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2013年2月19日火曜日

ヒミズ(‘11)      園子温



<行間を埋め潰していく情動過多な構図の連射の騒ぎようと、削り取られてしまったリアリズム>



 1   行間を埋め潰していく情動過多な構図の連射の騒ぎようと、削り取られてしまったリアリズム



「そこから逃避困難な厳しくも、辛い現実」

これが、「綺麗事」の反意語に関わる私の定義。

この作り手の映画を貫流していると思われる、物語の基本姿勢である。

その姿勢は理解できるが、但し、本作の物語の内実は、「辛い現実」を写し取るには、およそ相応しくない手法をフル稼働させる激情型アプローチだった。

だから、私の場合、相当程度、食傷気味になる。

冷たい熱帯魚」(2010年製作)の批評でも書いたが、この作り手は、「自分の描きたいイメージ」の全てを映像化しないと気が済まない性格の監督のように思われる。

 且つ、詩人としての意識がある分、「言語」に依拠し続ける傾向があり、「映像のみで勝負する」タイプの作家とも切れているようだ。

「総合芸術」でありながら、基本は「映像」それ自身である、当の「映像」の力を信じ切っていないのか、私には不分明である。

 「お前さえいなければな」

主人公の少年の愚かな父のこの言葉や、「ヴィヨン詩集」の中のフレーズに象徴されるように、リピートされる台詞や画像、そして、「俳句五七五ゲーム」を執拗に繋ぐなど、主役二人の少年少女の絡みの描写のくどさ・冗長さ。

 これが、編集段階において100分程度で済む映画を、130分の尺の長さにしてしまった要因である。

決して一見の価値もない駄作とまでは言わないが、正直言って、これには辟易した。

名取市の日和山から北向きに閖上地区を撮影(ウィキ)
更に本作では、「冷たい熱帯魚」と、そこだけは違って、3.11大震災を背景に選択したこともあって、「展開予想外し」の技法を採らなかったものの、選択したテーマへの拘泥からか、肩に力が入り過ぎたように印象づけられ、その挙句、却って必要以上に情緒過多になり、「自分の描きたいイメージ」を、寸分でも空いた画面を埋め潰していくように、「これでもかっ!これでもかっ!」という具合に過剰に供給してくるので、「言外の情趣」も何もなく、観る者を疲弊させ切って閉じていくのである。

 少なくとも、私の感懐は、その類の印象のうちに集約される一篇だった。

「全体的に僕はこの映画に、今までの映画、僕の作り続けてきた映画とは明らかに変わっていかざるを得なかったという状況があったということです。僕は非常に、人間って言うのはこんなもんだよという絶望的な姿を丸裸にするような映画を撮り続けてはいたんですけども、それだけではもうやっていけないなというのが3.11以降の自分の映画のあり方で、それをやっぱり『ヒミズ』は自分の中の映画史、映画を作り続けてきた中で非常に転向したというか変わらざるをえなかったということです。それは1ついうと絶望していられない、へんな言い方で言うと希望に僕は負けたんです、絶望に勝ったというよりは希望に負けて希望を持たざるをえなくなった」(“希望に敗北した" 園子温監督「ヒミズ」を語る  NHK「かぶん」ブログNHK

 これは、園子温監督の言葉。

然るに、私から見れば、殆ど「借景」的に選択したとしか思われないテーマが抱える、主観的重量感への意気込みが空転して、そこで吐き出される言語が暴れ、物語のうちに特定的に切り取った、3.11大震災絡みのインモラルな構図が間断なく塗りたくられて、「震災に乗じた高利貸しのヤクザや、ネグレクトする親たち⇔『心優しき大人たち』」という、ボーダーの明瞭な「善悪二元論」の類型的な説教臭さえ漏れ出してしまうのである。

 「お前、死にたきゃ死ね。俺、ほんとにお前がいらねぇんだよ。ずーと昔から、ホラ、あそこの河でお前が溺れた時、死ねばよかったと思ったし、保険金、あれは入るしよ。しぶとく生きてんな、お前。ほんとに死にたきゃ死ね」
 
