<父との「権力関係」の中で作られた「仮構された『善き子供』」という形象を克服し、自立と再生を果たす物語>
1 「過干渉」という名の「権力関係」の破壊力の怖さ
「ヘルフゴット夫妻の協力に感謝します」
これが、エンドロールのキャプション。
しかし、この映画の公開にあたって、Wikipediaによると、以下のエピソードがあったらしい。
「映画化に当たって、ヘルフゴットの家族や幼少期の関係者たちへの取材はまったくなく、公開後、映画を観た家族や関係者から、映画は事実に反したでっちあげであるとして抗議の声が上がった。姉のマーガレットは1998年に、関係者の証言を集めた抗議の本"Out of Tune: David Helfgott and the
Myth of Shine"を出版し、父親は映画に描かれたような暴君ではなく、デイヴィッドともうまくいっており、デイヴィッドの精神的な病気は家系的なもの(叔母も同じ病気)であると主張した」
「これは、実話をベースにして脚色した映画です」
ヘルフゴット夫妻の協力があったのなら問題ないにしても、でき得れば、このキャプションが欲しかった。
大体、映画で、「完全なる真実・事実」を求める方が殆ど不可能なので、以下、私としては、いつものように、「映画の嘘」を前提にした一篇の「作品」として批評したい。
歪んだ父子の「権力関係」の様態と、自立への喘ぎと疾駆。
デビット・ ヘルフゴット/CLASSICTIC.comより |
本作を貫流する基本骨格は、この把握に収斂されるので、これを本稿のテーマに据えて、言及していきたい。
そこでは、「過保護」と「過干渉」の違いが重要になるだろう。
まず、私は、「過保護」と「過干渉」の相違という点を確認せねばならないと考えている。
単純に言えば、親が子供の顔色を窺うのが「過保護」であり、その逆が「過干渉」である。
これは、以下のように要約できるだろう。
子供が望んでいる「状態」を、親が先取りして満たしてしまうこと ―― これが「過保護」である。
従って、「過保護」の「過剰性」は、本来、子供自身が学習的に処理・解決すべき「発達課題」に対して、親が先取りしてしまうことで、子供自身の不快感を必要以上に解消する危うさを持つ。
それに対して、「過干渉」とは、子供が望んでいない「状態」を、過剰に押しつけることであると言っていい。
従って、本来、子供自身が学習的に処理・解決すべき「発達課題」に対して、親が不必要なまでに横槍を入れ、ただ単に、子供は親の強制力に服従するだけの非主体的な自我を作ってしまう事態の怖さ。
これが、「過干渉」の破壊力の怖さである。
どちらも問題があるが、それでも私は、「過保護」と「過干渉」が違うものであることを強調したい。
子供の自立心を決定的に奪うほどの、「権力関係」を築いたか否かという一点にこそ、両者の違いがあるということ。
敢えて、この二つの決定的違いを挙げれば、このように把握できるのではないか。
養育者がいるときには、幼児の愛着システムは弛緩し、自由な探索行動が可能になる(ウィキ) |
自立心まで奪うことのない程度において、「過剰把握」に流れ込まない限り、愛情深く近接する、「過保護」という概念の内に収斂される柔和な関係なら、殆ど問題がないと思うのである。
子供の希望を限りなく許容することで、我が子に一定の満足感を保証しつつ、それが極端な我が儘に流れない程度において、無理のないコントロールを遂行し得る関係性を保持しているならば、適性サイズの「過保護」による近接感は、豊かな愛情を土台にした親子の基本的な信頼関係の構築に寄与するであろう。
然るに、物語で提示された父子関係の本質を端的に言えば、「過干渉」という名の「権力関係」であったと言っていい。
子供の自我を作るのは母親である。
母親がいなかったら、父親が代行する。
しかし、限度を超える「過干渉」によって形成された子供の自我は、明らかに顕在化された強制力の縛りの中で、いつしか、自己不全感を常態化させていく確率が高い。
自我の空洞を埋めるに足る情動系の氾濫を、合理的に処理し切れないまま、内側深くに押し込める以外に術がないからである。
