して場内に物議をかもし・・・・」(前出「ハリウッドとマッカーシズム」より)
トランボについての真実に迫るエピソードが、もう一つある。
これは、1975年のこと。
次に1970年に、当時を回顧したときのトランボの言葉を含む記述を引用する。
「・・・1970年には映画作家ギルド最高の賞であるローレル賞を受けたドルトン・トランボは、その受賞演説で、『あの長い悪夢の時代に罪なしに生きぬいたものは ―― 右派、左派、中間派を問わず―われわれの間に一人もいない』とし、みんな時代の犠牲者だったのだから『ゆるしあおう』と発言して場内に物議をかもし・・・・」(前出「ハリウッドとマッカーシズム」より)
トランボについての真実に迫るエピソードが、もう一つある。
これは、1975年のこと。
新聞のインタビューに答えたときの、トランボの言葉が紹介されたものである。
「ダルトン・トランボは『ハリウッド・テン』の中の最も有名人といわれているが、当時を回想して1975年、『ニューヨーク・タイムズ』の記者にこう語っている。
『われわれは勝つだろうと思っていたわけですよ。1950年の夏、マフィーとラトリッジという二人の最高裁裁判官が亡くなりましたが、惜しいときに惜しい人を亡くしたもので、かれらが死ななければ、われわれは勝訴していたに違いないのです。
もしわれわれが、ああいう立場をとったのでは、15年、20年と職を奪われ流人とされることを前もって知っていたら、もしかしたら違った行動をとっていたかもしれませんよ。本当の意味での英雄は、1951年の第二次喚問で証言を拒否した人たちです。なぜならかれらは、職を失うことになると、はっきり知っていたからです』」(「眠れない時代」リリアン・ヘルマン著 小池美佐子訳 ちくま文庫「訳者あとがき」より/筆者段落構成)
「ダルトン・トランボは『ハリウッド・テン』の中の最も有名人といわれているが、当時を回想して1975年、『ニューヨーク・タイムズ』の記者にこう語っている。
『われわれは勝つだろうと思っていたわけですよ。1950年の夏、マフィーとラトリッジという二人の最高裁裁判官が亡くなりましたが、惜しいときに惜しい人を亡くしたもので、かれらが死ななければ、われわれは勝訴していたに違いないのです。
リリアン・ヘルマン |
これらのエピソードに触れる限り、マッカーシズムが狂奔する中で、映画人たちの置かれた状況の苛酷さがひしひしと伝わってくるものがある。
私たちが無視できないのは、「ハリウッド・テン」が英雄扱いされた第一次喚問の時代の背景と、朝鮮戦争を経て、赤狩りがリベラリストにまで及んだ第二次喚問の時代の背景との決定的な違いである。
私たちが無視できないのは、「ハリウッド・テン」が英雄扱いされた第一次喚問の時代の背景と、朝鮮戦争を経て、赤狩りがリベラリストにまで及んだ第二次喚問の時代の背景との決定的な違いである。
朝鮮戦争以前の「ハリウッド・テン」の受難は、「第一修正条項委員会」に代表されるアンチ・レッドパージの支援の活動の輪が広汎にわたっていて、そこには
コミュニストではなく、それ以前に、「良心的映画人」であった彼らを救済しようとする精神的余裕が未だ健在であったという事実は見逃せない。
そこに、充分過ぎるほどの同情と共感が形成される時代の空気が存在していたのである。
そこに、充分過ぎるほどの同情と共感が形成される時代の空気が存在していたのである。
アメリカ共産党の筋金入りの信念居士であったドルトン・トランボですら、第二次喚問の嵐の中を突破できたかどうか自信がないという、正直な告白をしていることの重みは、まさに、時代そのものの重みであったということだ。
そういう時代の、そういう空気が、「自由の国」アメリカの心臓部で噴き上がっていて、今も、ハリウッド映画人のタブーとなっているほどに、その根深くも苛酷な「歴史」の重さに驚かされる。
そういう時代の、そういう空気が、「自由の国」アメリカの心臓部で噴き上がっていて、今も、ハリウッド映画人のタブーとなっているほどに、その根深くも苛酷な「歴史」の重さに驚かされる。
私たちは忘れてはならないだろう。
直後に朝鮮戦争が勃発して、「マッカーシズム」の赤狩りが加速していく契機になった、ローゼンバーグ事件(1950年6月)の恐怖の現実を。
ローゼンバーグ夫妻(ウィキ) |
1953年6月に、ソ連のスパイとして逮捕されたローゼンバーグ夫妻が、高電圧を加えられ、電気椅子で死刑執行された現実は、マッカーシズムに抗議する映画人を黙らせるほどのリアリティを持っていたのである。(現在では、実際にソ連のスパイであった事実が明らかになっている)
この間、1951年3月、第二回聴聞会が開かれ、ハリウッドの映画人に対する内部告発の圧力が本格化し、47年の第一回聴聞会に見られたアンチ・レッドパージの空気が一気に解体されるに至った。
