1 「一生懸命生きてきたし、悔いはないんです。幸せな人生だったと思いますよ」
「すごい奇麗。ほら透き通っているでしょ。夏は気持ちいいのよ、足を入れて。何でも夢みたい、また来て。嬉しい。幸せ」
| 迎田良子さん |
「迎田良子さんはこの2日後、2022年12月15日、スイスで安楽死を遂げた。64年の生涯だった」(字幕)
タイトルが出る。
「2022年1月。当時、ロンドン特派員として安楽死の取材を続けていた私のもとに、日本にいた迎田良子さんから突然、メ-ルが届いた。迎田さんは進行性の難病・パーキンソン病を患い、呼吸不全や耐え難い苦痛の末、スイスで安楽死する決意を固めていた。日本では認められていない安楽死の法制化を訴え、自身の最後の姿を通して、安楽死について多くの人々に考えて欲しいと希望していた」(西村匡史監督のナレーション)
2022年11月 東京
室内を整理して外に出る迎田さん。
「歩くのはどんな感じですか?」と監督。
「あのねえ、見ても分かるように膝が曲がっちゃって、前屈みになって、お年を召した方みたいになっちゃって。何か辛いっていうか…歩くのが大変。でも歩きたい」
「長時間、歩くと、結構疲れる?」
「何て言うんだろう。身体では辛いけど、歩くのは好きです」
「運動は好きだった?」
「もう、スポーツマンですよ。バレーボール、キャプテン。サーフィンもやったし、スキューバダイビング。あとゴルフ」
「ご病気になって、運動は控えざるを得ないってことですか?」
「歩くだけですね。それがいいリハビリだと思ってるんで」
「迎田さんが患ったパーキンソン病は、手足が震え、徐々に体が動かなくなるほどの難病だが、それ自体が死に至る病ではない」(字幕)
「最初にパーキンソン病の兆候があったのはいつ頃ですか?」
「ドクターに話したら、それもそうだよって教えてくれたので、自分としてはその時、気にも留めなかったんですけど、2012年以降かな。ソファーがベッドになるってありますでしょ。あれで寝てたんですよね。ちょうどこうなってるから、背中が痛くなって、それが原因かなって思ってたら、ドクターが言うには違うんですね。でも気にも留めなかったんですね」
この間、体や両手の痺れが絶え間なくて、必死に両手で握り合っている迎田さん。
「そのあと、左足が何か違和感を感じて、震えるようになって、数秒ほどなんですけど。よくストレッチをやってたんで分かるんですけど、何か神経が鈍いなあって感じがしてきて、2013年辺りですね。震えが目立ってきたのは2015年ですかね。電話の仕事やってたんですけど、急に血の気が引いて、息苦しくなってきて、眩暈と吐き気がして、早退したんですね。1時間くらいで治ると思ったら、やはり1時間、横になって回復したんで。でもドクターが言うには、それもそうだって言うんですね。私がおかしいなって病院行ったのは、2016年の2月で、その前から何かおかしなのがあって。最初は整形外科に行こうと思ったぐらい背中や節々が痛くて、一番は頭痛と吐き気ですかね。左足の筋肉が硬直するんですね。脳に繋がってるのが分かるんですね。それで不快で眠れなくて、ドタバタして、明け方頃、寝入りするっていうか、背中が曲がっているので腰をこうやらないと(立てないと)辛くなる」
帰宅した迎田さんはアルバムを見せる。
「父がよく大工仕事が趣味で、よく褒められたんで、それを本職にしてしまったんですね。工務店開いて…でも仕事がなかったみたいで大変そうだったんで、気がついてみたら引っ越してみました。続けましたんだけど、段々、父と母の仲が悪いのが目立って、子供心に分かるので、私と父が話すと母が嫉妬するので、悪循環でしたね。恥ずかしい話なんですけど、私が学校から帰って来ると若い男の人がいて、いつも来るようになったんですよね。父がいない時に泊まってたり、異様でしたね。今言えるのは、段々、自分が社会人になって感じるのは、(母は)敵。母の愛人からひっぱかれたこともありますし、だから家族に頼ろうという気持ちはなかったですね」
「高校時代って、どんなお嬢さんでした?」
「多感な時代で、将来を夢見ながら、よくお友達と喋ってました」
「この頃の夢って、何かありますか?」
「映画の翻訳、戸田奈津子さんに憧れてました」
「海外に行ったんですか?」
「音楽が好きで、西洋の音楽、歌。ポップスとかクラシックとか好きでした。これは20歳頃(の写真)で、パルコ(ショッピングセンター「PARCO」のこと)にいました」
「色んなご職業をやってらした?」
