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2024年2月25日日曜日

にごりえ('53)   女に我慢を強いる貧困のリアリズム  今井正

 


一葉文学の結晶点。

 

映画史上に残る今井正の最高傑作。

 

以下、代表作3篇が揃ったオムニバス映画の梗概。

 

 

1  第一話 十三夜

 

 

 

沈鬱な表情で、嫁ぎ先の原田の家からせきが実家を訪れた。 

沈んだ表情のせき



久しぶりの訪問を歓迎する父・主計と母・もよ。 

父・主計と母・もよ



二人とも、嫁ぎ先の原田家を気遣い、せきの弟の亥之助(いのすけ)の仕事も原田の後ろ盾と感謝を口にする。

 

しかし、突然、せきはもよを前に泣き出す。

 

「お母さま、私、もう我慢が出来なくなりました。あの家には帰らぬ決心で参りました」

「そんなこと言って、お前、どうして?」

「考えた挙句なんです。2年も3年も耐え忍んで、考えて、考えて、考え抜いた挙句なんです。お母さま。どうかせきをお傍に置いて下さいまし。これから、人の針仕事、賃仕事(手内職のこと)、なんでもして働きますから、どうかお傍に置いて」 


せきは頭を下げて頼み込む。

 

もよは主計にその話をし、せきを弁護する。

 

「元々こっちからもらってくれって頼んでやった子じゃあるまいし、生まれが悪いの、華族女学校を出ていないのって、今更そんな勝手な言い草がありますか…子供が出来て急に冷たくなるってのは、女狂いの身勝手からで、おせきに何の罪科(つみとが)があるって言うんです。奉公人たちの前で、顔さえ見れば口汚く、教育がないの、やれ着物の揃え方が気に入らぬのと、そんな仕打ちをされてまで、おせきをそんな人のとこにやっとく必要はありませんよ」 


【華族女学校とは、明治10年に創設された皇族・華族子女のための官立の教育機関】

 

せきは、17歳の正月に羽根つきをしていたのを通りがかった原田が見初(みそ)めて、強引に嫁入りを申し込んだのだった。

 

「…いくら大人しいからって、お前もお前ですよ。言うだけのこときりっと言って、なぜもっと早くそう言って出てこなかったんだね。本当にバカバカしいったら…こんな貧しい傾いた家だって、お父さんもお母さんもちゃんと揃ってるんだから、そんな仕打ちをされてまで小さくなってること、あるもんかね」 


もよは一気に捲し立て、目頭を押さえる。

 

「親子4人、亥之助も帰って来るから、お前もここでゆっくり足を伸ばして休むといいよ…お前はしっかり幸せにやってるもんだと思ってた…女中たちに取り巻かれて、声ひとつ、涙ひとつ堪えて通さなきゃならないような明け暮れの中で、よく7年間もお前辛抱を…」

 

もよはせきを思い、さめざめと泣き、せきも思いを吐露する。

 

「太郎は…あの子のことだけは諦められません。それを思って今日まで堪えてきましたけれど…『お前のような妻を持って、俺ほど不幸な人間はない』と。さっきも夕方、着替えに寄っまま言い捨てて、どこぞへ出かけて行きました」

 

そこで、終始無言で腕組みをして聞いていた主計が口を開く。

 

「そりゃな、外で女にもてはやされ、囲い者の一人や二人、あれだけ若くて働き手なら、ありがちなことだよ…世間の奥様という人たち、上辺はともかく、面白おかしく暮らしている者がどれだけいると思う。なあ、おせき。原田さんの口入で弟の亥之も月給にあり付いたばかりだ。お前の主人の七光りで家も恩に着ているんだ。まして太郎といいう子まであるのに、今日まで辛抱ができたものなら、これから後もこらえられぬ道理はないはずだろう?ま、聞きなさい。離縁をとって出たはいい。太郎は原田のもんだぞ。おせきは斎藤の娘だ。一度縁が切れたら二度と顔を見に行くことはできないぞ」 


