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2024年4月29日月曜日

福田村事件('23)   則るべき道理が壊れゆく  森達也

 


1  「あなたは、いつも見てるだけなのね」


  

 

1923(大正12)年

 

千葉県 東葛飾郡 福田村

 

日本統治下の京城(けいじょう/現在のソウル特別市)で教師をしていた澤田智一(以下、澤田)が妻の静子と共に故郷の福田村に帰村してきた。 

左から村長の田向と澤田夫妻

彼の目的は教師を辞め百姓になること。

 

しかし、へっぴり腰で鍬を耕す澤田の様子を見た同級生で、村長をしている田向と在郷軍人の分会長の長谷川が声をかけてきた。

 

長谷川は腰を入れてと自ら耕して見せ、田向は澤田に学校の教師を依頼する。

 

「良い民が良い兵隊になる。良民良兵の世の中だ。それには教育だ」と長谷川。


「東京じゃ、自由教育運動っつうのが始まってんだと。軍人とか役人を育てるためじゃなくて、子供は子供らしく自由に生きてけって」と田向。

「子供のとき自由なら、大人になっても自由に生きられるのか?結局、兵隊に引っ張られて、戦争に殺されるんじゃ意味がない」と澤田。

「おめえ、アカか?」

「戦争しないで済む世の中にするために教育が必要なんだっぺよ。海外出兵止めさせて、普通選挙実施して、言論、集会、結社の自由があるのが、デモクラシーだっぺ」と田向。

「そんなもん、食うに困らない庄屋の息子の戯言(ざれごと)だ!」

在郷軍人分会長の長谷川

「俺にはもう、教師はできねえ」と澤田。

 

そう言って澤田は鍬仕事を始めた。

 

「向こうで何かあったんか?」と田向。

 

【25歳以上の男子による普通選挙の実施は1925年である

普通選挙



千葉日日新聞では、編集長の砂田が記者の恩田に記事の末尾の書き直しを命じた。

 

「いずれは社会主義者か鮮人か、はたまた不逞の輩か、犯人不詳の強盗殺人には、必ずそう書いておけ、何度言ったら分かる!」

「嫌です。新聞は、凶悪事件をなんでも朝鮮人の仕業のように書く。毎日こういう記事を読む読者は、どう思いますか?こういうのって、朝鮮で独立万歳運動(後述)が起こってからですよね?朝鮮人は極悪非道の犯罪者、社会の敵だ、そう思わせて、どうしたいんですか?」

「どうして鮮人の味方をする?」

「事実を書きたいだけです。朝鮮人にはいい人もいれば悪い人もいます。それは日本人も同じです…新聞は人々の暗い足元を照らす灯りのような存在としてあらねばならない。入社した時にそうおっしゃったのは部長です」

恩田

「分かった。俺が書く」

「ダメです」

「決めるのは俺だ」 

砂田

【「千葉日日新聞」は千葉県の地方新聞として実在していた】

 

一方、香川の讃岐から薬売りの行商団の一行が関東地方を目指して北上し、村々で万病に効くという薬を宣伝して売り歩いていた。

 

親方の沼部が、らい病(ハンセン病)の患者に効き目がないにも拘らず、言葉巧みに語りかけ、売りさばく。 

沼部(中央)

その直後の沼部と信義の会話。


「ほんだら、あの人ら騙したんか?」と信義。

「病は気からじゃ。ないよりマシじゃ…わしらみたいなもんはの、もっと弱いもんから銭取り上げんと生きていけんのじゃが。悲しいの」 

沼部と信義(右)

沼部はせめてもの罪滅ぼしだと言って、らい者のお遍路に弁当を施す。

 

その頃、甲種合格した出征兵士を送る在郷軍人会主催の祝いの場で、軍隊から戻り舟渡し(ふなわたし)の職に就く倉蔵が、祝いの場に水を差してしまう。 



「軍隊じゃ殴られるために行ったようなものだ…わしらなんか、弾除(たまよ)けにされるのがオチだ」

倉蔵

「国を守るためじゃ!」

「国を守るためにわしら死なすんか!そんな戦争意味あるか!」

「立派な非国民だっぺよ!」

「何が在郷軍人会じゃ!兵隊辞めてまで軍服着てえんか!そんなに軍隊がお好きですか…」

 

ここで、茂次が「よく言うなあ。亭主が兵隊取られてる隙に女房に手を出した間男(まおとこ)がよお」と口を挟み、二人は取っ組み合いの喧嘩となる。 

茂次


薬売りの行商の一行が移動中、朝鮮飴売りの少女に気づいた子供が飴を欲しいと強請(ねだ)った。

 

「鮮人が売ってるものやがち、何が入っとるか分からんぞ」と彌一(やいち)。

「たいちょぷ、たいちょぷ。悪いもの入ってない」 

朝鮮飴売りの少女

そこで沼部は5袋買ってあげた。 

飴をもらって喜ぶ団員の子供たち

歩きながら沼部は、先ほどの彌一の言葉に引っかかりを覚えたことを口にする。

 

「言われたことあるんじゃ!エタが売りよる薬じゃがち、何が入ってるか分からん言うて…」

「わし、鮮人初めて見たが」と信義。

信義(右)と敬一

「鮮人言うな。朝鮮人と言え」と敬一。

「わしらと朝鮮人、どっちが下なんが?」

「どっちも下も上もない」

「アホ!鮮人よりわしらのが上に決まってるやろが!」と彌一。

 