「そうですね。あれをやりたいとか、特にないんですけど。生活のための収入が必要だったんで、可能な限り働きました。日本語教室養成所に入って、半年働いてオーストラリアで9か月日本語教室で行きました」
「いい思い出ですか?」
「いい思い出ですね。自分がこんなことできたんだなって。日本で働いてた自分と違う自分が発見できました」
食事の支度をする迎田さん。
「パーキンソン病になって料理などの制限がありますか?」
「仕事が長くできませんでしたね。あと手指を動かして作業をしていると、1時間ほどすると眩暈がしてくる。段々、体が動かなくなってきてるんで、早く見切りをつけないと飛行機も乗れなくなっちゃう」
「今、この体調で、このタイミングで安楽死を選択することに繋がっていますか?」
「そうですね。何ていうか、寿命ですよ。自分の人生の寿命だって思うくらい。後悔はないんですよね。何でも好きなことしてきたし、一生懸命働いたし、貯金も作ったし。でも色んなことが重なってこういう病気になったと思うのでね。一つが原因でないと思うんだなぁって思います」
「これが大きかったことってありますか?」
「ありますね。結婚してた時に流産したんですよ。手術しなければいけないってことになって、麻酔を打ったんですけど、量が多すぎたらしくて、一晩中苦しんで、脳が浮いたような形になっちゃって、それが関係あるんじゃないかって思う。30代後半ですかね。それから脳が痛くなるようになって、最悪」
戸外でのインタビュー。
「8年間、結婚生活あった中で、その後、離婚をされて、安楽死を決めたのはいつ頃ですか」
「自分が本当の難病にかかってるんだなって認識した時ですね」
「認識したのはいつ頃ですか?」
「2018(年)頃ですね。侵食されてるんだなあ、何やっても。何とか生きたいけど、でも選択肢は用意しとくっていうか、まあ、何とか生きなきゃいけないと思ったんでしょうね。父がいますし、将来のことを想定し、父がいなくなったら完全に私は独りだなっていうのがありましたし、じゃあお墓をどうしようっていうのを考えたり…」
「お父さんを看取るまでいなきゃいけないって思うんですか?」
「そうですね、任されたので」
「お父さんが亡くなった時には、ご自身の安楽死と関係すると思うんですけど、お父さんを看取った時にはどう思われました?」
「うーん…やれやれと思いました。というのも、私の体もパーキンソン病が進行してましたので、一体、将来どうなるのかなぁって思いました」
再び、食事の支度をする迎田さん。
「もし安楽死が認められてなかったら、どういう風に考えます?」
「多分、辛くって体の痛みが続きますから、段々、動けなくなって首を吊って死んだかも知れない。紐を用意してあるんですよ。人生が嫌だとか、そういうんじゃなくて息を止めたい。病気を止めたいっていうのかしら。そういう言い方ですね。でも元気な時は、夜とかレストラン行ってね、友だちと色んなもの食べましたけど、もう、公の場に出られないんで、これじゃ(震える手が止まらない)。友だちが誘ってくれる人がいたんですけど、私は障害者だからダメだよって断って。だから最後にレストラン行ったのは2年前かな。もう、その頃から、こっちの手(右手)も震え出して。だからレストランとか行かない。ここで食べてても、フォークとかナイフがこうなちゃって(震える手が止まらない)、食べ物が飛んじゃうんですよ。」
「そんな状態で、お店とかで嫌な思いをされたことがありますか?」
「ドトールコーヒー入って、あれってできたもの持っていかなきゃならないじゃないですか、テーブルまで。大変でしたね、バーッて零れちゃって。隣の人が異様さを感じたのか、席離れて、あたしの後ろに立って座らないんですよ。これはもう、スタバとか行けないなと思って」
「お友だちで、迎田さんの決断を知っている人はいるんですか?」
「います」
「どんなご意見ですか?」
「付き合いが20年くらい経つんですけど、再婚も考えた仲なんですね。フランス人なんですけど、私のことボルドーに連れて行って、皆に紹介してくれて、いい線までいったと思ったら喧嘩しちゃって。その繰り返しできたんですけど」
戸外で。
「まあ彼もどうやって一緒に住めるかっていうことで、日本に来たことがあったんですね。やっぱり人の世話ができない人が傍にいると疲れてしまう。もうダメだなって思いました」
「もし彼と新しい家族を築いていたとしたら、今この段階で、安楽死をすべきかどうかということは思わなかったんですよね?」