「そんな無慈悲なこと言ったって…」ともよ。 


もよとせきは嗚咽するばかり。

 

「子に別れ、同じ風に泣くなら原田の妻で泣くだけ泣け。なあ、おせき。そうじゃないか。お父さんはお前を追い返したくない。だが、今夜は帰れ…もう、お前が何も言わんでも、わしたちは察している。弟もお前の気持ちを汲んで陰ながら、親子して、てんでに涙を分けおうて皆で泣こう。なあ、おせき。分かったら早く帰れ。太郎が泣いているかもしれん」 


おせきは突っ伏して泣き崩れる。

 

「私が我がままでございました。太郎に会えないくらいなら、生きている甲斐もないことが分かっていながら、つい、目の前の苦しさに、離縁などと言い出し悪うございました…今日限り、せきはもう死んだ気になって、心を一つにあの子を思って育てます…」 


「ご心配おかけしました」と頭を下げ、帰って来た亥之助が人力車を拾い、せきは実家に帰って行った。

 

夜道をゆっくりと行く人力車夫に、「車屋さん、少し急いでくれませんか」とせきが催促すると、突然車を止め、車夫がせきに降りるようにと言うのだ。 


お代もいらぬという車夫に、せきは困ってしまった。

 

「まだ、乗ったばかりなのに…」

「引くのが嫌になっちまって…すいませんがどうか、お降りになすって」

 

せめて、車が拾える広小路までとお願いするとそれを受け入れ、「勝手を言ってあっしが悪うございました」と謝る車夫の顔をふと見ると、幼馴染の高坂録之助と気づいた。

 

「お前さん」と声をかけると、録之助もせきと分かり、「面目(めんぼく)ない、こんななりで」と言って顔を背(そむ)ける。 


せきは学校に通っていた頃の思い出を語り、録之助の体を心配する。 


録之助は浅草の安宿の2階に住み込み、妻は子供を連れて実家へ帰したが、その子供はチフスで死んだと話すのだ。

 

妻とは離縁し、近頃は酒を浴び、車を引いても途中で嫌になって度々、客を下ろしてしまうと話す録之助は、「全く、我ながら愛想が尽き果てます」と、せきを車に戻るよう促した。

 

せきはそれを断り、広小路まで一緒に歩いてくれと頼み、肩を並べて歩き始める二人。

 

広小路を目の前にして、せきは録之助が愛嬌のいい煙草屋の一人息子と評判だったと話すと、録之助は、急にグレ出したのは、せきが嫁に行き、子供を産んだ頃だったと告白する。 


「さぞ、ご立派な奥様ぶりだろうと、一度お姿だけでもと、その頃、夢に願ってました…他愛のない子供心でした。17だっけ。突然、ぽいっとあなたは行ってしまった。7つ8つの時から、明け暮れ顔を合わしていたおせきさんが…いやあ、生きてきたおかげでお目にかかれた。良かった…」 


広小路に着いて、せきは金を包んで録之助に渡す。 


「随分と体を労(いと)うて、患(わずら)わぬように…どうか、以前の録之助さんにおなりなすって、ご立派に元のようにお店をお開きになりますように…」

 

「では、いただきやす。せっかくのおせきさんの志、ありがたく頂戴して思い出にしやす」

 

大きな十三夜の月が空に浮かぶ橋のところで、二人は互いに頭を下げて、別れて行った。 


【十三夜とは旧暦で毎月13日の夜のことで、因みに、2024年は10月15日】

 

 

 

2  第二話 大つごもり 


 

 

養父母に育てられた女中のお峰は、奉公先の山村家の女主人・あやの許しを得て、病床の養父・安兵衛を見舞いに行く。 

お峰


そこで安兵衛と養母しんから借金の返済の相談を受けたお峰は、主人に2円借りて、大晦日に二人の息子・三之助を受け取りに来させることになった。 

「おめえに苦労駆けたくないと思うんだが…」と言って借金を頼む伯父


三之助(従弟/左)