そんな会話をして歩いていると、飴売りの少女が追いかけてきて、沼部に朝鮮の扇子をお礼に渡す。 



まもなく讃岐から出て半年して、醬油で栄える野田に入り、利根川を渡って行商の最後の地での商いに期待が膨らむ。

 

その頃、4年前から静子を抱こうとしなくなった澤田との関係に不満を募らせていた静子は、明日出て行くと告げた。



9月1日。

 

家を出て行く支度をしていた静子の元へ、信義と朝明(ともあき)が薬を売りにやって来た。

 

静子は二人を家にあげ、茶菓子を出して客人扱いをする。 


緑茶を前にして拝む信義に不思議がる静子だったが、慣れない野良仕事で体が痛む澤田のために、勧められた『草津の湯』を買う。 

朝明(左)

家を出た静子は、いつも暇つぶしに倉蔵の舟に乗り、澤田に返すのを忘れた結婚指輪を倉蔵に託した後、倉蔵を誘惑して交接する。 


その様子を、澤田と倉蔵の愛人の咲江(シベリア出兵で夫を亡くした未亡人)が土手から目撃していた。 

澤田

咲江

倉蔵と咲江


東京府 南葛飾郡 大島町

 

プロレタリア演劇の祖として知られる平澤計七を恩田が取材中、突然、関東大震災に襲われた。

 

外に出た平澤の元にやって来た近所の人々が、「富士山が噴火した」「大津波がやってくる」「山本権兵衛首相が暗殺された」などと、流言を口にする。

 

「皆さん、落ち着いて下さい。こういう時は得てして、流言飛語が飛び交います。デマやウワサに惑わされず、冷静になりましょう」と平澤。 

平澤計七(中央)

そこに通りすがりの自転車の男が、流言飛語を煽る。

 

「けどよ、あいつらならやりかねねえぜ。鮮人、主義者よ。強盗、強姦どころか、あちこちに火つけ回っている奴らもいれば、井戸に毒投げこんでいる奴もいるって話だ。地震に乗じて、日頃の恨み晴らそうって魂胆だ」 


「あり得ない…あんたこそ、そんな噂を無責任に広めて…あんた、どこかで見たことが…」と言うと男は去ったが、平澤はその男は亀戸署の刑事だと話すのだった。

 

9月2日

 

東京からの避難民が逃れて来て、震災の様子を伝え、福田村の人々に流言飛語をまき散らす。

 

夫と連絡が取れないトミが、出稼ぎ先の本所から来た人がいないかと訊ねる。 

トミ(左)

「本所は全部、燃えちまったらしいぞ」

「鮮人が火付けしたそうだ」

「日本人は皆、なぶり殺しにされたって言うぞ」

 

そこで田向が避難者に訊ねた。

 

「鮮人が襲ってくるとか、井戸に毒を投げ入れてるとか、あんたら、本当にその目で見たんか?」

「いや…だけどみんな、そう言ってたからな」

 

【1923年9月1日、死者・行方不明者10万人を超える未曽有の大災害となった最大震度7の「関東大震災」。台風通過の影響によって、炎を含んだ竜巻状の渦が発生する「火災旋風」が起こり、本所被服廠(ひふくしょう=軍服製造所/現・墨田区の東京都慰霊堂)に避難していた約4万人が犠牲になった。また関東大震災は、北米プレートとフィリピン海プレートの境目である「相模トラフ」付近がズレて動くことで発生した海溝型地震である】 

関東大震災/写真の右後方は両国国技館

東京都慰霊堂

関東大震災による火災旋風を描いた図(ウィキ)

相模トラフ


宿に逗留していた薬売りの一行は、震災で町の薬屋が閉まっていると聞き、沼部は売り時だとして、男達だけ引き連れ商売に出かけていく。

 

外に出ると、町の殺気立った光景を見て、朝明が「こがいな時に商いしたら、殺されるかも分からん」と不安を口にする。 

右から敬一、沼部、厚(あつし)、朝明、彌市

敬一が「損して得取れと言うじゃないですか」と沼部に進言し、一行は宿に戻った。

 

一方、田向が在郷軍人会の面々や村の有力者を集め、話し合っているところに内務省からの通達が届く。

 

そこには、「“不逞鮮人、暴動に関する件。在郷軍人会、消防隊、青年団等は、一致協力してその警戒に任じ、一朝有事(万一の際)の場合には、速やかに適当の方策を講ずる”」と書かれていた。

 

早速、長谷川は外で待機している村の男たちに向かって、自警団を組織することを告げ、「命を、家族を、村を守るべし」と鼓舞する。 


高揚する在郷軍人会の面々が気勢を上げるのを目の当たりにした澤田に、田向が声をかける。

 

「こうなっと、もう止められねえ」 



その夜、静子が朝鮮人が襲って来るとの村人の噂を、不安げに澤田に話す。

 

「この地震に乗じて、朝鮮人がそんなことするとは思えないんだよ…けど…やるかも知れない…韓国を併合してから、日本人は朝鮮人をずっと虐めてきた。だから、いつやり返されるのか、ずっと恐怖心があったんだ」 

