<「宗教国家」アメリカの中枢に風穴を開けた男の物語>
1 「俺は、何か意味あることで覚えられたいんだ」
1952年のケンタッキー州。
アルコール依存症の父親を持つために、ポテトを原料にする密造酒を売り歩くことで、自分たちの力で生計を立てようとする年端もいかない兄弟がいた。
「まじめに稼ぎたいだけだ」
自立志向の強いその兄の言葉である。
兄の名はラリー。弟の名はジミー。
それから20年。
オハイオ州南西端に位置する都市・シンシナティ。
ラリーとジミーの兄弟は、「ハスラー・クラブ」を経営していたが、客に対する無料サービスが昂じて、経営が悪化していた。
「神が男を創った。女もだ。その同じ神様がヴァギナも創った。その神を拒否するのか」
好色家を自認するラリーの言葉であるが、女性の性器を写した写真を掲載した雑誌「ハスラー」が、「宗教国家」アメリカで売れるわけがなかった。
「稼ぐ」ことに執着するラリーは、この程度のリスクで諦める男ではない。
だから、チャンスが巡ってくるのか。
元大統領夫人・ジャクリーン・ケネディのヌード写真をカメラマンから買い取り、それを「ハスラー」に掲載したことで、ラリーを囲繞する風景は一変する。
200万部の販売部数を達成し、オハイオ州知事も買ったというニュースが、コメント付きでテレビで放送されるのだ。
当然、百万長者となり豪邸を手に入れ、新人ダンサー時代からの恋人・アルシアと結婚したラリーを囲繞する風景がポジティブな熱気のみで歓迎されるわけがない。
ここから、「宗教国家」アメリカの裸形の相貌が牙を剥く。
「おぞましいものが現れました。シンシナティに。まともな人までが堕落させられる」
「健全な市民を守る会」主催における、銀行家・投資家等の肩書きを持つカトリック教徒・チャールズ・キーティングの声高な講演の言辞である。
ラリーが「猥褻罪、及び組織犯罪容疑」で逮捕されたのは、「ハスラー」の企画で盛り上がっていた時だった。
幸いにして、アルシアの奔走で保釈されるに至る。
ラリーとアラン |
その保釈を担当したのは、ハーバード大法学部卒で、国選弁護人3年のキャリアを持つ、27歳の有能な弁護士・アラン・アイザックマン(以下、アラン)
「あなたの雑誌は、かなり度を越している。しかし、僕には興味がある。この事件は僕の得意分野だ。専門は“自由”です」
これが、アランがラリーの弁護を引き受けた理由だった。
かくて、オハイオ州シンシナティ郡裁判所で、前代未聞の「猥褻裁判」が開かれる。
1977年のことである。
「私は、誰もが自分で物事を判断できる国に住めることが幸せだ。この国では、ハスラー誌を読みたければ読めばいいし、嫌なら捨てればいい。自分の意見は自分のものだ。その権利が大切なのです。ここは自由の国だ」
「自由の国」アメリカという「物語」を信じ切る、被告人であるラリーを感動させた、殆ど異論の余地がないとも思われる最終弁論を括ったアランの言葉である。
しかし、陪審員裁判の結果は、“起訴通り有罪と認める” というもの。
裁判長の判決は、懲役25年という苛酷な刑罰だったが、刑務所に収監されたラリーが上訴審で完全勝訴の判決を勝ち取ったことで、僅か半年にも満たず、娑婆の世界に戻って来る。
「殺人は違法だ。だが、その殺人現場を写真に撮れば、ニューズウィークの表紙だ。そして、セックスは合法だ。それを写真にしたり、女性の裸を撮ると、刑務所に入れられる」
「自由な出版を守る会」の集会の場で、戦争における殺人と猥褻な写真を大きく写し出し、どちらの方が「悪」であるのかと、長広舌を振るうラリーの弾け方は、上訴審で完全勝訴の判決を勝ち取った男の悦楽的達成点でもあった。
面白いことに、このラリーの並外れたエネルギーが、突然、信仰の世界に吸収されていく。
「これからはセックスを、より自然なものとして、そこに男もいれる。つまり、創世記のアダムとイブだ。可愛い女の子たちを、大きなガラスの十字架で遊ばせる。今の時代は、乱れたローマ時代だ」
