
1 「楽園は遠く離れた場所ではなく、今、ここにある」
実話に基づく映画。
看守の目を盗んで、暴力が荒れ狂う少年院。
トマシュ神父の説教から開かれる。
「ミサを始める前に言っておきたいことがある。私は形式的に祈りに来たのではない。君たちもそうであることを願っている。渋々ここにいるのなら運動場に行けばいい。神は共におられる。この場にいる必要がないのなら。なぜ私たちはここにいるのだろうか?重要なものを思い出し、忘れずにいるためだ。私を含め、君たち1人1人がキリストの代弁者であり、絶えず祈るべきだ。“祈り”とは、すなわち“神との対話”だ。怒りや不安、恐怖などの今の感情を神に打ち明けるんだ。犯した罪についてでもいい。理解を得られる。聖歌でも?ダニエル」
| トマシュ神父 |
| 神父の話を真剣に聴くダニエル |
ダニエルの仮退院の日、トマシュ神父に「もし、僕に神学校の入学資格があれば…」と思いを漏らすと、「犯罪歴があるから無理だ。良い行いをしたいのなら、他にも、たくさん道がある。できることをやれ」と言って激励する神父。
ダニエルは小さな田舎町の製材所で働くことになった。
聖職者に憧れる彼は田舎町の教会に立ち寄るが、その教会にいた一人の少女マルタに「僕は司祭だ」と嘘をつくダニエル。
「司祭服は?」と聞かれ、司祭服を見せるのだ。
マルタに礼拝所の管理責任者である母リディアを紹介され、トマシュを名乗るダニエルは司祭に歓迎され、ウォッカをストレートで飲み、宿泊も許されるのである。
| リディア(右) |
| 司祭 |
翌朝、町の司祭の代わりに、告解を引き受けることになる。
携帯で“告解の手引き”を参考に、町民の罪の告白を聞き、説教を垂れるのだ。
【告解とは、カトリックで信徒が神と司祭の前で罪を告白すること】
最初の女性信徒の告解は、タバコを吸う12歳の息子に禁煙させる方途を問われ、「強いタバコを買いなさい。それを吸えば、すぐやめます」と答えるダニエル。
昔、大罪を犯したと悩む町の司祭から、自らの治療のために数日間、代わりをやって欲しいと頼まれ、有無を言わせず、引き受けることになった。
ミサの日。
辞書を調べて、最後の晩餐を記念し、祈りや聖体拝領を行うミサを執り行うダニエルに緊張が走る。
【聖体拝領とは、ミサでパンとぶどう酒を受け、キリストの体と血にあずかるカトリックの儀式】
「形式的に祈るつもりはない。君らもそうだと思う。神は外におられる。では、なぜ我々はここにいるのか。こういうことだ。我々は教会へ来て…彼(イエス)の姿を見る。とても真似できない。すごく純粋な存在だ。塵にすぎない私たちに、どうして、あなたの代わりが務まるだろうか。では祈りを。心の底から祈るのです。今、神と対話してください。では、聖歌を」
聖歌を歌うダニエル。
斉唱する信徒たち。
「楽園は遠く離れた場所ではなく、今、ここにある」
ダニエルの説教を耳にして、教会は町民らの拍手と笑いに包まれていた。
聖水を信徒らにかけ、自らも聖水を浴びる。
常識を外れたダニエルの振る舞いは、却って町民らの心を溶かしていくのだ。
本来の司祭はアルコール依存症の治療に時間を要するので、ダニエルの滞在期間が延長される。
実は町には、去年、発生した悲惨な交通事故が暗い影を落としていた。
若者6人が乗る車が中年男スワヴェクの車と衝突し、双方の乗員7人が亡くなったという忌まわしい事故である。
町民らは、スワヴェクの飲酒運転が原因だと決め付け、スワヴェクの遺灰を他の犠牲者と共に、町の墓地に埋葬することを拒んでいた。
だから、スワヴェクの未亡人は村八分のような状況に置かれていた。
そのスワヴェクの家を訪ねるダニエル。
「あなたは死なない」
スワヴェクの母の手がダニエルの手に伸ばされ、ダニエルはそう言って慰撫する。
事故の犠牲者が眠る献花台。
「目を閉じて、彼らの方に手を伸ばして。私たちの存在や声が届くかもしれない。彼らも私たちのハグを求めているかもしれない。彼らは私たちの心の中にいる。息を吸って、吐いて。吸って、吐いて。すべてを吐き出します」
皆、大声を出して繰り返す。
それを見る少女マルタ。
| マルタ(左) |
カルトの如きダニエルのパフォーマンスに、ラインを成して動く町民たち。
「なんか恥ずかしいわ」という女性に、「誰に恥じることが?」と答えるダニエル。
この田舎町では、鮮度の高いダニエルのアドリブ全開の説教は極めて効果的だった。
2 「私は人殺しです。聞き間違いではない。過ちによって人を殺しました。自らの行いのせいです」
町長がダニエルの元を訪ねて来た。
聖体祭(カトリックで聖体を称える祭日)の前に製材所の新工場の開所式に、司祭の代わりにダニエルの参加を求めてきたので、それを承諾するダニエル。