しかし、当日、あやも当主の嘉兵衛も出かけてしまい、金の用意ができていなかった。

 

そこに先妻の放蕩息子の石之助が嘉兵衛に金の無心に来て、留守と分かると、お峰に酒の用意を言いつけた。 

石之助



予定通りに三之助が金を受け取りに訪ねて来たが、お峰は、奥様は確かに貸す約束をしてくれたものの、買い物へ出かけてしまったので、夕方にもう一度来てくれと、三之助を一旦家に帰させた。 



娘二人を連れて買い物から帰ったあやは、石之助が来ていると知り機嫌を損ね、石之助が横になっている茶の間を開け、お峰が用意したお膳を下げるように指示する。 


あや(石之助の継母)


その部屋でお峰は、約束した2円の借金を申し出ると、あやは承諾したことは覚えているが、今すぐに渡すとは言っていないと突っぱねられてしまう。 


そこに、嫁ぎ先の娘のお産で人力車が迎えに来たので、あやは慌てて車に乗り込んだところに、借用金を返済に来た男から20円を受け取った。 


その金を茶の間の懸硯(かけすずり/手提げ金庫のこと)の引き出しに入れておくようにと、あやは娘の節子に渡し、急いで出かけて行った。

節子(中央)


 

節子は石之助がまだ茶の間にいるので、お峰にその金を託し、お峰は石之助が眠っている茶の間に入り、懸硯の引き出しに入れる。

 

お峰は再び、炭を火鉢に入れに部屋に入ると、魔が差したように引き出しから2円を取り出し、お勝手に戻った。 


そこに養母が訪ねて来た。

 

「あのね、峰ちゃん。どう考えてもね、お前に頼める義理じゃないってこと、つい言わなくてもいいこと言っちまって、余計な苦労をかけた、そのお詫びに来たの」


「え?」

「あたしたちのことも一切忘れて、ちっとも気にかけることないんだから。ご主人大事に働いとくれ」

「そんなこと言って、おばさん。今さら…あたしにはお金なんか心配しても、できないと思ってそう言うんでしょ…大丈夫。あたし、ちゃんと奥様にお願いしてこしらえましたから」

 

お峰は懐から金を出し、養母に渡す。

 

「みねちゃん、いいのかい?これ何して…すまないねえ。恩に着ます」 


しんは、涙ながらに金を受け取り、急ぎ帰って行った。

 

嘉兵衛が帰宅し、石之助は別戸籍で若隠居をさせようとする嘉兵衛に、3万円という大金を要求する。 

嘉兵衛


そこに、あやが戻り、娘が男の子を出産したことを報告し、石之助にはお歳暮と称して50円を渡すと、石之助はそれを受け取り、さっさと帰って行った。 

あやは石之助の継母だから、対面したら文句も言えない




持ち出した金のことが気が気でないお峰は、金勘定をするあやに呼ばれ、持って来るように言いつけられた懸硯を渡すと、恐る恐る「あの…」と言いかけた。 


その時、「おや、まあ。お金がない!」とあやが声をあげ、引き出しから空っぽの包み紙を取り出した。 


そこには、「引き出しの分も拝借致し候 石之助」と書かれており、嘉兵衛とあやは呆れるばかり。

 

お峰は黙って部屋を出て、お勝手に戻りへたり込み、肩で息をするのだった。 


貧困の悲哀が、今、ここに浮き上がる絶体絶命の窮地の只中に、思いも寄らない手品が割り込んできて、勤勉なるお峰は救われたのである。

 

【「大つごもり」とは、「つごもり」が陰暦で毎月の末日を指すので、句頭に「大」がつけば大晦日になる】

 

 

 

3  第三話 にごりえ 


 