それによって決定的転機を迎えるシーンであるのが分っていても、物語の主人公の少年が、ここでも、うんざりするほどリピートされる、実父によって浴びせられた嘲罵である。 
 
 その結果、「世の中には、死んだ方が良い屑がいるんですよ」と漏らしていた対象人格の「父殺し」が具現し、その行為によって心に深い空洞感を抱え込んだ少年が、今や、ヒミズ=モグラへと変容することで、「普通であり続ける」という自己像を破壊するイメージを抱懐したまま、「非日常」の極点である〈死〉に最近接し、人生最後のステージで、自らを投げ入れるに足る価値ある行為を求めて、自分にとって一切がくすんだ風景にしか見えない街を彷徨するという、本作の肝の一つと言える長尺なシークエンスが開かれるのだ。

 要するに、「未来のある子供だけは救え」という、あまりに分り易い基幹メッセージを、「未来がありながら、親のネグレクトによって、悲惨なまでに不幸の現実を負っている、そこだけは映画的に特化された少年だけは救え」という、そこも分り易い文脈に変換させただけの演劇的な物語のうちに、遺棄されていく少年の悲哀を抉(えぐ)り出すことで、「自己埋葬から反転した再生譚」を、不必要なまでの暴力の氾濫と言語の洪水、そして、シンプルな象徴的絵柄のベタな提示によって、情動過多な構図の連射の騒ぎようの中に軟着させていくのである。

この作り手の強引な手法の留めは、少女が、少年の犯した殺人と死体遺棄について、「明日、(少年と)相談して、一緒に(自首しに)行きます」と警察に通報したにも拘らず、その警察が、自殺の危険性の高い「事件性」の濃度の深い案件を、単に聞き流しただけであったにしても、少女の意のままに待機するという設定に典型的に象徴されるように、物語総体の「展開のリアリズム」どころか、東北を地理的背景にしながら、登場人物が使用する言語が「共通語」(標準語のこと)である事実に見られる、「描写のリアリズム」までもが完全に削り取られてしまっていて、ただひたすら、「自分の描きたいイメージ」を念写し得るまで、行間を埋め潰していくのだ。

これで、私は駄目になった。



2  少年少女の人格の振れ方のうちに顕在化されてない自我の歪みという、心理学的アプローチの脆弱性



私が何より気になったのが、親のDVを受けてきた子供の自我の歪みが、二人の少年少女の人格に投影されていないという、心理学的アプローチの脆弱性を見せつけられたこと。

 「人生論的映画評論」の視座のみから観れば、はっきり書けば、この映画は、私の中で、ほぼ「アウト」に近い。

DVを間断なく被弾することで惹起するだろう、子供の自我の歪み ―― 例えば、「自我の発達障害」や「性格と情緒不安による屈折的行動」、更に、飲酒・喫煙・盛り場の徘徊などと言った「生活習慣の乱れ」や、「非行行為」への加速的な振れ具合、加えて、「加害者への恐怖感」や「体調不良の訴え」、「自虐性の顕著な身体化現象」等々、といった〈負の状況〉に搦(から)め捕られた人格構造の根源的問題点が、本作の少年少女の人格の振れ方のうちに顕在化されてないのだ。

仮に、本作の主人公の少年への、両親のネグレクトが、3.11大震災が起因していたとしても、その「自然災害」によって、突然、ネグレクトという「人的災害」に繋がっていく訳がないが故に、この二つの家庭が、3.11以前より壊れていたのは否定しようがない

それにも拘らず、彼らに降りかかる解決不能な難題、例えば、父母からの虐待的振舞いの被弾によって惹起された尖った行為が加わることで、少年少女の自我の鋭角性が目立っただけで、それは断じて、彼らの現実が晒す自我の歪みなどではないのだ。

「この世にたった一つの花は、夢を持つ!」と講釈する欺瞞居士のような担任教諭に対して、「普通最高!」と叫ぶ少年の自我には、ごく普通のレベルの思春期反抗の航跡が窺えても、決してそれは、歪み切った自我の産物ではない。

「心から愛する人と、守り守られ、楽しく生きていくこと。最後はニヤニヤしながら死んでいくことです」

家族崩壊の悲哀を全身に浴びた少女もまた、「自我の発達障害」どころか、「非行行為」への加速的な振れ具合と無縁な形成的自我を、主体的に構築していったのである。

要するに、親のDVを受けてきた子供の自我の歪みが、二人の少年少女の人格に投影されていないという、心理学的アプローチの脆弱性の様態は、二人の自立志向の強さのうちに検証されたのだ。

