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テリーとジャールー |
1 「アジア通貨危機」の影響下にある、シンガポールを舞台にしたヒューマンドラマ
「アジア通貨危機」(1997年、
タイの通貨・バーツの暴落を契機に、アジア各国で起こった金融危機)の影響下にあるシンガポールを舞台にしたこのヒューマンドラマは、わがままな振る舞いが目立ち、小学校の問題児でもあるジャールーの共働き家庭に、住み込みのメイドとして派遣されて来たフィリピン人が困惑しつつも、ジャールーの問題行動の背景を理解することで、その心理的距離を縮めていく物語である。
メイドの名はテレサ(以下、テリー)。
一歳にも満たない幼い子を母国に残し、マレーシアとジョホール海峡で隔てられたシンガポールに出稼ぎに来たフィリピン人である。
高層マンションに住み、家電会社の営業マンのため多忙な夫を持ち、自らも、運輸会社に勤めるジャールーの母親が、一人っ子で、やんちゃ坊主の我が子の世話に手を焼き、二人目の子供を身ごもっているという事情もあって、共働き家庭のリスク解消のため、メイドの雇用に踏み切ったという実情が背景になっているから、異国人のテリーの試練は必至だった。
スーパーで万引きした犯人を、テリーに仕立てたジャールーの非行行動は、子供のいたずらの範疇を超えていた。
「何でこんなことしたの!私が嫌いでも構わない。あなたのママに雇われたの。仕事しなきゃならない。いじめられるために来たんじゃない」
自宅に戻るなり、ジャールーに対して激しく説諭し、自分が置かれた立場を訴えるテリー。
しかし、その事実を「二人だけの秘密」にするテリーの心理には、仕事を失いたくないという強い思いがある。
テリーに対するジャールーの反抗は止まらない。
宿題を強要された母親の意を受け、外で遊んでいるジャールーを部屋に連れ戻そうとしても、ジャールーは自転車で逃げ、挙句の果てに、タクシーに衝突し、腕の怪我をしてしまう始末。
その事実も、テリーが責任を負うことで、なお、「二人だけの秘密」が守られていた。
そんな二人に変化が現れたのは、皮肉にも、この一件が契機になっていた。
スキンシップも満足にできない家族に、秘密が発生していた。
営業マンの夫が会社を解雇され、それを妻に知られないために、会社に出勤しているふりをし、マンションの踊り場でタバコを吸っている現場をテリーに見られたことで、それを妻に内緒にするという約束を、テリーは守らされるに至る。
テリーには、もう一つの「二人だけの秘密」が加わったのである。
そのテリーは、ジャールーに導かれ、投身自殺があったマンションの屋上に立っていた。
「ここから飛び降りた。いい景色だから当然だ」
このジャールーの何気ない言葉に、テリーは瞬間的に反応した。
「人の死ぬのが面白い?」
そう言うや、ジャールーの頬を、テリーは軽くはたいた。
それでも、母親の作った料理に不満をぶつけるほどに、ジャールーはテリーにすっかり懐いていた。
収入を増やすために、日曜日にも、テリーは美容室でアルバイトする。
そんなテリーに嫉妬するジャールーの母親が、テリーのクローゼットを無断で開け、そこからタバコの吸い殻が出てきたことからテリーを責めるが、本当のことを言えないテリーを守ったのはジャールーの父親だった。
テリーが庇ったのがジャールーでありながら、父親は自分を庇ってくれたと考え、妻に告白するに至る。
「金を失った。株で大失敗した。10万以上だ」
現在、警備員の仕事をしている夫に、愛想が尽きる妻。
その妻は超音波検査で、胎児が女の子であることを知らされ、安堵するのだ。
しかし、家族の中で自分の居場所を見つけられないような心境に陥った彼女は、自己啓発セミナーに参加するような行動に振れていく。
その原因となったテリーの存在の大きさは、学校でメイドをバカにされたことで腹を立てたジャールーが、級友に怪我をさせてしまった一件で、両親の代わりに学校に赴く行動のうちに象徴されていた。
