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2024年3月5日火曜日

悲しみのミルク('08)   凄惨なる「地獄の記憶」を引き剥がし、進軍する  クラウディア・リョサ

 


1  「母さん、見てごらん。海に来たよ」

 

 

「♪きっと いつの日にか お前も分かるだろう ならず者たちに向かって 泣きながら言ったこと ひざまずいて 命乞いをしたことを あの夜 私は叫んだ 山はこだまを返し 男たちは笑った 痛みと闘いながら やつらに言い返した 狂犬病のメス犬から 生まれた男たちよ だからお前たちが吸ったのは メス犬の乳だ 今度は私を飲むがいい 今度は私を吸えばいい 母犬の胸でしていたように 今歌っているこの女は あの夜 捕らえられ 手込めにされた 男たちは気にも留めなかった おなかの中に娘がいることを あの恥知らずたちは 娘が見ている中 手と肉棒で犯した それだけでは飽き足らず 殺された夫のものを口に押し込んだ 哀れないちもつは 火薬の味がした あまりの苦しみに私は叫んだ いっそのこと殺して欲しい そして夫と一緒に 埋めるがいいと この世には分からぬことばかり♪」 

ファウスタの母


ベッドに横たわり、自らの体験を歌いながら語るファウスタの母。

 

ゲリラに夫を殺され、お腹の中にファウスタを宿した母は凄惨な性暴力を受けたのである。

 

「♪思い出すたびに 涙を流す母さん 悲しみの涙と汗が ベッドに染み込む 何も食べてないわね 要らないならそう言って 食事は作らないから♪」 

ファウスタ

ファウスタも歌で語りかける。

 

「♪お前が歌うことで 乾いた記憶が よみがえるなら 何か食べよう 思い出せないのは死と同じだから♪」 


そして、母は歌いながら死んだ。

 

結婚式の準備をしている従姉妹のマキシマと叔父たちの前に現れたファウスタは、鼻血を出して倒れ込む。 

マキシマと叔父(左)

の直後、鼻血を出してしまう


リマの産婦人科に連れて行かれたファウスタを診た医師が、叔父に説明する。

 

「膣内にジャガイモがありました。治療は拒まれました。動揺していたようです」


「子供の頃から恐怖で鼻血を出します。さっき、あの子の母親が亡くなりました。だから気絶した。村ではつらい時期を過ごし、テロの時代に生まれた。母乳から恐怖が伝わったんです。そういう子を“恐乳病”と呼んでます。恐怖と一緒に魂を土に埋めている。リマには無い病気でしょう?」


「つまりジャガイモのことを知っていたと?」

「それは知りませんでした」

 

ジャガイモが勝手に入ったという叔父に対して医師は呆れ、子宮が腫れ、化膿する危険性があり、ジャガイモが成長し細菌が繁殖していると指摘し、鼻血は毛細血管が薄いからだと言う。

 

「簡単な手術で焼けば、すぐ治ります」

 

しかし、叔父は鼻血は恐乳病のせいだと言い張り、医者は恐乳病という病気はなく、母親からの感染もないと言い、入院の書類を渡す。

 

結局、ファウスタと叔父は村へのバスに乗り込んだ。

 

「あの医者は分かっていない。避妊のためじゃないの…私の意志を認めて。テロの時代に近所の人もしてた。気味悪がらせて、レイプされないように。賢い方法だと思った…」


「今は時代が違う。村とも違うんだ。そんなことは起きない」

 

村に帰ると、母の墓穴を掘りはじめた叔父に、ファウスタは「村で埋葬する」と止める。 


「そんな金はどこに?」

「何とかする」 


ファウスタは母の埋葬資金を稼ぐため、叔母から紹介された夜だけのお屋敷のメイドの仕事を始めることになった。

 

前金を受け取るつもりだったが、断られてしまい、母の埋葬がすぐにできなくなった。

 

制服に着替えたファウスタは、屋敷の主人で音楽家のアイダに呼ばれるが、軍服を着た男の写真を見て鼻血を出してしまう。 


アイダ/左下の写真が軍人


ファウスタは部屋で、恐怖心を紛らすために、歌いながら膣から出てくるジャガイモの芽をハサミで切り取っている。

 