とりわけ、「普通最高!」と叫ぶ少年の自我の自立志向の強さは、親のDVを受けてきた子供の自我の様態と確実に切れていた。

少年「心優しき大人たち」
家庭の事情が分り切っている少年は、高校進学をきっぱり捨てて、中卒後、自分の家が経営するボート屋で働く意志を、特段に悪びれることなく、周囲のバラックに仮住まいしている「心優しき大人たち」の前で言い切るほど、健気なまでに自立志向が強いのである。

ついでに書けば、少年の自立志向の強さは、繰り返し映像提示されているのに、「心優しき大人たち」と別れる際に、「自分で頑張って。自分で」などと言わせる、屋上屋を架すカットを見せられると、それでなくとも、激情型アプローチの物語の過剰さに、更に余分な画像が入り込んできて、映像のみで勝負できない「詩的言語の構築性」の脆弱性を感受せざるを得なくなってくるのだ。

ともあれ、600万もの大金を肩代わりした、「心優しき大人たち」の中の初老の男に対して、「縁を切る」と言い切るほどの少年の自立心の強さこそが、本作を根柢において支え切っていること ―― このメンタリティが、肝心の両親によって砕かれ続けながらも、ギリギリの辺りまで内側に延長させていたのである。

大体、心理学的には殆ど「正当防衛」と言っていい、「父殺し」に対する贖罪感を有する少年の自我のどこに、「お前がいらねぇんだよ」と言われ続けた者の、発達障害に起因する「性格と情緒不安による屈折的行動」が垣間見られると言うのだろうか。

同様に、少年を思う少女の、包括力溢れるラストカットの心的行程のどこに、子供の自我を作るべき立場にある母親の、壊れ切った人格構造が連射してきた者の、発達障害に起因する「性格と情緒不安による屈折的行動」が垣間見られると言うのだろうか。

何のことはない。

「映画の嘘」の稜線を伸ばし過ぎて繋がれた、この物語の情動過多な感動譚は、「自我の発達障害」、「性格と情緒不安による屈折的行動」という、人格構造の根源的問題点が抱える、ネグレクトという名の「人的災害」に対する心理学的アプローチの脆弱性を検証する、この少年の自立志向の継続力のうちに拾えてしまう何かだったのだ。

くすんだ風景の街を彷徨した果てに、少年に待機していたもの。

それは、殆ど「無限抱擁」で包括する、少女の決定的なアウトリーチ。

「俺は、人に迷惑ばかりかけてきた」

贖罪感情を延長させてきた、少年の心に穿たれた空洞に、「ストーカー」から変容して、今やすっかり、「成熟した自我」を身体化した少女の言辞が、ここもまたリピートされながら包み込んでいく。

「明日、自首して、法的に罪を償って、立派な大人になって自由になる。そして立派な大人になる。立派な大人になるんだよ。まだまだ、全然、間に合うよ。時間はたっぷりある。時間はたっぷりある」

これが、「がんばれ」コールのラストカットに繋がって、「予定調和の再生譚」を括っていくのである。

以上が、ネグレクトという「人的災害」を被弾してきた少年少女の、「3.11」からの奇跡的復元を果たすイメージの軟着点だった。



 3  知的戦略を削り取った、「狂気」という名の「情動氾濫」



叫び、甚振り(いたぶり)、悪態をつき、暴れ捲り、他人が見たくない壊れ切った身体と精神を露出するなど、人間の裸形の相貌を露わにする様態を映像提示することが、必ずしも「真実」を言い当てていないことは、声高に叫ぶことなく、たった一回のゴルフクラブの膝撃ちによって、完全に身動き一つ取れなくなり、最後には、痛めつけられた夫を、妻が必死に担ぎ上げようとうする10分間の長廻しによって、「暴力」の真の怖さを直接的な描写なしに描き切った、ミヒャエル・ハネケ監督の「ファニーゲーム」(1997年製作)によって検証されたとも言える。

だから、行間の全てを埋め尽くすほどの勢いで、人が見たくないものを連射させていく手法が強(あなが)ち間違いでないとしても、そこで映像提示された、裸形の相貌の「真実」を語ったことにはならないのである。