かくて、放校処分の警告を受けたジャールーを、必死に庇い、弁明するテリー。
「この子の母親は私よ。あんたじゃない」
そう言い放ち、ジャールーを連れて、さっさと帰ってしまうのだ。
そして、放校処分の代わりのペナルティとして、全校生徒の前で、ジャールーへのむち打ちの体罰が遂行された。
ジャールーの手当をするテリー。
この二人の関係濃度の高さと対極にあるのが、ジャールーの両親だった。
自己啓発セミナーにダマされた妻と、今頃になって営業職を首になり、更に、警備員の仕事をも失った事実を告白する夫。
経済的に追い詰められた夫婦は、今や、メイドを雇用する余裕すらなく、テリーにパスポートを返し、解雇を通告する。
それに不満なジャールーは、両親に反抗的行動を取るが、どうしようもない現実を目の当たりにし、最後は宝くじに賭けるのだ。
しかし、それも徒労に終わる。
遂に、その日がやってきた。
テリーと別れる日である。
テリーとの別れを惜しみ、彼女の髪の数本を、ハサミで切ってしまうジャールー。
「自分で頑張るのよ」
テリーの別れの言葉である。
そのテリーの髪の匂いを嗅ぐジャールー。
車内に一人残された、児童期後期の少年の頬から、涙が伝うのだ。
2 児童期反抗と、その思いを吸収する異国のメイドの物語 ―― その濃密さ
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マーライオンを前景としたセントラル地区のダウンタウン・コア |
中華系 (70%以上)とマレー系 (13%)、インド系に大別される公用語は、英語(「シングリッシュ」と呼ばれる、発音が独特なシンガポール人の英語)・マレー語・中国語なので、「異人種同士を対立させない政策」として、「人種混合プログラム」という人種間の融和を図る政策が推進されている。
政治フィールドを大雑把に言うと、人口が500万程度で、国土が東京23区とほぼ同じ広さのシンガポールは、1965年にマレーシア連邦から都市国家として分離独立後(現在、マレーシアからパイプラインで水を輸入)、リー・クアンユーが主導する人民行動党の独裁政権による「開発独裁体制」(反対する勢力を抑圧して工業化を進める強権体制)によって経済成長を果たし、現在のリー・シェンロン(リー・クアンユーの息子)政権に引き継がれても、言論統制の厳しい「開発独裁体制」を継承している。
管理職の女性比率が高い(35%以上)事実が象徴しているように、男女の賃金格差が低く、計画分娩にも違和感がない、9割近い女性の就業率が示すシンガポールでは、2016年4月から施行される「女性活躍推進法」が制定された日本と切れ、その是非の問題を抜きに言えば、「働くママ」をサポートするシンガポール政府の積極的な後押し(産後ケアを手助けしてくれるやサービスの「コンファインメントナニー・サービス」)もあって、中流家庭の共働き家庭が、相対的に外国人メイドの雇用が日常化する現実がある。
この外国人メイドの一人である、本作のフィリピン人メイドのテリーが突き当たったのは、フィリピン、インドネシア、ミャンマー、カンボジアなど、指定された国のメイドしか雇用できない厳しい現実(妊娠をした場合は国外退去)の中で、中華系家族の少年・ジャールーの振る舞いへの対応の難しさだった。
スモーキーマウンテン(マニラ市北部にあるスラム街)という、東南アジア最大の貧民層を抱えていた、自国・フィリピンに残した実子が余儀なくされている、「不在の母」の貧困状態との乖離感の大きさを想起させることで、この映画は、「普遍的な価値観が描かれ、少年の成長、家族の問題、金融危機などの社会背景、海外からの出稼ぎなどが描かれ、文化や国境を越えた作品」とアンソニー・チェン監督が言うように、シンガポールの家族事情を通して、アジア通貨危機に翻弄される共働き家庭の負の側面を、多角的に、且つ、情緒過多に全く振れることなく描き切っていく。
