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2013年6月23日日曜日

先生を流産させる会(‘11)      内藤瑛亮



<ファンタジーに流れゆく剥ぎ取られたリアリズム>




1  ファンタジーに流れゆく剥ぎ取られたリアリズム



当然、こういう映画があっていい。

だが、現代の日本が抱える教育に関わる、重大な「問題提起作」という印象から乖離していて、私には大いに不満が残った。

このような映画を世に問うに足る覚悟が、作品から感じられなかったからである。

典型例を挙げれば、生徒が仕掛けた椅子で転倒したサワコ先生が、ミズキをリーダーとする5人の女子生徒の頬を叩くシーン。

明らかに、頬を叩く仕草だけで終始するシーンを見せつけられて、もうダメになった。

テレビドラマでなく、金を取って見せるシリアスドラマで、これをやったらシラケてしまうのである。

こんな演出でお茶を濁す作り手には、「問題提起作」を映像提示する覚悟も能力もないと言わざるを得ないのだ。

サワコ先生
また、ステレオタイプで、「決め台詞」を怒濤のように繰り出す、サワコ先生の啖呵の凄みは、却って〈状況〉のリアリティを壊すだけだった。

そして、「女子中学生」限定の物語の設定の問題。

「犯人役は先生が『妊娠してる』こと、それ自体に嫌悪感を感じさせるキャラクターにしないと訴えたいテーマに迫れない。男子生徒の場合、『嫌いな先生がいる→その先生が妊娠してた→流産させよう』って発想の順番になり、そうすると『先生を流産させる会』という言葉から受ける嫌な気持ちから遠ざかってしまう。そこでキャラクターを女の子にすることで、『妊娠』が自分の身体と直接関わる出来事になる」(『先生を流産させる会』 内藤瑛亮(監督)インタビュー/映画芸術・2012年5月23日)

内藤瑛亮監督
この映画のモデルとなった事件のように、本作が、最初から「男子中学生」が抱える問題を排除して作った意図は、以上の作り手自身の言葉によって理解できなくはない。

しかし、社会性を持ったシリアスドラマとしてのリアリティを重視するなら、普通の公立中学で惹起している生活風景を、ありのままに映像提示した方が観る者に説得力を持つ内容になったはずだ。

妊娠=性を不浄と考える、「女子中学生」の観念系の鋭角的な尖りという問題のうちにテーマを閉じ込めることで、物語を膨らませることを明らかに回避したいのだろう。

それもいい。

しかし、物語を膨らませることを拒絶した理由が、観る者に製作費の問題が関与していると想像させてしまうほど、本作のストーリーラインには訴求力を感じられないのだ。

単なるエピソード繋ぎで、しかも肝心なところは、ステレオタイプな台詞のみに依拠する作品になってしまった。

ミズキ
何より、看過し難かったのは、妊娠=性を不浄と考える「女子中学生」たち(正確には、ミズキ)の問題のうちに限定させながら、物語の基本骨格が、ミズキの人物造形に特化された、浮遊感漂う「確信犯的女子中学生」の「悪意」と、サワコ先生に象徴される「スーパー教師」の、「使命感含みの正義」との「命を賭けた戦争」という、あまりに分り易い類型的なドラマの中に、最後は、後者が前者の心の空洞の隙間に潜入することで、「いなかったことになんて、できないの」という、本作の基幹メッセージを訴えるカットの内に収斂されていく、「映画の嘘」の短絡性。

そして本作は、この分り易い類型的な対立構造の中に、実際は、複層的に様々な問題が絡まっていることで解決の方途を見つけにくい、由々しき「中学生状況」という厄介なアポリアが厳として存在しているにも拘らず、単に「モンスターペアレント」に悩まされる「学校サイドの脆弱性」や、「体罰の是非」などの問題をエピソード挿入しただけで、それらの問題が内包する「中学生状況」には沈黙し、且つ、それを捨てていくことで、件の「モンスターペアレント」の暴力から、浮遊感漂う「確信犯的女子中学生」を、文字通り、体を張って守り切る「スーパー教師」という、学校版アクションムービーに変換させてしまうのだ。

「命の大切さ」という基幹メッセージは、映像総体に収束されて自己運動に変換される熱量の力感が相当程度希釈化されてしまったから、虚仮威(こけおど)しの画像の提示のみの、初発のインパクトで「勝負」する底の浅い裸形の風景を晒す以外になかったのである。

決して、唾棄すべき愚作とまでは言わないが、少なくとも、分り易い類型的な対立構造を、映画的に加工しただけの、脆弱なる「問題提起作」という評価を突き抜けられなかった。

