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2013年2月19日火曜日

大鹿村騒動記(‘11)     阪本順治




<寒々しいコメディラインの情景への大いなる違和感>



 1  寒々しいコメディラインの情景への大いなる違和感



 「前回の『KT』と違うのは、暗いトーンで終わる話ではなかったこと。基本は喜劇ですから」(阪本順治×荒井晴彦 対談:前編 - ソフトバンク ビジネス+IT

 これは、阪本順治監督の言葉。

「基本は喜劇」と言いながら、最後まで、全く笑いを誘われることがなかった。

 面白くないのだ。

 取って付けたようなエピソードの挿入の連射が、コメディラインの物語の鋭利な切れを削り取ってしまっていて、うんざりする程のパッチワークの雑多な惨状に眼を覆うばかりだった

 著名な俳優をコラボさせれば面白くなるというチープな発想が介在していたが故なのか、『性同一性障害』を抱えた青年」、「『開発促進』のプロジェクトで危機感を覚える専業農業者」、「シベリア抑留のグリーフワークを抱える老人」等々、実は、それぞれに深刻な背景を持つ登場人物たちを、「選択無形民俗文化財」(注1)の指定を受け、300年以上の伝統有する「農村歌舞伎」の大団円に収斂させるべく配置させているが、内面深く侵入していくシーンが最初から捨てられる一種の群像劇であると了解し得ても、物語構成のメインとなる特化された3人の、相応の交叉以外に濃密な絡みが希薄だから、そこに集合した炸裂するエネルギーが大団円に向かって小気味よく収束されるイメージとは程遠く、ただ単に雑多にパッチワークされているだけだった。

雑多にパッチワークされた人物造形が、芸達者な俳優を使い捨てていくだけの、殆ど表層擦過のフラットな描写の域を全く越えられず、そこで拾われたのは、「ハレ」に雪崩れ込むときの微妙な「」の隙間を、ヒューマニズム気取りの本作が強引に抱え込む、深刻さを仮構した「非日常」の時間で埋めてしまう「ドタバタ性」以外の何ものでもなかった。

 そればかりでない。

「ピック病」の貴子の万引きのエピソード
最後まで全く笑いを誘うことのない本作の最大の瑕疵は、海馬(大脳辺縁系の一部)の神経細胞の障害による脳萎縮であるアルツハイマー型認知症とは切れて、破廉恥行為に象徴される、常軌を逸した「攻撃的な情動反応」を症状化する「ピック病」の「BPSD」(認知症の周辺症状)を患う初老の女性・貴子が、「非日常」=「ハレ」の日の炸裂を控えて、特化された登場人物の落ち着かない「日常」=「」の時間を支配することで、「少女のように無邪気な貴子」という公式サイトの言辞に露呈されているように、「ハレ」にシフトするときの「」の隙間を、「非日常」の時間で埋め尽くしてしまう物語が内包する不見識な設定が、ラストカットに至るまで、観る者に大いなる違和感を与え続けた描写の総体性にあると言っていい。

それは、重篤な脳障害である「ピック病」の「BPSD」を、彼女の存在なしに成立しない「ご都合主義」のインサートのうちに決定的に利用する物語展開のあざとさのダダ漏れでもあった。