敬虔なクリスチャンであるルース・カーター(ジミー・カーター大統領の妹)と会ったことで、ラリーのエネルギーが、「大きなガラスの十字架で遊ばせる可愛い女の子たち」という訳の分らない言辞に結ばれるが、その女性の裸がミンチされる表紙の図柄を思いつくところが、如何にもラリーらしい。
そんな折、ジョージアで「ハスラー」の販売店が検挙された一件で、再び裁判が始まるが、ラリーとアランの二人がライフルで狙撃される事件が出来する。(注1)
運良く救われたアランと違って、下半身麻痺の重傷を負ったラリーは、見舞に来たルースに、「女房とセックスもできない。神はいない」と嘆くことで、彼の信仰への耽溺は呆気なく終焉する。
ビバリーヒルズのロデオ・ドライブ(ウィキ) |
ハリウッドスターが多く住むビバリーヒルズに転居したラリーは、アルシアと共に鎮痛剤として使用した薬物で依存症の陥穽に嵌っていた。
疼痛緩和のための手術の結果、精神的に復元したラリーが戻ったのは、今や、大企業にまで成長した「フリント出版社」。
しかし、車椅子で復職しても、異論を吐く副社長を馘首(かくしゅ)するなど、自己中の性格は全く変わらない。
FBIのおとり捜査のビデオを放送局に流したことで、今度は、国家を相手にする「戦争」にまで突き進んでいく。
法廷でヘルメットを被ったラリーはビデオの出所を拒否したことによって、賠償金の支払いを求められた挙句、うず高く積もるような紙幣を法廷内にばら撒き、米国旗のオムツを履いた醜悪な姿を裁判長に見せる始末。
「そっちが俺を赤ん坊扱いするからだ」
ラリーの挑発に対するペナルティは、「国旗冒涜罪」による逮捕と、保釈中のルールを破ったことで、精神療養刑務所への収容を命じられるに至る。
「何を敵に闘ってる?僕はもう辞める」
やりたい放題のラリーのアナーキズムに、とうとうアランも切れてしまった。
更に、厄介な敵がラリーの前に現れる。
フォルウェル(ジェリー・ファルエル・ウィキ) |
福音主義派の「自由バプテスト学院」の院長である伝導士・フォルウェルのスキャンダルを、「ハスラー」が掲載したのだ。
「屋外の便所で母親と姦通した」
この記事を読んだフォルウェルが、4000万ドルという多額の慰謝料を求めて、精神療養刑務所に収容されているラリーを告訴したのは言うまでもない。
今やエイズに冒されていたアルシアが、その事実を知るや、アランに助けを求めたことで、再び厄介な法定闘争が開かれていく。
「反吐が出るほど堕落した男だ」
500万人の会員を誇る、「自由バプテスト学院」のフォルウェルの言葉である。
1984年。バージニア州地方裁判所。
その結果、陪審評決は誹謗では無罪、精神的損害では、20万ドルの支払を課す有罪となった。
明らかに、ここでも法廷内でのラリーの侮辱的発言の連射が影響していた。
エイズに冒されたアルシアのオーバードーズによる体調の悪化が、バスタブで溺死するに至ったのは、その直後だった。
ラリーとアルシア |
結婚以来、一貫して自分に尽くして来た女の死は、ラリーの人生の中でも、決して取り返しがつかない悲劇だった。
「神の法を犯したら、神は裁きを与える。エイズは疫病です。邪悪な変態生活をやめさせよう。道徳律を破る者は報いを受けるのです」
そんな折、テレビで聞いたこのフォルウェルの説法に激怒したラリーが、例の一件を上訴するという行為に振れていく。
しかし、ラリーの法廷での悪態に愛想を尽かしたアランは、きっぱりと拒絶する。
「僕は笑われても、ベストを尽くしてきた。なのに、あんたがバカをやって潰した」
アランの激しい口調に、男は言葉を失う。
映画の中で初めて見せる真剣な表情の中から、真剣な言葉を吐露するのだ。
「お前は友達だ。俺は、何か意味あることで覚えられたいんだ」
これでもう、二人は和解する。
ラリーの愚かさを知悉(ちしつ)しているアランには、現在のラリーの心情が分り切っているが故に、これは予定調和の和解劇でもあった。
連邦最高裁(ウィキ) |
かくて、連邦最高裁の法廷が開かれる。
1987年のことである。
「誰もフォルウェル師の姦通を本気で信じないのですから、師をパロディにして笑うのも公共の利益に適っている。その師が不買運動を展開し、公共の場で、我々をアメリカの毒だと言い、婚外セックスは不道徳であり、酒は飲むなと言う。だから訴えられたら、すべての不愉快な言論を罰することになる。これは我が国の信念です。たとえ不愉快な言論でも、すべての言論は健全な国家の活力です」