最後はファンタジーに流れゆく剥ぎ取られたリアリズム ―― それが、大仰なタイトルで作られた映画の全てであると言っていい。

それが、本作に対する私の基本的把握である。

作り手が、「『あなたはどう思いますか』って問いかけができればと思うんです」(前掲インタビュー)という問題提示に対して、以下、私なりに答えていきたい。

この映画を観ていて、私は、自らが運営した私塾時代の経験を想起したからである。

教育について特段の関心を持つが故に、自らのブログで書き散らした多くの拙稿を、加筆・引用しながら、かなり長大な文章になるが、教育に関わる「人生論的映画評論」の視座で言及していきたい。

テーマは、「『中学生状況』という厄介なアポリア」としたい。



2  終わりなき、姿態の見えない悪ガキたちとの戦争



「先生を流産させる会」より
「中学生状況」という厄介なアポリアが、厳として存在しているという実感を結んだのは、17年間に及ぶ私塾時代に経験した、近所の中学生たちによる、悪意に充ちた度重なる嫌がらせの問題に直面したからである。

 その最初の出来事は、我が家の屋根瓦に向かって繰り返し投石された「事件」であると言っていいだろう。

その「犯人」が分ったとき、私はその日の内に、件の中学生の家を訪問し、激しい抗議を行った。

 ところが、それが問題解決にはならなかったどころか、これから始まる、近所の中学生たちによる、極めて悪質な嫌がらせを含む行為のシグナルとなったのである。

 我が家の前にあるアパートの塀の全面に、「○○死ね!」などという悪戯書きが、チョークによって書かれていたのは、その一件があった直後だった。

 「○○」という言葉の中味は、私の妻の名前であった。

無論、地団駄踏んで悔しがっても、「犯人」が分らないのだ。

 その時点で、学習塾とは没交渉の妻は相当の衝撃を受けて、以降、引っ越しを考えるに至り、やがて、清瀬市の分譲マンションに越していくことになったが、その間も、度重なる嫌がらせが継続されていった事態と関係するだろう。

 
学習塾の拠点の大泉学園駅(ウィキ)
「晩成舎」という表札を掲げている玄関に、赤いペンキを塗りたくられた事件もあった。


  これはやがて「犯人」が見つかり、見たこともない中3生を特定して、家の中に呼んで事情を聴いた。

あろうことか、中3生が言う所によると、その少年が通う 中学校の男子トイレの中にも、「『晩成舎』クタバレ!」などという悪戯書きがあって、その学校ではもう有名な話になっているということだ。

 「『晩成舎』は汚い塾」、「『晩成舎』は『バカ』が行く塾」、「『晩成舎』は『ビンボー』の行く塾」等々。

こういうことが、我が塾と最近接する中学校では言われていて、恥ずかしくて誰も行く者がいないということ。

 とりあえず、私は妻に少年の自宅に連絡してもらって、厳重に注意を求めた。

まもなく、高校生になった少年の勉強を臨時でサポートするという立場になったりして、相談相手のような付き合いを続けたが、他人に対する差別的態度の言辞などを厳しく注意した結果、疎遠になり、爾来(じらい)、彼と一度も会う機会はなかった。

 ともあれ、「晩成舎」の汚さは事実であり、「『ビンボー』の行く塾」との決めつけも、その言葉の差別性を無視すれば、部分的に正解だったかも知れないが、しかし「『バカ』が行く塾」という究極の偏見は、必ずしも当っていないと言えるだろう。

それでも、悪戯の連鎖が暴れ回っていた。

 
イメージ画像・ブログより
殆ど、毎日のように出来する嫌がらせの行為に、もう歯止めが利かないようだった。

塾に向かって石を投擲 (とうてき)する者。

「『晩成舎』死ね!」などと大声で叫んで、自転車で走り去っていく者。

ピンポンダッシュの横行。

いたずら電話に至っては、殆ど四六時中で、それもわざわざ、塾が開いている時間帯を狙い撃ちにしてくるのだ。

 自転車の盗難も多く、そのために、塾の時間中に私自身が見回りに 行く始末。

鍵のかかった自転車を壊していく連中が存在するからである。

だから、生徒にはできる限り、徒歩通いを進めることもあったが、数キロも離れた自宅か らの通塾生も多いので、それを言い出せないのが現状だった。

 この現状に対して、私が選択した行動は確信的なものだった。

私はこの類の行動を、「軽微な非行」と決して把握せず、断固として許さない態度を一貫して示す以外にないと判断したのである。

「大人げない」という逃げ場に潜り込みたくない心情が、その行動を選択させたのだ。

これは、「大人を平気で舐めてかかるガキとの戦争」だった。

イメージ画像・文部科学省ホームページ
私は、「晩成舎」を「前線基地」とする「戦争」の、その「戦端」を開いたのである。

 「晩成舎」と叫んだだけで走り去っていく、「大人をからかうゲーム」に興じるガキたちを視認できずとも、勘のみを頼りに追い駆けていくが、残念ながら容易に特定できず、フラストレーションだけがストックされていく。

