「デタラメ」な振舞いを最も厭悪する者が陥りやすい、「正義の罠」の反転によって、「立ち竦み」に振れる人間の「不完全性」を、舞台劇仕立てのミニサイズで一つの家族に特化し、精緻な構成力と明瞭な主題提起力の安定した均衡感によって、見事に構築された映像の完成度の高さに、正直、驚きを禁じ得ない。
人間の「不完全性」を、イメージとしてはマクガフィンとも思しき、内部世界が不透明な肉親の詐欺師によって露わにされ、顕在化されていく映像の切れ味は、本作以上に評価の高い、後の著名な作品の感傷含みの甘さと切れて、私としては、現時点で、この作り手の最高傑作であると考えている。
何より、ブラックコメディ基調のこの映画が素晴らしいのは、観る者に多くのことを考えさせる点にある。
とりわけ、主役二人の兄妹のラストシークエンスにおける心理の振れ方のうちに、それが集中的に映像提示されていた。
決して、描き方に致命的な欠損がある訳ではない。
観る者に考えさせるに足る必要最低限の情報を映像提示した上で、様々なことを考えさせるから、この映画が素晴らしのだ。
―― 因みに、ここで特化された家族とは、明智家の面々のこと。
以下、稿を変えて、この明智家の面々が抱えている諸問題を含めて、梗概を書いていく。
2 秘密を持つ家族の崩壊現象の予兆 ―― 物語のダイジェスト
左から父親の芳郎、周治、母の章子 |
認知症の義父の世話を一方的に押し付けられて、介護に疲れ切っていた母の章子は、アウトオブコントロール(制御不能)の様相を呈していた。
一方、その生真面目な性格に相応しく、小学校の教師になった倫子は、同僚教師である、婚約者の鎌田の存在に支えられて、無難に教諭生活を繋いでいたが、彼女もまた、鎌田に話せない秘密を有していた。
婚約者に話せない秘密とは、中学生だった頃の自分の下着を売って遊び金を調達するなど、やりたい放題の挙句、10年前に父に勘当されて以来、音信不通状態の兄・周治の存在のこと。
大小様々ながら、それぞれが抱えた秘密は、言うまでもなく「共有」されることなく、ネガティブに膨張していく一方だった。
当然の如く、自我を裸にする、特化されたスポットとしての家族の内部で、秘密にする情報が相応の破壊力を持ってしまえば、その情報が露わにされた時点で、家族の崩壊現象は必至であるだろう。
認知症の義父の突然の発作を、母の章子が黙過したことで急逝した義父の葬儀の日に、音信不通状態の兄・周治が出現したのである。
てっきり、祖父の死を聞きつけて葬儀に来たと信じる妹に対して、巧みな演技で話を合わせていく周治。
しかし、その直後に惹起した決定的な出来事が、崩壊の危うさを秘めた家族の裸形の様態を晒してしまうのだ。
サラ金の取り立て屋に追い詰められる、父・芳郎の動揺ぶりを視認して、驚愕する母・章子と長女・倫子。
決定的なまでに破壊力を内包する、秘密の暴露の現場が収拾できなくなったとき、それを救ったのは、口八丁手八丁のスキルを持つ周治の機転だった。
弁護士を名乗り、サラ金の取り立て屋を、一見、理路整然と追い詰めていく姿に、10年ぶりの再会を果たした家族は殆ど言葉を失っていた。
しかし、予期せぬ長男の帰宅によって、この家族の風景は一変する。
その夜も、借金の取り立て屋の訪問に音を上げる父を救ったのも、この周治だった。
このとき、周治の判断には、「家族を救う」とう思いがあったとみて間違いないだろう。
それは、泡銭に対するこの男のハードルの低さを、如実に物語っている。
しかし、何年もの間、累積させてきた父の債務の膨大さを目の当たりにして、周治は、父が残した途方もない債務を返済することが不可能であると告げた後、明智家の資産を自分の名義に形式的に変更することを提案した。