 

吉原の小料理屋「菊之井」の一枚看板の酌婦・お力には、かつて真剣に恋仲だった源七という男がいたが、落ちぶれて見る陰もなくなった今も、未練のある源七は時折、お力に一目会って話そうとやって来る。 

お力


雨が降る中、また菊之井に近づいてくる源七に気づいたお力は格子窓(こうしまど)から離れ、身を隠す。 

源七


客が店に寄り付かない中、外を通った男をお力は店から出て追いかけ、中に引き込んだ。

 

初めての客の男の名は、結城朝之助(ゆうきとものすけ/以下、朝之助)。 

朝之助


男前で金払いも良く、美人で楽しく振舞うお力の元に、3日に一度通うようになる。 



源七がまたも裏口にやって来て、お力に話があると女将のお八重に取り次いでもらおうとするが、お力は忙しいと言われて相手にされない。 


お力は2階の座敷に酒を運ぶ際、源七と目が合って、はっとする。 



朝之助は、お力が飲み過ぎるのを諫めた。

 

「何か、仔細がありそうだな」

「…あたしぐらいつまらない生まれつきの女は…」

「慰めてあげたいが、何を聞いても身の上一つ語ろうとしないじゃないか。嘘でもいい。作り話にしたって、一度や二度の付き合いでもないのに聞かすのは普通じゃないか。ま、口に出さずとも、お前の思うぐらいのことは聞かずとも知れてる。それを聞きたいんだ。言ってごらん…」


「つまらないことなんです。さ、歌でも一つ」

 

お力は三味線で歌い出すが、そこにお秋が来て耳打ちし、源七と話をするように促される。 

お秋


お力はそれを断ると、朝之助は源七に興味が湧いて、お力からあれこれ聞き出そうとする。

 

「持病の頭痛はそれか?…おい、ご本尊を拝ませていただきたいな。役者で言ったら、誰と言うところだ?」

「見たらびっくり。元、幅が利いたと言っても布団屋のなれの果て」

「じゃ、心意気か」

「いえ、何の取り柄もありませんよ。こんな店で身上(しんしょう)はたくほどの人です。弱気で、人がいいってばっかりで…」


「それにお前が、どうしてのぼせた?こりゃ、聞きどころだ」

「大方、のぼせ性(しょう)なんでしょ、あたしは…今、下へ来てるそうですけど、寄らず触らず帰した方が身のためなんです。女房、子もあり、こんな家へ通ってくる年でもありませんからね…」 


こう言うや、お力は朝之助の手を取り、「あなた、ここにいらしゃるのね。夢じゃないのね」と甘えて見せる。

 

「いつもあなたとこうしていられるの、夢じゃないかと思うんです。だって、束の間の幸せとはいえ、夢の中のあなたは、奥様がおできになったり、ピタリと御出(おいで)が止まったり、もっと色んな悲しいことばかり。あたし、毎晩泣くんですよ。ふと目が覚めると、枕紙(まくらがみ/枕もとに置く紙)がびっしょに濡れて…」


「僕はまた、いっそ気楽で浮いて渡る覚悟の人だと思っていた。夢に見てくれるほど実があるなら、妻にしてくれと言いそうなものだが、根っからお声がかりなし。こんな商売が嫌だと思うなら、遠慮なく何もかも内訳話をしたらいい」

「でも、今夜は嫌です」 


ふと下を見下ろすと、源七の息子・太吉(たきち)が水菓子屋で桃を買っているのを見つけ、朝之助を呼び、その子がお力に向かって「鬼、鬼」と言うのだと話す。 


「あたしって、そんなに悪者に見えますか?」

 

その頃、源七は菊之井から戻り、浮かない表情で、妻・初(はつ)とは目も合わさず、食事をしていると、源七の考えていることを察し、泣き顔になっているのを見た源七は箸を置く。 

