絶対推薦のベルギー映画。観る者の心を揺さぶる大傑作。
1 衝撃を受け、動揺する少年
「どうする?」
「静かに」
「ごめん」
「音を立てないで」
「分かった。見て来る」
「行くな」
ここで「レオ」という女性の声がして、慌てて隠れる2人の少年。
暗みから出て来た2人の少年は1、2、3と数えて屋外に出て、花畑を走り抜けていくのだ。
走り終えた2人は花畑の脇を、満面の笑みで歩いていく。
| レオ(右)とレミ |
花卉業を営む実家のレオと、その親友のレミである。
そこにレオの兄が加わって、無邪気な会話を繋ぎながら、夏の強い光線を浴びている。
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| 後方はレオの兄チャーリー |
発表会が近づき、オーボエの練習に勤しむレミ。
それを見るレオ。
「お前のマネージャーになる。一緒に、あちこち旅をして。大金持ちになるんだ」
お互いの息遣いが聞こえる距離の中、2人はベッドで横向きになっている。
自転車を争いながら学校に行く2人。
秋。
中学生になって、クラスも同じになり、相変わらず仲がいいレオとレミ。
唐突だった。
女子に問われたレオは「つきあってない」と答える。
その女子は、「(レミと)仲がいいから聞いただけ。カップルに見えたから」と言う。
「手はつながない。キスもしない…(だけど)親友以上さ。兄弟に近い」
| レオ |
それでも疑う女子に「この話はやめよう。“カップル”じゃない」と言って、釘を刺すレオ。
それでも女子ばかりでなく、男子から「オトコオンナ」とからかわれるレオは衝撃を受ける。
内面で受けた衝撃を言語化することで、そこに生まれた違和感を全身で受け止めるしかなかった。
以降、学校での行動の変化が顕著になっていくレオ。
レオは他のクラスメイトとも遊んだり、話の輪の中に入ろうとするが、レミは少し離れたところから眺めているだけ。
兄チャーリーと共に実家の花卉業を手伝うレオとレミの関係はさして変わらないが、学校ではレミとの身体接触を避けるようになっている。(レミの態度は変わらない)
そんな2人が喧嘩をする。
いつものように、レミの部屋に泊るレオが、自分の床に入っているレミを追い出したことで、レミも抵抗して争ってしまうのだ。
以降、レオの態度の変化に落ち込むレミは、自宅での食事でも泣いているので、案じる父に問われ、「おなかが痛いだけ」と答えるのである。
翌朝、一緒に自転車登校する2人だが、レミはレオを無視して走っていくのである。
学校でもレミの態度を気にするレオの方が、「元気?」と言ってレミに近づいていく。
レミの反応が鈍いので「怒っているのか?」と聞き返すレオ。
首を横に振るレミ。
沈黙する2人。
レオはアイスホッケーに誘われたので、装具を身に着けてコーチの言うことを聞いた後、練習に集中する。
転倒しながらもコーチに褒められるレオのプレーを見るレミ。
「楽しい?」
「うん」
それ以上、会話が進まないで帰宅するレオに、母親が訪ねる。
「今日もレミの家?」
「行かない」
「どうして?」
「別に」
それだけだった。
翌朝、レオは独りで学校に行き、途中から男子仲間と共に競争する。
レオが皆と話しているところにレミがやって来て、「レオ、どこにいたの?何で先に?」と尋ねた。
「食事が早く終わったから、先に出た。それだけだ」とレオ。
「僕を置いていった」とレミ。
「説明しただろ」
ここで、レミは思わず泣いてしまう。
「泣くな。泣くようなことじゃない」
この瞬間、レミは暴力に訴えるが、先生に止められるのである。
「いいわね。深呼吸して、ケンカは終わりよ」
それを見るレオも泣いている。
| レオの兄(左) |
その後、アイスホッケーの仲間と打ち解けるレオは、レミが女子を含む生徒と話をしている様子を見て、複雑な感情を抱く。
初めてレミが休校し、落ち着かなくなるレオ。
ある日のこと。
全ての生徒が保護者と共に講堂へ行くよう担任に指示され、レオは胸騒ぎがして、遠足帰りのバスを降りようとしなかった。
そのバスに乗り込んで来たレオの母ナタリーは、レミに何かあったことを知らせようとして嗚咽してしまう。
| 哀しみに沈むレオの母ナタリー |
「もう、いないの」
衝撃を受け、激しく動揺するレオ。
母の反対を押し切って、自転車に乗って疾走していくのだ。
行く先はレミの家。
ドアが壊れていて、誰もいなかった。
先生が生徒たちの思いを聞いていくが、問われたレオは「ありません」と一言。