この周治の提案は、財産隠しの自己破産ということになるので、財産隠匿罪に抵触し、名義変更を否認され、名義を戻されてしまうケースが可能になる。
債権者もまた、その物件を売却させることで、債権回収に動き、裁判所に訴えるという対抗措置を取ることが可能であり、自宅の差し押さえによって、競売に掛ける権利を所有することにもなるなど、法的にはハードルが高いのだ。
一方、「草食系男子」の典型のような、気の弱い婚約者の釜田から婚約の破棄を告げられ、傷心の思いで帰宅した倫子が、その事実を聞き知ったとき、彼女は、兄が如何にデタラメな生き方をしてきたかという事実を、両親に向かって滔々(とうとう)と述べ、周治の提案が、明智家の財産の乗っ取りを意味する危うさを切々と訴えていく。
実は彼女は、帰りのタクシー内でのニュースで、香典泥棒の常習犯であり、指名手配されている事実を既に知っていた。
だから、彼女の説諭には相当の説得力があった。
しかし、長い一日の中で起こった厄介な出来事の連鎖に、すっかり疲弊し切っていた父は、どうでもいいという感じで、その場を離れ、眠りに就いてしまうのである。
こんな脳天気な男だからこそ、家族の崩壊現象への初発の一撃の引き金を引くような、無責任な行為を常態化させてきたと思わせる振舞いだった。
また、「もう、分からないの」と嘆じる母の言葉には、このような状況に捕捉されたときの一般的な大衆心理が透けて見える。
喪服姿で部屋に残ったその母に、「倫ちゃんは、いつだって正しいのよ」と揶揄されたばかりか、「一緒にいると息が詰まる」という話を、既に、周治と母との会話の中で耳に入れていた倫子にとって、ここは絶対譲れない一線だったのである。
その間、入浴していた周治が部屋に戻って来たとき、意を決する者のように、倫子は兄に向って、自分が騙された「蛇イチゴ」の話を切り出したのである。
以下、この「蛇イチゴ」の会話から開かれるラストシーンを含めて、倫子の内部世界をフォローしていきたい。
3 学級教室の場で露呈された、「真実」の手前で立ち往生する裸形の人間の「不完全性」
敢えてオーバーに、本作で描かれた明智家の面々を、その人生観で峻別すれば、1対3に分れるだろう。
事態の処理の曖昧さを嫌う者と、事態の処理を〈状況〉に流すことに頓着しない者、或いは、事態が惹起した難局を社会規範の縛りから融通無碍に対処する者が、それである。
具体的に言えば、明智家の長女・倫子(1)と、明智家の両親、即ち、父・芳郎と母・章子(2)+明智家の長男・周治(1)の1対3である。
周治 |
従って、本作の実質的主人公は、香典泥棒の常習犯であり、ブレることなく「嘘突き人生」を軽走する周治ではなく、実兄の「嘘突き人生」を破綻させるべく動いた、長女・倫子であると、私は考えている。
思うに、この映画での倫子は、一貫して「嘘」をつかず、「道徳的な質の高さ」としての「善」を信じ、それを実践する。
しかし倫子は、「善」を信じ、それを実践する思いの強さから、他者の「道徳的な質の低さ」としての「悪」を許さない。
「悪」を許さない思いの強さが、正直に振舞えない特定他者の「曖昧さ」を許容できず、「真実」の追究を求めて止まない態度を貫徹しようとする。
堅固な観念系の濃度を高めていくことで、特定他者の「曖昧」な振舞いの中に、「嘘」を嗅ぎ取ってしまう行動傾向を強化させていくのだ。
そんな倫子の性格が、「教育者」としての自覚によって補完される職業的地位に拠って立つことで、子供相手に発揮されるのが、本作のエッセンスを凝縮したような、序盤での学級会のシーンに端的に現れていた。
然るにそれは、「嘘」を最も嫌い、「真実」の追究を求めて止まない態度を貫徹しようとする者が、内包する矛盾を晒す脆弱性と同居するが故に、却って、「真実」の手前で立ち往生する本質的な瑕疵をも露わにするのである。