「♪さあ 歌うのよ 楽しいことを歌わなきゃ 恐怖心をまぎらわし こんな傷なんて ありもしないふうに 悟られないように♪」 



朝になり、ファウスタは日課の仕事として、予定の時刻にやって来る庭師のノエを玄関のドアを開けて中に入れた。 


ノエ


前金が月末までもらえないと叔父に話したファウスタは、「娘の結婚式までに村へ運んでくれ。さもなくばここで埋める」と言い渡される。 


この二人は、制服を着て結婚式の会場で働いているのである。

 

屋敷に行くと、倒されて壊れたピアノと割れた窓ガラスが散乱していた。 



作曲に行き詰っているアイダは、キッチンでテレビを観ているファウスタに、昨日の歌をまた歌ってくれと頼むのだ。 


「できません」と答えるファウスタ。

 

洗面室でネックレスの真珠をバラまいてしまったアイダは、ファウスタに拾うのを手伝わせる。

 

「歌ったら1粒あげる。全部そろったら渡す」 


ファウスタはそれに応えなかった。

 

いとこの結婚で集まった縁者たちの中で、ファウスタに目をつけた男が話しかけてくるが、それを無視して部屋に戻った。

 

仕事が終わって帰るファウスタを迎えに来る叔父の娘のマキシマに代わって、その男が屋敷に来たが、それも断る。

 

そこにやって来たノエが、仕事の途中で「俺が送ろうか?」と声をかけてきて、ファウスタは断ったものの、結局、家まで送ってもらうことになる。 



いつものように、ファウスタは母の亡骸と共にベッドで寝る。 



屋敷に行ったファウスタは、意を決して、アイダの前で即興の歌を歌い、真珠の粒を一つ天秤のトレーに移す。 


それがファウスタの日課となった。

 

お土産を持って来たというノエから、飴を受け取ろうとして手が少し触れただけで飴を払い落し、走ってその場を去るファウスタ。 


その後、ファウスタはノエに訊ねた。

 

「ここにはゼラニウム、スバキ、ヒナギク、全部あるのに、なぜジャガイモはないの?」

「君は、なぜ一人で道を歩くのが怖い?」


「決めたから」

「俺だって同じ。そうしたいだけ」

「怖くないわ。私の意志だもの」

「死だけは人間の義務だが、それ以外は自分の意志だ」

「レイプされ殺された。その死も意志だと言うの?」 


それに黙し、その場を離れようとするファウスタに、ノエは最初の問いに答えた。

 

「イモは安い。花も少ないから」

 

パールが残り一個となり、アイダの演奏会へ同行したファウスタは、舞台でファウスタの即興の歌のメロディーが、アイダによってピアノ演奏されているのを耳にし、胸をときめかせる。

 

万雷の拍手を受けるアイダを、舞台の袖から見るファウスタ。


 

帰りの車の中で、「好評でしたね」とファウスタが声をかけると、アイダの顔色が変わり、夜の路上にファウスタを車から降ろしてしまう。 


「真珠はどうするの?約束したのに!奥様、待ってください!」 


走り出した車に叫ぶファウスタ。

 

マキシマの結婚式の日、ファウスタは母を村に連れて帰れなかったことを叔父に謝罪する。

 

朝まで盛り上がる結婚式に入っていけないファウスタは、母の遺体のある部屋に篭り、ドレスを着たまま眠っていると、叔父に頭と口を押さえられてしまう。

 

「見ろ。こんなにはっきり息をしてる。なのに生きようとしない」


「叔父さん、放して!」

「だったら生きろ。しっかり息して。ファウスタ行くな。行かないでくれ」

 

ファウスタは走って逃げ出し、屋敷へ向かった。

 

アイダの部屋の床に落ちた真珠を拾って握り締め、玄関のドアを開けると、そのまま倒れ込んでしまった。 


ノエがファウスタを起こすと泣きながら訴える。

 

「お願い取って。取ってちょうだい。私の中から」 


ノエは気を失ったファウスタを背負って、病院へ連れて行く。 


手術が終わり、目を覚ますと叔父が傍らに座っていた。

 

「ずっと手を閉じてたそうだ」 


ファウスタは真珠を握り締めていた手を開いて見せる。 


トラックに乗り込み、ファウスタと叔父の家族は母の亡骸を乗せ、村を目指す。

 

海が見えるとトラックを止めてもらい、ファウスタは母の亡骸を砂浜へ運ぶのである。 


「母さん、見てごらん。海に来たよ」 


ファウスタの最後の歌である。

 