その後も、母の心配をよそにアイスホッケーの練習に打ち込むレオ。
帰宅し、ベッドに身を預けていたが、「時間だ。行こう」という父の誘いで、レミの葬儀に参列するレオ。
普通に授業を受け、休み時間には雪合戦で体を動かして、レオは必死に平常心を保持しているようだった。
2 新たな時間の海を遊弋する少年
グループカウンセリング。
「信頼できる子で、いつもたのしそうだった。よく笑ってて、そんなレミがとても好きだった」
「僕はこう書いた。“レミは笑顔が多くて、たまに面倒くさい奴。優しくて、レオの親友。よく一緒に笑った。いつもハッピーな奴だった”」
この話を耳にしたレオは、「何で分かる?」と口を挟んだ。
「そう見えた」と、その生徒。
「“いつもハッピー”?」とレオ。
ここでレオは、感情を剥き出しにする。
「おかしいか?」
「何が?」
「笑ったろ」
「まさか」
「何で笑うんだ」
「感情は本人の自由よ。いい?言葉にするのが大事なの」
カウンセラーの役割を担った教師の言葉に頷くレオ。
今度は、他の生徒。
「レミはいい奴で、楽器が上手だった」
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| 発表会に参加する在りし日のレミ |
ここで、苛立つレオは席を立ってしまう。
アイスホッケーや家業の手伝いに没頭するレオ。
アイスホッケー場で、レオはレミの母ソフィと出会い、「(レミから)何か聞いてた?」と聞かれ、首を横に振る。
その後、レオの家にレミの両親が夕飯に招かれ、近況を話し合う。
「大丈夫だ。問題ない。仕事も再開した」
| レミの父ピーター |
レオの兄チャーリーに聞かれた際の、レミの父ピーターの反応である。
レオの母ナタリーから聞かれたソフィも、産科の仕事に復帰したと答え、「人手不足だけど、何とかやってる」と話す。
その顔を見るレオ。
チャーリーも近況を聞かれ、試験の後は「1年くらい旅行する。恋人と2人で世界を回るんだ。すごく楽しみだよ…そのあとオーストラリアへ」という夢を語り始めたら、レミの父ピーターは、思わず嗚咽してしまう。
場の空気を変えてしまうのだ。
「ごめんなさい」
そう言って、席を立ってしまうソフィ。
息子の死の喪失感に打ちのめされる夫婦の〈現在性〉が、そこにあった。
この衝撃は、アイスホッケーで転倒し続けるレオの〈現在性〉と地続きだった。
兄チャーリーと共に花卉の植え付けを手伝い、作業が終ったら兄と戯れ、兄の肩を借りて時を過ごすレオ。
今や、兄だけが心許せる親友になっていく。
更に、学校の他の友人の家に泊まりに行ったりするレオだが、思い切ってレミの家を訪ね、飼い犬はレオの訪問を喜び、家からソフィも出て来てレオを歓迎する。
「私に会いに来た?」
「うん…部屋に行っていい?」
ソフィの許可を取って、レミの部屋に恐々と入っていく。
机の上には、絵が描かれたしわしわになった紙があり、「さがし回った」とソフィ。
「レオ。何があったの?」
ソフィの唐突だが、本質的な一言に言葉を失ったレオは、涙を拭った後、足早に帰ってしまうのだ。
帰宅して自室に籠るレオを案じる母がレオを抱擁するが、暴れるだけのレオ。
アイスホッケーの試合で、ディフェンスに回って転倒し、左腕を骨折してしまうレオ。
その夜、自分を心配する兄の前で、レオは「会いたい…」と一言、漏らす。
まもなく、産科院で仕事するソフィの職場を訪ね、車に同乗し、意を決したレオは「僕のせいだ。僕が原因だ。僕が突き放した」と吐露する。
「降りて」とソフィが言うなり、車を降り、1人で森の中に入っていくレオ。
「レオ!」と叫びながら、レオを追うソフィ。
泣きながら、木の枝を手に持ち、森の一角でソフィを待つレオ。
追いついて、レオの涙を受け止めるソフィ。
近づき、抱擁するソフィ。
そこに今や、言語が捨てられている。
ギブスが取れて腕の骨折が治った数日後、再び、ソフィの家を訪ねるが、既に空き家になっていた。
学年が変わり、レオは収穫前の美しい花畑の中を1人走り、その後、歩いている。
後ろを振り返る。
穏やかで前向きな表情をカメラ目線のうちに残して、また、歩き始めるのだ。
夏から始まり夏で終わる1年間に及ぶ複雑で、繊細な内的行程を経て、新たな時間の海を遊弋するのだ。
3 信じられないくらい残酷で心痛む物語
自作のインタビューそれ自身が、優れた映画批評と化すハネケ監督にも似て、本作のルーカス・ドン監督のインタビューもまた、その誠実さが直截に伝わる自作の的確な批評になっていて驚かされた。