このシーンは、本作のストーリーラインを凝縮していると言っていい。
以下、再現してみる。
それは、倫子の学級教室の場で、金魚の世話をサボる増田君を批判する女子生徒の、堂々とした「正義」の弁舌から開かれた。
「増田君は、朝、絶対来るって言って、いつも来なくて、中谷さんが一人で水槽の掃除をやっています。いつも増田君が嘘を言うから、中谷さんばっかり世話をさせられて、可哀そうだと思います」
「増田君、どうして来れないのかな?」
沈黙する増田君の「不正義」を確信する女子生徒の「正義」の舌鋒は、厳しさを増していく。
「増田君は、お母さんが病気になって来れなかったって言うけど、その日の昼休みの時に、増田君のお母さんが自転車で走っているところを見ました」
「どうですか?増田君」と倫子先生。
朋子先生の「援護射撃」が、強引に、増田君を沈黙から解き放った。
「多分、昼頃、元気になったんだと思います」と増田君。
「でも、次来なかったときも、お母さんが病気だって言いました」
「また、次の日に病気になりました」と増田君。
ここで、倫子先生がイニシアチブを取って、如何にも小学生らしい「押し問答」を軟着陸させていく。
「中谷さん、いつも金魚の世話をありがとう。中谷さんは、どう思いますか?ん、どうかな?」
「分りません」
これが、中谷さんの反応。
この反応に不満を持った、件の女子生徒の「正義」の舌鋒は終わらない。
「中谷さんは、何も言えないから、私とかが注意するんだけど、増田君は全然聞いてくれません」
そして、「予約」された結論に、倫子先生は誘導していくのだ。
「中谷さん、一人で水槽を洗うのは大変だよね。だから、飼育係さんは二人にしてあるんです。増田君は来れなかったら、まず、中谷さんにゴメンだよね。自分の間違いを認めたり、謝ったりすることは、大人の人でも勇気がいる難しいことです。でも、そこで嘘を言っちゃうのは違うよね。嘘は一つつくと限りがないの。一度、自分のお母さんを病気だって言ってしまったら、ほんとに病気だってことにするために、いくつも嘘を重ねないといけないでしょう?増田君だって、そんなことしたくないよね。自分のお母さんが病気だなんて、誰だって言いたくないもの。だから、嘘なんか言わないで、頑張って、初めにちゃんと謝れるような子になって欲しいな。増田君、どうかな」
ここまで担任教諭に誘導されてしまったら、未だ知恵の不足する小学生には、もう、それ以外の選択肢はなかった。
「中谷さん、ごめんなさい」
増田君が謝罪することで、倫子先生はシナリオ通りの言葉を添えた。
「中谷さん、これからも増田君と一緒に金魚のこと、よろしくね」
ところが、中谷さんの反応は、倫子先生が書いたシナリオ通りを根柢から覆す破壊力を持っていた。
「先生、増田君のお母さんは、ほんとに病気じゃないんですか?」
この中谷さんの一言によって、学級会を仕切る倫子先生の表情が凍りついてしまった。
「予約」された結論が破綻したからである。
ここで生まれた予期せぬ「間」の中で、何も反応できずに困惑する、一人の新米教師が立ち竦んでいた。
チャイムこそ、しばしば訪れるであろう学級内での澱んだ空気を、一瞬にして切断させる道具としての役割が無視できない現実を検証したのである。
まさに、このシーンは、前述したように、「真実」の追究を求めて止まない態度を貫徹しようとする者が、しばしば嵌る陥穽(かんせい)であり、その曇りのない態度が内包する脆弱性であるが故に、「マインドセット」という名の主観の暴走がデッドロックに乗り上げてしまったら、却って、自らの非武装ぶりが露わになり、「真実」の手前で立ち往生する、裸形の人間の「不完全性」を曝け出すに至るのだ。