これが、思春期以前の、この父子関係の本質的様態であったと言えるだろう。
父親に対して反駁することが許されない自我は、全き自在性と柔軟性を欠き、絶えず、物理的に近接する父親の視線を意識し、その視線に合わせる自己像を作り出していく。
「過干渉」は、子供の自立心を決定的に奪うほどの、「権力関係」を築いてしまうという意味で、甚大なトラウマを分娩する危険性を持つと言えるのだ。
「内的ワーキングモデル」という心理学の重要な概念があるが、これは、親子関係の中で、子供の要求に対して、親がどのように反応していったかという視座によって、親子関係の依存性・受容性・信頼性などの状態を解釈していく仮説である。
以下、物語の父子関係を考えてみよう。
2 意を決した遥かな旅へ
「音楽が全て」の父・ピーターが、如何に子供たちにとって、「過干渉」の「教育」の権化のような存在だったかという事例は、物語序盤の「演奏コンテスト」のシーンで明瞭であった。
コンテストの司会者から、曲目を聞かれて、緊張で戸惑うデビッド少年に代わって、後方の椅子に座っていたピーターが矢庭に立ち上がるや、大声で、「ショパンの“ポロネーズ”です」と答えたのである。
そればかりではない。
デビッドの演奏に不満なピーターは、「ひどいピアノだ!」と叫んで、ピアノの瑕疵に文句をつける始末だった。
更に、自宅でのエピソード。
「わしは、その年頃で、美しいバイオリンを買った。それが、どうなったと思う?」
「叩き壊された」とデビッド。
「そう。親父にな」
と言うなり、デビッドが興じていたチェス盤を叩いて、言い放つのだ。
「デビッド。お前は運がいい。わしは違うぞ」
「そうだね・・・」
そう答えるデビッドには、感情表現を封じられた子供の生気の欠如がありありで、およそ童心をイメージさせる何ものもない。
少年期、「音楽が全て」の父が、苦労して買ったバイオリンを祖父に壊された経験は、音楽の才能の芽を摘まれたトラウマと化して膨張し、世代を負のリレーで繋いでいるのだ。
「“運がいい”と言ってみろ」
父の命令口調に、デビッドは、それ以外の選択肢を持ち得ない者の反応をするのみ。
「僕は運がいい」
「そうとも」
こんな不毛な会話で、強引に自己完結させていく父子の歪んだ関係が、そこにある。
「何か弾く?」
父と子 |
健気にも、デビッドは、父の機嫌を損ねないような言葉を添えるのである。
「最高の息子です」
青春期に踏み込んでいっても、自分の誇りと自慢しつつも、遥か未来に開かれたデビッドの人生軌道を、父親の恣意的な思惑で動いていくような、圧倒的な「権力関係」が延長されてしまうのだ。
「アメリカへなど行かせるか!家庭を壊すことは許さん!」
ピアニストとしての成功のチャンスを掴んでも、自分の強制的な支配下に置こうととする、父親の性向には全く変化が見られない。
「お前のためだ。わしが父親で、これがお前の家族だ」
全て、この一言によって収斂されてしまう関係は、もはや、「権力関係」と呼ぶ以外にない。
確かに、この言葉には、息子への愛情の片鱗を窺わせるものが垣間見られるが、しかしそれは、自分の思うようにイメージする関係の枠組みの中に閉じ込める、極端に偏頗な感情の威圧感の集合でしかないと言っていい。
父と子 |
さすがに、このときばかりは、息子のデビッドは、恐らく、初めてと言っていいような、父親に対する反抗を身体化したが、そこまでだった。
青春期に踏み込んでも、なお、父親に折檻される息子が、半径数メートルの限定的な狭隘なスポットに、虚しく封じ込められていた。
「父親を憎むなんて、とんでもないぞ。人生は厳しい。だが、音楽はお前の友達だ。他のものは、いつか、お前を裏切る。わしを憎むな。人生は厳しい。お前は生き残るのだ」
この、「生き残るのだ」という言葉を、今なお、反芻させる父と子の関係が、いつしか、「狂気」とも呼ぶべき、危うい精神状況を作り出していく事態の招来をイメージさせていた。
「わしの愛は、誰よりも強い。ずっと、父さんがついているよ」
そう言って、息子を抱擁する父親。
まさに、この関係は、「緊張」⇒「暴力」⇒「ハネムーン」というサイクルを持つ、一種のDVサイクルの形象と言っていい。