「パーキンソン病だったけど、まだ今ほど重症ではないので…でも色んな選択肢を作らなければいけないなと思ってスイスのことは見てましたね」
自宅で。
「彼に言いましたね。だけど、彼も考え出して…できない。彼も肺の難病なんですよ。だから結局、一緒に結婚できなくて。友だち関係になっていったんですけど。肺が苦しくて長旅ができないし。パスポートのコピーも送ってくれたんですよ。ああ、行けるかなと思ったんですけど、結局ダメで。療養生活ですね、彼は」
「このままこのご病気で生きるとしたら、いずれはお兄さんに頼らざるを得ないリスクもあるから…」
「それも一つありますね。そこまでして生きていたいと思わない。頭下げてまで。重要性がないと思いますよ、そこまでして。じゃ、生きて、ヘルパー頼んで、眼だけ開いて、それが何なのって感じ。自分で選択肢も、権利があると思います。自己責任を持ってね…たとえ、母と父が生きていて、お金があるとか、ヘルパーなるよって言われても、こういう不快さ、体の痛みを代わってくれるわけじゃないんで。進行性の難病なので、私は安楽死を選びますね」
「スイスに行く日程が決まって、生活の過ごし方が少し変わったりしましたか」
「やっと決まったんだなという喜びと、却って目的ができて、最後の日まで、これをやっておこう、あれをやっておこうで、却って充実してます…お世話になった人に手紙を書いておくとか、気持ちの中でも、あの人にこういうことしちゃって悪かったなとか、そういうのが出てきた。感謝の気持ち。だから、そうやって出会いもあったし、一生懸命生きてきたし、一生懸命やってくれた人もいたんで、悔いはないんです。幸せな人生だったと思いますよ。プロポーズもたくさん受けたし、こう言っちゃなんだけど、いい人生だったと思います」
【パーキンソン病は、主に60歳代以降、神経伝達物質であるドーパミンの減少によって、1000人に1人程度の有病率で、何らかの遺伝子異常を起因に発症する。ドーパミンの減少によって震え(静止時振戦)が発現し、体の動きが悪化していくという運動症状が顕著になっていく。また自律神経症状(便秘、頻尿、めまいや発汗)、嗅覚障害、睡眠障害などの非運動症状が見られることもある。パーキンソン病の発症のメカニズムについては、少しずつ研究が進んでいるものの、確実に証明された環境因子は存在しないと言われる】
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| パーキンソン病はドーパミンの不足によって発症する |
2 「死ぬことにたいして哀しくないから。やり残したことはない。タラレバはないし、寂しさもないし。理解できない人と一緒にいるよりも一人のがいい」
戸外で。
「法律の中で、安楽死に許可を下す審査ですかね、それをはっきりすべきだと思います。誰もが病気持ってるから安楽死できるとは限らないです。そこには判断能力と難病でやむを得ないというのは大きいと思います。人それぞれ、パーキンソン病でも生きたいという人はいると思います。それは尊重すべきだと思います。要は、自分がどうしたいかだと思います」
「病気になっていなかったら、どんな最期を迎えたかったですか?」
「やっぱり、独りではなかったので、看取られて、日本じゃなくて心地いいところで最期を遂げられたかなーって」
「今回、私たちの映画のインタビューに応じられたのはどういてですか?」
「安楽死に関して討論して欲しいと思ったからです。日本にもいつか早く合法化されることを願っています」
その後、服用している薬を示し、治癒できる薬剤はないので、単に進行を止める薬を服用していて、合わない薬は止めていることを話す迎田さん。
「(首を縊る紐を)手にかけたことはないんですが、頭の中で考えましたね」
「どういう時ですか?」
「やっぱり、ここ(脚)から硬直して、脳に伝わって居ても立っても居られない時は辛いんですよね。言葉では言い表せない不快感。逆立ちしたり、エクササイズしても寝れないんですよね。明け方になって眠くなって寝られたっていうか。一度、辛くて救急車を呼ぼうかと思って電話したんですけど、手の施しようがないって断られたの。それだけとんでもない難病だということが分かった。施しようがないですよ。進行していくんですね。今はこうだけど、動けなくなっていくんだと思う。先生もそう言ってました」
「頭の中で紐かけて痛くなるよりも、安楽死の方が…」
