1 チェロとノコギリのハーモニーに収斂される生存競争の着地点
近未来の荒廃したフランスの某都市の一角で、核戦争を想定させる人類の危機を経て、生き残った者たちは食糧を求めて漁(あさ)り合っていた。
「人は靴まで食っちまう。危ないぜ」
タクシードライバーのこの言葉が、最悪の状況の街の様子を代弁していた。
元大道芸人である失業中のルイゾンが、アパートを兼ねたデリカテッセン(精肉屋)にやって来た。
核戦争後の某都市で、唯一残った精肉屋の店主の狙いは、下宿人を食用肉にして、食糧に飢えた者たちに売りさばく仕事の一環で、住み込みの雑用係として雇用したルイゾンを肉にすること。
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精肉屋の店主(手前)、キューブ兄弟、店主の愛人(右) |
アパート住民もまた、新入りのルイゾンを食肉にすることを求めている中で、ジュリーは「彼を逃がして」と父親に頼むが、「毎回、同じだ。世間は厳しい」と言い捨てて、どうしても、ここだけは譲れないという「ルール」によって拒絶する。
我慢の限界が切れ、ジュリーは、思い切って行動を起こす。
父の倉庫から盗んだコーンを持って、地下に潜っていくのだ。
父の犠牲者をこれ以上増やさないために、ジュリーはトログロ団の協力を求めたのである。
既に、食糧不足から、五人家族の扶養が限界にきて、祖母を肉屋の主人に売り渡し、食肉にされていく。
トログロ団たちの侵入で混乱するアパート内でも、ルイゾンと精肉屋の店主との闘いが起こり、もはや、この狭隘な空間は、「食うか食われるか」の状況を呈していた。
自殺者も出て、火事が勃発する始末。
トログロ団に精肉屋の店主の愛人は囚われ、組織の一人の男に解放されるものの、地下で道に迷ってしまう。
また、浴室に追い詰められたルイゾンとジュリーは、そこを脱出するために、水を溜めることでアパート全体を大洪水にするという大胆な反攻に打って出た。
地下を脱出した店主の愛人は、店主のもとに戻って来て、アパート住人から奪ったブーメランの刃物を店主に渡す。
そのブーメランをルイゾンに放つが、それが逆に、店主の額に突き刺さり、絶命するに至る。
ラストシーンである。
2 ブルーオーシャンの映像の構図の輻輳的なアナーキー性 ―― デフォルメ化された物語のセンスに満ちた異世界性
「人は悪くなく、状況なんだ。間違いが分らないためだ」
この言葉に込められた批判的な含みこそ、作り手のメッセージである。
「犠牲者たちは許さないね」
そして、体を売り、食糧をもらって生きる、精肉屋の店主の愛人のこの言葉こそ、本来の作り手のメッセージであるとも思われる。
ここで想起するのは、ルイゾンが「飛び道具」と言って、殺傷能力の強い武器の威力を、精肉屋の店主の愛人の前で見せたブーメランを、店主に渡すシーンである。
このシーンを深読みすれば、ブーメランの殺傷能力を知る彼女が、現状況下で用無しとなった精肉屋を、自壊させてしまう行動に誘導したと考えられるのだ。
「犠牲者たちは許さないね」という彼女の物言いは、ブーメランのシーンの伏線となって回収されたのである。
思うに、荒唐無稽ながら、この群像劇の面白さは、主に、精肉屋親娘やアパート住人たちの個性が巧みに切り取られていて、エンタメ要素の高い奇異なアート空間の中で、それぞれの振れ幅の大きさがシュールなまでに映像化されているところにある。
「人は悪くなく、状況なんだ」という客観的視座が希薄であり、クリティカルポイント(限界点)を超え、戻り切れない辺りにまで変容した人間性が壊されるのは、殆ど約束された運命だったと言うしかない。
もう、極限状態での「生き延び戦略」を延長させる行為を断念する以外になかたのだろう。
その差は、食肉に対する執着の度合いであるとも言えるが、この執着の度合いの落差こそが、この映画の登場人物たちの行動様態を決める主因なのである。
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生存本能のみで呼吸を繋ぐ老人 |
そして、極限状態に陥っていても、最後まで、本来の人間性を失わなかった二人がいる。
主人公のルイゾンと、彼の救助に動くジュリーの二人である。
だから、彼らは救われる。
水中でキスする彼らだけが、「人は悪くなく、状況なんだ」という社会観の延長上に、愛情という高次な階層的欲望を失うことなく、極限状態での「生き延び戦略」を軟着し得たのである。
思い切り良く言えば、本作は、観る者に恐怖感を味わってもらう意図で制作されたホラー映画や、大袈裟な仕草で客を笑わせる意図で制作されたスラップスティック・コメディ(ドタバタ喜劇)とも切れ、極めて猟奇的ながら、最後までストーリー性を確保しつつ、社会的・倫理的に忌避されるカニバリズム(人肉食い)を出しにして、2016年の時点で、世界で15000発以上(大半が米ロ)もの核兵器が存在している人間社会へのシニシズムを基調にした作品にも見えなくもないが、社会性を全く意識することなく、単に、過剰なブラックジョークの逸品であると読む方が正解なのだろう。
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「博士の異常な愛情」より |
「博士の異常な愛情」は、ネガティブなファクターを内包した政治風刺劇だったが、21世紀状況において、継続的、或いは、キューバ危機の恐怖以上にリアリティを持ち過ぎてしまったが故に、最早、ブラックコメディのカテゴリーを逸脱してしまった映画でもあった。
ダークブラックに近い極端な色調は、包丁の研ぐ音、ベットのスプリングの軋(きし)む機械音、マットを叩く音、階段を昇降する足音、テルミンのような音色を出すルイゾンの鋸(のこぎり)や、チェロの流麗な演奏の音響などで、好むと好まざるとに拘らず、マニアックでファンタスティック、且つ、ユニークなブルーオーシャンの映像宇宙は、ヘビーユーザー向きのシュールな幻想芸術の一篇とも読み取れる。
だから、観る者に不快に思われることを覚悟で作られたかのように、悪趣味な趣向とも堕しかねない変人・奇人のオンパレードが描かれながらも、近未来なのにレトロな世界のノスタルジアに駆られる不均衡感が奏功したのか、充分に収斂され切れない構成力が瑕疵に見えないほどに、ブルーオーシャンの映像宇宙を際立っていた。
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ジャン=ピエール・ジュネ監督(ウィキ) |
独特のセンスに満ちた映像に埋め込まれたエッセンスとは、異世界性・カオス・悪夢・滑稽・非日常性・奇天烈・不可思議・現実遊離感、等々を包含する。
要するに、映像・音楽・美術を網羅し、現実の中で感受する夢の世界のような違和感の、シュールな幻想の世界観を彷彿させる映画的総合芸術の一種の形態であるということ ―― これに尽きないだろうか。
(2016年10月)
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