父親は今、息子のデビッドのディストレスを吸収することで、「ハネムーン」のステージのうちに収斂させたのである。
ピーター・ヘルフゴット |
子供の反抗心まで奪う「教育」とは、その子供の自我を凍結し、自由に羽ばたいていく余地を残す選択肢までも、延長された「権力関係」のうちに閉じ込めておく
それは、デビッドの芸術家としての成功が約束されればされるほど、自由に羽ばたいていく可能性が広がってしまうが故に、その成功を心から喜べない、極端に歪んだ父子関係の様態を、より強化させてしまうのである。
だから、自分の成功を喜べないデビッドの、固く係留された自我は、その解放の出口を見つけられずに、鬱々と煩悶するだけだった。
「父さんが許さない。ライオンみたいに怒る」
これは、英国の王立音楽院への留学のチャンスを得たときの、デビッドの諦め気分と苛立ちが吐露された反応。
普段から息子自慢の父は、こういうとき、必ず本音を吐き出すのだ。
「家族愛」などという見え透いた言辞を持ち出して、あろうことか、暴力的に拒絶する父親ピーター。
しかし、このときばかりは、デビッドは、父の常套的な「暴力」⇒「ハネムーン」というサイクルに呑み込まれることがなかった。
デリケートな思春期の渦中にあるデビッドの貴重な相談相手になっていた、著名な作家のプリチャードの後押しが、少年の「反乱」の推進力になり、奨学金を得て、英国留学に打って出たのである。
プリチャードと父子 |
英国王立音楽院への、意を決した遥かな旅が開かれたのである。
「定着からの戦略的離脱」。
これを、私は、「青春の一人旅」の本質と考えている。
「青春の一人旅」には、様々な「形」があるが、少なくとも、「自己を内視する知的過程」に関わる旅の本質を、「移動を繋ぐ非日常」による「定着からの戦略的離脱」であると、私は把握しているのである。
「青春の一人旅」に関わる私の定義は、果たして、デビッド少年に当て嵌るのか。
当て嵌るとも言えるし、そんな綺麗事の説明に収束されるものではないとも言える。
ただ、これだけは言えるだろう。
デビッドは、この「青春の一人旅」なしでは、父からの暴力的な「権力関係」の重石(おもし)を排除することなど、殆ど不可能だったに違いない。
だからこそ、デビッドは、意を決した遥かな「青春の一人旅」に打って出る外になかったのである。
3 父との「権力関係」の中で作られた「仮構された『善き子供』」という形象を克服し、自立と再生を果たす物語
英国王立音楽院でのデビッドの、艱難(かんなん)な日々が開かれた。
「お前は、家族を捨てたエゴイストだ」
そんなトラウマが、デビッドの自我に常に張り付いている。
それでも、デビッドは、「青春の一人旅」に打って出た。
だから、後悔はない。
デビッドは、英国王立音楽院で猛練習に励む。
「少年」という幼さの残る記号が、いつしか、「青年」という記号に変換させていく内面的成長の中で、デビッドは、「ラフマニノフ」という途轍もない作曲家の作品に挑戦していくのだ。
「ピアノ協奏曲第3番」
技術的に高難度の作品として有名な、この巨大な障壁に挑んでいくのである。
そこには、ラフマニノフにしか興味を持たない父親との、言語を絶する因縁によって、特定的に選択されたかのような心理が垣間見える。
教授は、王立音楽院のセシル・パーカー。
デビッドの強い思いを知った教授は、逡巡していた気持ちを翻意する。
以降、マンツーマンによる猛烈な特訓が開かれるのだ。
「二つの旋律が競い合っている。巨人の手のように弾け。演奏は命懸けだ。安全ネットはない。ミスをすると危険だ。大怪我をする。目隠ししても弾けるように」
セシル・パーカー教授の指示通りに、目隠ししても弾くレッスンを怠らず、寝ても覚めても、ラフマニノフの虜になるデビッド。
「指が自然に動けば、考えずに弾ける。心だ。音楽は心から生まれる」
デビッドとセシル・パーカー |
セシル・パーカー教授の含蓄に富んだ言葉である。
「ピアノは怪物だ。飲み込まれるぞ!」
厳しい指導が続く。
「明日はないと思って弾きなさい」
厳しい指導の下、自己を極限にまで追い詰めていくデビッド。
そして、その日がやってきた。
コンクールの日である。