「安楽死の方が迷惑かけないと思う。だって、ここで首吊ったら、この家売れますか。売れないと思う。隣に引っ越したばかりの人がいるし…平和的な息の引き取り方であると思う」
【自殺・他殺・火災死などが「事故物件」と呼ぶが、事件性のある死亡だけでなく、孤独死・災害死なども含める扱いが多く。事故物件の価格は自殺で20〜30%値引きされると言われる】
「取材を続けていた私は、スイスで迎田さんの安楽死を手伝けすることになるエリカ・プライシックという医師のもとを訪ねた。彼女が代表を務めるライフサークルは、2011年に設立されたスイスの安楽死団体の一つだ。海外からの希望者も受け入れていて、会員数1500人のうち62人が日本人。13年間で7人の日本人を含む750人以上の安楽死を手助けしてきた。殺人罪で起訴され、無罪となったプライシック医師。この仕事を続けている理由を聞いてみた。彼女の信念を支えるものは、個人の意思を尊重することであり、死の自己決定権は、その最たるものであった。迎田さんの最期の日は目前に迫っていた」(ナレーション)
| 「取材を続けていた私は、スイスで迎田さんの安楽死を手伝けすることになるエリカ・プライシックという医師のもとを訪ねた」 |
| エリカ・プライシック医師 |
| 「13年間で7人の日本人を含む750人以上の安楽死を手助けしてきた」 |
| 「彼女の信念を支えるものは、個人の意思を尊重することであり、死の自己決定権は、その最たるものであった」 |
以下、エリカ・プライシック医師のインタビューでの発言。
「安楽死は人権の1つです。人は誰でも。いつ、どのように死にたいのか、決めることができるはずです。人権はスイスだけではなく、世界中の人のためにあります。安楽死は世界中で合法化されるべきです。スイスまで行かなくてはならないのはいいことではありません。重い病気を患って、渡航が困難な人たちばかりだからです。私を頼り、助けを必要とする人がたくさんいます。『あなたが諦めたら、私は安楽死する事ができない。続けてください』と。だから私は、これからも、この仕事を続けていきます」
「安楽死が認められるためには、ライフサークルが定めた4つの要件をみたす必要がある」
以下の通り。
回復の見込みがない
治療の代替手段がない
明確な意思表示
【耐え難き苦痛には、精神的な苦痛も含まれる】
2022年12月 スイス・ジュネーブ
「安楽死、安楽死っていうけど、誤解されることが多いと思うのね。もう、治らない進行する病気だからこそ、安楽死を選ぶっていうことを言いたいのね。私の人生は今まで築きあげてきたものが壊れたなって思いますね。でも難病って言っても、治るかも知れないという希望を持ちました。でももう、私はこの苦しみは一生背負って、生きても意義を見出しません。人それぞれだと思う。答えは一つではないです」
| レマン湖の畔にて |
2022年12月15日
「婚約破棄になったフランス・ボルドーの元恋人が看取る予定だったが、直前に断りの連絡を入れてきた」(字幕)
「この人には看取って欲しかったなぁというのはありますけど、でもそれが叶わなかったことには、あまり悪い気持ちはないです。人それぞれで権利もありますんで、こういう結果であろうとも、この結果が自分にとってベストなんだよってポジティブに考えてます」
「どんな気持ちで最期の瞬間、迎えますか?」
「行ってみないと分からないけど、でも、自分がコツコツ準備してきたものが叶うわけですから、やり遂げたなぁという満足感じゃないんですか。一生懸命頑張って、グリーンライトに向かってゴールに来たわけなんで、達成感というか、一生懸命やったなぁという、自分に労いの気持ちがあると思います」
ライフサークルに到着する迎田さん。
英語で会話する迎田さんは、束の間の待機時間にクロワッサンを食べ、遺灰をレマン湖に撒くことが夢と言う。
「私って面白いでしょ。こういう時にジョーク言えるから。死ぬことにたいして哀しくないから。やり残したことはない。タラレバはないし、寂しさもないし。理解できない人と一緒にいるよりも一人のがいい」
「話を窺っていると、人に迷惑をかけてはいけないというのが強くて…」
「人に甘えるっていうのが下手くそなのかもね」
インタビューの質問が聞き取ることができないので、迎田さんの言葉のみを起こしてみる。
「難病がどんな苦しみかということを、人々に興味を持ってもらいたいですね。病気になったから嫌だ、安楽死だっていうんではない。希望は生きることですから。でも、それがやむを得ないという時に安楽死があるんだから。そこんとこのジャッジをしっかりしないと。何が嫌なのかというと痛みじゃないですか。痛みと不快感」
