1 「魂が打ち震える映画」に振れていく「同質効果」の心理学
私は多くの場合、辛い現実を、今日もまた引き受けていく運命から逃れられないから、自分より辛い現実を生きる物語の主人公と同化し、「疑似共有」していくために映画を観る。
今日もまた引き受けていく運命から逃れる手段は、自死以外にない。
私が負っている辛い現実は、自死に振れていく恐怖に比べれば、まだ耐えられそうだから、今日もまた、辛い現実を引き受けたのである。
「今、死にたくない」から、引き受ける以外になかったのだ。
それでも、辛い現実を引き受けていくに足る何かを必要とする。
人間は、こんな脆弱さを本質的に抱え込んでいる。
だから、私の場合は、虚構の世界で、自分より辛い現実を生きる物語の主人公を必要とする。
「音楽療法」で有名な「同質効果」である。
それ故、思い切り、「暗欝で、救いのない映画」がいい。
できれば、自死で閉じていく映画がいい。
底知れぬほど陰鬱な「魂が打ち震える映画」である、「ワン・フルムーン」(1991年製作)を最も好む理由が、そこにある。
奇麗事で塗りたくった映画を嫌悪する理由が、そこにある。
2 「夢を見る能力」のパワーの凄みが招来した「境界越え」の沸騰点
然るに、「カメレオンマン」(1983年製作)や「マッチポイント」(2005年製作)らと共に、ウッディ・アレン監督自身が非常にお気に入りの傑作、「カイロの紫のバラ」のヒロインのセシリアは、辛い現実から、束の間、解放されたいという思いが心理的推進力になって、映画を観る。
それも繰り返し観る。
セシリアの現実逃避の映画鑑賞の凄みは、「夢を見る能力」の凄みである。
その思いは、充分過ぎるほど理解できる。
「同質効果」も「夢見効果」も、自我を安寧にさせる「生存・適応戦略」の範疇にあるからである。
共に、「疑似共有」する方略が異なるだけで、辛い現実を引き受けていく運命から戦略的に逃避し、自死に振れていく恐怖をコントロールしているのだ。
たとえ、それが現実逃避であったにしても、「夢見効果」を充分に自家薬籠中の物とする、セシリア本来の「夢を見る能力」が、辛い現実を忘れさせてくれる限り、「夢見効果」に浸る彼女の「日常性」に決定的破綻が訪れることがないだろう。
しかし皮肉にも、彼女の負った現実の厳しさが、彼女の「夢見効果」を、いよいよ膨らませていった挙句、遂には、「第四の壁」を突き抜けて、スクリーンを介在する「虚構空間」を、自分の世界に引き寄せてしまったのである。
セシリアの「夢見」の世界の柔和なる舞いが、未知のゾーンへの稜線伸ばしを張り出していって、一つのピークアウトに達したとき、彼女の「日常性」は「非日常」の彩色濃度を深めていった。
そこに仮構された「非日常」の風景が、更に、膨れ上がった心理的推進力になって、セシリアの「夢を見る能力」は、選択的に「虚構空間」の世界に侵入していくに至るのだ。
もう後戻りができないような、「虚構空間」の世界への侵入は、セシリアの「非日常」の彩色濃度の深みを決定づけることによって、由々しき決断を迫られる状況を招来することになった。
なぜなら、「虚構空間」の世界にまで踏み込んでいった結果、既に、「カイロの紫のバラ」という物語の住人である冒険家トムと、そのトムを演じる本物のハリウッドスター、ギルとの「愛」の板挟みになっていたセシリアは、「夢」と「現実」のいずれかを選択せざるを得ない、言ってみれば、「人生」の全てを賭けた決定的状況に捕捉されてしまったからである。
ハリウッドスター、ギル |
「あなたは夢の世界の人なの。夢には惹かれても、現実を選ぶしかないの。お陰で楽しかったわ。一生、忘れないわ」
これが、トムに放った、セシリアの言葉。
セシリアは、ハリウッドスター、ギルとの、夢心地の時間を共有する、蠱惑的(こわくてき)な近未来像を選択したのである。
しかし、「虚構空間」の世界から勝手に飛び出して、世俗の「現実」に全く適応できないトムの問題が解決したことで、時間にほんの少しの「間」ができたギルに、本来のスターの余裕を復元させてしまった。
その余裕の復元が、図らずも、「分」を超え、スターとファンの「境界越え」を果たさんとする、セシリアの「跳躍の舞い」の受容を拒絶するに至ったのである。
「虚構空間」の世界にまで踏み込んでいったセシリア |
3 「現実は最後にはわれわれを打ち砕き、失望させる」
結局、辛い現実の世界に押し戻されたセシリアは、傷心の気分を乗せて、映画館に足を運ぶ。
それ以外の選択肢を持ち得ていないのだ。
傷心のセシリアの、視界一杯のうちに捕捉されたもの。
それは、公開されたばかりの「トップ・ハット」(1935年製作)で、軽快なリズムを刻んでダンスを舞う、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース主演の、アメリカ映画史に燦然(さんぜん)と輝くラブコメディのミュージカル。
セシリア本来の「夢を見る能力」にスイッチが入って、俄かに、その柔和な眼光は爛々(らんらん)と輝いていく。
然るに、映画館に足を運んだセシリアが観た「夢」の世界は、今、彼女の「夢を見る能力」の延長上にある、単に、一つのファンタジーでしかない現実の認知を濾過しているから、彼女の「夢見効果」には、360度回転して戻って来た場所が、現実逃避の緊急避難のエリアの脆弱性を、ほんの少し上回る経験則を張り付ける強さをもイメージ提示されていたように見える。
それは、再び、戻って行くDV夫に、一方的に打ちのめされる弱さとは切れているイメージ提示でもあったのか。
「虚構」と「現実」を峻別した上でなお、「夢を見る能力」を繋いでいく彼女にとって、そのイメージ提示は、凛として、辛い現実を引き受けざるを得ない者の、覚悟を表現する何かにまで届いていたとは言えないだろうが、少なくとも、「夢を見る能力」が招来した彼女のお伽噺は、それを必要とすることで、辛い現実を引き受けていくラインをトレースするものだったに違いない。
しかし、この極上の映画の作り手は甘くない。
ウッディ・アレン監督は語っている。
ウッディ・アレン監督 |
「現実」の男ギルを選択したセシリアは、「夢への階段をひとつ上る」世界に踏み込んだばかりに、「現実は最後にはわれわれを打ち砕き、失望させる」に至った。
どこまでも、現実逃避の緊急避難のエリアの価値を求めるセシリアの「夢見効果」は、シニカルな作り手のシビアな把握の中で延長されていったのである。
それで正解なのだ、と私も思う。
お伽噺の媚薬を一時(いっとき)嗅がせてくれても、それが恒久に続くほど、人生は甘くないのだ。
(2013年2月)
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