特定的に狙い打ちにされたハリウッドでは、共産主義者でもない友人の名を吐くことで裏切りの連鎖が日常化していった。
既にそのとき、獄中で朝鮮戦争を迎えた「ハリウッド・テン」の一人は転向して、「友好的証人」になっていくのだ。
ハリウッドにはもう、リベラリストに過ぎない仲間を救う空気が雲散霧消していたのである。
特定的に狙い打ちにされたハリウッドでは、共産主義者でもない友人の名を吐くことで裏切りの連鎖が日常化していった。
既にそのとき、獄中で朝鮮戦争を迎えた「ハリウッド・テン」の一人は転向して、「友好的証人」になっていくのだ。
ハリウッドにはもう、リベラリストに過ぎない仲間を救う空気が雲散霧消していたのである。
果たして、ドルトン・トランボが正義のシンボルであり、エリア・カザンやラリー・パークスが不正義のシンボルであると言い切れるか。
恐らく、カザンやパークスの行為は無前提に許容できるものではないだろう。
それ故、赤狩りに関わった映画人の全てが被害者であるという見方に、私は賛成できない。
人間が人間を告発するとき、その不道徳性ではなく、告発される者の犯した行為それ自身によって判断され、評価されねばならないと思う。
だからその作業は、今後、ハリウッドが自らの責務によって遂行せねばならないだろう。
恐らく、カザンやパークスの行為は無前提に許容できるものではないだろう。
それ故、赤狩りに関わった映画人の全てが被害者であるという見方に、私は賛成できない。
人間が人間を告発するとき、その不道徳性ではなく、告発される者の犯した行為それ自身によって判断され、評価されねばならないと思う。
だからその作業は、今後、ハリウッドが自らの責務によって遂行せねばならないだろう。
多くの映画人が未だ、エリア・カザンが受けたアカデミー生涯功労賞に異議申し立てする態度を崩さないのは、ハリウッドが自らの大いなる膿を剔抉(てっけつ)していないからである。
ハリウッドは未だ、「真実の瞬間」に向き合っていないのだ。
映画・「真実の瞬間」より |
「良心を今年の流行に合わせて裁断するようなことはできません」(前掲書)という有名な言葉を残し、「赤狩り」と戦った勇敢なるヒロインとされる、リリアン・ヘルマンが被弾した恐怖の現実は、遂に議会侮辱罪に問われることなく喚問を終えた際の、彼女の動揺ぶりの激しさによって露わになっていた。
その喚問の内容も、弁護士のサポートなしに済まない混乱ぶりを示していて、体の震えが止まらなくなるほどの脆弱さを晒したと言われている。
それが人間なのだ。
フレッド・ジンネマン監督の「ジュリア」(1977年製作)の原作者としても名高い、リリアン・ヘルマンのような「信念の作家」と言われる者の心でさえ、大きく揺さぶられ、傷つき、しばしば、その自我を破壊するような尖った時代
の巨大なうねりの中では、個々の良心の散発的な抵抗など殆ど無力であり、せいぜい「自分なりには精一杯戦った」とか、「自分には、あれ以外取り得る方法は
なかった」などという自我の退路を確保することで、必死に身を守るしか術がなかったに違いない。
そういう時代の渦中にリリアン・ヘルマンが生き、エリア・カザンが生き、そしてドルトン・トランボが生きていた。
ジョセフ・レイモンド・マッカーシー(ウィキ) |
民主党のジョン・F・ケネディすらも、マッカーシズムを支持していた事実を知るとき、一貫してヒューマンな映画監督であったウィリアム・ワイラー監督でさえ、マッカーシズムに対する無力な抗議行動しかできなかった時代のリアルな恐怖の前で、立ち竦む以外の何ができたのだろうか。
ドルトン・トランボに、「ローマの休日」のシナリオを他人名義で書いてもらうことで、せめてもの経済的支援を遂行し得たワイラー監督なりの戦いが、そこにあった。
当時に比べて、相当程度、民主化が進んだ先進諸国の、豊かで自由な時代の空気を呼吸する私たちが、尖り切った時代状況の狂気に架橋するに足る冷厳な問題意識なしに、「ハリウッド・テン」の英雄譚を感傷含みで語り、そこで図らずも「友好的証人」に成り下がった映画人たちを、声高に指弾することは傲慢ですらあるだろう。
だからこそと言うべきか、ドルトン・トランボを「不屈のヒーロー」として特化し、英雄視する短絡的な発想に軟着させるべきではないのだ。
難しい時代には、その難しい時代が強いる、容易ではない生き方がある
難しい時代に生きたドルトン・トランボ自身が、そのことを認知し得ていると思えるからこそ、敢えて言及した次第である。
(2014年1月)
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