ラース・フォン・トリアー監督は、「アンチクライスト」(2009年製作)の中で、自らの「狂気」による撹乱と葛藤しつつも、そこで構築された映像の凄みを想起するとき、本作の作り手は、自らの内側に抱えた「狂気」という名の「情動氾濫」を、ダイレクトに供給するだけの印象しか持ち得なかったことを思えば、そこに、太い幹のような知的戦略の結晶のような何かを感じ取ることは、少なくとも、私には困難だった。



4  「終わり無き非日常」という「喪失のペシミズム」についての考察



園子温監督
「僕は負けたんです、絶望に勝ったというよりは希望に負けて希望を持たざるをえなくなった」と言う園子温監督は、「3.11以降は(略)終わり無き非日常」(“希望に敗北した" 園子温監督「ヒミズ」を語る  NHK「かぶん」ブログ:NHK

 この「終わり無き非日常」という言葉を、私の解釈に即して変換すれば、「喪失のペシミズム」という把握が正鵠を射ていると思う。

以下、「取得のオプチミズム」の対語である「喪失のペシミズム」について、「心の風景」の中で言及した一文を引用しつつ、テーマ言及を繋いでいきたい。

「取得のオプチミズム、喪失のペシミズム」―― それは、この国の人々の危機反応の様相を端的に把握する概念として、私が作った造語である。

―― それは、こういうことだ。

 大陸に住む人々なら様々に苦労しなければ手に入らないような価値、例えば、「安全」とか、「自由」、「自然の恵み」、「生活保障」等々が、この国では低コストで取得できるので、その価値の本当の有り難さが認知できないのにも拘らず、価値が生活のうちに溶融してくると、それを取得することの本来的困難さに遂に到達できぬまま、価値内化の行程が自然に完了してしまうことになる。

そこに、現実的理性によるシビアな把握が媒介しないから、視線は何となく微睡(まどろ)んでしまうのだ。

これが、「取得のオプチミズム」である。
 
だから、価値に裂け目が生じてきても、人々の安心感に動揺を与えるまでには時間がかかる。

人々が素朴に拠っていたある種の恒常性の維持が立ち行かなくなったとき、人々の意識に波動が生じるようになる。

安心感の動揺が生まれても、そこに補正を加える訓練の不足が、危機の突発事態を阻む能力の脆弱さをしばしば晒すことになるのである。

これが、危機の現出を、常に突発的なイメージでしか捉えられなくなってしまうのだ。

その分だけ、人々は喪失感覚を極大化させてしまって、事態への反応を過剰にさせていく。

ハルマゲドン感覚を、目前の危機からもらってしまうのである。

これが、「喪失のペシミズム」である。

「喪失のペシミズム」の止揚は、それを破壊させたと思わせるような極端な展開を開く以外にないかも知れないからだ。

事態が突き付けてきた本当の怖さは、ボディーブローのように、ここからじっくり効いてくる。

そして、破滅に至るのである。 

アメリカ同時多発テロ事件(ウィキ)
―― 9.11が、アメリカ人にとって、一種の「喪失のペシミズム」の胚胎であったのに対して、この国では3.11大震災という、未曾有の自然災害がそれにあたるだろう。

その意味で、園子温監督の物言いを理解できなくはないが、しかし、人間の力で合理的に防ぐことに限界がある自然災害よりも、私には、テロリストが核を手にしたときの恐ろしさを想起させるに充分な、9.11こそが、まさに、今なお「終わり無き非日常」であるように思えるのだ。

なぜなら、それは、少数の特定他者による一過的な暴走によって、世界を一瞬にして危機に陥れるマキシマムな恐怖であると思えるからである。

しかし、未だそのような感覚にまで届いていない現実の在りようをみると、私が言う、本物の「喪失のペシミズム」=「終わり無き非日常」すらも開扉されていないような気がする。

まだまだ、この国には、観念系の文脈を繋ぐだけの障害者の私を含めて、見たくないものを見ないままにしておきたいという、そこだけは、脆弱なメンタリティから解放されていない現実の様態を認知せざるを得ないのである。

以上、本作の内実と些か乖離した言及を、縷々(るる)繋いできたが、本稿の最後に、本作の主役を務めた二人の少年少女たちの天晴な表現力と、その表現力を見事に引き出した、園子温監督のプロ根性に対する賛辞を惜しまないことを記しておこう。
 

【参考文献】「DV が子どもに与える影響と支援のあり方に関する一考察」(PDFファイル)

(2013年2月)

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