ここで露呈された倫子の脆弱性は、本作の肝とも言うべき、ラストシークエンスの伏線と化して回収されるに至るが、それにしても、映像の持つ可能性をフル稼働させて提示したこのシーンは、台詞なしに心理を説明できない文学と切れて、蓋(けだ)し圧巻だった。
4 「嘘」と「真実」の間に揺れる人間の分りにくさを、決定的に反転された「立ち竦み」のうちに描いた傑作
ここでは、学級教室の場で露呈された倫子の脆弱性が、「蛇イチゴ」を求めて、裏山を彷徨するラストシークエンスに言及したい。
このシークエンスのうちに、伏線として提示されていた物語の流れが回収されるからである。
以下、部屋に戻って来た周治に、倫子は「蛇イチゴ」の話を切り出したときの会話。
「嘘って何だよ。俺が地図書いたやつだろ?」
「そう。でも、なかったの。なくて、暗くなって、道に迷って大騒動だったの。すっごく泣いた。こんなに泣くことってないだろうなって、泣きながら思った」
「違うんだよ、バカだな。あったんだけど、お前が間違えただけなの」
「嘘、お兄ちゃん、笑ってたわ」
「笑ってたかも知れないが、あったのはあった。今でも場所を覚えているもん」
ここで、香典泥棒のニュースが、テレビから流される。
「間」ができた。
一瞬、気にする素振りを見せる周治。
ニュースに無関心を装って、自ら、「間」を破り、周治に語りかけていく倫子。
「じゃ、お兄ちゃん、連れて行ってよ」
「今から?」
「今から」
「いいよ。外暗いし、やめとこ」
「じゃ、嘘だって認めて」
再び、「間」ができた。
テレビから流されるニュースが、周治の耳を劈(つんざ)いていた。
その直後の映像は、真夜中に裏山に入る二人。
「震えているじゃねぇかよ。怖くなったんだろう」
「怖くなんかないよ」
その間に、交された会話である。
まるで自分の裏庭のように、マイペースで歩いていく周治。
そして、ようやく渓流にまでやって来た。
「ここ登っていくんだよ。お前、ここ渡んなかったんだろう。だから、見つかんなかったんだよ」
渓流を渡った向う側から、周治は声をかけた。
「行けないよ」
そう言う倫子に対して、手を差し伸べる周治。
後ずさりする倫子。
更に、手を差し伸べる周治に対する倫子の反応は、結局、「渓流越え」を断念し、裏山を足早に去っていく行為だった。
それを見て、小さな笑みを漏らす周治。
まもなく、倫子は香典泥棒である男が裏山にいることを、警察に携帯で連絡する。
妹が兄を訴えたのである。
それが、周治と倫子の兄妹の、裏山彷徨の全てだった。
夜が明けていた。
頼りなげに、馴れない口笛を吹きながら、帰路に就く倫子。
後ろめたさを必死に封印しているのだろう。
そして、帰宅した倫子を迎えたのは、真っ赤な「蛇イチゴ」。
周治の話は、嘘ではなかったのだ。
毒があるという俗説がある「蛇イチゴ」は、無毒だったのである。
「蛇イチゴ」を目視して、倫子の心は、何かが壊れていくように激しく揺動する。
これが、リアリズムを蹴飛ばしてまで、提示した映像のみで勝負して、成就した印象を決定づけるラストカットである。
―― この「蛇イチゴ」に関わるエピソードは、言わずもがな、本作の肝である。
ここで、「蛇イチゴ」に象徴されるイメージは、妹倫子の兄に対する「不信」であると言っていい。
10年以上も前の出来事に拘泥する倫子の自我に、「すっごく泣いた」経験を刷り込んだ「蛇イチゴ」の一件は、兄と自分の関係を決定的に隔てる、容易に内部処理し得ないトラウマだったのだろう。
既にこの時点で、兄が詐欺師であることを知っていながら、倫子はそれを報道するテレビのニュースに無関心なポーズを示すことで、そのニュースを気にする兄の疑念を払拭していた。
「真正直な人間」という自己像を変えられない妹にとって、兄の犯した由々しき犯罪は、当然、許容し難いはずである。
