私の大好きな「珈琲時光」。
肩ひじ張らず、ゆったりとした時間が流れる映画が切り取った、「日常性」の静のリズムの心地良さ。
上京して来た父のために、アパートの向かいの大家さんの家に、一青窈が酒とグラスを借りに行くシーンは、ヒロインのおおらかな性格と生活風景が凝縮されていて、最高にいい。
浅野忠信は、いつもいい。
―― 以下、梗概と批評。
1 趣味・仕事・世界を持って自由に生きる二人の若者の、緩やかで、ぬくもりのある心的交流の物語
台湾から帰って来たばかりのフリーライターの陽子が、洗濯物を干している所に、電車の録音を趣味にする鉄道マニアで、神田神保町にある古書店主の主人・肇から、携帯電話がかかってきた。
高崎に帰郷する前に、肇の古書店に立ち寄るつもりであることを伝えた後、変な夢を見た話をする陽子。
古書店への立ち寄りの目的は、彼女が調べている、江文也(こうぶんや/台湾の音楽家で1983年に逝去)についての資料が見つかったという連絡を受けたからである。
因みに、陽子の夢の内容は、取り換えられた赤ちゃんの顔が老人ぽくって、体がドロドロに溶け、体は氷でできているという怖い話。
その直後、陽子は都電荒川線に乗り、大塚で山手線に乗り換える。
そこから、いつものように、神保町の古書店に行く。
そこには、「チェンジリング」という、「嬰児交換の民話」が収められていると言うのだ。
古書店を後にして、陽子は高崎に向かう。
父がテレビでナイターを観ている傍らで、自宅の座敷で横になり、リラックスして、羽を伸ばす陽子。
「妊娠しているの」
唐突だった。
夜食を食べながら、義母に告白する陽子。
「誰?」
「台湾の彼」「彼って?」
「うん。よく帰るでしょ、私。でも、結婚しないよ」
「親御さんは?知ってるの?」
「うん。でも、自分でちゃんと育てるし…」
それだけの会話だが、両親に衝撃を与える内容だった。
翌日、墓参りの後、3人はそば屋で食事をする。
東京に戻った陽子は、肇から「ゴブリン」の絵本を渡され、それを読んでいくうちに、自分が4歳の時に家を出ていった実母のことを鮮明に想起する。
引き続き、江文也の取材を続けていく陽子。
お茶の水の駅で肇と待ち合わせていた陽子は、車内で気分が悪くなり、新宿で途中下車する。
プラットホームで座り込んでしまうのだ。
肇と会い、有楽町に行くが、再び気分が悪くなり、心配する肇に、「妊娠しているから」と、路上で直截(ちょくさい)に言い放ってしまうのである。
今度は、肇が陽子のアパートに訪ねて来る。
具合の悪そうな陽子を心配し、食事の世話をするのだ。
独特のセンスを持つ肇が、コンピュータで描いた電車の絵を見せるのだが、その目的が、妊娠を告白した陽子に元気を与えるためであるのは自明だった。
都電荒川線の駅で、父が陽子を待っていた。
母は鬼子母神に寄っていると言う。
両親と共にアパートに戻り、母に大好物の肉じゃがを作ってもらい、「おいしい」と言って、一気に口に頬張る陽子。
アパートの向かいの大家さんの家に訪ね、菓子折りを持って挨拶する母。
陽子は、父のために、お酒とグラスを借りに来たのである。
それを恥ずかしがる母。
醤油まで借りるという陽子にとって、それが日常的な付き合い方だった。
食卓を囲んで、母は娘に、最も聞きたいことを尋ねていく。
「何か月なの?」
「3か月?」「病院行ったの?」
「うん。心配しないでいいよ…でも、結婚はしない。だって、お母さん、べったりなんだもん。一家で傘の製造やってて、絶対、私、結婚なんかしたら、手伝わされるし、そんなの無理…もともと彼は、私が台湾で日本語教えているときの学生なんだけど、彼はアメリカンスクールに通って、卒業してアメリカに行って、お母さんもね、ついて行っちゃうくらいにマザコンでね…でも今、タイで、お姉さんと一緒に工場の管理している」
「連絡とってるの?」
「うん、電話くるよ。タイに来い、タイに来いって」
この言葉で、もう、母は何も言えなくなった。
一貫して、沈黙している父。
そこに、駅のアナウンスや電車の音声を録音している、鉄道マニアの肇が乗車し、眠り込んでいる陽子の前に立ち、起こさないで静かに見守っている。
―― この映画は、自分の趣味・仕事・世界を持って自由に生きる二人の若者の、緩やかで、ぬくもりのある心的交流の物語であると言えるだろう。
それが、二人の適切な距離感なのである。
だから、お互いに干渉し合わない。
そのように考えると、本作は、自由な東京での暮らし方の一端が、鮮明に見えてくる映画として読み取ることも充分に可能である。
2 「日常性」は、ほんの少し更新されていくことで、自在に変形を遂げていく
「日常性」の裂け目の中から、ぬくもり(安らぎ)が作られる。
ぬくもりの継続感を、私たちは「幸福」と呼ぶ。
この継続感は、程よい心地良さで収めておかないと痛い目に遭う。
少な過ぎるぬくもりより、過剰なぬくもりの方が性質(たち)が悪いのだ。
ぬくもりで保護され過ぎた人生には、ぬくもりの意識すら生まれない。
「幸福」の実感も、殆ど曖昧になってしまうに違いない。