「同じようなことになりませんか?また、軍隊や憲兵が朝鮮の人を…」


「提岩里事件(後述)ってあっただろ」

「教会が焼けた…」

「焼けたんじゃない…焼いたんだ。4年前、その場所にいたんだ…俺は憲兵隊に呼ばれて、29人の朝鮮人に通訳した…」

「え、何て?」

「…29人が教会に入ると、憲兵たちが戸や窓を板で打ち付けて、一斉射撃が始まった。何十発、いや何百発も、ずっと鳴り止まないんだ…中から苦しんでる声が聞こえてきた。まだ生きてるんだ。憲兵たちは教会に火をかけて全員焼き殺した。周りには彼らの家族がいた。泣き叫びながら女が走って来て、俺たちにこう言っていたんだ。“私の夫は、朝鮮独立のために闘ってるだけで、決して日本人を恨んでいるのではありません”。俺は必死に訳した。訳し終えると同時に、指揮官の有田中尉が軍刀で女の首を刎(は)ねた。日本人は、朝鮮語を学ぶ必要がなかっただろ。朝鮮人に強制的に日本語をしゃべらせてたから。でも俺は、必死で朝鮮語を学んだ。彼らの土地で暮らす以上、俺は学ぶべきだと思った。必死で学んだその朝鮮語を、朝鮮人を殺すために俺は使ったんだ…何も感じないんだ。痛みも何もかも。感じないんだ」


「ひどいことをしたのね」

「ああ、ひどことをした」

「私にも」 



一方、東京で被災した恩田は、朝鮮人の少女(飴売りの少女)に声をかけられ、一緒に歩いてくれと頼まれる。

 

自警団に呼び止められた恩田は、取材で東京へ来て千葉に帰ると答えた。 


しかし、怪しむ男たちに「十五円五十銭」と言わせられた恩田は、しっかり手を握った朝鮮人の少女が自分の妹で、生まれつき話せないと答え、一旦は通行を許可されたが、自警団の一人が、その少女が朝鮮の飴売りと分かり、逃げようとした少女は捕まってしまう。

 

少女が自分の朝鮮名を毅然と名乗るや、自警団によって竹槍で突き刺され、命を落としてしまうのだ。 



その現場を目の当たりにした恩田は新聞社に戻り、砂田に訴える。

 

「私の目の前で、朝鮮人の女の子が自警団に殺されました。書かせてください」 


砂田は内務省から朝鮮人が放火したり、爆弾を所持しているとの通達を持ち出し、却下する。

 

「嘘です…記者が目撃した事実より、内務省の伝文を信じるんですか。それを紙面に載せるんですか。その結果、何が起こっているか…部長はその責任を取れるんですか?」

「俺は、書かないで起きることの方が怖い」 


恩田は朝鮮人の少女が持っていた血の付いた飴を砂田に渡す。

 

「記者を信じないで、何を信じるんですか?」と同僚記者。

「私たち新聞は何のために存在してるんですか?読者を喜ばすためですか?それだけですか?権力の言うことはすべて正しいのですか?」 


恩田は取材に出かけると言って出て行った。

 

澤田の家では、静子と船頭との行為を目撃していたことを知った静子は、それを止めようとしなかった澤田に一言。

 

「あなたは、いつも見てるだけなのね」 


今や、夫婦の関係が壊れかかっていた。

 

 

 

2  「鮮人やったら、殺してもええんか?朝鮮人なら殺してもええんか!」

 

 

 

9月4日。

 

千葉日日の新聞一面では、「野獣の如き鮮人暴動」、「強盗強姦略奪」の見出しが躍り、それを町中で読む恩田。 



在郷軍人や自警団が屯(たむろ)しているところへ田向が走って来て、千葉に戒厳令が敷かれたと話す。

 

「“軍隊、憲兵、警察官の許可なく、通行人を誰何(すいか)してはならない。許可なく一般人民は武器、または凶器を携帯してはならん”…自警団は解散だ」 


田向が嬉しそうに話すと、長谷川が「じゃあ、村はどうやって守る?」と問い詰める。 


「なんかあれば、半鐘鳴らせばいいよ」

 

その頃、平澤計七は亀戸署に連行され、待機していた軍人らによって処刑されるに至る。

 

「どんなに朝鮮人や主義者を殺しても、世界は資本主義から社会主義に変わる。差別と貧困がなくなるんだ。革命を見ずして死ぬのは残念だ。社会主義万歳!労働者万歳!」 


社会主義者の河合義虎、平澤計七ら10名が関東大震災直後の混乱の中で殺害された「亀戸事件」である。

 

9月5日

 

自警団は解散したが、相変わらず本所から夫が戻らないでいるトミは、生まれたばかりの赤ん坊を背負い、神社にお参りする。 

トミ

その頃、宿に逗留する薬売りの一行は、彌一の妻である身重のイシの生まれてくる子供の名を、敬一に「望」とつけてもらったという話題で盛り上がっていた。

 

「男の子だったら“のぞむ”、女の子だったら“のぞみ”」とイシが説明し、皆で「ええ名じゃ」と称える。 


「みんな、二言目には、わしら死ぬまで幸せになれん言うが、そがいなことには絶対ならん。いつの日か、誰からも差別されん日がきっとくる」と敬一。 

敬一(右)と信義

そこで団員の一人が、水平社宣言を読んだかと信義に訊ねた。

 

「人間に光あれ」とサダ。 

サダと夫の朝明

信義は、讃岐を出る際に信義の無事の帰りを待つ女の子に渡された、首にかけたお守りの中に入れられた「水平社宣言」を広げ、それを読む。 

【全国水平社は関東大震災の前年、1922年3月に京都市岡崎公会堂で創立大会が実施され、日本の人権宣言と称される水平社宣言を採択した。宣言の起草者は、奈良県御所市(ごせし)の被差別部落の寺院として知られる浄土真宗本願寺西光寺に生れた西光万吉(さいこうまんきち)/拙稿「橋のない川」を参照されたし】


9月6日

 

