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2026年8月14日金曜日

聖なる犯罪者('19)   暴力と暴力の狭間に挿入された似非・司祭の「物語」  ヤン・コマサ

 


1  「楽園は遠く離れた場所ではなく、今、ここにある」

 

 

 

実話に基づく映画。

 

看守の目を盗んで、暴力が荒れ狂う少年院。

 

トマシュ神父の説教から開かれる。

 

「ミサを始める前に言っておきたいことがある。私は形式的に祈りに来たのではない。君たちもそうであることを願っている。渋々ここにいるのなら運動場に行けばいい。神は共におられる。この場にいる必要がないのなら。なぜ私たちはここにいるのだろうか?重要なものを思い出し、忘れずにいるためだ。私を含め、君たち1人1人がキリストの代弁者であり、絶えず祈るべきだ。“祈り”とは、すなわち“神との対話”だ。怒りや不安、恐怖などの今の感情を神に打ち明けるんだ。犯した罪についてでもいい。理解を得られる。聖歌でも?ダニエル」

トマシュ神父

神父の話を真剣に聴くダニエル

トマシュ神父の言葉に頷くダニエルが呼ばれて、聖歌を歌う。

 

ダニエルの仮退院の日、トマシュ神父に「もし、僕に神学校の入学資格があれば…」と思いを漏らすと、「犯罪歴があるから無理だ。良い行いをしたいのなら、他にも、たくさん道がある。できることをやれ」と言って激励する神父。


ダニエル小さな田舎町の製材所で働くことになった。

 

聖職者に憧れる彼は田舎町の教会に立ち寄るが、その教会にいた一人の少女マルタに「僕は司祭だ」と嘘をつくダニエル。

 

司祭服は?」と聞かれ、司祭服を見せるのだ。

 

マルタに礼拝所の管理責任者である母リディアを紹介され、トマシュを名乗るダニエルは司祭に歓迎され、ウォッカをストレートで飲み、宿泊も許されるのである。 

リディア(右)

司祭

翌朝、町の司祭の代わりに、告解を引き受けることになる。

 

携帯で“告解の手引き”を参考に、町民の罪の告白を聞き、説教を垂れるのだ。

 

(こっ)(かい)とは、カトリックで信徒が神と司祭の前で罪を告白すること】

 

最初の女性信徒の告解は、タバコを吸う12歳の息子に禁煙させる方途を問われ、「強いタバコを買いなさい。それを吸えば、すぐやめます」と答えるダニエル。


昔、大罪を犯したと悩む町の司祭から、自らの治療のために数日間、代わりをやって欲しいと頼まれ、有無を言わせず、引き受けることになった。

 

ミサの日。

 

辞書を調べて、最後の晩餐を記念し、祈りや聖体(せいたい)拝領(はいりょう)を行うミサを執り行うダニエルに緊張が走る。


【聖体拝領とは、ミサでパンとぶどう酒を受け、キリストの体と血にあずかるカトリックの儀式】

 

「形式的に祈るつもりはない。君らもそうだと思う。神は外におられる。では、なぜ我々はここにいるのか。こういうことだ。我々は教会へ来て…彼(イエス)の姿を見る。とても真似できない。すごく純粋な存在だ。塵にすぎない私たちに、どうして、あなたの代わりが務まるだろうか。では祈りを。心の底から祈るのです。今、神と対話してください。では、聖歌を」


聖歌を歌うダニエル。


斉唱する信徒たち。

 

「楽園は遠く離れた場所ではなく、今、ここにある」

 

ダニエルの説教を耳にして、教会は町民らの拍手と笑いに包まれていた。


聖水を信徒らにかけ、自らも聖水を浴びる。

 

常識を外れたダニエルの振る舞いは、(かえ)って町民らの心を溶かしていくのだ。

 

本来の司祭はアルコール依存症の治療に時間を要するので、ダニエルの滞在期間が延長される。

 