その町長からダニエルに対して、「事件(事故)について嗅ぎ回るのはよせ」と恫喝される。
製材所の新工場の開所式が行われ、ダニエルの祝福の祈りも遂行される。
事故の犠牲者の遺品が集められ、ダニエルはそれらを焼却処分にすると言う。
マルタの兄も事故で亡くなっていたが、スワヴェクの埋葬に賛成するマルタ。
実は彼女だけは、兄から届いた遺品のスマホの映像から、若者たちこそ飲酒運転だったことを知っていたのである。
| マルタと事故の情報を共有するダニエル |
その事実を知ったダニエルの告解の場に、製材所で働き、少年院の仲間だったピンチェルが現れる。
以下、教会でのダニエルの告白。
「私は人殺しです。聞き間違いではない。過ちによって人を殺しました。自らの行いのせいです。我々の得意なことは?人を見捨て、非難することです。赦しは忘却ではなく、なかったフリはできない。赦しとは愛です。犯した罪とは関係なく、その人を愛することです。全能の父である神が、捧げものを受け入れるよう祈りましょう」
| マルタとリディア(中央) |
ダニエルはピンチェルに正体をバラすと脅迫されるが、ダニエルは脅迫には応じず、町民を説得し、葬儀ミサを執り行うのだ。
ミサの場所でダニエルは思い切ったことを話す。
「今日のミサで集めたお金は、まだ埋葬されてないスワヴェクの葬儀に使います。教会の共同墓地で葬儀を行います」
沈黙する町民たち。
「葬儀をするのは反対よ」
町民たちの一致した見解に対し、ダニエルは「死者を聖地に埋葬するのが?」と反応するが、「私たちの意見を尊重して」と言われ、折り合えない。
母親から家を追い出され、泊まるところを失ったマルタはダニエルに宿泊を頼み、了承したダニエルはマルタと結ばれる。
放火されるダニエルの祈りのスポット。
製材所オーナーでもある町長側の恫喝のように思えるが、ダニエルの強い気持ちは変わらず、スワヴェクの埋葬を強行する。

埋葬式が行われる渦中で、町民の多くが憎しみを捨て、弔問に訪れた。
そこに本物のトマシュ司祭が現れた。
ピンチェルの密告だった。
トマシュ司祭はダニエルを殴り、「他にこのことを知る者は?」と問い詰めた。
「いない」と答えるダニエル。
「私がミサ(葬儀ミサ)を行うから紹介を。それが終ったら着替えて荷物を準備して待て」
「はい」
「君はここにはいなかったことにする」
司祭服に着替えて、ダニエルに命じるトマシュ司祭。
葬儀ミサを待つ町民たち。
ダニエルはミサの最中に司祭服を脱ぎ、タトゥーの入った身体を曝け出し、自らの正体を明かした後、教会から立ち去った。
町のミサは代わった元の司祭によって行われ、そこにスワヴェクの未亡人も出席した。
怨念が溶かされたのである。
一方、マルタは町を離れ、旅立っていく。
そして今、少年院に戻ったダニエルは、冒頭のシーンで紹介されたように、過去に自分が殺した男の兄ボーヌスと殴り合いの喧嘩をして、その場を去っていくのだ。
3 暴力と暴力の狭間に挿入された似非・司祭の「物語」

信仰とは何か。
宗教とは何か。
宗教による救済とは何か。
悪とは何か。
正義とは何か。
罪とは何か。
赦しとは何か。
権威とは何か。
聖職とは何か。
教会とは何か。
何より、神とは何か。
このように、複数のテーマ思考が切に求められる映画である。
もっと言えば、過ちを犯した者は、なぜ聖職者になれないのか。
要するに、「人生は何回もやり直せる」という、とびきりの欺瞞は、「人生はいつの世もやり直せない」という現実によって検証されてしまうのである。
もとより、脆さを本質的に有する私たち人間とは、一体、何なのか。
かくて、一切のテーマは、この一点に収斂されてしまうのである。
閑話休題。
ここでは、信仰の世界に容易に侵入した、善悪両面を併存するトリックスターの如き主人公の内面をフォローしていきたい。
暴力に始まり、暴力で終わる映画の中身は、およそ暴力と無縁な宗教祭事の世界だった。
少年院を仮退院したダニエルが目指したのは、一瞥しただけの製材所ではなく、この田舎町に存する教会であった。
そこで出会ったマルタとの短い会話を経由するや、予め司祭服を盗んで用意したように、似非・司祭の誕生を手ずから必然化していく。
ここから開かれる行程もまた、ダニエルの根源的熱量の殆ど約束された事の成り行きだった。
犯罪を犯しているが故に、憧憬する司祭の職に就けない男にとって、宗教による他者の救済という命題は、男の自我を十分以上に潤す果実だった。
私は、ダニエルの救済プログラムの実践的プロセスを、しばしば「メサイアコンプレックス」と呼んでいる。