長髪を振り乱して、全身全靈の演奏で、「ピアノ協奏曲第3番」に挑むデビッド。
教授の見ている前で、デビッドは完璧に演奏してみせた。
しかし、異変が起こった。
教授が言ったように、デビッドの命懸けの演奏は、「ピアノ」という怪物に飲み込まれてしまったのである。
この達成は、デビッドの脳に衝撃を与え、異常をきたしたのだ。
その後、母国オーストラリアに戻っても、父に帰宅を拒まれるデビッド。
この時点で、デビッドは、父との関係の修復が不可能であることを実感したのだろう。
以降、精神病院での、デビッドの長い日々が開かれたのである。
「許してくれない。父さんは許してくれない」
すっかり成人したデビッドは、精神病院での独言が目立つようになり、脳が受けた衝撃の大きさを実感させていた。
デビッドは、医者からピアノを弾くことが禁じられているから、今や、コンクールで優勝した天才的なピアニストの面影が消えていた。
長い回想シーンから現実に戻されたとき、デビッドの復活劇が開かれていく。
精神の病を残すような独言を繰り返しつつも、デビッドが復活を遂げていくのは、ピアニストとしての彼の才能を知った、ワイン・バーで出会った人たちの援護があったからである。
弾丸の雨に打たれた晩の唐突な訪問以来、母国オーストラリアの街の一角で、人気を得たデビッドの壮年期の日々は、「忘れられた天才的なピアニスト」の復活へのエピソードで埋められていく。
そんな折、デビッドの復活の記事を読んで、思い余って、父のピーターはデビッドと再会するが、かつてのように、「完全服従」しない息子がそこにいた。
寂しさを押し殺しながら、夜の闇に消えていく父を、窓越しから見入るデビッドは、もう、「過干渉」という名の「権力関係」の破壊力に怯えた息子ではなかった。
壮年期にも引き継がれた精神の病を残しつつも、デビッドの内側に張り付くトラウマの陰翳は、「父さんは許してくれない」と怯える脆弱性を払拭する分だけ希釈されていたのだ。
ギリアンとデビッド |
精神病院から引き取ってくれた女性との結婚に頓挫した後、ワイン・バーで働くシルビアの友人の占星術師・ギリアンと出会い、再婚するに至る。
父の墓碑の前での、そのギリアンとの短い会話がラストに用意されていた。
「悲しい?」
「何も感じない」
「何も?」
「“ショックだ”と言えばいい?僕のせいかな」
「自分を責めないで」
「父さんも責められない。死んだから。僕は生きてる。人生は続くんだね。永遠に。でもないか。人生はいいことばかりじゃないけど、諦めずに生きなきゃ。全てに意味があるんだね」
本作の基幹メッセージが、デビッド自身によって表現され、厭味なまでの感傷に流さない、感銘深い物語が括られていった。
1時間もトランポリンで飛び跳ねる行為こそ、デビッドの自立への喘ぎと疾駆の軟着点を、全身で身体表現するシーンでもあった。
特化されて切り取られたたこのシーンは、父との「権力関係」の中で作られた「仮構された『善き子供』」という形象を克服し、自立と再生を果たす物語の象徴的な収束点だったのである。
―― 良い映画だった。
それにしても、デビッドの壮年期を演じたジェフリー・ラッシュの表現力の素晴らしさ。
もっとも、これは殆ど織り込み済みだが、私に深い感銘を残したのは、デビッドの青年期を演じたノア・テイラーである。
オランダ出身のメノ・メイエス監督の「アドルフの画集」(2002年製作)で、政治と芸術の狭間で内面的に揺れるアドルフ・ヒトラーを演じて、ユダヤ人画商・マックス・ロスマンを演じた、主役のジョン・キューザックを食うほどの存在感を示し、私には忘れられない俳優として、今でも鮮烈に脳裏に焼き付いて離れない。
ノア・テイラーの青年期の苦闘のシーンなくして、多くのシーンで、「ハッピー」基調のエピソードを繋いで、人生の「シャイン」を表現したジェフリー・ラッシュの、プロ魂のこもった演技は生まれなかったであろう。
私はそう思う。
【本稿は、拙稿・人生論的映画評論・続:「ブラック・スワン」から、一部、微調整の補筆を加えながら引用しました】
(2014年1月)
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