 それでも私は追った。必死に追った。

  そして運良くガキたちをほぼ特定できて、私は4人の中3生を公園内で捕捉し、全員、その場に正坐させて、彼らの弁明を求めた。

その要領の得ない反応に咄嗟 に手を出そうとしたが、そのときは何とか堪え切った。

二度とこんな真似はしないという言質を取って、その場で彼らを解放したのである。

 しかし、それが私の甘さだったのだろうか。

 その後も、ガキたちの嫌がらせが続いたのだ。

勿論、公園で解放したあの4人が、その中に含まれていたかどうか定かではない。

なぜなら、相当の数の中学生たちが嫌がらせに加担していたようなのだ。

だからこれは、「終わりなき、姿態の見えない悪ガキたちとの戦争」の様相を呈していた。

イメージ画像・ブログより
その顔に見覚えのない彼らが、単に「晩成舎」とうネガティブなイメージのみでゲームに興じる行為の本質は、「皆がやっていて、面白いと思ったから自分も やってみた」という類の邪気性それ自身の反映だろうが、しかし「大人をからかうゲーム」を一度許容してしまったら、際限なく続く負の連鎖の中で、最終的に 「屈伏する大人」のさまを見せてしまうことになるのだ。

 「これは絶対に折れてはならない」―― 私はそう括ることにして、「大人を平気で舐めてかかるガキとの戦争」を継続することにした。

 だから、彼らを追い駆ける日々がどこまで続くか不分明だが、それでもいいと覚悟を括ったのだ。

この世に、「大人を平気で舐めてかかるガキ」を許さない大人が存在することを、どんなことがあっても身体表現することで教えなければならないと思ったのである。

ただそれだけだが、それをしないことなしに納得し得ない厄介な自我が、私の内側で騒いでいた。

 かくて、「大人を平気で舐めてかかるガキとの戦争」が繋がったのである。

その挙句、予想だにしない厄介な問題が起こってしまった。

それはもう、「事件」と呼ぶ以外にない深刻な出来事だった。

「晩成舎」が放火されたのである。

イメージ画像・TONICHI NEWSより
正確に言えば小火(ぼや)だったが、それは結果論でしかなかった。

小火の内に処理できたから、大事にならずに済んだだけだからだ。

危うい所だった。

 自分の学習を終えて自転車置き場に戻る女子中生が、塾の家屋の一部で燃えている事態を逸早く気づいて、私に知らせてくれたからこそ、事が重大な事件に発展せずに済んだのである。

 それが自然出火であったり、偶発的な事故でなかったりしたことは明らかだった。

放火であることを確信した私は、塾を終えた直後、着替えることもなく、すぐに行動に移した。

塾に通う中一の男子に、一人の生徒の住所を聞くや否や、自転車に乗って、その生徒の家を訪ねたのである。

その生徒もまた、我が塾に通う 中一の生徒だった。

 その生徒の家に着いた後、本人を眼の前にして、両親に「放火」の一件を説明し、その「犯人」が「お宅の息子さん」であると断定的に言い切ったのである。

 一瞬、狼狽した父親が怒りを露わにすることもなく、その根拠を尋ねたので、私は自分が確信する根拠を説明した。

しかしそれは、多くの放火事件がそうであるように状況証拠でしかなかった。

 しかし、例の少年が、我が塾において、生徒たちの月謝袋を盗んでいた事実が判明したのである。

その手口は許し難いものだった。

件の少年は塾に通う小学生に命じて、ホワイトボードに一時的にクリップで留めておいた、その日に受け取った月謝袋を盗ませていたのである。

 以上は、小学生本人から、私が直接聞いた言葉。

 思うに、私には、少年に対して特段に高圧的態度を示した記憶が全くないので、単に窃盗癖を持つ子供の非行の延長上に、この事件 が誘(いざな)われたと把握すべきなのか、一切が不分明である。

「先生を流産させる会」より
そんな私的な経験の中で、否が応にも実感した現実 ―― それは、「子供たちの理不尽な身体表現に毅然と対峙し得ない大人たちの、その不必要なまでの物分りの良さ」である。

言葉を換えれば、「物分りの良さ」という奇麗なダブルトークのうちに、ファジーと化した明らかなる「退路の確保」という文脈によって説 明できる何かだろう。

 この国の大人たちは昔から大して変わってないが、今や、その「物分りの良さ」は過剰ですらある。

 「中学性を恐れる大人たち」という現実は、当時、私が個人的に学習指導していた女子の母親が直截(ちょくさい)に語っていた事実を想起するだけで充分であるだろう。

 「先生、怖いんですよ、今の子は。裏の公園でよく騒いでいますけど、ウチの子には、いつも近寄らないように言っているんです」

この言葉に端的に表現されているように、つくづく、「中学生状況」という厄介なアポリアを感じざるを得なかった次第である。

大体、大人と子供の関係が、本来的に「対等」である訳がないのだ。

「先生を流産させる会」より
生来的に基準を持ち得ないという意味で、大人と子供は「平等」ではあるが、例えば、「権 利」などという基準を媒介すれば、当然の如く、「対等」ではないのである。