実は町には、去年、発生した悲惨な交通事故が暗い影を落としていた。

 

若者6人が乗る車が中年男スワヴェクの車と衝突し、双方の乗員7人が亡くなったという忌まわしい事故である。

 

町民らは、スワヴェクの飲酒運転が原因だと決め付け、スワヴェクの遺灰を他の犠牲者と共に、町の墓地に埋葬することを拒んでいた。

 

だから、スワヴェクの未亡人は村八分のような状況に置かれていた。

 

そのスワヴェクの家を訪ねるダニエル。


「あなたは死なない」

 

スワヴェクの母の手がダニエルの手に伸ばされ、ダニエルはそう言って慰撫(いぶ)する。

 

事故の犠牲者が眠る献花台。


「目を閉じて、彼らの方に手を伸ばして。私たちの存在や声が届くかもしれない。彼らも私たちのハグを求めているかもしれない。彼らは私たちの心の中にいる。息を吸って、吐いて。吸って、吐いて。すべてを吐き出します」 


皆、大声を出して繰り返す。 


それを見る少女マルタ。

マルタ(左)

カルトの如きダニエルのパフォーマンスに、ラインを成して動く町民たち。


「なんか恥ずかしいわ」という女性に、「誰に恥じることが?」と答えるダニエル。


この田舎町では、鮮度の高いダニエルのアドリブ全開の説教は極めて効果的だった。

 

 

 

2  「私は人殺しです。聞き間違いではない。過ちによって人を殺しました。自らの行いのせいです」

 

 

 

町長がダニエルの元を訪ねて来た。

 

聖体祭(カトリックで聖体を(たた)える祭日)の前に製材所の新工場の開所式に、司祭の代わりにダニエルの参加を求めてきたので、それを承諾するダニエル。

 

その町長からダニエルに対して、「事件(事故)について嗅ぎ回るのはよせ」と恫喝される。

 

製材所の新工場の開所式が行われ、ダニエルの祝福の祈りも遂行される。

 

事故の犠牲者の遺品が集められ、ダニエルはそれらを焼却処分にすると言う。

 

マルタの兄も事故で亡くなっていたが、スワヴェクの埋葬に賛成するマルタ。

 

実は彼女だけは、兄から届いた遺品のスマホの映像から、若者たちこそ飲酒運転だったことを知っていたのである。

マルタと事故の情報を共有するダニエル

その事実を知ったダニエルの告解の場に、製材所で働き、少年院の仲間だったピンチェルが現れる。

 

以下、教会でのダニエルの告白。

 

「私は人殺しです。聞き間違いではない。過ちによって人を殺しました。自らの行いのせいです。我々の得意なことは?人を見捨て、非難することです。赦しは忘却ではなく、なかったフリはできない。赦しとは愛です。犯した罪とは関係なく、その人を愛することです。全能の父である神が、捧げものを受け入れるよう祈りましょう」

マルタとリディア(中央)


ダニエルはピンチェルに正体をバラすと脅迫されるが、ダニエルは脅迫には応じず、町民を説得し、葬儀ミサを執り行うのだ。

 

ミサの場所でダニエルは思い切ったことを話す。

 

「今日のミサで集めたお金は、まだ埋葬されてないスワヴェクの葬儀に使います。教会の共同墓地で葬儀を行います」


沈黙する町民たち。

 

「葬儀をするのは反対よ」


町民たちの一致した見解に対し、ダニエルは「死者を聖地に埋葬するのが?」と反応するが、「私たちの意見を尊重して」と言われ、折り合えない。

 

母親から家を追い出され、泊まるところを失ったマルタはダニエルに宿泊を頼み、了承したダニエルはマルタと結ばれる。

 

放火されるダニエルの祈りのスポット。


製材所オーナーでもある町長側の恫喝のように思えるが、ダニエルの強い気持ちは変わらず、スワヴェクの埋葬を強行する。


埋葬式が行われる渦中で、町民の多くが憎しみを捨て、弔問に訪れた。

 