行商団は利根川を渡って帰途に就こうとしたところで、身重のイシが歩けなくなり、神社の境内で休憩をとる。 


その間、沼部は川の渡しへ行って、倉蔵に2回で渡ってくれと交渉するが、荷物を見ないと分からないと、倉蔵は神社の境内へ一緒に行く。

 

倉蔵から3回どころか4回に分けないと無理だと言われた沼部が、倉蔵と言い合いになっているところに茂次が割って入って来た。 

茂次(中央)

讃岐から来たという沼部の言葉がおかしいと一方的に鮮人の疑いをかけ、そのことに反応しない倉蔵を詰(なじ)って逆に頭を叩かれた茂次が、村の半鐘へ一目散に走り、激しく打ち鳴らしたことで状況が一気に暗転していく。

 

半鐘の音に呼応し、在郷軍事人や自警団らは神社の境内に集結する。

 

沼部は鑑札を田向に見せると、「どうやら、本当の薬売りらしい」と判断すると、茂次がいくらでも偽物が作れると難癖をつけるので、田向は警官に野田署で確かめてもらうようにと鑑札を渡す。 


「これが本物なら、この人たちは日本人だ。確かめて戻って来るまで、誰も手を出しちゃだめだからな!」

 

そう叫んで警官は念を押し、その場を離れた。 


田向はいったん「ここはひとまず帰って昼飯でも食べてから戻って来てくれ」と説得するが、血気に逸(はや)る在郷軍人の一人が腰抜け扱いされて揉(も)める中、沼部が飴売りの少女からもらった扇子を出したのを取り上げ、「鮮人だ!」と叫び、集まった村人もそれに同調して騒ぎ出すのだ。 


座っていた一行は、「立たんか!」と怒号を受け、沼部に促され立ち上がる。 


彌一が長谷川と大橋に「十五円五十銭」と言ってみろと迫られ、睨みつけたまま答える。 

反抗的な彌市(中央)に迫る在郷軍人会の大橋(左)と長谷川(右)

次に「天皇陛下万歳!」を唱えることを命じられた敬一は、同じく反発して睨み返した後、小声で唱えた。 

敬一と朝明

彼らの反抗的な態度が気に入らない長谷川らは、歴代の天皇陛下の名前を唱えさせたりしても、頭から鮮人と決めつけているので不毛なやり取りに終始するのみ。 

長谷川を睨みながら天皇陛下の名を正確に呼び上げる朝明

「こいつらは何を言ってるのか分からない。口上で覚えているだけだ。さっきから言葉遣いがおかしい。やっぱり鮮人だ」と長谷川は断じた。 


田向が鑑札の結果を待つように言い聞かせても、もう誰も耳を貸さず、村民らは「鮮人だ!鮮人だ!」と煽り立てるのだ。

 

澤田と静子も神社の境内に駆け付け、薬の行商で澤田家を訪れた信義が静子に気づき、助けを求める。

 

「私があの人たちを知ってるって話す」と言うや、出て行こうとする静子の手を抑える澤田。 


「言っちゃだめなの?あなた、また何もしないつもり?」 


そこまで軽侮(けいぶ)された澤田は、瞬時に打って出て振り立てるのだ。

 

「この人たちを知っています!この人たちを知ってるんです!落ち着いて下さい。この人たちから湯の花を買いました。道後温泉の湯の花です。この人たちは日本人です!」


「澤田!なぜ鮮人を庇う!なぜ嘘をつく!…お前は朝鮮に住んでいたから鮮人の味方をしてんだ!目を覚ませ!」
 


ここで、静子も語気を強める。

 

「本当です。買ったんです!あたし。この人たちから湯の花を」 


意想外の事態に騒ぎ出す村民たち。

 

そこに倉蔵が立ちはだかり、声を荒立て、彼らを必死に庇うのだ。

 

「本当に日本人だったら、どうするんだ?日本人、殺すことになるんだぞ!」 


一瞬の静寂が訪れた。


静寂を切り裂いて、沼部が決定的な言辞に結んだ。 


「鮮人やったら、殺してもええんか?朝鮮人なら殺してもええんか!」 


村人に問いかけながら歩く沼部に対し、突然、トミが前に出て、沼部の頭部に斧を振り下ろした。 


「人殺し!」

 

沼部の妻が泣き叫び、夫の遺体に駆け寄った妻を茂次が竹槍で殺し、両親に縋(すが)る幼い二人の子供も、出征兵士の若者によって斬殺されてしまうのだ。 


急変した状況で走って逃げる団員たちも、河原で殺害されていく。

 

「俺は何のために生まれてきたんや」 



教養豊かな敬一が、この世に遺した最期の言葉である。

 

彌市と、その身重の妻子も河原で殺害された。 



境内に残された団員たちは念仏を唱え始め、信義が水平社宣言を暗唱し始めると、全員がそれに続く。 

前列右から信義、厚(あつし)とその妻ソデ

目を疑うような異様な光景を凝視する澤田夫妻。 

水平社宣言を暗唱する被差別部落民の薬売りの行商団員たち



―― 以下、参考までに水平社宣言全文。

 