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| ルーカス・ドン監督 |
だから、ネットで読める限りのルーカス・ドン監督のインタビューを全部読んだ。
以下、本作の批評も、それらを自分なりに咀嚼して表現したものになっている。
主人公のレオとレミの関係の初発点が、オープニングのシークエンスのうちに凝縮されている。
そこでは、戦争の塹壕のように見立てた場所での「ごっこ遊び」が、満開の花畑での疾走をイメージさせる2人の少年の「親密さ」が際立って特化されていた。
その塗り絵のようなピュアな構図が内包する心象風景は、小学校時代の最後の夏の眩さと言っていい。
ここで重要なのは、「戦争ごっこ」という男らしさの「強さ」の構図と、女子が絡まないのに、花畑の疾走という「優しさ」と「華やかさ」という構図が併存し、象徴的に描かれていたこと。
これが、2人の児童期自我の原風景だったが、両者の構図を繋いでいたのは、男の子同士の間で自然に形成された仲睦まじいほどの親密さ。
しかし、小学校時代の眩さは永遠に続かない。
ジャネーの法則ではないが、輝きに満ちた小学校時代の終わりの見えない感覚が中学校に踏み込むことで、未だ経験しなかった社会規範という厄介な文化的ルールに囚われるばかりか、社会性を帯びた人間関係の構築や勉学等の複数の課題の前に1日の時間の長さが窮屈に感じられるだろう。
【ジャネーの法則とは、大人になると早く時間が過ぎたように感じるという心理学の概念。具体的には、思春期・青年期までの時間の長さがより長く感じ、成人期・老年期になるほど、より短く感じるというもので、時間の「体感速度」が年齢にほぼ反比例すると説明される経験則のこと。また日本の場合と違って、ベルギーでは、中等教育が6年間(12歳~18歳)になっている】
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| ジャネーの法則 |
映画に戻る。
季節が秋に移ろった時、レオとレミの関係の原風景に亀裂が入る。
その契機になったのが、レオに向けられた女子の一言。
「つきあってるの?」
唐突な問いを受けたレオは必死に反応する。
「手はつながない。キスもしない…(だけど)親友以上さ。兄弟に近い」
これは2人の関係が女子たちにセクシャリティを感じさせると、レオが判断したことに対する抗弁であり、相当の真剣さが窺える。
「親友以上」だがゲイパートナーではない。
レオが強調したかったのは、この文脈である。
クィアとして育ってきたとカムアウトするルーカス・ドン監督は、この映画がセクシャリティを描いたものではないことを少年を演じた2人に事前に伝えていたと説明したことでも分かるように、レオの抗弁には不具合がない。
中学校に踏み込むことで、思いもかけず面食らった厄介な文化的ルールに動揺するレオが、以降、他の男子らと同じように、中学校生活への適応に腐心する行為に打って出たのはしごく自然な成り行きだった。
興味深いのは、女子の問いに特段の反応を示さなかったレミの反応である。
2人の関係にセクシャリティの感覚で接していなかったレミにとって、女子の問いは無意味なものであり、レオが親友以上で兄弟関係に近いと答えたことで、敢えて抗弁する必要がないと高を括っていたに違いない。
2人の関係が小学校時代の延長と考えていたからである。
この2人の受け止め方の差が季節が変わっただけで、その関係の落差が顕在化されていく。
レオが男らしさの象徴的記号であるアイスホッケーに打ち込むことで、レミとの共有時間が削られていくのだ。
そこでは、レミは単に眺める生徒でしかなかった。
この時、レミは「僕もやろうかな」と反応していた。
どこまでも、レオとの共有時間を増やしたいのだ。
しかし、その程度では関係に亀裂が入らない。
問題は、中学に入ってからも続いていた共有時間までも失ったことだ。
レオがレミの家に泊まりに行かなくなったことを背景に、毎朝、2人で一緒に登校しなかったこと。
これは大きかった。
それは、親友以上で兄弟関係に近い関係をキープしてきた少年が失った、それ以外にない物理的根拠だったからである。
「僕を置いていった」
そう言って泣いてしまうレミ。
これほどまでにナイーブなレミの性格を分かっていながら、置き去りにしたレオの確信的行為を支えるのは、唯々、彼の適応生存戦略のみ。