お初

「そりゃ、菊之井の鉢肴(はちざかな/焼き魚)のようには旨(うま)かないだろうけど、今の身分でそれを思い出したところで何になります?…男らしく思い切る時は諦めてお金さえできたら、お力どころか、揚巻でも濃紫でも別荘作って囲ったらようござんしょ」


源七は、太吉の頭を撫(な)でると席を外した。

 

「俺だって、いつまでそんな馬鹿でいやしねえ。もう、そうあの女の名前ばかり出さないでもらいたい…暑さにちょっと当てられただけだ…」 



一方、お力はどんちゃん騒ぎのお座敷で、嫌気が差して客を放ったらかして家を抜け出していく。 



表に出たところで、これからお力のところへ向かう朝之助に声をかけられ家に戻ると、座敷を中座したことに腹を立てた主人の藤兵衛から後で来るようにと叱られる。

 

「ああ、嫌だ嫌だ。つくづく人の声の聞こえない静かな、静かな果てへ行っちまいたい。いつまでこんなこと、あたし、続けなきゃいけないんでしょうかね」

 

朝之助にそう吐露すると、お力は、今夜は酒を思い切って飲んで、酔ったら何もかも話すと言う。

 

「…元はと言えば、三代続いたできそこないで…父は職人です…」 


片足が悪かった父は、座りっ切りの飾り職人で、気位が高く、人付き合いもなければ贔屓(ひいき)にしてくれる人もなく、寒中、親子3人が古浴衣で震えて過ごしたくらいだったという。

 

母親に買い物を頼まれ、米屋に嬉しそうに行ったお力だったが、帰りに氷に足を滑らせ転んで、飯を泥水にばら撒いてしまった。 


泥水に塗(まみ)れた飯粒を拾い集めながら泣くお力は、誰も助けてもくれず、家にも帰れず、暗くなるまでその場にいると、心配して探しに来た母親の顔を見ると、お力は号泣する。 




家では、父が叱ることなく黙ったままで、お力はただ泣き続けるのだった。 



朝之助にそんな辛い生い立ちを泣きながら話すお力は、両親共に亡くし、今は天涯孤独の身である。 


「誰か呼んで、陽気にしましょうか」

 

お力は気を取り直し、帰ろうとする朝之助を強引に引き止め、泊まらせた。

 

一方、源七はお初の話も上の空で、お力と過ごした幸せな日々を思い出していた。 


お初が仕事に出ない源七を詰ると、「やかましいなあ。少し黙ってろ!」と源七は怒鳴り返し、寝転んだ。 


「黙っていれば、この日が過ごされませんよ…お前の病は、気持ちさえ持ち直せば済むことなんだから。少しは正気になって精出して下さいよ」


「いつも同じ愚痴ばかり。耳にタコができたよ。酒でも買って来てくれ…」

「…親子3人、重湯もすすれるかって瀬戸際に酒買えとはよくも…みんなお前が阿呆を尽くして、お力の奴に釣られたから起こったことじゃないか…」

 

お初の恨み節は止まる所を知らず、源七は無言で聞き流す。

 

そこに太吉がカステラを持って家に戻って来た。

 

そのカステラはお力が買ってくれたと聞いたお初は、怒って太吉から取り上げ、「馬鹿野郎!」と空地の塀に放り投げてしまった。

 

「お初!」

「何か、御用ですか?」

「いい加減に、人を馬鹿にしろ!…知った人なら菓子くらい子供にくれるに不思議はないだろう…少しばかりの内職を恩に着せやがって。土方しようが、車引こうが、亭主は亭主の権があるんだ。悪口ばかり言い通して、気に入らない奴は出て行ってもらおう。出てけ!」

「お前さん、当てつけなんて邪推が過ぎるじゃないか。太吉があんまり卑しいのと、お力の仕方があんまり見え透いているんで…」


「お力は商売だ。騙しは知れたことだ。あいつが鬼なら、不貞腐れて亭主を罵る女は鬼以上だよ。閻魔(えんま)だよ!」

「どこまでも肩を持って…こんなに家のためを思ってる私を…」

 