「対等」と「平等」は違う、という把握こそ重要なものであるだろう。

少なくとも、 私はそう思っている。

 子供の自我の基幹の形成に責任を持つ大人と、大人によって自我の基幹の形成を受ける立場にある子供という関係構図には、「養育・教育」と呼ばれる枢要な問題が包含されているが故に、単に「権利平等」の形式論の枠に馴染まない由々しきテーマを捨象できないのである。

 ―― この私塾時代の経験については、「心の風景」の中の「終わりなき、姿態の見えない悪ガキたちとの戦争」に詳しいので、私塾時代への言及は止めて、ここから、大状況的な視座で考えていきたい。



3  「子供の自由」に対する大人社会の、その拠って立つ倫理的混乱の極み



「毎日新聞」が伝える以下の信じ難き「事件」を知ったとき、一体、この国の大人たちは、子供の自我をどのように作り上げてきたのかという暗澹たる思いを、心底抱かざるを得なかった。 

 
「先生を流産させる会」より
「愛知県半田市立の中学校で1月から2月にかけて、30代の妊娠中の担任教諭に対して1年生の男子生徒11人が『流産させる会』を作り、食塩やミョウバンを給食に混ぜるなどの悪質ないたずらをしていたことが分かった。


 市教委によると生徒らは1月下旬、教室にある教諭の椅子のねじを緩めたり、車にチョークの粉や歯磨き粉を振りまいたりした。2月には、理科の結晶観察で使った食塩とミョウバンを持ち出し教諭の給食に混ぜた。これを女子生徒が目撃し、別の教諭にいたずらが伝わったという。

 3学期を迎えるため席替えをしようとして、08年12月と1月に生徒と2度トラブルがあったほか、部活動でもトラブルが起き、注意したところ反発したという。2月下旬に学校がいたずらを把握し、生徒と保護者に注意した。学校側は『学級指導などを通して命の大切さ、事の善悪、他を思いやる心の育成指導を徹底していきたい』という。

イメージ画像・ブログより
ミョウバンは、食品添加物として用いられる。教諭にけがはなく、体調にも異常はないという。【河部修志】」(2009年3月29日より)

以上の「事件」こそ、本作のモデルになったのは周知の事実であろう。

また、学校内で出来した「事件」について、この国の最高裁が下した判決で興味深い例があったので、それについて簡単な報告をする。

所謂、「熊本体罰訴訟」がそれである。

 以下、筆者自身が同感した読売新聞の社説から、事件の概要とコメントを紹介する。

 題して、「『体罰』訴訟判決 指導には厳しさも必要だ」

 「教師を足で蹴(け)って逃げた子どもに対し、胸元をつかんで壁に押し当て大声で叱(しか)った。その行為を『体罰にはあたらない』と最高裁が判断したのは妥当な結論だろう。

 熊本県の小学校で7年前、教師が2年生の男児にした行為は、学校教育法で禁じられた体罰か。それが民事訴訟で争われた。体罰と認定して賠償を命じた1、2審に対し、最高裁は請求を退けた。

 相手が教師であればもちろん、友だちでも蹴ってはならないことは本来、家庭がしつけておくことだ。教師が毅然(きぜん)とした態度で、厳しく指導したのは当然だろう。

 最近は、児童生徒に友だち感覚で接したり、度を越した悪ふざけや暴力的言動を見過ごしたりする教師の存在も指摘される。あくまで教える側と教わる側であることを、忘れてはならない。

 児童生徒の暴力行為が増加傾向にある。文部科学省の調査では、2007年度の発生件数は小中高校いずれも過去最高だった。対教師暴力は06年度より500件以上増え、7000件近くあった。

 生徒や保護者が教師らに対し、『クビにしてやる』などの暴言を吐くケースもある。こうした言動に萎縮(いしゅく)することなく、厳格な姿勢で臨むことが必要だ」(4月29日付・「読売社説」より)
 
 

イメージ画像・ドラマ「モンスターペアレント」より


以上の事例は、「教師が直接手を下す『有形力の行使』が学校教育法の禁じる体罰に当たらない事例があり得ることを示した最高裁の初判断」
(「NIKKEI NET」2009年4月28日付より)であり、私たち大人自身の自覚が切に求められるであろう。

頂門の一針としたいところである。

 更に、こんな非行行動も報告されている。

 2006年11月に起きた、「岡崎ホームレス襲撃事件」がそれである。

 この事件をフォローしていくと、そこに「親の無関心・無責任」という由々しき問題が透けて見えるのだ。

「『真相を掘り起こす』形に特質したニュースサイ ト」(HPより)として立ち上げられた、「アドネットニュース」の記事は、事件を詳細に伝えているので、ここに引用する。