このとき、倫子は「蛇イチゴ」の話を持ち出すことで、兄が一貫して「嘘突き人生」を歩んできた事実を認知させたいと願ったのか。
その心理が、家族の者に迷惑がかからないように、兄に自首して欲しいと願ったのか、不分明である。
様々な解釈が、観る者を能動的に強迫させる辺りが本作の魅力であり、素晴らしさでもある。
だから、「喪服」を脱がなかったとは言い切れないが、そこに、メタファー含みの作家精神の発露を見ることも可能である。
兄の「嘘突き人生」を葬る為には、「不信」の象徴である「蛇イチゴ」の場所に随伴し、そこで兄の「嘘つき人生」を終焉させたいと考えたという解釈は、ほぼ間違いないだろう。
テレビニュースを耳にした周治もまた、ここが潮時だと考えていたと思われる。
その直後、倫子から「蛇イチゴ」の話を持ち出されて、裏山での遁走を決意したのか、それも不分明である。
但し、「蛇イチゴ」の話の「真実」を検証することで、妹思いの感情を添えたかった。
そう考えたい。
ところが、妹は山道を登っていく過程で、自信満々の兄の態度に訝しがると同時に、不安にも駆られた。
その不安がピークアウトに達したのが、「渓流越え」のシーンである。
「この向う。この先、登っていくんだよ。お前、これ渡らなかっただろう。だから、見つからなかったんだよ」
兄の言葉を耳にして、妹は明らかに混乱した。
そこから先は未知のゾーンだったからである。
その未知のゾーンに待機している「真実」に対して、彼女は狼狽(うろた)えたのか。
あの学級教室の場でもそうであったように、女子生徒が増田君を批判した直後の混乱ぶりの中で、「でたらめ」なことを極端に厭悪(えんお)する彼女は、厭悪の対象を、「予約」された結論に軟着陸させられなかった時、自らの非武装ぶりに狼狽し、「真実」の手前で立ち往生する脆弱性を曝け出している。
それは、彼女の中で、時には、思い込みの激しさを表出する性格傾向と言っていい。
「もしかしたら、兄の言うことは本当かも知れない」
そう思ったかどうか不分明だが、彼女は「渓流越え」を遂行しなかった。
「もう、兄の嘘と付き合えない」というより、ここは「敵前逃亡」したと解釈したい。
その「敵前逃亡」が、計画的に意図したものであるかは不分明だが、いずれにせよ、警察に携帯で連絡する覚悟を秘めて、裏山彷徨に自己投入していったに違いない。
兄の自首は考えにくいからだ。
それを視認して、一瞬にやけた表情を浮かべた周治は、「そういうことか。もう潮時だな」と考えたのだろう。
周治には、「蛇イチゴ」=「不信」の記号ではないことを証明することで、こんな自分にも、「真実」を語ることがあるのだという思いを、何としても妹に届けたかった。
そういうメッセージ含みのラストシークエンスだった。
そのことは、得てして、「お母さん。私、間違ったこと言ってる?」と母に凛として放ったように、自らを「完全なる何者か」という自己像に結ばれていく。
然るに、朋子が二つの重要なシーンで見せた「立ち竦み」こそ、人間の「不完全性」の象徴的なイメージでありながら、それを「マインドセット」なしに、当の本人が誠実に受容し得るかどうかという問題提示を含めて、観る者に、「あなたならどうするか」という反転的提起を投げかけてきた。
そういう映画として受け止めることができるだろう。
「嘘」と「真実」の間に揺れる人間の分りにくさは、人間が本来的に不完全なる存在様態であることの端的な証でもある。
そして、学級会でのシーンが、ラストシークエンスでのヒロインの心の振幅に繋がることで、「正義」に拠って立つ確信犯の、先取りした「予約済みの軟着点」への誘導のうちに、事態をトレースしていくことの危うさが露わにされたのである。