ここで、エリカ・プライシック医師がやって来て、迎田さんと抱擁する。
書類を持って来て、それを確認する迎田さん。
「安楽死をする上で誰かが命令したり、影響を与えたりしていますか?」
「ノー」と答える迎田さん。
「あなたの希望ですね?」
「誰も関与していません」
「家族には連絡済みですね?」
「1度、伝えました」
「医師には?」
「手紙を書きました。診察券と感謝の手紙を封筒に入れて出しました」
「それを聞いて、安心しました。医師は患者の望みを把握するのが大切です。患者を尊重できるようになります」
書類の確認を終えて、サインをする迎田さん。
「次は注射の準備に入ります。点滴の装置です。まだ何の薬も入っていないので、何も起きません。その装置を開ける練習をします。その後、薬を入れます」とエリカ・プライシック医師。
「今から?」
「今からベッドに来てもらいます。ベッドの上で行うのが一番なの」
傍らにあるベッドに横たわり、点滴の注射をしてもらう迎田さん。
「短い間の友人だったわね」とエリカ・プライシック医師。
「あなたに会えてよかった。出会えて光栄だった」と迎田さん。
「元気なあなたを日本で見たかったわ」
「あなたにはもっと長生きして欲しい」
「私もそう願うわ。私たちは死を避けることはできない。誰もがスイスではなく、自分が住む場所で安楽死ができることが大切」
「準備はいいですか?」
「イエス」
「数日間、友達でいてくれてありがとう」
「親友ね」
「中に薬を入れますので、まだ開けないでください」
薬を入れるエリカ・プライシック医師。
「ここに来られて幸せ。夢が叶ったわ。パーキンソン病の苦痛に終止符を打ちます。これ以上、生きることを望みません」
「あなたのパーキンソン病は、耐えられないほどの苦痛です。最後に質問します。あなたの名前は?」
「迎田良子です」
「生年月日は?」
「1958年7月18日生まれです」
「何故、ここに来ましたか?」
「スイスのライフサークルで安楽死するためです」
そして、薬が投入される。
自分でスイッチを押すのである。
「最初の30秒は何も感じません。その後、急に眠気がきます。そして深い眠りに入ります」
エリカ・プライシック医師の説明である。
「もう、離してもいいのよ」
点滴の紐を持つ手を離すように指示し、「ちゃんと投入されていますよ」と言い添えるエリカ・プライシック医師。
「あなたの幸せを祈っているわ。最後の旅が良いものであるように。安らぎの場所に旅立てるように…安らかに。とても勇敢だわ。あなたが感謝してくれたように、私も気持ちよ。あなたと出会えて良かった」
迎田さんは旅立っていったのだ。
「迎田さんが旅立ってから2年以上が過ぎた。亡くなってから、私は1日たりとも彼女のことを考えなかった日はない。彼女の選択。そして彼女の人生そのものが、今も私に強烈な印象を残しているからだ。初めて迎田さんからメールをもらってから1年間、イギリスと日本でのオンライン通話による遣り取り。東京・ジュネーブ・バーゼル(ジュネーブに次ぐスイス第3の都市)でも、時が過ぎるのを忘れて語りあったことを思い出す。安楽死を選択する思いや病気のことなど、心が塞ぐ話も多かったが、それだけではない。彼女のこれまでの恋愛話や、ヨーロッパ各国を旅し、暮した心が弾むような話題の方が、むしろ多かった気がする。
『本当に幸せな人生だった』。繰り返し語ったその言葉は、彼女がたった一人で人生を切り拓いてきた誇りだったように思う。安楽死当日、最後に私は、安楽死を思い止まることができないか、改めて尋ねた。しかし彼女は、『誰かに頼って生きるなんて嫌なのよ』とはっきりと言った。その澄んだ瞳を見て、私は彼女の中で、生きる選択肢が僅かにでも残されていないことを悟った。苛酷な幼少期を経て、その後も度重なる困難にぶつかろうとも、自身の力で人生を切り拓いてきた迎田さんを、私は心から尊敬している。ただ、同時にこうも思う。誰かに甘えてでも生きてもらいたかった」(「独りで戦い、生き抜いた――〝安楽死〟した日本人女性 病による耐え難い苦痛と、頼ることをできなくした家庭環境 取材を終えて」より)
3 完璧な準備をしてきたことの自律的な行為の凄さ
ここでは、西村匡史監督の言葉をインタビュー から引用したい。
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| 西村匡史監督 |