日常に戻ったファウスタは、小さな笑みを浮かべながら、誰かが来たと呼ばれて戸を開けると、そこには花を咲かせたジャガイモの鉢植えが置かれていた。 


その花に、そっと顔を寄せるファウスタだった。


 

 

 

2  凄惨なる「地獄の記憶」を引き剥がし、進軍する

 

 

 

「今歌っているこの女は あの夜 捕らえられ 手込めにされた 男たちは気にも留めなかった おなかの中に娘がいることを あの恥知らずたちは 娘が見ている中 手と肉棒で犯した」 


ゲリラに夫を殺され、自らも凄惨な性暴力を被弾し、「地獄の記憶」を歌いながら天に昇った母を看取るファウスタ。

 

その娘に対して、死を迎えんとする母は、「お前が歌うことで 乾いた記憶が よみがえるなら 何か食べよう 思い出せないのは死と同じだから」と歌うのだ。 


娘の〈生〉を守り、その進軍をサポートせんとするのである。

 

思うに、胚子(はいし)が器官原基(組織・臓器のもとになる細胞の塊)の分化が完了する胎児の状態に、母から受け継いだファウスタにとって、心理学的に〈時間〉という概念は希薄化されていた。

 

〈時間〉の代償として凝縮され詰まっているのは、医師から毛細血管が薄いと指摘されるのみの鼻出血(びしゅっけつ)という生物学的な「地獄の記憶」。 


彼女の鼻出血は不安障害に起因する「男性恐怖症」の発現であるが故に、その治癒は精神医学的アプローチに委ねるしかなかった。 

「男性恐怖症」の発現

また、気絶を発現させる記憶のルーツは、最大都市リマの医師から相手にされない「恐乳病」。

 

【「恐乳病」とは、性暴力に被弾する母親の母乳を飲む子供が、凄惨なる「地獄の記憶」を受け継ぐという、南米アンデスの高地先住民に伝わる民間伝承のこと】 

アンデス高原の民族衣装:インカ直系の子孫、ケチュア族とアイマラ族」より


母から呪詛されたかの如き「恐乳病」という残酷なる「地獄の記憶」が、膣内にジャガイモを埋め込むという、野蛮なる男たちからの「絶対防衛圏」を作り出していくのである。

 

【インディオの系譜を受け継ぐアンデスの先住民は、15世紀半ばから17世紀半ばまでの「大航海時代」以前から、200種類ものジャガイモを栽培していた】 

アンデスの先住民「食とアニミズム」より

同上

同上


華やかな結婚式のシーンの連射にシンボライズされる高地先住民の眩(まばゆ)さの渦中に、叔父の心配を余所(よそ)に、スキップできないファウスタが「地獄の記憶」の侵蝕を受けて閉じ込められていた。 


身内の結婚式の輪に入れないファウスタ


それでも〈時間〉を動かさねばならない。

 

〈時間〉を動かすことで、〈私の生〉が拓かれていくのだ。

 

だから、〈私の生〉に深く関与する特定他者の存在が求められるが、ここでも「男性恐怖症」という高いハードルが障壁になっているから、ファウスタの進軍を遮蔽してしまう。

 

そんな折、寡黙だが、庭師のノエと出会うファウスタ。 


同様に先住民言語(ケチュア語)を有するノエこそ、ファウスタの前に出現した心優しき異性だった。

 

【ケチュア語は、アンデス先住民の言語の主流を成している】 

ケチュア語

心優しき異性との出会いとの交流さえあれば、この厄介な心的外傷をブレークスルーすることは不可能ではない。

 

かくて、ノエとの緩やかだが、内面的な交流を通して、ファウスタは見る見るうちに変貌していく。

 

自ら話しかけ、トラウマを感情含みで吐き出すのである。 


それを受け止めてくれるノエの存在は、最も信頼できる異性となってファウスタの進軍の決定的な推進力と化していく。

 

赤い花を咥(くわ)えた極めつけの、そこだけは輝きを放つカットは、そのことを表象させるのに十分だった。 


ノエから贈られたであろう赤い花が浮き立つ構図こそ、冥闇(めいあん)の森で彷徨するファウスタの進軍の初発点を成して可視的される。

 

重要なエピソードがインサートされていた。

 