そこに本物のトマシュ司祭が現れた。


ピンチェルの密告だった。

 

トマシュ司祭はダニエルを殴り、「他にこのことを知る者は?」と問い詰めた。 


「いない」と答えるダニエル。

「私がミサ(葬儀ミサ)を行うから紹介を。それが終ったら着替えて荷物を準備して待て」

「はい」

「君はここにはいなかったことにする」


司祭服に着替えて、ダニエルに命じるトマシュ司祭。

 

葬儀ミサを待つ町民たち。

 

ダニエルはミサの最中に司祭服を脱ぎ、タトゥーの入った身体を(さら)け出し、自らの正体を明かした後、教会から立ち去った。

 

町のミサは代わった元の司祭によって行われ、そこにスワヴェクの未亡人も出席した。

 

怨念が溶かされたのである。

 

一方、マルタは町を離れ、旅立っていく。

 

そして今、少年院に戻ったダニエルは、冒頭のシーンで紹介されたように、過去に自分が殺した男の兄ボーヌスと殴り合いの喧嘩をして、その場を去っていくのだ。


 

 

3  暴力と暴力の狭間に挿入された似非・司祭の「物語」 


 

 

信仰とは何か。

 

宗教とは何か。

 

宗教による救済とは何か。

 

とは何か。

 

悪とは何か。

 

正義とは何か。

 

罪とは何か。

 

赦しとは何か。

 

権威とは何か。

 

聖職とは何か。

 

教会とは何か。

 

何より、神とは何か。

 

このように、複数のテーマ思考が切に求められる映画である。

 

もっと言えば、(あやま)ちを犯した者は、なぜ聖職者になれないのか。

 

要するに、「人生は何回もやり直せる」という、とびきりの欺瞞は、「人生はいつの世もやり直せない」という現実によって検証されてしまうのである。

 

もとより、脆さを本質的に有する私たち人間とは、一体、何なのか。

 

かくて、一切のテーマは、この一点に収斂されてしまうのである。

 

閑話休題。

 

ここでは、信仰の世界に容易に侵入した、善悪両面を併存するトリックスターの如き主人公の内面をフォローしていきたい。

 

暴力に始まり、暴力で終わる映画の中身は、およそ暴力と無縁な宗教祭事の世界だった。

 

少年院を仮退院したダニエルが目指したのは、一瞥(いちべつ)しただけの製材所ではなく、この田舎町に存する教会であった。

 

そこで出会ったマルタとの短い会話を経由するや、(あらかじ)め司祭服を盗んで用意したように、似非(えせ)・司祭の誕生手ずから必然化していく。

 

ここから開かれる行程もまた、ダニエルの根源的熱量の(ほとん)約束された(こと)の成り行きだった。

 

犯罪を犯しているが故に、憧憬する司祭の職に就けない男にとって、宗教による他者の救済という命題は、男の自我を十分以上に潤す果実だった。

 

私は、ダニエルの救済プログラムの実践的プロセスを、しばしば「メサイアコンプレックス」と呼んでいる。

 

メサイアコンプレックスとは、「犯罪者」といったスティグマ(烙印)・劣等感を抱えている人が、他者を救うことで自らが負の記号を補填(ほてん)しようとする心理のことで、「偽善」・「欺瞞」という使い古された言語で説明している。

 

典型的な例は、「無償の愛」の行き着く先まで描き切った、かの有名なチャップリンの「街の灯」の論評で言及している。

 

「街の灯」より

「ギブ・アンド・ギブ」(多くの場合、その本質は、「ギブ・アンド・テイク・テイク」=「一分の供与」と「自己満足感」+「感射・称賛」という不等価交換)などという言葉を簡単に言語化することで、「善き者」を相手に印象付ける心理操作のトラップを内深く隠し込み、特定的対象人格の中枢に雪崩込んでいく、「無償の愛」という名の欺瞞的言辞の、厄介で、危うい観念を合理的に認知し得る者は、「ギブ・アンド・テイク」の本来的な価値の有効性を決して否定しないだろう。