源七は、そんなに貧乏所帯が嫌ならどこへでも行け、貴様が出なければ俺が出ると言い放つ。

 

「お前、本当にそんな…あたし離縁する気なのか?」


「知れたことよ!」
 


初は泣き出し、源七に頭を下げて謝り、何とか懐柔しようとする。

 

「すまなかったお前さん。あたしが悪かったから堪忍してください。お力が親切でくれたものを捨ててしまったのは、あたしが重々悪うござんした。なるほど。お力を鬼と言ったあたしは、鬼以上いけない女でした。もう言いません。許してください…どうか、離縁だけは勘弁してください…もう何処へも行く処なんか、ありゃしませんよ」 


涙に咽(むせ)ぶお初を無視して、源七は無言で着物を羽織って出て行こうとする。

 

お初は、「この子に免じて機嫌を直してくれ、堪忍してくれ」と哀願するが、源七は黙したまま。

 

「そんな人ではなかった…よくよく魂まで奪われてしまった。お前さん、太吉を飢え死にさせるつもりですか?」

「この子は俺の子だ!さっさと出て行け!」 


太吉がお初に「嫌いだ、お父ちゃん、嫌い」と言うと、お初はこの子を連れて行くと言って、僅かな荷物を持って二人は家を出て行った。 



その後、源七の家は閉ざされたままで、大家と長屋の住人が声をかけるが返事はなく、お初と太吉が裏から戸を開けてみるが、源七はいなかった。

 

一方、菊之井では、昨晩、風呂屋へ行ったっきり帰って来ないお力を、新開のピカ一を逃がしちゃならないと、男たちが何としても探し出す覚悟を話し合っている。

 

警官が付近を捜すと、寺の裏山で倒れている源七とお力が発見される。

 

「心中か…」

「相当、女は抵抗しとるな」 


お力は後ろから脇腹を刺され、首を突かれていた。 


「男は切腹とは見事なもんだ」

「合意の上なんじゃないか?」

 

ラスト。


新開町の通りは、何事もなかったように賑わっている。 



【「にごりえ」とは、水の濁っている入り江のこと】

 

 

 

4  女に我慢を強いる貧困のリアリズム

 

 

 

夫の毒気全開のパワハラに被弾しても、必死に耐えていく他になかった明治の女が置かれた状況の苛酷さ。

 

その鬱憤を晴らすには、最も身近な者に吐き出し尽くすこと。 


とことん吐き出して辛さを共有する。 


あとは、その辛さを転嫁する観念があればいい。

 

せきの場合は、「太郎・命」という強化された絶対的観念だった。 

「太郎に会えないくらいなら、生きている甲斐もないことが分かっていながら、つい、目の前の苦しさに、離縁などと言い出し悪うございました」



維新革命によって江戸の身分制が削り取られてもなお、身分の格差が生き残された時、我慢を強いられたのは格差を突き付けられた者。

 

とりわけ、最も弱い立場に拉致されたのは妻女たちだった。

 

格差を突き付けられ、コミュニケーションの不成立が生まれた妻女・せきの生きる道が、ひたすら忍耐のみ。

 

辛抱強さだけが自我を支え切っていくのだ。

 

そんな心境下にあった女が、純愛を分かち合った男・録之助と邂逅(かいこう)し、せきとの別離によって転落人生を余儀なくされた辛さを知らされるに至った。 


純愛譚の終焉が二人の人生の運命を分ける岐路になり、そこで炙り出された風景もまた、身分の格差という不文律だった。


 

その思いを受け止めたせきは、復元不能な関係を埋める何ものもないリアルの中で、「どうか、以前の録之助さんにおなりなすって、ご立派に元のようにお店をお開きになりますように…」と吐露し、金を包んで録之助に渡すこと外になかった。