 例えば、記憶を取り戻した貴子の失踪を描いた雨中のシーン。

治と旅館主人
必死の形相で、貴子を探しにいく治の後姿を見て、「一度目は悲劇。二度目は喜劇」と下品な笑いを捨てる旅館主人の言葉に、正直、驚嘆した。

コメディラインの乗りで、こんなカットを挿入する作り手の知性と見識を疑うばかりなのだ。

この言辞には、とうてい笑って済ませない毒素が振り撒かれていた。

無論、そこには悪意がないだろう。

悪意がないからこそ、余計に気になるのだ。

要するに、重篤な脳障害である「ピック病」の「BPSD」をコメディの出しにしても、「コメディラインなら何でもあり」という暗黙の了解に甘え切っているからである。

 「あの人を裏切って、治さんとのこのこ帰って来たりして、また、あの人を裏切った。あたしもう、人間じゃなくなってしまう。生きていてもしょうがない」

 大雨に打たれて、ふらつく貴子を保護した雷音(「性同一性障害」を抱えた青年)にそう叫んで、嗚咽する貴子。

それは、命の危うさを感受して、失踪した貴子を探すシーンに、寸分のユーモアにも届かない「悲劇・喜劇」、即ち、認知症と化した駆け落ちのパートナーを随伴しての帰村による「悲劇」の挙句、今度は、そのパートナーに支配される〈状況〉に翻弄される、「ドタバタ性」の「喜劇」などという愚劣な台詞をインサートする、知性の非武装性の爛れようであり、極めつけの見識の剥落であったという訳である。

 何とも寒々しい、コメディラインの情景への大いなる違和感だった。


(注1文化財保護法第77条により、文化庁長官によって選択された無形文化財のことで、経費の一部に公費補助が受けられる。


(注)2004年に施行された、「性同一性障害特例法」による性別変更が可能になったが、戸籍上の性別変更が増えたため、2008年12月には、「現に子がいないこと」が「現に未成年の子がいないこと」に改正施行された。





 2  ヒューマニズム気取りのエピソードのパッチワーク



 物語の基本骨格を、批評含みで要約してみよう。

「苦労の果ての大団円」という予定調和のコメディを自己完結させるためには、「苦労」に値するエピソードの挿入が選択された。


南アルプスを臨む長野県下伊那郡大鹿村(おおしかむら)の晩秋


そこで選択されたエピソードとは、この国の多くの山村で出来している、「限界集落」に歯止めをかけるための「開発促進」を巡る相克だった。

ここでは、村長を中心にした集会の出席者が生存していないだろう、2045年に全線開通する予定の、リニアの誘致の是非を問う衆議に集約されていた。

当然の如く、「中山間地」で専業農業を営むシルバーは強硬に反対する。

問題なのは、「開発促進」の是非で意見を異にする者たちが、来るべき農村歌舞伎において、同じ頼朝の家来を演じるアマチュア役者だったということ。

お陰で、頼朝の大敵である藤原景清を演じる、本作の主人公の善は、両者を和解させようと必至に宥めて、何とか、年に一度の「ハレ」の日の炸裂を、今年もまた繋ごうと奔走する。

しかし、「苦労」のエピソードが、この類の地味な挿入だけでは面白くない。

そこで加えられたエピソードの決定版こそ、物語の骨格を占有する「大事件」の顛末であった。

治と貴子の帰村
18年前に、自分の幼馴染である治と駆け落ちした女房の貴子が帰村するというエピソード ―― これを選択したのである。

由々しきことに、自分を捨てた女房が重篤のピック病に冒されていて、自分を裏切った治との区別がつかない程の症状を呈していたのだ。

ここで私は、本作との埋め難い距離感を覚えざるを得なかった。

たとえ事情が分っていても、「御免、善ちゃん。どうしようもなく返す」という、治の台詞を挿入することへの不快感が晴れないのだ。

大体、その事情の本質が、明らかに認知症で手に負えなくなった現実を、奇麗事で糊塗させる治の態度の狡猾さにあることは自明だが、何より解せないのは、自分を裏切った挙句、認知症になった貴子を、「暴走老人」の大立ち回りとは切れた、治との丁々発止の掛合いを経て、さして葛藤もなく受け入れる一連の善の態度である。

その絡みには、その心情を理解し得るに足る有効なカットがインサートされていないので、詰まる所、コメディラインで流されてしまったという納得のいかなさだけが残るのだ。 
コメディ基調の物語
観る者は、この辺りで、このエピソード挿入の狙いが理解できるにも拘らず、コメディ基調の物語は、イメージ通りの「予定調和」の軟着点に向かって動き出していく。

しかし、あくまでもプライバシーの問題でしかないこの「大事件」を、「ディア・イーター」という名の食堂店主でもある善が、深々と入れ込む「素人歌舞伎」の成就とリンクさせるのは無理がある。