 「愛知県岡崎市の河川敷で生活していたホームレス花岡美代子さん(当時69歳)が殺害されるなどした一連のホームレス連続襲撃事件で、愛知県警捜査本部 は21日までに13歳と14歳(犯行当時は13歳)の中学生少年を補導し、彼らの犯行を主導していた住所不定無職の木村邦寛容疑者(28)を窃盗の容疑で 逮捕した。

 木村邦寛容疑者は中学生補導が明らかになった17日夜、父親に付き添われて岡崎署を訪れていたが、出頭直前に逃走。同署によると、男は17日午後9時ご ろ、県内在住の父親に諭され、一緒に車で署を訪れた。同署内駐車場で、木村容疑者は父親に『最後にたばこを1本だけ吸わせてくれ』と言い車外に出ると、たばこを吸うしぐさをしたものの突然逃走。父親が追いかけるもその場から姿を消した。愛知県警岡崎署は緊急配備をひき木村容疑者の行方を追っていたところ 21日になり容疑者を逮捕。父親の自首への諌めを無駄にした木村容疑者は往生際が悪かったという。

 

このホームレス殺害事件では、木村容疑者の他、いずれも中学2年の少年3人が関与したとされている。3人の中学生の親は子供が殺害事件を起こした件についていずれも知らない、分からない等と説明責任を放棄。木村容疑者との関係は認めているものの『事件に対しての謝罪』『保護者責任についての説明』は未だ聞かれていない。特に少年容疑者Sの親について言えば、まるで別の家庭の子供が起こした事件のように話をしており、被害者の視点、事件の重大性を全く認識 していない。

 木村容疑者や少年が逮捕されたことによって事件の全貌は明らかになった。木村容疑者の指示により、少年が実行犯となり今回の殺害事件や数々のホームレス 襲撃事件を起こしていた。今回の事件は容疑者全員逮捕により一段落つくわけだが、今後、少年法のあり方が再度問われなければならない事件の事例のひとつで もある」(2006年12月22日 アドネットニュース編集部 山本健一記者)

この類の記事に接して、私が真っ先に思い浮かんだことは、イギリスで立法化されている例の有名な「子育て命令法」の事例である。

子供の非行や不登校に対して罰金を科し、滞納した場合には禁固刑を科したりすることで、子供の更生を促し、更に登校できるまでの間に親の講習を義務づけているというものだ。

 子供の人権を重んじていると言われる欧州で、このような厳しい対応をするのは、まさに「人権の公平性」という観点で考えれば納得がいくかも知れないだろう。

 不登校に対するフランスの対応も似たような制度が存在しているが、もっともフランスが、若い女性の過剰な減量ダイエットを指南するインターネットサイ ト、メディアの当事者に禁固刑や罰金を科す、「やせ過ぎや拒食症の扇動と戦う法案」を可決させた国家である事実を見る限り、欧州の決して甘くない文化風土の在りようが了解し得るというものだ。

 
イメージ画像・子育て支援ルーム/サイト松川村役場
我が国で、このような立法化が可能であるかについては、「イギリスと同様の規定を持ちこむことにより、刑罰によって家庭教育に踏み込むことはあってはならない」(2006年12月8日付「しんぶん赤旗」より)と主張する野党の存在を見れば、いかに困難であるかが分るだろう。

ともあれ、愛知県半田市立の中学校での「流産させる会」に関わった児童、親に対して簡単な説教で済ませたという事実を知る限り、一貫して、この国の大人たち の対子供観と、その対応の身体性は形骸化されているという事実を再確認する思いである。

どうやらこの国では、思春期反抗の当然すぎる行為に対しても、大人 の自我のごく通常のサイズのバリアによって、真っ向から対峙することから回避しているようなのだ。

思えば、ポスト団塊ジュニアの世代(Y世代)はデジタルネイティブ(デジタル機器に囲まれて育った世代)とも言われるように、携帯電話やパソコンと幼少時から馴れ親しんでいて、その圧倒的な利便性を感受し得ないほど、「現代文明への恩恵」の感情が稀薄である。

彼らには、それらの近代利器をいとも簡単に駆使して作り上げた関係のネットワークの動向と、その視線の柔軟性の濃度のみが最大関心事であるように見えるのである。

 その不定形な関係宇宙の中で育まれた「自分らしさ」の身体表現は、絶えずパーソナル・スペース(自我の安定を保証し得る距離感覚)を意識下に置いた、狭隘な関係の力学に支配される枠内での実感であり、そこに形成された情感系言語は同質性の傾向を深めていきやすいと言えるだろう。

 
イメージ画像・デジタルネイティブ
それ故、関係のネットワークの中で手に入れる「自分らしさ」の実感は、同質性の不断の確認を濾過してきた心情文脈であって、必然的に自分だけが置き去りにされてしまう状況への理不尽で、不埒なるインボルブを、絶対的に回避する行動傾向を生みだしていくに違いない。