【全国に散在する吾(わ)が特殊部落民よ団結せよ。長い間虐(いじ)められて来た兄弟よ、過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによつてなされた吾等(われら)の為(た)めの運動が、何等(なんら)の有難(ありがた)い効果を齎(もた)らさなかつた事実は、夫等(それら)のすべてが吾々(われわれ)によつて、又(また)他の人々によつて毎(つね)に人間を冒涜(ぼうとく)されてゐた罰であつたのだ。そしてこれ等の人間を勦(いたわ)るかの如(ごと)き運動は、かえつて多くの兄弟を堕落させた事を想(おも)へば、此際(このさい)吾等の中より人間を尊敬する事によつて自ら解放せんとする者の集団運動を起(おこ)せるは、寧(むし)ろ必然である。兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であつた。陋劣(ろうれつ)なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であつたのだ。ケモノの皮剥(は)ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥(はぎ)取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖(あたたか)い人間の心臓を引(ひき)裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾(つば)まで吐きかけられた呪はれの夜の悪夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸(か)れずにあつた。そうだ、そして吾々は、この血を享(う)けて人間が神にかわらうとする時代にあうたのだ。犠牲者がその烙印(らくいん)を投げ返す時が来たのだ。殉教者が、その荊冠(けいかん)を祝福される時が来たのだ。吾々がエタであることを誇り得る時が来たのだ。 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦(きょうだ)なる行為によつて、祖先を辱(はずか)しめ、人間を冒涜してはならぬ。そうして人の世の冷たさが、何(ど)んなに冷たいか、人間を勦(いた)はる事が何(な)んであるかをよく知つてゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求礼讃(がんぐらいさん)するものである。水平社は、かくして生(うま)れた。人の世に熱あれ、人間に光あれ/朝日新聞デジタル「水平社宣言から100年、その精神とは 原文と現代語訳」より】 


凄惨な事件直後、鑑札の確認を終えた警官が来て、日本人だと証明されたことを告げた。 


「他の人たちは?」と聞かれた在郷軍人たちは皆、下を向く。

 

「今さら、何言ってんだ!自警団さこさえて、対処しろ言うたのは警察だっぺ。お上だっぺ。違うか?お国だっぺ…わしらはお国を守るために…村を守るために」


絶叫する長谷川。

 

静子が信義に近づき、巻かれたワイヤーを解き、「何で、何で?」と泣く信義を「ごめんなさい」と泣きながら抱き留める。 


澤田と村人も、団員たちに巻かれたワイヤーを解いていく。

 

惨状を知り、そこに駆け付けた恩田が茫然自失の田向に取材を申し込む。

 

「待てと言ったんだ。私は待てと。書くんか?新聞に…俺たちは、ずっとこの村で生きていかなきゃならんねえ。だから、書かねえでくれ…」 


項垂(うなだ)れる田向に恩田は言い放つ。

 

「書きます。新聞が私が、朝鮮人の暴動がデマだって書かなかったから、朝鮮人がいっぱい殺されたんです。この人たちまで…だからせめて書かないと。書いて償わないと」 


泣きながら頭を抱え込む田向。

 

解放され、警察に保護され歩いて行く行商団とすれ違う、本所から戻って来たトミの夫が、呆然と立ち尽くすトミに声をかける。

 

その頃、地元警察署では信義が刑事に声をかけられた。

 

「殺された9人とは家族同然だったんじゃないんかい?」

「10人です。もうすぐ生まれたんです」と言って、「望」と名前がついていたことを話す信義。

 

「9人にもちゃんと名前があるんです…」

 

そう言って、殺された一人一人の名前を呼び上げていくのだ。 



そして今、澤田と静子は小舟に乗り、岸を離れ利根川を揺蕩(たゆた)っていく。 


「どこへ行くの?」

「教えてくれないか」

 

福田村事件/1923年9月6日千葉県東葛飾郡福田村(現野田市)で、「不逞鮮人」と蔑視された朝鮮人と決めつけられた日本人が、在郷軍人を中心とする自警団によって虐殺された事件。犠牲になったのは、被差別部落民で構成される香川県から薬売りの行商にやって来た人々で、15人のうち、幼児や妊婦を含む9人。福田村と田中村(現在の柏市)の自警団員7名が有罪判決を受けたが、懲役刑となった者は恩赦で釈放されている。野田の地元では村民が口を閉ざしていたために事件に関する記録は殆ど存在していない。2000年3月、香川で「千葉福田村事件真相調査会」が「福田村事件を心に刻む会」が結成され、2003年9月になって、事件現場に犠牲者追悼の慰霊碑が建立されている。そして2023年6月20日、野田市の鈴木有市長は市議会で福田村事件について弔意を示した。「被害に遭われた方たちに対し、謹んで哀悼の誠を捧げたい。人権問題の正しい理解と認識を深められるよう今後も継続して人権教育、啓発に取り組む」。市が公式の場で事件の被害者に対して哀悼の意を表したのは初めてである】 


答弁する鈴木有市長=2023年6月20日午前10時8分、千葉県野田市議会

 エンドロール後の曰く言い難いラスト。

 

信義少年を含む事件の生存者6人が讃岐に帰村した。 


そこで讃岐を出る際に信義にお守りを渡した少女が待っていた。 


無事に帰村することを願う少女の思いが通じたのである。




 

3  則るべき道理が壊れゆく

 

 

 

我が国の負の歴史について、商業映画が回避するテーマに挑んだ熱意は高く評価できる。

 

感動も大きかった。

 

特に警察署で、生き残った信義少年が犠牲になった9人の名前を述べていくシーンは忘れない。

 

澤田夫妻の帰村から始まり、事件の生存者の帰村で閉じる映画。


ここでは澤田智一の心理分析に止めておく。 


妻も抱けない程に、彼が抱えるトラウマのルーツは「提岩里事件」(ていがんりじけん/1919年4月15日)。

 