そこで、本作のライターが採った手法は、景清役をやる善のパートナーとして、かつて舞台に出演していた貴子の、「昔取った杵柄」の鮮やかな復元だった。

この見え見えの伏線は、当然の如く、女形の役を演じるバスの運転手の「不在」が要求される。

そして、この要求に沿うように、運転手の一平は、刻々と直撃してくる台風の影響をダイレクトに受けて、大事故を起こすに至る。

貴子の出番が、ここで要請されるのだが、事は容易に進まない。

ドラマとしての起伏を作り出す必要があるのだ。

「非日常」の時間で埋め尽くしてしまう程に、「日常」=「」の時間を支配する件の貴子はと言えば、蚊取線香を食べようとしたり、「何か心に浮かんだの。怖いことが」と言って、村役場の美江に乱暴を振ったり、食料品店で瓶詰めを万引きしても、それを記憶できなかったり等々で、すっかり疲弊した善が十八番(おはこ)の景清を降りようとしたときだった。

 かつて、夫である善のパートナーを演じた貴子が、農村歌舞伎の女形の台詞を思い出したのだ。

 これには伏線があった。

景清を演じる
 「景清が、あなたが最後に眼をくり抜くところ。あたし、好きです」

そう言って、善を驚嘆させた傍から、食事の際に醤油の意味が分らない貴子が抱える疾病の由々しさが、喜劇仕立てのドラマの中枢ラインを占有するのである。

且つ、体で覚えた記憶だけは喪失しない、認知症のよくある様態が具現されるに至る。

その「予定調和」の軟着点に到達する前に、「コメディラインなら何でもあり」という、お決まりの「ご都合主義」の出番がやってくる。

 単に、お決まりの「ご都合主義」だけなら、あっさりとスルーして済むものが、そこに、前頭葉の空洞化によって自我が壊れていく恐怖の只中で、「ピック病」患者の当人自身が、恐らく人には言えない懊悩を抱えているが故に、その奥深い内面的な世界で累加された名状し難い混乱を、「攻撃的な情動反応」として身体化されていると考えられるからである。

「一切を笑いによって吹き飛ばす」という不見識極まるコメディの狭隘な世界に、少なくとも、私は全く入り込めなかった。

と言うより、言葉にできない程の憤怒が内側から噴き上がってきて、本作で映像提示されたパッチワークのような問題提示の集合性をも含めて、とうてい容認できなかった次第である。

「心を体に合わせるのか、体を心に合わせるのか、どっちにしようか迷ってたんです」

 これは、そのパッチワークのような問題提示の一例として挿入された、「性同一性障害」を抱えた雷音青年の言葉。

 他に多くの言葉が捨てられていたが、本質的には、善に向かって放たれたこの吐露が印象を残すものの、ただそれだけだった。

 ただ、それだけの吐露で流されてしまったから、重量感が欠落する。

 観る者の心に届くに足る重量感が欠落するのだ。

 だから何も残らない。

 何も残さない。

 もう一例。

 「シベリアから戻って来ても、簡単に人間に戻れなかったんだ」

これは、歌舞伎保存会会長、貴子の父である義一の言葉。

この言葉は、義一の娘の貴子が放った、「あの人を裏切った。あたしもう、人間じゃなくなってしまう」という叫びに敢えて対応させているが、如何にも御座成りなリンクの映像提示という印象が拭えない。

義一は、更に加える。

義一と
「マイナス40度のラーゲルで、重労働と飢え、お前の親父にはな、4度目の冬を越す体力が残っていなかった。お袋が作った味噌汁が飲みたかって、村の舞台で歌舞伎がやりたいって、そう言って、息を引き取ったんだ」

一応、景清を降りようとした善を激励し、翻意を促す意味づけが張り付いているが、義一の人物造形性の脆弱さが、嗚咽混じりのこのエピソードを、取って付けたような表層擦過のフラットな描写の域に閉じ込めてしまっているのだ
 
 しばしば意味不明で、独り善がりな台詞の挿入で、観客の思考を停止させるギミックが駆使されているようでもあった。

何のことはない。

これらは、ヒューマニズム気取りのエピソードのパッチワークでしかないから、ヒューマニズムとしての切れ味が完璧に剥落し、殆ど自壊してしまったという印象だけが晒されてしまったのである。

 凡作の極みのような映画だった。

(2013年2月)

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