 そんな彼らの特徴的な自我形成は、既に彼らの意思とは無縁に、幼少時からの過剰把握の養育環境の中で、殆ど決定づけられていたと言える。

生まれたときから、欲しいものは大抵、自動的に手に入る社会で、彼らには、その自我の形成過程で惹起される様々な獲得欲求や、そこに脈絡する達成動機を充分に育まれてき ていないように見えるのである。

 必要以上に物分りの良い大人の存在が既成事実化したことで、彼らには、その自我の加速的な急進化(思春期反抗)を必然化する時間が、自然発生的に作られる現象(要するに、第二次性徴期を特徴づける、性ホルモンとしてのテストステロンの分泌)を含む鋭角的な変化の兆候も劣化させていて、ましてや、俄(にわ か)に尖っていく自我に凛として立ち塞がる身近な大人の存在は、それまでの時代の在りようよりも明らかに稀薄であるように思われるのだ。

 未成年の執拗なピンポンダッシュでさえ、「迷惑防止条例」で逮捕されるという行為を例に出すまでもなく、様々な子供の不法・逸脱行為に対して、体を張って向かっていく「大人の不在性」という由々しき問題のつけは、結局、「尻込みする大人」の脆弱さを濾過した果てに、そんな大人たちの決定的状況での不作為を目の当たりにした子供たちの、立ち上げていくべきときに身体化し得ないその自我の在りようを、無残なまでに予約してしまうのである。

 そのことは、「快・不快の原理」で闊歩(かっぽ)してきた幼い自我が、より広い社会に向かって大きく変容していく内的運動への、それ以外にない強力な防波堤となっていない現実を充分に物語るだろう。

この国の子供たちのアンケートを採っても、「何も欲しくない」という解答が第一になるという社会を、私たちは作り上げてしまった。

この社会を、私たちは二度と手放さないだろう。

私たちの自我に刷り込まれた快感は、加速していく方向にしか動かない。

加速化を求める快感は、必ず、それ以上の快感を求めざるを得ないのだ。

快感と快感の僅かな時間の隙間に、飽食は生まれる。

イメージ画像・ブログより
飽食とは、次の快感を手に入れる前の小休止でしかないのである。

 飽食がより高次のレベルの快感を招き入れ、自分たちの感覚器官をますます高感度にしていくとき、これが、快感濃度の異なる現代の子供たちには、累乗効果として作用するに違いない。

大人の高感度の刺激情報が、子供の自我に刷り込まれる一方、子供自身もまた、快感情報を自分の感性で濾過し、それを自我に刷り込んでいく。

現代の子供たちには、最初から、こうした情報しか刷り込まれていないのだ。

子供たちには、より低レベルの快感情報には殆ど心を動かされないほどの高感度の反応形成が、それ以外にない必然性によって常態化されているのである。

 そして彼らには、少しばかりの不快情報、例えば、家の中で一匹の蟻が動き回っている状態ですら許容限界を超えてしまうのだ。

やぶ蚊のイメージ画像・ブログより
一匹の蚊の闖入(ちんにゅう)は、間違いなく、子供たちの集中力を破壊するだろう。

ところが、その自我が思春期を越えてもなお、その自我の前に、大人が大人であるところの拠って立つ存在感によって立ちはだかれない現実を、殆ど常態化しているように見える。

この国の不幸の中枢に近い辺りで、なお「大人たちの不在」の延長という重々しい債務が、緩やかに、しかし確実に累加されていく時間の中に、その澱みの濃度をいよいよ深めているのだ。

国家的・文化的強制力を失った現代社会は、子供たちに、「自分のために勉強しろ」としか言えなくなっているのだ。

このとき、「自分のためならやらなくてもいい」という類の、子供の我が儘なトリックに反論できない大人が多く存在するほどに、もはや、教育という名の文化的強制力を持たなくなってしまったのである。

 

子供の自我は大人の自我に組み換えられねばならないという、当然過ぎるほどの理屈に、「どうして?」という大人が出現する近代社会とは、一体何なのか。

 「子供の自由」に対する大人社会の、その拠って立つ倫理的混乱が極まってしまったのだ。

子供と大人の相違は、何よりも「自己決定権」を持ち得るか否かという点にあり、そこには、何ら情緒的な解釈など入り込む余地などないのである。

これが、私たち民主社会の、一つの毅然としたルールでなければならない。

子供と大人は享受する権利が異なるという厳然たる事実を認めない限り、子供の我が儘な暴走を制約する、一切の法的根拠が済し崩しにされてしまうのだ。

現代社会の混乱は、このあまりに当然過ぎる文脈の共有の顕著な劣化によって惹起されているのである。 
 
 

 4   「夢教育」の物語の欺瞞性



河上亮一氏
少し古いが、ここに、「プロ教師の会」主宰者である、河上亮一(2012年10月より埼玉県鶴ケ島市教育委員会教育長)のインタビュー記事があるので紹介する。