ラストカットの「蛇イチゴ」の映像提示によって、学級会のシーンでの「立ち竦み」が決定的に反転され、一つの答えが突きつけられたのだ。
常に、あなたが「正しき者」であるとは限らない。
そういう当然過ぎるメッセージが、「映画の嘘」の切れ味鋭い構成力のうちに突きつけられたのである。
5 詐欺師の「効果的な嘘」が、「防衛的な嘘」に逃避していた「家族の不全性」を打ち抜く物語 ―― 「嘘の心理学」
本稿の最後に、「嘘」について書いておきたい。
以下、「心の風景」の中の拙稿・「嘘の心理学」からの部分的抜粋である。
嘘には三種類しかない。
「防衛的な嘘」、「効果的な嘘」、それに「配慮的な嘘」である。
「防衛的な嘘」、「効果的な嘘」、それに「配慮的な嘘」である。
己を守るか、何か目的的な効果を狙ったものか。
それとも、相手に対する気配り故のものか、という風に分けられよう。
思えば、結婚詐欺師の甘い誘惑も又、渇望して止まない女性たちの近未来に、ありったけの快楽を待機させておく。
思えば、結婚詐欺師の甘い誘惑も又、渇望して止まない女性たちの近未来に、ありったけの快楽を待機させておく。
この種の犯罪は時間を限定して夢を売り、その夢の中に詰まった「プロセスの快楽」を、群を抜くスキルによって保証するという際どさにおいて、私たちが通常、遠慮気味に放つ嘘々しい文脈を圧倒するほどに自律的である。
それは、嘘をつかなくては生きていけない私たちの日常性と切れていて、関係を加工する技術としての嘘の、その際限のなさを晒してしまっているのだ。
それは、嘘をつかなくては生きていけない私たちの日常性と切れていて、関係を加工する技術としての嘘の、その際限のなさを晒してしまっているのだ。
だから、そこに救い難い思いもするのである。
その意味から言えば、私たちの教育現場での、「嘘をつくな」という訓示の有効性は、私たちの日常性と切れた、一分の悪質なる嘘の防波堤として、せめて、倫理的なバリアを構築するという狙い以外に存在しないようにも思える。
逆に言えば、私たちの日常を貫流する嘘々しさは、関係に澱みを残さない限りにおいて認知され、世界を潤滑する格好の油滴としての役割を担っているかも知れない。
一切を白日の下に曝し、匿名剥がしの快楽のゲームに狂奔する社会に比べれば、言葉も交わさぬ隣居生活の、その味気ない社会の適温性こそ大事にしたい。
その意味から言えば、私たちの教育現場での、「嘘をつくな」という訓示の有効性は、私たちの日常性と切れた、一分の悪質なる嘘の防波堤として、せめて、倫理的なバリアを構築するという狙い以外に存在しないようにも思える。
逆に言えば、私たちの日常を貫流する嘘々しさは、関係に澱みを残さない限りにおいて認知され、世界を潤滑する格好の油滴としての役割を担っているかも知れない。
一切を白日の下に曝し、匿名剥がしの快楽のゲームに狂奔する社会に比べれば、言葉も交わさぬ隣居生活の、その味気ない社会の適温性こそ大事にしたい。
社会に拡散する無数の嘘が、人々の関係体湿の過剰流出を水際で防いでいるからだ。
それがほぼ、正解に近いのではないか。
即ち、詐欺師である周治の、確信犯的な行為に拠って立つ「効果的な嘘」と、それ例外の家族の「防衛的な嘘」の二種類である。
だから本作は、冒頭に書いたが、イメージとしてはマクガフィンとも思しき、内部世界が不透明な肉親の詐欺師によって、父親の看過し難い「嘘」に集中的に現れていたことで分明なように、いつかは炸裂を回避できない「家族の不全性」が露わにされ、顕在化されていく物語でもあったのだ。
要するに、詐欺師の「効果的な嘘」が、「防衛的な嘘」に逃避していた「家族の不全性」を打ち抜いたのである。
(2013年6月)
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