 

自分より辛い人生を引き摺っている者の存在を知らされて、自らの辛さを相対化するのである。

 

身分の格差が生んだ二つの悲哀を描き出した樋口一葉の凄みに絶句する。 

樋口一葉(ウィキ)


それを客観的に描き切った今井監督に感服する。

今井正監督


 

これが「十三夜」が描き出した世界だった。 

 


―― 「大つごもり」は飛び抜けた傑作である。 



ここでも、維新革命によって削り取られたはずの身分の格差を嫌というほど見せつけられる。

 

幼い頃に父母を亡くし、穏やかな叔父夫婦に育てられた深い感謝の念を持つお峰が、病床に臥した叔父から、奉公人が居付くことがなく、人使いが荒い奉公先からの借金を依頼され、引き受ける。

 

2円の金を女主人に頼んだが、融通してもらえず、苦衷するお峰は、遂に魔が差して盗んでしまうことになる。 


それは、たまたま当家に20円の入金があり、それを女主人から茶の間の掛硯(かけすずり)に入れておくように頼まれた金だった。

 

女主人が帰宅し、掛硯を開ける。

 

お峰は覚悟を括った。 


ところが、そこには放蕩息子の若旦那・石之助の受取書だけが入っていた。 


茶の間に寝ていた石之助は、絶対絶命に置かれたお峰の窮状を救ったのである。 


但し、石之助の行為がお峰の窮状を知っていて救ったか否か、原作でも映画でも説明されていない。

 

にも拘らず、金の問題で煩悶するお峰をヒロインにした圧巻の短編だった。

 

何より遣り切れないのは、ひと月も持たない程、最貧困の下女を酷使し続けることで身分の格差・貧富の格差を見せつけ、自らの立ち位置のレーゾンデートル(存在価値)を確保せざるを得ない山村家の心の貧困が露わにされるのだ。 


商売繁盛であったが故に資産家にまで成り上がったとイメージさせる。

 

放蕩息子を救世主にしたら洒落にならないので、ここは美徳を積んだお峰に対する神からのプレゼントという解釈にしておこう。

 


―― 何度観ても、「にごりえ」の丁寧な作りに感服する。 


感慨もひとしおで、深々と心揺さぶられるのだ。

 

「ああ、嫌だ嫌だ。つくづく人の声の聞こえない静かな、静かな果てへ行っちまいたい。いつまでこんなこと、あたし、続けなきゃいけないんでしょうかね」 



気位が高いだけで、人付き合いもなく、片足が悪かった職人の父を持ち、寒中、親子3人が古浴衣で震えて過ごしたエピソードに凝縮されるように、酔った勢いで辛い生い立ちを赤裸々に語り尽くすお力。

 

その身の上話に耳を傾ける朝之助。

 

相手が包容力の豊かな朝之助だからこそ、どうしても受け止めて欲しいのだ。 


だから、身の上話の核心に触れていく。

 

米を買いに出かけた帰路、近道を選んだために転倒して溝に撒き散らした泥の米を掻き集めるが、もう打つ手がない。 


万策尽きた少女は動けない。

 

いつまでも立ち竦む少女を案じて、母が迎えに来たが言葉が出ない。 


一目瞭然だった。 

 

帰宅しても、黙すのみの父。

 

飢える家族の約束された時間だけが、虚空に震えている。

 

そこに嵌ったら浄化できない暗く澱んだ溝 ―― 映画のタイトルにはこの含意がある。

 

この暗く澱んだ溝が、人気酌婦・お力のトラウマのルーツとなり、映像を貫流している。

 

お力の過去と現在が地続きになって、彼女の〈現在性〉に不穏な空気を醸し出すのだ。

 