メサイアコンプレックスとは、「犯罪者」といったスティグマ(烙印)・劣等感を抱えている人が、他者を救うことで自らが負の記号を補填しようとする心理のことで、「偽善」・「欺瞞」という使い古された言語で説明している。
典型的な例は、「無償の愛」の行き着く先まで描き切った、かの有名なチャップリンの「街の灯」の論評で言及している。
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| 「街の灯」より |
「ギブ・アンド・ギブ」(多くの場合、その本質は、「ギブ・アンド・テイク・テイク」=「一分の供与」と「自己満足感」+「感射・称賛」という不等価交換)などという言葉を簡単に言語化することで、「善き者」を相手に印象付ける心理操作のトラップを内深く隠し込み、特定的対象人格の中枢に雪崩込んでいく、「無償の愛」という名の欺瞞的言辞の、厄介で、危うい観念を合理的に認知し得る者は、「ギブ・アンド・テイク」の本来的な価値の有効性を決して否定しないだろう。
チャップリンはただ、拠って立つ自我が勝手に作った、「純愛譚」に関わる物語の安寧を確保するために、限定的な「互酬性」(物理的供与と情感的返礼という、「物」と「心」の等価交換)の濃度の高い関係性を延長したいだけだった。
その関係性を延長することで手に入る「プロセスの快楽」こそ、男の得難い至福の時間だったのだ。
それが人間である。
そこに、何の違和感もないし、欺瞞性の欠片も見られない。
ただ単に、観る者が勝手に、「無償の愛」などという「ギブ・アンド・ギブ
」という幻想に酩酊したいだけなのである。
―― では、本作のダニエルのケースを、どう読み解けばいいのか。
なぜ、彼は似非・聖職者となってまで告解やミサなどにのめり込んでいったのか。
町民の反対を押し切ってまでスワヴェクの埋葬を強行したのか。
一切は、トマシュ神父からの大きな影響力が窺える。
「なぜ私たちはここにいるのだろうか?重要なものを思い出し、忘れずにいるためだ。私を含め、君たち1人1人がキリストの代弁者であり、絶えず祈るべきだ。“祈り”とは、すなわち“神との対話”だ。怒りや不安、恐怖などの今の感情を神に打ち明けるんだ」
このような説教をするトマシュ神父から得たものは、あまりに大きい。
聴く者にダイレクト訴えるトマシュ神父の説教は、似非・司祭になったダニエルの説教を彷彿とさせる。
相手の内面に直截に訴えかけるのだ。
それが度外れなものであっても、聴く者の心を騒がせていく。
いや寧ろ、度外れなものであるからこそ、聴く者の心を捉えて離さないのだ。
ここに既に、「ギブ・アンド・テイク」という関係幻想が生まれている。
「言語が中心のパフォーマンス」を贈り、「自己満足感」という見返りを授与されるのである。
ここで勘考する。
ダニエルは果たして、「感謝・称賛」(「テイク」)という見返りを求めていたのか。
彼の場合、「言語が中心のパフォーマンス」を贈ること自身が自己目的化しているようにも見える。
「感謝・称賛」を得ることは二次的なものに過ぎないとも言える。
彼は単に、「ギブ・アンド・テイク」(贈与+自己満足感)のみを目指していたが、結果的にそれが「テイク・テイク」(自己満足感+感謝・称賛)を生むことになった。
そういうことではないか。
そして、本当に「赦しと救済」を望んでいる者に対して、反対を押し切って動いていく。
このことは、「赦しと救済」の世界に、手ずからダニエルが踏み込んでいったことを意味する。
もはや似非・司祭のカテゴリーを越えていくのだ。
正真正銘の司祭になっているのである。
これはチャップリンの「ギブ・アンド・テイク・テイク」=「一分の供与」と「自己満足感」+「感射・称賛」という不等価交換の価値を超えているのである。
だから、
そこまで踏み込んでいくなら、一層、本名を名乗って似非・司祭の旅を続けたらどうかなどと考えてしまうのだ。
「言語が中心のパフォーマンス」によって十分すぎる快楽を得る。
ダニエルの場合、単にそれだけだったのかも知れない。
それにしても、暴力と暴力の狭間に挿入された似非・司祭の「物語」は、あまりに緩やかで内面的な光景に満ち溢れていたのである。
人間とは、一体、何なのか。
この根源的テーマについて、改めて勘考せざるを得ない映画だった。
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| 『聖なる犯罪者』撮影中のヤン・コマサ監督 |
(2026年9月)





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