これは中国の「五・四運動」と連動し、民族自決の気運が一挙に高まって起きた最大の独立運動としての蜂起「三・一運動」(万歳事件/1919年3月1日)の混乱に乗じて惹起した暴動を武力弾圧し、29人の朝鮮人が虐殺された凄惨な事件のこと。 

日本軍によって破壊された京畿道水原の堤岩里教会


返す返すも、人間が極限状態に捕捉されてしまったら緊急スィッチが入らず、無思考状態になり、凍り付いてしまうという人間の脆さを感受させられる。

 

惨鼻( さんび )を極める状況に搦(から)め捕られて心がロックされ、フリーズしてしまった。 


「強直性不動状態」である。 

強直性不動状態(擬死反応)


PTSD症状との関係で研究されている概念だ。

 

恐怖に直面した状況下にあって、身動きが取れず、声を奪われてしまう。

 

妻・静子を前に、苦痛に歪んだ表情で、「必死で学んだその朝鮮語を、朝鮮人を殺すために俺は使ったんだ」という告白で閉じる澤田智一の無力感が、冥闇(めいあん)なる画面の枠に押し込まれるように、ワンカットで映し出されていた。

 

「何も感じないんだ。痛みも何もかも。感じないんだ」 


そう洩らす男にとって、感情をロックすることだけが全てだった。

 

ロックすることで無思考状態に潜り込み、苛酷な状況に適応せんとするのだ。

 

そんな男に酷薄非情の状況が、再び襲いかかってきた。

 

薬売りの行商団が剣が峰に立たされ、命の危険に晒されているのだ。 


「さっきから言葉遣いがおかしい。やっぱり鮮人だ」と長谷川に決めつけられて、絶体絶命の苦境に追い詰められている。 

「やっぱり鮮人だ」

それでも動かない夫に冷淡な一撃が急襲する。

 

「あなた、また何もしないつもり?」 


もう逃げられない。

 

逃げたら終幕する。

 

人生がクローズしてしまうのだ。

 

それを瞬時に感じ取った男は、今度ばかりはフリーズしなかった。

 

「この人たちは日本人です!」 


それは命を懸けた叫喚だった。

 

ここで叫ばねば、心に空いた穴を埋めるべき何ものもなく、野垂れ死にする。

 

妻の一撃は男の命運を賭けた後押しとなり、男の中枢を突き動かし、一変させた。

 

結果的に何も成し得なかったが、絶対に死守せねばならない何かが生き残された。 


人間の、人間としての在りよう。

 

則るべき道理であると言っていい。

 

則るべき道理が壊れゆく〈状況性〉の渦中にあって、ぎりぎりにしがみ付いてきた己が理路だけは捨て去れなかった。

 

だから動く。

 

男の恐怖突入が実を結ばなくとも、男を覆い尽くしていた悪夢の記憶を払拭し、何ものにも代えがたい時間を繋いでいくのだ。

 

トラウマを克服することで、ここから虐殺事件の重要な「目撃者」として呼吸を繋いでいくだろう。

 

この時、男は「逃亡者」からの脱却に一筋の、それ以外にない〈生〉を拓いていくのだ。

 

私にとって、そういう映画だった。

 

―― 最後に本篇の感想。

 

映画の完成度の高さは決して低くないが、不満を否めないのは事実。

 

それを一言で括れば、言いたいことを全てセリフにしてしまう私の苦手な昭和映画になっていたこと。

 

これには閉口した。

 

バイアス含みの脚本が気になったのだ。

 

「今さら、何言ってんだ!自警団さこさえて、対処しろ言うたのは警察だっぺ。お上だっぺ。違うか?お国だっぺ」 


そう絶叫する長谷川の炸裂がコアメッセージであることは誰でも分かる。

 

それにしても、女性=性愛の対象という範疇で簡便に括ってしまう昭和映画のエンタメ描写(梗概では、過半のエピソードを削除)、諄(くど)いほどリピートされる千葉日日の女性記者の声高なメディア批判、「社会主義万歳!労働者万歳!」と叫んで果てる亀戸事件のシーン等々。

 

正直、辟易(へきえき)させられた。

 

ストーリーラインが散漫になってしまった。

 

そこで尺を消費するなら、せめて行商団の家族関係の密度の高い心の触れ合いに使うべきではなかったか。 


読書好きの敬一

そうすれば、先の信義の、喪った行商団員一人一人の名を呼び上げていく、本作の核心とも言えるシーンが訴求力を持つだろう。 


行商団員一人一人には、掛け替えのない人生が、今、そこに息づいていたのである。

 

真っ向勝負の社会派映画を期待していただけに残念だったという外にない。




4  朝鮮人に対する恐怖心が「過剰防衛」と化し、虐殺の連鎖に呑み込まれていく  




自警団の多くは町内の有志で結成された(『一億人の昭和史』毎日新聞社)



本作で描かれている事件は看過し難いのでので、以下、拙稿「集団と化した時に極大化する人間の脆さ 関東大震災朝鮮人虐殺事件を考える」より引用しつつ、言及したい。


「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密(しゅうみつ)なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」 

内務省警保局の電信文



内務省警保局長名による電文である。


この通達こそが、絶対的に情報弱者たる環境下にあって、地域住民が自警団として組織され、彼らを理不尽極まる虐殺へと追いやった最大の要因である。

 

闇然(あんぜん)たる思いを拭えないのだ。

 

それ以外にない情報源であった新聞社が朝鮮人の放火を報じる記事が出回ったから、もう、始末に負えなくなった。 

朝鮮人が暴徒となって放火していると伝える大阪朝日新聞(ウィキ)