源七と初の〈現在性〉が醸す不協和状態もまた、お力の存在がバリアと化し、暗く澱んだ溝の表象を浮き上がらせているから厄介だった。 


「いい加減に、人を馬鹿にしろ!亭主は亭主の権があるんだ。悪口ばかり言い通して、気に入らない奴は、出て行ってもらおう。出てけ!」

「お前、本当にそんな…あたし離縁する気なのか?」

「知れたことよ!」 



行く当てのない妻子を追い出してしまう男の情動が炸裂して、平凡なサイズの暮らしを延長させていた家族が、妻の謝罪を拒む男の器量の狭さによって呆気なく崩壊してしまうのだ。

 

そこに関わる人気酌婦・お力。 


自らの存在それ自身が源七の妻子を追い詰めている〈現在性〉こそ、結婚願望を棄てたかのような、〈生〉への希望を有しないお力のペシミズムのコアになっている。


縁日で仲睦まじく金魚すくいをしている若い男女を、うっすら涙を浮かべ見つめているお力のシーンこそ、彼女が手に入れられなかった男と女の関係の理想形だったのだろう。 



その自我の底層に広がっているのは、嫌というほど味わってきた貧困のリアリズム。

 

何より、源七の家族が抱える貧困のリアリズムの凄惨さは、観る者を圧倒するのに十分過ぎた。

 

お力が結婚に振れていかないのは、この辺りにある。

 

なぜそこまで、苦衷を深めてしまうのか。

 

暗く澱んだ溝の記憶が侵蝕してきて、それが源七の家族の貧困のリアリズムとして再体験させられてしまうからだ。

 

最も頼りになる朝之助の存在は眩(まばゆ)いが、今の自分には相応しくないと考えてしまうお力のペシミズムの根は相当に深い。 


自分の存在が特定他者の不幸を約束させる事態の辛さが、人気酌婦の自我を覆っているのだ。

 

死への誘(いざな)いに振れる予感が、そこに漂っているようだった。

 

朝之助は、ただ一時(いっとき)、安心して酔える時間を共有してくれるだけでいい。

 

それだけだった。

 

彼女に幸福な家庭への懇望が僅かでもあったにしても、結婚に対する疑心暗鬼の念が強すぎて、どこかで諦念してしまっているように見える。

 

返す返すも、カステラのエピソードは、あまりに酷薄過ぎるのだ。

 

カステラをもらって嬉々とする太吉から奪い取ったカステラを、母のお初が投げ捨て、それに激怒した源七は妻子を追い出した挙句、孤絶する源七がカステラを与えたお力と無理心中するという顛末に添える言葉など、どこにもない。 


人間の情念の暴発を超えた貧困のリアリズムの破壊力が、何もかも奪い尽くしていくようだった。

 

女に我慢を強いる貧困のリアリズム ―― これが、一葉文学の結晶点とも言える「にごりえ」の中に、遣る瀬ないほどの哀切を極めた物語として描き出されていた。

 

働きもしない男の「亭主の権」によって家を追い出された妻子には行く当てもなく、その未来のイメージはあまりに暗いが、亭主の死で帰るべき家を持ち得たことは幸いであるとも言える。 

お初(右)が太吉を連れ、呼ばれて戻った時、もう源七は無理心中に振れていた


また、貧困のリアリズムは「大つごもり」の核心を成していた。

 

然るに、約束の借金の一件を勘違いされ、盗みを働かざるを得なかったお峰の行動が発覚したら馘首され、実家は飢えていくだろう。 


それもまた、借金の違約に抗議できず、我慢を強いられたお峰の立場の辛さがある。

 

「十三夜」に至っては、我が子のためだけに、夫の仕打ちに我慢を強いられた女の話だった。 


女に我慢を強いる貧困のリアリズム。

 

それこそ、一葉文学の真髄だった。

 

【樋口一葉については、拙稿「樋口一葉の世界 ―― 赤貧地獄の只中を駆け走った『奇跡の14ヶ月』」を参照されたし】

 

(2024年2月)

 

 





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