 「今の子どもたちは、自分が一人前で、教師と対等だと思っている。だから教師の言うことを聞かなくてはいけない理由はないわけだ。騒いでいるA君に『静か にしなさい』と言うと、『何でおれだけ?』と言う。『お前の授業は面白くないんだよ。おれたち二人の会話の方が重要なんだ』と言い出す。これでは教育は成り立たない。

 生活の仕方も身に付いていない。給食をぽとぽと落としながら食べる。ほうきでごみを掃けないし、五十分間、座っていられない。四、五歳の時に覚えるべきことができないでいる。子育てと教育のシステム全体が壊れている。

 日本が豊かになり、子どもが我慢する必要がなくなったからだ。自由が最大限に重要視され、強制されるとキレる。経済的に豊かになったツケが教育に回ってきた。今までは『学校は学ぶ場で、生徒は教師の言うことを聞くものだ』という世論があった。それがなくなったから、古い学校システムが崩壊した。私は当然の 結果だと思う。

 教師がしなくてはいけないことは、学校がどういう状況にあるのかを、もっと外に向かって発言することだ。保護者会でも正直に報告する。銀行と同じで、気が付いたらつぶれていたなんてひどい話だ。その前に現状を外に知らせるべきだ。

 ただ、保護者から子どもたちにどう接していけばいいのか聞かれても、現場の教師である私には答えようがない。お父さんお母さん自身が、どう子どもを育てたいのかを考えてほしい」(中国新聞99.11.10)

 

「プロ教師の会」の主張の8割くらい同意する私としては、納得のいく論旨である。

思うに、「教育者は人格的完成者でなければならない」という、大方の人々に共通した観念がある。

 私は、これを「夢教育」の物語と呼んでいる。

 教育とは、人間が人間を一人前の自立した立派な人間にする行為である、という殆ど疑うことをしない観念がそこに纏(まと)わりついていて、私が幾ら「教育とは当該社会への適応をアシストする仕事である」という最も合理的な説明をしても、恐らく、形式的合意しか得られないに違いない。

私たちは、知らずの内に、教師個人に「熱血」、「勇気」、「利他心」、「純粋」、「誠実」、「無欲」、「清貧」、「自己犠牲」などのモラルを求め、罷(まか)り間違っても不倫に走ったり、金勘定をしたりする者があってはならないと考えている。

これはまるで、パウロが「ローマ人への手紙」で書いた原罪思想そのものである。

 
執筆中のパウロ(ウィキ)
パウロはそこで、「貪欲、悪意、憎悪、悪年・・・悪口する者、愚かな者・・・不誠実な者、憐みのない者」の一切を否定したのである。


 私たちは、人間の「邪悪」な欲望の否定の鑑を教師の原像にしているかのようだ。

 そして最も困ったことには、不良生徒は根が純粋であって、それがたまたま、学校の教師の非人間的対応によって性格が捩(ね)じ曲げられただけであるという、もう一つの物語が、この類の物語の底層に張り付いていることだ。

 従って、一人の「金八先生」の出現によって「不良少年」は改心するはずだという、次の物語に繋がっていくと決め付ける短絡性。

 何のことはない。

 
「3年B組金八先生」より
「夢教育」の物語は、「英雄物語」と「青春物語」の睦みであって、かくて、これが全ての「感動譚」の定番となった。


 更に、「夢教育」の物語と並んで大衆的に支持されている、もう一つの物語もまた厄介である。

 「学校は、もっと『個性教育』を進めるべきである」という物語である。

 「個性教育」を、一人一人の性格や能力に合わせて、それぞれに長所を伸ばす教育であるという風に考えた場合、結論から言うと、学校の「個性教育」は殆ど不可能であるということだ。

 端的に、その理由を列記していく。

 第一に、学校の集団性からの制約である。

 第二に、現代の子供の過剰なまでの平等志向の壁である。

 前者について言えば、教育心理学で、ドイルによる「学級の諸特性」という研究が知られている。

 まず学級とは、様々な複雑な環境因子の集団であることを押さえる必要がある。

 
学級・イメージ画像
その因子とは、「多様性」(子供たちの欲求がバラバラであること)であり、「同時性」(多くの事象が同時に起こる)であり、「即時性」(生徒の行動への対応がすぐ求められる)であり、「予測困難性」であり、「歴史性」(過去からずっと継続されること)であるということである。