アランの見事な弁論の要諦である。
そして、完全勝訴の判決が下る。
「修正第一条は自由な発想を保証するものである。自由な発言は個人の自由だけでなく、真実の追求と、社会の活力として重要である。公共への論争は、動機の如何にかかわらず、修正第一条により守られる」(注)
ラストシークエンスで、一気に大団円に持っていく物語の強度は圧倒的だった。
(注1)映画では犯人不明とされていたが、20人の殺人に関与した稀代のシリアルキラー(連続殺人犯)・ジョゼフ・フランクリンが、ラリーへの襲撃を認める供述をした。その動機は、黒人と白人による性交渉を掲載したことへの抗議だったと言われている。因みに、ジョゼフ・フランクリンは2013年に、ミズーリ州の刑務所にて薬物注射による死刑が執行された。
(注2)因みに、「修正第一条」とは、1791年に成立した、修正第1条から修正第10条までの人権保障規定(アメリカの「権利章典」)に含まれるもので、その全文は以下の通り。
「合衆国議会は、国教を樹立、または宗教上の行為を自由に行なうことを禁止する法律、言論または報道の自由を制限する法律、ならびに、市民が平穏に集会しまた苦情の処理を求めて政府に対し請願する権利を侵害する法律を制定してはならない」
2 「宗教国家」アメリカの中枢に風穴を開けた男の物語
この映画の成功は、密造酒を売り歩くほどに貧しかった少年期をルーツに、「稼ぐ」ことを生き甲斐にする好色家が表現の自由に託(かこつ)けて、「稼ぐ」人生を具現していく「ポルノ王」の男の馬力と、「自由」を専門にする生真面目な弁護士の弁舌能力が強力に補完することで、「不真面目」と「生真面目」の融合による統合力のパワーを描き切ったことにあると言えるだろう。
「稼ぐ」ことを生き甲斐にする好色家が、「反体制の活動家」とは全く無縁な男であったこと。
「自由」を専門にする生真面目な弁護士が、好色家の「稼ぎ」の内実とは全く無縁な男であったこと。
前者の理論的欠落を後者の知的能力が補完し、後者の「生真面目」を、前者の「不真面目」さから供給される馬力が補完する。
「戦争の殺人現場を写真に撮ればニューズウィークの表紙になるが、女性の裸を撮ると刑務所に入れられる」という矛盾の指摘は意表を突く面白さがあるが、それでは、「宗教国家」アメリカの中枢に風穴を開けることが難しい。
「宗教国家」アメリカの保守層の「精神武装」の底力に無知過ぎるのだ。
法廷での「ポルノ王」の行為の様態が衝動的で、傍若無人であり過ぎたため、まるで、「損得原理」を弁(わきま)えない「幼児反抗」のレベルを露わにするだけだった。
非武装過ぎるのである。
だから一蹴される。
当然のことである。
命の危険にも曝された。
予期せぬ事件だったが、「人民の武装権」を認知した「アメリカ合衆国憲法修正第二条」(注3)に象徴される、「銃社会」アメリカの、もう一つの相貌についても非武装過ぎたのである。
最愛の妻を極度な依存症にしたのも、男の責任でもあった。
そんな男が一変する。
その最愛の妻を、オーバードーズによって喪った「悲嘆」に直面したからである。
号泣する男が、号泣を閉じた時、そこだけは譲れない、男の情愛ラインを踏みにじるプロテスタントの言辞に触れて、劇的に一変するのだ。
男の妻を軽侮する福音主義派の伝導士の発言を耳にしたことで、保守層から絶大な尊敬を被欲する男との全人格的闘争を決意する。
しかし如何せん、男には「理論武装」の脆弱性は無論のこと、何より、衝動的で傍若無人な性格傾向が常に仇になってしまうのだ。
「宗教国家」アメリカの中枢に風穴を開けるには、「反体制の活動家」とは全く無縁な男の人格的・理論的な脆弱性がネックになっていた。
だから男は、「自由」を専門にする生真面目な弁護士を求めた。
真剣な表情で、切に求めた。
「俺は、何か意味あることで覚えられたいんだ」
「ポルノ王」を自称する男は、そう言ったのだ。