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閉鎖後のスモーキー・マウンテン(2011年) |
テリーには、その事情が理解できるとは言え、子供のいたずらの範疇を超えていたジャールーの非行行動を決して許さない強さがあった。
彼女は、まだ若いのだ。
だからと言って、ジャールーの非行行動を見過ごすことができない。
そこに、テリーの本来の性格が体現されている。
相手が年端もいかない子供であっても、物事に向き合う真摯なテリーには、その母国で、自傷行為(手首の傷跡のようなカットの挿入は最後まで回収されず)に振れるような苛酷な苦労を経験した者の打たれ強さがある。
毅然とした態度をとるテリーの打たれ強さが、時として、崩壊の際(きわ)で揺動する家族の、暗鬱な雰囲気に流れやすい映画に、存外の明るさをもたらしている。
「私を殺したいの!」
学校で問題行動を起こしたジャールーに対して、母親が怒鳴るオープニングシーンが、この国の共働き夫婦が抱える負の部分を表現していた。
共働き夫婦故に、夫婦の会話も表層的で、家庭内コミュニケーションの不足が露わになっているからである。
この家庭内コミュニケーションの不足こそが、一人息子の問題行動の心理的背景にあることが映像提示されているのだ。
「逃げたら困るわ」
メイドとして異国からやって来たテリーのパスポートを取り上げ、その番号をメモする母親の態度には、共働き夫婦の身体的・精神的疲労感の様態が垣間見えていた。
とりわけ、母親の身体的・精神的疲労感の大きさは、円滑な家庭内コミュニケーションの障壁になっていた。
この物理的・心理的距離感が生んだ寂しさが、ジャールーの一人遊び(宝くじの当選番号を記録すること)を常態化させてしまう。
子供の常として、この一人遊びが、学校生活にも延長されていく。
これが問題行動になる。
この問題行動が、ジャールーの母親を必要以上に苛立たせ、ディストレス状態を加速させてしまうのだ。
母親は一方的に𠮟りつけ、事あるごとに、ジャールーの子供らしさを封印し、一方的に抑え込んでしまうのである。
しかし、それは、決してネグレクトではない。
我が子に対する愛情が、この母親に欠けていたわけではないのである。
だから、ジャールーの反抗的態度も限定的だった。
それでも、ごく普通のサイズの、甘えを求める子供の思いだけが生き残される。
甘えを求める我が子の思いを吸収していくテリーに対して、ジャールーの母親が嫉妬心を持ったのは、彼女が「冷たい母親」ではないことを意味する。
ただ、自分が「ジャールーの母親」であるという、「自己権限の範囲」を侵されたことで、テリーに冷たく当たってしまうのだ。
「自己権限の範囲」という「見えない縄張り」の保守の感情が、ジャールーの母親の嫉妬心の根柢にある。
それだけのことである。
同時に、ジャールーに対するテリーの行為は、彼女の心情に、自分に欠けていたものを自覚させる効果を持ったに違いない。
ともあれ、テリーの包容力が、10歳の子供の情感を吸収することで、上手に処理された反抗心は、その情感を、異国のメイドの懐の中で希釈化され、いつしか、思春期自我に昇華されて、成熟した大人の自我に変換されていくだろう。
そのようなイメージを残して閉じていく映像は、フィリピンのメイドであるテリーとジャールーの関係をコアにして、家族の崩壊の危機と、その再生の可能性を描く人間ドラマの秀作として、高く評価されたのも首肯できる。
末梢的な問題に拘って言えば、両親の名が最後まで不分明なのは、テーマ性に即し、シンガポールの中流家庭の夫=ダメ亭主、妻=キャリアウーマンを記号化したものと考えられる。
そのことによって、テリーとジャールーの関係濃度の深さを際立たせる効果を狙ったのではないか。
そう、思われるのである。
【参考資料】 東洋経済オンライン・凄すぎる!シンガポールの「メイド大国」事情
(2016年11月)
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