多くの新聞社が流言の拡散に加担した(ウィキ)



「朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を經て八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た」

 

東京朝日新聞記者の目撃情報が号外で頒布(はんぷ)されたのである。

 

かくて、内務省警保局の通達をもとに、関東地方に4000もの自警団が組織され、朝鮮人の放火を怖れる自警団による集団暴行事件が連鎖反応的に誘発され、デマの禁止を呼びかけた警視庁の思惑を超えて各地で惹起していく。 

デマを流す者に対して警告する警視庁のビラ(ウィキ)



元来、自警団は地区の消防団・青年団・在郷軍人会を中心として被災者救助に従事していた一般市民である。

 

ここで重要な立ち位置にあるのは在郷軍人。

 

彼らは徴兵検査に合格して軍隊教育を受けた後、地域に戻って予備役などについた者のことで、彼らを統括する「在郷軍人分会」は町村のリーダー的な存在だった。 

軍人分会・消防組・青年団三団体の仮設事務所(鎌倉市中央図書館蔵) 


シベリア出兵での従軍経験を通ってきた彼らは、独立運動を戦っていた朝鮮人を虐殺した経験を有しているから厄介だった。

 

この辺りについては、本作を通して執拗に描かれている。 



相手が朝鮮人か否かを判別するために、件(くだん)の在郷軍人が統括する自警団が行った手法が「シボレス」(言葉の発音などの文化的差異の指標)だった事実はよく知られるところ。

 

道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせて相手を特定するのである。

 

この判別手法で「不逞鮮人」とされた朝鮮人が自警団の餌食になって葬られていく。

 

自警団という絶対的加害者の悍(おぞ)ましさ。 

『朝鮮人虐殺場面を撮った写真は、この一枚のみ』と、アジア民衆歴史センター・久保井則夫氏談」より


関東大震災時に朝鮮人にたいして自警団が使った武器

不条理なる極北の陰惨な相貌がそこにある。 


地元警察が保護してくれなかったら、映画で描かれたように、簡便な「シボレス」をスルーし、無数の犠牲者が群れと化して水面(みなも)に浮く運命を免れなかったであろう。

 

酷薄なる人生だったという外にない。

 

【犠牲になった朝鮮人犠牲者は、朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会の調査によると「88名プラス不確定が14名程度」とされる】 

「関東大震災98周年朝鮮人犠牲者追悼式典」


 

ここで私は勘考する。

 

なぜ、ここまで自警団が暴徒化し、過激になったのか。

自警団によって虐殺された朝鮮人らの死体が凄惨な姿で東京に流れる川に浮かんでいる


 
一言で言えば、根拠なき流言が発生したからである。 

流言の広がり


流言の広がり



ここで改めて、流言の成立要件について言及する。

 

一般的に流言の発生は、「情報の重要度」と「情報の不確かさ」との関連で語られる。

 

これには3種類のパターンで説明可能である。

 

その1 「情報の重要度」と「情報の不確かさ」が低ければ流言の発生はない。


その2 「情報の重要度」が高く、「情報の不確かさ」が低ければ単なる噂話で終わってしまう。


その3 「情報の重要度」と「情報の不確かさ」が高いケースが生起すれば流言が発生する。

 

即ち、末梢的な情報のレベルと虚言性が低ければ流言の発生はなく、本質的・根源的な情報のレベルと虚言性が極大化した時に流言の発生が起こるということである。

 

流言のモチーフは、〈状況〉の曖昧性に対する主観の暴走の発現と考えられるが故に、こういう厄介な事態が出来したら流言の抑制が効かなくなり、人為的に収束する手立ての構築が困難になるということだ。

 

流言の広がりに関与するのは、流言の認知度に対する鈍麻な人物の出現である。

 

この種の人物が不可避的に出現することで流言が瞬く間に広がり、胡乱(うろん)な情報網に囲繞された地域住民の不安・恐怖度が極大化し、そこにしか流れないような剣呑(けんのん)な事態を発現させてしまうのだ。 

この種の報道が域住民の不安・恐怖心を煽る


同上

この時、民衆は暴徒に大きく変貌する。

 

地元民が帰属する集団=自警団が自己コントロールを失って、時には虐殺の主体と化してしまうのである。 

虐殺の主体と化す自警団


このような事態が普遍的・根源的な様態であるということ。

 

だから、「情報の重要度」が極大化している〈状況〉において容易に惹起するので、スキームセオリー(陰謀論)に巻き込まれゆくリスクを抱えながら、いつの時代・いかなるエリアでも起こるということ。

 

阪神淡路大震災や東日本大震災、更に〈現在性〉の濃度の高いコロナ禍でも止める術なく、辻風(つじかぜ)と化して出来しているのである。 

東日本大震災後、SNSにあふれた投稿


コロナ禍の投稿


関東大震災は、極大化したスキームセオリー発現の最悪なケースだったということに尽きる。 

関東大震災の混乱


なぜなら、「不逞鮮人の恨みの炸裂」という理不尽なラベリングが一人歩きして膨れ上がり、関東大震災朝鮮人虐殺事件へと流れ込んでいったのである。

 

関東大震災での虐殺事件の残忍さは、情報弱者たる民衆が犯人捜しをせねばならないという群集心理が公然と表面化したことにある。

 