【安楽死の問題で主人公の迎田良子さんと具体的にやりとりを始めたのは2022年1月のことです。当時ロンドン特派員として安楽死の取材を続けていた私のもとに、日本にいた迎田さんから突然、メールが届きました。私はある人づてに取材依頼のメッセージを送っていて、それに対してメールを送ってくれたのが迎田さんだったのです。進行性の難病、パーキンソン病を患う彼女はスイスの安楽死団体「ライフサークル」に安楽死の申請をしていて、日本では認められていない安楽死の法制化を望み、自身の取材を通して、そのことを考えてもらうきっかけにしてほしい、と考えていたのです。その後、夏に安楽死の許可がおり、12月に安楽死する予定が調整されるようになりました。本人の気が変わる場合もあるし、焦ってスケジュールを立てないのがライフサークルの方針です。また私としても、気が変わり得るんだったら、止めたいなという気持ちはありました。1年間にわたって、何度も、メールやZOOMでやり取りし、その年の11月に初めて彼女に会いに行きました。私は当時、ロンドン支局に在籍していたのですが、迎田さんが安楽死を翌月に行うという話だったので、彼女が住む日本で会うために一時帰国しました。
迎田さんはライフサークルとの手続きを、誰の手も借りずにたった一人で全てやっていました。彼女は自分のことは自分でやるという強い信念がありました。私は2019年からロンドン支局に赴任していたのですが、それまでは事件や事故などの遺族ら被害者側、そして死刑囚やその家族ら加害者側の取材を続けるるなど、一貫して「命」をテーマにしてきました。安楽死が行われているスイスはロンドン支局の取材エリアだったし、日本人が安楽死するためにスイスに渡る例が出始めていた頃でした。私はヨーロッパへ赴任したら安楽死を取材したいという気持ちを持っていたのです。死の瞬間までカメラを回し放送するのが彼女の強い意思だった。
それについては迎田さんは明確な意思を持っていて、最期の瞬間を撮影して放送してほしいと望んでいたのです。彼女の安楽死を手助けした医師に対しては批判もあって、金のためだとか、死神などと非難する人もいたのですね。それに対して迎田さんは、それを許せないと思っていたのです。自分は助けてもらってるのに、知らない人が勝手なことを口出ししている。だから、これは私の明確な意思であることを示すためにも、最期まで撮影して放送してほしい、それを約束してほしいと言っていたのです。そこまで映すかは議論があり、迷うところもありました。非常に悩んだ末、「約束してほしい」という彼女の意思を尊重した結果の放送でした。放送を通して安楽死を安易に勧めるような誤ったメッセージを投げかけることがないよう細心の注意を払っていたので、作り手としては大きな葛藤でしたね。
22年11月の2日間、日本のご自宅と公園でお話をしていただき、2週間後の12月にスイスでの2日間をあわせた計4日間カメラを回しました。スイスでは、まず彼女の思い出の地でであるジュネーブへ立ち寄って、彼女が散骨を希望していたレマン湖へ。それから安楽死の当日、バーゼル近郊にある施設で亡くなる最後の時まで撮影を続けました。カメラを回したのは4日間にすぎませんが、取材に至るまでの約1年間は、頻繁にやりとりをし、日本とイギリスを繋いだZOOMでは毎回、長時間にわたり、時が過ぎるのを忘れて語り合いました。私は安楽死を思いとどまることができないか何度も確認しましたが、彼女の意思は一切ぶれませんでした。本当に旅立つ直前まで元気で「自分の意思をちゃんと伝えてくれたら嬉しい」と言っていました。撮影を続けてきた宮田カメラマンにも、「宮田さん、体にだけは気を付けるのよ」と声をかけると、カメラマンは号泣していました。最期のストッパーをはずす直前でした。迎田さんは両親を看取った後に安楽死する決断をしていて、お兄さんとは長年にわたって音信不通でした。ただ、残される財産をちゃんと相続するための登記などの書類の準備まで全て一人で済ませて、スイスから日本の所管の役所にまで送っていたのには驚かされました。親しい友人や長年、治療してくれた医師、かかりつけの歯科医にまで感謝を伝える手紙を送っていました。安楽死を手助けする医師も「パーフェクト」と目を丸くしていました。