「ハトさん。お母さんハトが産気づいたのは、おそらく戦争中のこと。きっと驚いた拍子に生れ落ちたのよ。たとえそこで、つらい目にあっても、そこは泣きながら進むためじゃない。苦しみながら進むためでもない。さあ、探すのよ。落としてしまった魂を闇の中を探しなさい。土の中を探しなさい」 


ファウスタの歌の中で、極めて文学的な彩りを見せるシーンである。

 

この歌が、真珠を拾うことのメタファーであると考えられる。 


真珠とは魂である。

 

魂としての真珠を丸ごと集めて、土に埋めていく。

 

そのことによって〈時間〉を動かし、〈私の生〉を拓いていくのだ。

 

「恐怖と一緒に土に埋めなければならない魂」という文脈で語られる叔父の思いが、そこに重なっているのは言うまでもない。

 

だから、真珠を拾い続けなければならないのだ。

 

そのために歌う。 


歌い切れば、全ての真珠を受け取れるのである。

 

内から湧き立つ思いの束を歌い切ったファウスタ。

 

しかし、思いも寄らない背信行為が待っていた。

 

著名なピアニストのアイダによって、ファウスタの思いは振り切れらてしまうのだ。

 

南米アンデスの高地先住民に対する白人女性の差別視線が炙り出されていくシーンの、その酷薄さ。 

ファウスタが即興で歌う「人魚の歌」でコンサートで成功を収めたアイダにとって、ファウスタの存在は利用可能な先住民でしかなかった

コンサートの成功を喜ぶファウスタをアイダは車から降ろしてしまう


詰まる所、同様にテロの危機から完全防護するために、厳重な鍵で屋敷を守り抜くアイダは、誰よりも弱い先住民の魂を搾取していたのである。

 

ここにこそ、より弱い者から搾取するという権力の複層的構造が垣間見える。

 

しかし、ファウスタは無残な敗者ではなかった。

 

真珠という名の魂を奪われたファウスタは、魂を奪い返す行為に打って出たのである。 

恐怖突入するファウスタ

アイダの部屋の床に落ちた真珠を拾い集めや、倒れ込んでしまったが、この恐怖突入が、今やファウスタの進軍の証左と成していた。

 

恐怖突入それ自身が、ファウスタの〈現在性〉を支え切っているのだ。

 

「母さん、見てごらん。海に来たよ」

 

母の埋葬によって自己完結し、自らの進軍のために声を上げるファウスタ ―― 最後の歌である。

 

一気に〈時間〉を動かし続けたアンデス先住民の娘が見入る、ジャガイモの白い花。 


それもまた、ノエの最後の究極のギフトだった。

 

―― ファウスタの母に「地獄の記憶」を植え付け、魂を殺害した張本人の名は、知る人ぞ知るペルーの極左武装組織、「ペルー共産党」と名乗るセンデロ・ルミノソ。 

センデロ・ルミノソの活動をPRするポスター

陸軍ヘリを警備する兵士/ペルー軍は1994年4月からこの地域で左翼ゲリラセンデロ・ルミノソの掃討作戦を開始した

「南米のポル・ポト派(クメール・ルージュ)」とも呼ばれるほど恐れられたペルーのテロ組織だが、アルベルト・フジモリ大統領時代に弱体化された。 

アルベルト・フジモリ(ウィキ)

現在も存続しているものの活動拠点は限定的で、最高指導者が服役中に死去し、事実上の活動停止になっている。 

左翼ゲリラ「センデロ・ルミノソ(輝く道)」のアビマエル・グスマン最高指導者、獄中で病死


因みに、「在ペルー日本大使公邸占拠事件」を起こしたトゥパク・アマル革命運動(MRTA)は、センデロ・ルミノソと並ぶペルーの左翼武装組織だったが、フジモリ政権下の徹底的なテロ対策によって壊滅した。 

写真は、公邸内で報道陣のインタビューにこたえるMRTAのネストル・セルパ容疑者(右)

作戦時のペルー軍兵士と救出される人質/「在ペルー日本大使公邸占拠事件」(ウィキ)


【1980年代のペルーの混乱期を背景に、海外に売られた赤ちゃんを探し続けるアンデス高地の先住民の物語を描いた、メリーナ・レオン監督の「名もなき歌」をも参照されたし】 

名もなき歌」より

(2024年3月)

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