「自由」を専門にする生真面目な弁護士は、「不真面目」さから供給される男から、「真面目」の馬力を受け取って、それを心理的推進力にして、「宗教国家」アメリカの保守層の「精神武装」を解除する弁論を展開し、完全勝訴の判決をもぎ取った。
それは、「不真面目」と「生真面目」の融合による統合力のパワーの成就だったのである。
ついでに、「宗教国家」アメリカの保守層の代弁者である男の論理的飛躍の危うさについて書いておきたい。
「エイズは疫病です。道徳律を破る者は報いを受けるのです」
この福音主義派の伝導士は、そう言い切った。
考えてみるに、この言葉には、エイズになる者は、すべて「邪悪な変態生活」を送っているという誤解と偏見を喧伝しかねない毒素が含まれている。
「エイズになる者は自業自得だ」という観念をベースにして、エイズ罹患者を社会的に排除する毒素が含まれているのだ。
このような物事の短絡的な判断を、「ヒューリスティック処理」と呼ぶ。
この「ヒューリスティック処理」によって、「偽りの相関関係」を導き出すケースの典型的事例を、福音主義派の伝導士はトレースしているのである。
簡単に言えば、僅かな情報と自分の経験則のみで、即座に結論を求める手法である。
この論法は、私たちが日常的に使用している思考パターンなので、このような宗教者の倫理的説法に惑わされ、しばしば共感を生み出す土壌となる。
福音主義派の言う「健全な社会」の語彙の含みには、「性風俗」=「悪徳に堕ち切った不健全な文化」という、狭隘で傲慢な観念が張り付いているから厄介なのだ。
考えてみるに、真に「健全な社会」とは、「性風俗」のような、厄介なる犯罪の温床と切れた、適度な「不健全な文化」を包括するからこそ保持し得ているという、柔軟で包括的発想こそ捨ててはならないと切に思う。
「健全な社会」の構築を主唱するのは大いに結構だが、彼らに愚行であると一方的に誹議(ひぎ)されても、個人の領域に土足で踏み込む行為を撥(は)ね付ける自由だけは確保する。
これを「愚行権」と呼ぶ。
確かに、本作の主人公は、「愚行権」の範疇をも逸脱する行為に振れていったが、それでも、上訴審に挑む男の態度には、「宗教国家」アメリカの中枢に風穴を開ける馬力を体現したと言えるだろう。
この映画は、そんな男の物語であったのだ。
(注3)「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない」
【参考資料】 拙稿 人生論的映画評論「やわらかい手」(2007年製作)
(2015年11月)
映画も良く分からない映画でしたが、ストーリーを説明して頂いてもやはり私にとっては良く分からない話しです。
返信削除本当にすみませんが、ちょっと私には難しすぎるのかもしれません。
ただ、また思い出話になってしまい恐縮ですが、50回のカンヌ映画祭にミロス・フォアマンも来ていて、この映画の完成に伴った映画のレクチャーを本パレス会場内で行っていました。偶然にチケットを手に入れていたので、レクチャーを受ける事が出来ました。50人くらいで聞くような感じです。ほとんど理解出来ませんでしたが、「カッコーの巣の上で」が一つのエポックになっている私としては、何とも感慨深い時間でした。
うーん、悔しいですが、やはり私は単純な人間なんでしょう。どうしても複雑な話になってくると、よく相関関係や裏読みの部分で、頭がこんがらがってしまいます。
単純明快なストーリーを複雑に理解する事は出来るのですが、複雑なストーリーを単純に理解する事が難しい様です。
この間、今年見た映画のベストは何だろうと考えました。そもそも本数が少なくて情けないですが、ダントツで「パンズ・ラビリンス」でした。
恐らく見ていると思いますが、もしまだだったら、お勧めしたいです。機会があったらどうぞ。ではまた。
コメントをありがとうございます。
削除私がこの批評で最も言いたかったのは、事態の原因を短絡的に処理するフォルウェル師の説法に内包される差別的言辞の危うさについてです。「分りにくさ」と共存し、物事を「複雑系」でアプローチすることの大切さこそ捨ててはならないと思うのです。