 

チャップリンはただ、拠って立つ自我が勝手に作った、「純愛譚」に関わる物語の安寧を確保するために、限定的な「互酬性」(物理的供与と情感的返礼という、「物」と「心」の等価交換)の濃度の高い関係性を延長したいだけだった。 


その関係性を延長することで手に入る「プロセスの快楽」こそ、男の得難い至福の時間だったのだ。

 

それが人間である。

 

そこに、何の違和感もないし、欺瞞性の欠片も見られない。

 

ただ単に、観る者が勝手に、「無償の愛」などという「ギブ・アンド・ギブ 」という幻想に酩酊したいだけなのである。

 

―― では、本作のダニエルのケースを、どう読み解けばいいのか。

 

なぜ、彼は似非・聖職者となってまで告解やミサなどにのめり込んでいったのか。

 

町民の反対を押し切ってまでスワヴェクの埋葬を強行したのか。

 

一切は、トマシュ神父からの大きな影響力が(うかが)える

 

「なぜ私たちはここにいるのだろうか?重要なものを思い出し、忘れずにいるためだ。私を含め、君たち1人1人がキリストの代弁者であり、絶えず祈るべきだ。“祈り”とは、すなわち“神との対話”だ。怒りや不安、恐怖などの今の感情を神に打ち明けるんだ」

 

このような説教をするトマシュ神父から得たものは、あまりに大きい。

 

聴く者にダイレクト訴えるトマシュ神父の説教は、似非・司祭になったダニエルの説教を彷彿(ほうふつ)とさせる。

 

相手の内面に直截(ちょくさい)訴えかけるのだ。

 

それが度外れなものであっても、聴く者の心を騒がせていく。

 

いや(むし)度外れなものであるからこそ、聴く者の心を捉えて離さないのだ。

 

ここに既に、「ギブ・アンド・テイク」という関係幻想が生まれている。

 

「言語が中心のパフォーマンス」を贈り、「自己満足感」という見返りを授与されるのである。

 

ここで勘考(かんこう)する。

 

ダニエルは果たして、「感謝・称賛」(「テイク」)という見返りを求めていたのか。

 

彼の場合、「言語が中心のパフォーマンス」を贈ること自身が自己目的化しているようにも見える。

 

「感謝・称賛」を得ることは二次的なものに過ぎないとも言える。

 

彼は単に、「ギブ・アンド・テイク」(贈与自己満足感)のみを目指していたが、結果的にそれが「テイク・テイク」(自己満足感感謝・称賛)を生むことになった。

 

そういうことではないか。

 

そして、本当に「赦しと救済」を望んでいる者に対して、反対を押し切って動いていく。

 

このことは、「赦しと救済」の世界に、手ずからダニエルが踏み込んでいったことを意味する。

 

もはや似非・司祭のカテゴリーを越えていくのだ。

 

正真正銘の司祭になっているのである。


これはチャップリンの「ギブ・アンド・テイク・テイク」=「一分の供与」と「自己満足感」+「感射・称賛」という不等価交換の価値を超えているのである。


だから、「偽善」・「欺瞞」というメサイアコンプレックスのカテゴリーからも逸脱している。

 

そこまで踏み込んでいくなら、一層、本名を名乗って似非・司祭の旅を続けたらどうかなどと考えてしまうのだ。

 

「言語が中心のパフォーマンス」によって十分すぎる快楽を得る。

 

ダニエルの場合、単にそれだけだったのかも知れない。

 

それにしても、暴力と暴力の狭間(はざま)挿入され似非司祭は、あまりに緩やかで内面的光景満ち溢れていたのである

 

人間とは、一体、何なのか。

 

この根源的テーマについて、改めて勘考せざるを得ない映画だった。 

『聖なる犯罪者』撮影中のヤン・コマサ監督


(2026年9月)

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