少な過ぎるぬくもりも、過剰なぬくもりも、共に捨てた映画 ―― それが本作だった。
何より、「日常性」とは、その存在なしに成立し得ない、衣食住という、人間の生存と社会の恒常的な安定の維持をベースにする生活過程である。
従って、「日常性」は、その恒常的秩序の故に、それを保守しようとする傾向を持つが故に、良くも悪くも、「世俗性」という特性を現象化すると言える。
「日常性」のこの傾向によって、そこに一定のサイクルが生まれる。
この「日常性のサイクル」は、「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つというのが、私の定義。
しかし、実際のところ、「日常性のサイクル」は、常に、このように推移しないのだ。
「安定」の確保が、絶対的に保証されていないからである。
「安定」に向かう「日常性のサイクル」が、「非日常」という厄介な時間のゾーンに搦(から)め捕られるリスクを宿命的に負っているからだ。
その意味から言えば、私たちの「日常性」が、普段は見えにくい「非日常」と隣接し、時には、「共存」していることが判然とするであろう。
しかし、この映画は、私たちの非日常的な「退行」(注)に、大袈裟に収斂させるかのようなエピソードの挿入を切り取っていない。
「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つ「日常性のサイクル」の中で、一貫して、主要な登場人物の相対的安定は確保されている。
その分だけ、「物語」としての「事件性」が希釈化されている。
ここで想起するのは、映画の印象的なエピソードとして挿入されている、「嬰児交換の民話」。
三度、繰り返される「嬰児交換の民話」のエピソードが意味するのは、4歳の時に家を出ていった実母の鮮明な想起に因る、陽子の自我に封印されていたトラウマの「フラッシュバルブ記憶」(閃光記憶)の発現であると言っていい。
自分もまた、「ゴブリン」の絵本に出てくる「嬰児交換の民話」のように、「取り換えられた赤ちゃん」の一人なのだ。
そういう思いが、妊娠を意識する陽子の「時間」の現在性の渦中に噴き上がってきたのだろう。
陽子の「日常性のサイクル」の相対的安定は確保されているが、妊娠という「非日常」の「時間」の現在性は、陽子の将来のライフサイクルを制約する縛りをかけるが、それも自らが選択した生き方なのである。
しかし、その「事件性」は、台湾にいる頼りない男と結婚するより、シングルマザーを選ぶ陽子の内側で、相応の覚悟をもって処理されることで、「日常性のサイクル」の相対的安定は確保されていくのである。
そこには、自分の子供は自分で責任を持って育てるという、ヒロインの強い意志が胚胎されている。
そういう映画なのだ。
だから、何も動いていないわけではない。
「日常性」には定着性があるが、時間として凝結されていないのである。
それ故、少しずつ、何かが動いていく。
「日常性」は更新されるのである。
それが「日常性」の基盤に組み込まれて、新しい秩序を紡ぎ出す。
そこからまた、新しい出口を見つけ出して、人々は、漫(そぞ)ろ歩いて止まなくなるのである。
始まりがあって、終りがある。
そこに取るに足らないことしか起こらなくても、円環的な「日常性」を巡って、巡って、巡り抜いて、それでも、そこにしか辿り着かない時間の海を漂流するようにして、一時(いっとき)の心地良さと出会うために生きていく。
本作ほど、そのことを感じさせてくれる映画も滅多にない。
心地良く響く、都電荒川線の単線のルーラルな安寧感。
都電荒川線が交差する、雑司が谷・鬼子母神の特殊なエリア。
「日本のカルチエ・ラタン」・学生街が広がる御茶ノ水駅界隈の風情。
古書街・神田神保町のノスタルジックな一角。
山を越えて吹きつける空っ風の大地・上州の風景。
レトロな風景の、切り取った構図の美しさ。
だから、ホウ・シャオシェン監督の映画は止められない。
良くも悪くも、独特の様式美によって、俳優の台詞を厳格に管理・支配する「小津ルール」と切れ、この映画は、台詞の重なりがあっても、NGを出すことなく、限りなく自然に、俳優に「日常性」を演技させる「別のルール」によって貫流している。
そう思われるのである。
(注)「あの楽しかった青春の時代に戻りたい」。無論、児童期・思春期でもいい。普通の教育を受け、普通の幸福を享受した大人の自我には、少なからず、このような願望が潜在する。なぜか。第一に、自我の一貫性を保持したいという志向性であり、第二に、大人社会のストレス処理のためであるだろう。その意味で、私たちの「退行」は、大抵、「部分退行」であり、「方法的退行」であると言っていい。いつでも、「日常性」に還ってくる確かな航路が確保されていることによって、私たちは「非日常」の香りを放つ「退行」を許容するのだ。
【参考資料】 拙稿・覚悟の一撃(短言集)
(2016年11月)
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