それも彼女の性格を物語ってるんですけれども、人に迷惑をかけないというのを徹頭徹尾実行していました。死を選ぶにしても自殺というのではいろんな人に迷惑がかかるので、それも安楽死を選んだ理由のひとつだったと思います。『報道特集』の放送後、迎田さんのケースで安楽死するのは違和感がある、との声が少なからず寄せられました。日本人の感覚だと、安楽死は死期が迫ってることが要件だと思う人が多いと思いますが、ヨーロッパで安楽死が認められている国では死期が迫っているかどうかは要件に含まれていないことがほとんどです/「『彼女が選んだ安楽死』西村匡史監督インタビュー」より】
「『彼女が選んだ安楽死』西村匡史監督インタビュー」を改めて読んでみて、安楽死の問題で主人公の迎田良子さんと具体的に遣り取りを始めた西村匡史監督の、取材に向かう記者が負った覚悟のほどがひしひしと伝わってきて、軽々に読めない文章だなという思いを強くした。
何より、苛酷な家庭環境を経てきた迎田さんの前半生を、他者を責めず、さらっと語る彼女の強烈な自律志向に感動する。
中でも、安楽死を選択する際に、他人に迷惑をかけないために選択した行為に驚かされる。
「人に甘えるっていうのが下手くそなのかもね」、「人それぞれで権利もあります」、「自分がコツコツ準備してきたものが叶うわけですから、やり遂げたなぁという満足感」、「私はこの苦しみは一生背負って、生きても意義を見出しません。人それぞれだと思う。答えは一つではないです」、「安楽死の方が迷惑かけないと思う。だって、ここで首吊ったら、この家売れますか。売れないと思う。隣に引っ越したばかりの人がいるし…平和的な息の引き取り方であると思う」、
「最後の日まで、これをやっておこう、あれをやっておこうで、却って充実してます」
これらの言葉を書き取っていて、身震いした。
安楽死を遂行するために、迎田さんが完璧な準備をしてきたことの自律的な行為の凄さは、圧巻である。
もし、安楽死を選択しない身体的条件を手に入れていれば、こんな自律的な行為を強いられることもなかったのだ。
であれば、迎田さんの人生は全く異なっていたに違いない。
堂々と〈生〉を謳歌していたであろう。
安楽死を遂行するための行為を果たしていても「悔いのない人生だった」と表現できる人だから、進行性の難病に罹患してなかったらと考えたら、至福の人生で彩られていたのかも知れないなどと思ってしまうが、いや寧ろ、悔いなく安楽死を選択した人生だったからこそ、西村匡史監督に対して、「死ぬことに対して哀しくないから。やり残したことはない。タラレバはないし、寂しさもないし。理解できない人と一緒にいるよりも一人のがいい」と吐露できたのかも知れないとも思う。
当人が置かれた状況でなければ、分かるわけがないのだ。
作り手のように、分かろうと努力する人だけが、「分かった気持ち」に近づけるのだろう。
特に、「理解できない人と一緒にいるよりも一人のがいい」という言葉には、相当の説得力がある。
分かろうと努力することもしない人間は、却って邪魔でしかないだろう。
重い疾病を持つ私でも、今は、こういう駄文をブログで発信することで決定的に救われているのだから。
人それぞれなのだ。
人それぞれ、〈私の状況〉で〈私の生〉を生き切るのみである。
―― 本稿の最後に、「安楽死」について言及した文章を、映画「人間の約束」(吉田喜重監督)から再編集しながら引用します。
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| 「人間の約束」より |
「安楽死」とは何か。
「苦しい生ないし意味のない生から患者を解放するという目的のもとに、意図的に達成された死、ないしその目的を達成するために意図的に行われる『死なせる』行為」。
信州大学医学部附属病院信州がんセンター緩和部門の研究者・間宮敬子氏による「安楽死」の定義である。
安楽死の区分には、「行為の様態に関する区分」と「決定のプロセスに関する区分」がある。
まず、前者。
積極的安楽死〈死なせること〉
消極的安楽死〈死ぬに任せること〉
次に後者。
自発的安楽死〈患者本人の意思による場合〉
非自発的安楽死〈患者本人に対応能力がない場合〉
典型的には、新生児で重度の障害がある場合の安楽死が問題になるときには、この部類に含まれる。
反自発的安楽死〈患者本人に対応能力があるにも拘らず、意思を問わずに、或いは、意思に反して決定される場合〉
これは稀であり、倫理的には認められない。
以上、組み合わせると、理屈としては6通りの区分が可能である。
―― この内、「自発的消極的安楽死」がマスコミ等では、『尊厳死』と言われている。