 この複合因子を統一させて、生徒を授業に参加させていくことが教師の最大のテーマである。

 お金を出した成人男女が、「○○教室」に通うのとは訳が違うのである。

 そこには、「静かにしなさい!」と怒鳴る大人の存在は不要である。

 特別な管理も必要ない。

 ところが、それでなくても、規範意識の緩んだ30人から35人の子供たちを、45分間集中させることは、「怒らない先生」では殆ど不可能である。

 教師には、ここで適正管理が求められる。

 それは威圧し過ぎないように、許容し過ぎないような管理である。

それには、一定のルールを定着させるしか方法はない。

 教師はここで、「同時性」と「予測困難性」を克服するのである。

 これは、子供の学習成果を最大限に高めるための合理的な教育実践である。

 即ち、ルールの定着こそ学校倫理のコアである。

 
「先生を流産させる会」より
なぜなら倫理とは、あらゆる選択肢の中から最善の方法を選ぶことであるからだ。


 「夢教育」の物語の欺瞞性に、その身を預けないことである。



5  教科学習を巡る子供たちの内的・外的環境について



 本稿の最後に、教科学習を巡る子供たちの内的・外的環境について言及したい。

 子供の「勉強しよう」という気持ちが、「さぼりたい」という気持ちと常に表裏一体の関係になっていて、この心理的均衡を、少しでも自分の評価を高めることが社会的適応を有利にするという損得原理(現実原則)の初歩的な判断から、仕方なく勉強に向かうという方向で日常的に「克服」している経験的事実を、まず 私たちは把握する必要がある。

 我慢しつつも勉強に向かう行動傾向は、子供の自我が「快・不快」の原理の支配から脱却しつつあることの端的証明であり、当然ながら、その原理との共存の中 で、様々な状況性を露わにしつつ、そこで出来する心理的均衡の矛盾への合理的対応を迫られていることの証左でもあると言える。

 子供が勉強することを苦痛と感じることは、それ自体決して問題事ではないのだ。

 
「先生を流産させる会」より
従って、子供が勉強することを苦痛と感じることの責任が、一方的に教師にあると考えている人は、子供に内在する多様な「能力」の差の問題を無視していると言わざるを得ないだろう。


 個々の子供の努力傾向や好奇心の強弱もまた、広義に言えば、「能力」の範疇に含まれるからだ。

 言うまでもなく、学習能力の不足を持つ子に対して、特定教科の学習を強いるのは教師ではない。

 厳密に言えば文科省でもない。

 一つの国民国家の中で生きる人々が共通に持っている文化に適応せんとする、社会的力学の総体である。

 数学が嫌いな子に数学を勉強させるのは、その子を数学者にさせるためではない。

 ましてや、一部の愚かな教育評論家が言うように、その子にコンプレックスを植え付けるためなどではない。

ジェローム・ブルーナー
私の記憶違いでなければ、アメリカの教育心理学者として知られているジェローム・ブルーナーは、「生徒が学校で数学を学ぶ意味は、子供の知的能力の開発にある」というようなことを書いていた。

 以上の把握の文脈で言えば、数学的学習の訓練が、人間の合理的、演繹的、抽象的思考力や直観力などを培養すると信じられているからである。

 そして以上の人間の諸能力が、人間が社会的に生きていく上で基幹的能力として考えられているである。

 学習能力の不足を持つ子に対して特定教科の学習を強いる者の根柢に横臥(おうが)するのが、一つの国民国家の中で生きる人々が共通に持っている文化に適応せんとする、社会的力学の総体である事実を認知するならば、数学が嫌いな子に数学を勉強させる行為の現象が、本作のテーマでも扱われたように、学校の「管理主義」という様態を具現させてしまうのは殆ど不可避であると言っていい。

 

もっと言えば、学校の管理主義化の根柢には、家庭のフレンドリー化などに起因する生徒たちの規範意識の後退があり、学級集団はその形骸化を防ぐために、逆に管理強化の方向に動いてしまうというジレンマがある。

 と言っても、学校としては、昔と変わらぬ普通の学校作りを目指しているだけなのだが、管理嫌いの過敏な生徒には、学校が彼らのストレスの温床になってしまうのである。

 かつての如き、地域共同体の支えを失った学校のごく普通の対応や要請が、ますます突出した現象として印象付けられていくのだ。「口うるさい先公」とか「サラリーマン教師」とか平気で蔑称しながら、無理難題を押し付けてくる家庭の身勝手さは問うまい。

 
「先生を流産させる会」より
また、学校を見殺しにした地域が悪いのではない。


 機能不全化した地域共同体も、見回りパトロールとか、夏の盆踊りとかの形式的行事によって「季節」を糊塗しつつ繋いでいかなければ、疑似共同体を仮構できないような状況なのである。

 豊かさはあらゆる共同体を、確実に内側から突き崩していく。

 それがたまたま地域に及び、家庭に及び、学校に及んでいる光景を、私たちは身近に目撃しているだけなのである。

 このような時代状況下で、なお「地域」が生き残っている時代の中で、私たちが勝手に作った「夢教育」に関わる幾つかの物語を、学校の教師たちにのみ一方的に押し付けることが、どれほど乱暴で困難なことであるかについて、もういい加減私たちは学習すべきなのである。

(2013年6月)

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