そんなレオが十全な適応を果たさんとする社会規範が内包する暴力性。
ルーカス・ドン監督は、そう指摘する。
それは、レミの涙の訴えを異化するレオが拠って立つ文化的ルールの威嚇の強度と言っていい。
ルーカス・ドン監督は、13歳から18歳の少年数百人を対象に調査した著書を世に出した、心理学者のニオベ・ウェイの見解に影響を受け、語っている。
即ち、13歳の少年たちが男友だちのことをどう話すかというと、決して「蝿の王」のような殺伐としたサバイバル劇の関係性ではなく、ラブストーリーに近いということらしい。
「でも成長するにつれ、男友だちに対して親密さを示すことが難しくなっていくそうです」(「映画『CLOSE/クロース』ルーカス・ドン監督にインタビュー」)
【20世紀英国の小説家ウィリアム・ゴールディングの代表作「蝿の王」は、航空機の墜落によって無人島に取り残された少年たちの生き延びの様態を通して、人間の本来的な残酷さを抉っている】
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| 映画「蠅の王」より |
まさに、本作のレミに対するレオの行動傾向が、仲睦まじいほどの親密さが希薄になっていく件こそ、心理学者の見立て通りになっている。
中学に入ることで児童期を脱したのである。
レオの1年間は、自我を形成するに相応しい思春期のとば口に立って、新たな学年に踏み込んでいく画期点だったのだ。
そこにレミとの差が見られるが、レオを問い詰めるレミに対して、「泣くな。泣くようなことじゃない」というレオのハードな反応が、却ってレミを傷つけてしまった事態は、なお大人の判断に届かない少年の脆弱さだった。
この時のレオとレミの心理について、ルーカス・ドン監督の的確な説明があるので、それを引用する。
「レオは中学生になり、他のみんなは男友だちのお腹の上に頭を乗せて寝そべったりなんかしないんだと理解し、彼らの行動を真似しなければと焦ります。レミにこれまでどおり近づきたい願望もありながら、そうすべきかどうか葛藤するわけです。そのため、どこか態度がぎこちなくなります。レオはレミと二人だけの世界ではなく、もっと多くの人たちがいる別の世界に属したいと思い始めます。それで、レミへのコミュニケーションが決定的に変わるわけです。友だちから急に冷たくされる経験って多かれ少なかれ、きっと誰にでも経験がありますよね。この映画においては、信じられないくらい残酷で心痛む瞬間です」(「映画『CLOSE/クロース』ルーカス・ドン監督にインタビュー」)
かくて、レミは自死してしまう。
この映画で最も辛いシーンだった。
信じられないくらい残酷で心痛む物語は、レオの母の「もう、いないの」という一言が内包する破壊力の凄みを開くのだ。
それでもなお、必死に平常心を保持しようとするレオ。
皆が殆ど一様に、レミとの関係を知るだけに、レオを覆う空気の濁りを一身に浴びる少年の時間に余裕を持つ日常が崩れ切っていた。
この辛さが遂に身体化される。
レミの母への告白。
森を走って、泣きながら、木の枝を手に持ち、森の一角でソフィを待つレオ。
このシーンは本作の白眉である。
防衛意識と罪悪感が混淆した少年の心が、太い木の枝を持つことと嗚咽の涙という形で表現されていた。
今やソフィを前にして、太い木の枝を持つことの無意味さをレオ自身が分かっているから、涙を絞り出しているのだ。
もう、何も語れない。
語りを拾えないのだ。
何より、ソフィ自身が分かっているのだ。
この2人を救うのが抱擁以外にないことを。
そしてラストシーン。
ルーカス・ドン監督は、こう語っている。
「しかし、春になればまた草木は芽吹き、花は咲き、色鮮やかな花畑が広がる。人生のはかなさだけではなく、希望の象徴としても描かれているのだ」(「『CLOSE クロース』他者の定義で破壊される、少年たちの親密さ ルーカス・ドン監督が語る」)
同じベルギーのダルデンヌ兄弟の「息子のまなざし」(カンヌでオリヴィエ・グルメが主演男優賞を受賞)にも似ていて、素晴らしい映画だった。
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| 映画「息子のまなざし」より |
作り手が言うように、信じられないくらい残酷で心痛む物語だった。
(2026年9月)








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