「『尊厳ある死』(本来の意味での『尊厳死』)とは、人間としての尊厳を保って死に至ること、つまり、単に『生きた物』としてではなく、『人間として』遇されて、『人間として』死に到ること、乃至、そのようにして達成された死を指す。
こう理解するなら、『尊厳死は倫理的に許されるか』と問う必要はなく、定義からいって尊厳死は目指されるべきこととなる」(清水哲郎HP『安楽死と尊厳ある死』より引用)
この「目指されるべき」死である「尊厳死」を、果たして望まない者がいるだろうか。
では、「尊厳死」を望む者は、均しく安楽死を望むと言っていいのか。
なぜなら、「尊厳死」=「安楽死」ではないからである。
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| 日本初の独立型 ホスピスとして開設されたピースハウス病院 |
これは、ターミナルケア(終末期医療)のホスピス病棟において認容されている、「緩和医療」の状況を想起することで理解できるであろう。
【「緩和医療」は治療ではなく、身体的・精神的苦痛の除去を目的とする限定的な医療で、主に末期癌患者などに対して実施される。鎮痛剤の投与やペインコントロール(疼痛緩和)などがある】
例えば、一人の人間が以下のような状況に置かれた場合、そこで果たしてどのような判断を望むのだろうか。
(1)耐え難い肉体的苦痛がある
(2)死が避けられず、その死期が迫っている
(3)肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替手段がない
(4)生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示がある
これは「東海大安楽死裁判」において、患者の死を認容する条件として出された有名な判例である。
まず患者サイドから言えば、「安楽死」への切実なる希求以外ではないだろう。
医療サイドから言えば、その患者の「積極的安楽死」の希求を受容し、何某かの医療的措置を取ることが可能である。
しかし、これはあくまでも裁判の判例であって、当然の如く、絶対的判断基準となるものではない。
なぜならこの国には、現在、他国のように「安楽死」、「尊厳死」に関する立法的措置が存在しないからだ。
【「安楽死」、「尊厳死」が合法化されている国は、オランダ、ルクセンブルク、ベルギー、フランス、カナダ、ニュージーランド、スペイン、コロンビア、アメリカ8州(カリフォルニア、コロラド、オレゴン、バーモント、ワシントン、ハワイ、モンタナ、メイン)とコロンビア特別区)】
「安楽死法」というものが存在するとき、その法の内実の如何に問わず、それは既に一つの「人間の約束」として、その法を定めた国民国家の成員の全てが、そこでの様々な制約をクリアすることを条件に、少なくとも、「約束」の遂行を果たす権利を持つことができるだろう。
その権利を持たない国の住民は、苛酷とも思える状況だけが弥(いや)増してきて、しばしばその者のとる行動が悲劇的になるのは例を挙げるまでもない。
そして延命治療を保障した近代医学は、そのような悲劇に多くの場合、後ろ向きである
そこに、生命至上主義という近代社会のイデオロギーが、延命医療の先に待っているであろう「悲劇」へのとば口を、恰も仁王像のような出で立ちで、そこから侵入する「邪悪」なる魂を完璧に塞いでしまうのだ。
「人の命は地球より重い」などという、奇麗事のメッセージで重武装するそのイデオロギーは、果たして、もうそこにしか行く当てのない者の、その微かな願いまで奪ってしまうほど絶対的な価値であると言えるのか。
「安楽死」に異を唱える者の多くは、それが生命の価値を相対化する安易なイデオロギーによって、それを選択しなくてもQOLを保障できると判断する者にまで、安直に「死の権利」を保障する危険を説くのだろうが、それは厳格な方法論の導入によって、充分に解決可能な次元の問題に過ぎないのである。
また「安楽死」を求めるなら、何も医療の手を借りずに自殺すれば良いではないか、などという乱暴な意見も聞こえてきそうだが、それに対する私の答えは一言に尽きる。
激しい苦痛が伴う自殺ができないからこそ、「絶対的苦痛から解放されるであろう、安楽死をこそ求めるのだ」ということ。
それ以外ではないのだ。
(2026年7月)






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