そこに公権力とメディアがリンクして、情報弱者たる民衆に雪崩れ込む根拠なき情報が流言と化し、次々と伝播していくという構造が成立してしまったのである。 

公権力とメディアの責任
メディアの罪の重さ



流言の伝え手と受け手側の双方の心理的な要因として、何より重要なのは「不安」と「批判能力」の二点。

 

一般に、人々の不安が高い状態(例:災害発生直後など)では、流言に対する被暗示性(他人の暗示を受け入れて行動する傾向)が高くなって流言は受け入れられやすくなり、伝達されやすくもなる。

 

また、受け手側でも、不安が強い人ほど流言を信じやすくなるという傾向がみられる。

 

一方、流言を受け取っても、批判能力の高い人の場合には、他の情報源にあたってチェックするなどの情報確認行動をとることにより、真偽を見分け、流言の伝播を食い止めることが可能となる。

 

極限状態下にあって、事態を客観的に受け止め、持ち前の批判能力を発揮することは容易ではないが、決して不可能ではないのだ。

 

社会的情勢が著しく不安定である場合、噂・虚言・妄言が瞬(またた)く間に広がりやすいので、情報リテラシー能力の向上こそ切望される所以である。 

情報リテラシー


メディア情報リテラシー


流言に屈伏しない情報リテラシー能力を構築していくこと。 

正しい情報を、正しく解釈し、正しく表現する


キャパシティ・ビルディング(能力の構築)の獲得である。 

芸術文化創造活動の担い手のためのキャパシティビルディング講座2023」より


流言に屈伏するわけにはいかないのだ。

 

関東大震災朝鮮人虐殺事件(1923年)を勘考すると、その心理的要因が浮き張りにされるだろう。

 

朝鮮の植民地支配の経緯において、日本が断行した不条理な事件(「提岩里事件」など)への朝鮮民衆の抵抗、即ち、「三・一運動」・「義烈団事件」に凝縮される事件を通して生まれ、膨れ上がった、「得体の知れない朝鮮人」に対する恐怖心 ―― これ以外に考えられないだろう。 

三・一運動(万歳事件)/「独立万歳」を叫ぶ朝鮮の民衆


テロにまで暴走した義烈団(ウィキ)


当然ながら、その情態は国内にも伝えられていた。

 

自らが差別・排除・加害しているにも拘らず、相手が自分に攻撃しているという妄想を抱く心理 ―― これを「投影」と言う。 


自らが犯す戦争犯罪が「敵国」からの激しい反転攻勢を生んでいく。

 

ここに恐怖心が生まれる。

 

報復への恐怖心である。

 

この恐怖心が膨れ上がる時、それを制圧・相殺・封印するために、より攻撃的に反応していく。

 

「過剰防衛」である。

 

心の弱い者ほど特定他者を選択し、より攻撃的に反応していくのだ。 

山形県「荘内新報」号外


傷つきやすい者ほど人を傷つけてしまうという心理である。

 

朝鮮人に対する恐怖心が「過剰防衛」と化し、虐殺の連鎖に呑み込まれていくのだ。

 

この「過剰防衛」が「過剰攻撃」に膨れ上がっていく。

 

朝鮮人を「暴徒」と呼ぶ観念だけが広がっても、防衛的行為という言い逃れが掬い取ってくれるのである。

 

自己正当化してしまうのだ。

 

難儀なことだが、これが人間の実相である。

 

しかも有難いことに、多くの「仲間」がいる。

 

虐殺の同志がいるのだ。

 

これを、心理学で「社会比較説」と言う。 


他者の多くが自分と同じ意見であることで、自分の意見に自信を持ち、その考えがより強化されることである。 

情報を盲信的に信じてしまう人が、少なからずいる



これは、「集団の中で人は一人称単数の主語を失ってしまい、その結果として虐殺や戦争など大きな間違いを起こす」(インタビュー)と語り、「福田村事件」を映画化した森達也監督のブリーフィングとも重なるだろう。

森達也監督



―― 以上の日本人の心理的傾向を生物学的に分析が可能な限り、恐怖心に対する日本人の対応の特異性について言及したい。

 

不安遺伝子と呼ばれるセロトニントランスポーター遺伝子のことである。

 

この遺伝子には「SS型」と「LL型」がある。

 

前者の遺伝子を持つ者は不安を感じやすく、後者の遺伝子を持つ者は楽観的な思考に振れやすいと言われる。 

セロトニントランスポーター遺伝子


【因みに、「SL型」はその中間ということになる】

 

科学的調査によれば、特に日本人では「SS型」が最も多く、全体の68.2%を占めているということ。

 

どうやら、日本人の多くはセロトニントランスポーター遺伝子SS型の割合が強く、不安を感じやすい民族であるということだ。

 

だから、日本人が朝鮮人虐殺事件に関与したというのは暴論だが、「過剰防衛」⇒「過剰攻撃」に流れやすかったと考えられなくもないが、般化できないだろう。 

日本人の自己肯定感が低い理由は遺伝子の問題でもある



―― 縷々(るる)、言及してきたが、ここで本稿を総括したい。

 

身を守るための無条件反応としての自己防衛本能が、「情報の重要度」と「情報の不確かさ」が極大化し、生起したことで流言が発現したという紛れもない歴史的事実の重み。

 

この認知が前提になる。

 

例え「官民一体の責任」であったとしても、この歴史的事実を認知せざるを得ないのである。

 

かくまで人間は脆弱なのだ。

 

極限状態に捕捉された時の人間の脆さ。

 

集団と化した時に極大化する人間の脆さ。

 

人間が理性を保持し得るには限界があるということである。 

人間が理性を保持し得るには限界がある


(2024年4月)