<ノーサイドに収斂される「戦う女」の疾走感>
1 追われるように、「32歳の自立」を立ち上げた女の心許なさ
30歳過ぎても働かず、弁当屋の実家に引きこもり、締まりがない日常性を延長させている斎藤一子(いちこ/以下、一子)が、そのニート然とした生活を途絶するに至ったのは、子連れ出戻りの実妹・二三子(ふみこ)との軋轢(あつれき)が顕在化したからであった。
原因は、母親に促されても、治療半ばの歯医者に行こうともしない一子の自堕落さに、二三子が腹を立てたこと。
「あんた、誰のお金で歯医者行ってるの。今、幾つよ。親に歯医者行けって言われる年じゃねぇだろ。何考えてんだっつぅの!あんた、親の年金、狙ってんでしょ。あんたみたいなのはね、親が死んでも平気で死体隠すブタになんだよ」
一週間前から同居する二三子の、この激しい感情含みの挑発的言辞で、一子は切れ、取っ組み合いの大喧嘩になってしまった。
一子 |
現実の生活の厳しい臭気を体感している二三子と、弁当屋の手伝いすらしないで日常性を繋いでいる一子との衝突は、殆ど約束された出来事だった。
「二人とも、出て行きなさい!」
この母親の言葉で、一子自らが家を出ていくことになる。
傍らに父親がいるのに、何もできない無力さ。
この辺りに、一子の我儘な性格の一因が読み取れる。
かくて、家を出ていく一子だが、当面の生活費を母親からもらう依存ぶりだった。
その一子はアパートを借り、コンビニの深夜営業の仕事を得て、物理的にはニート然とした生活を脱却することになるが、一子にとって、安楽な居場所を失ったものの埋め合わせを具現するのは容易ではない。
一子と面接した店長はうつ病で退職、そして全店員とミクシィのマイミクとなっているというほど、病的なほどお喋りな中年店員の野間や、廃棄処分される焼きうどんを盗みに来る元店員の池内、更に、ボクシングジムで厳しい練習に励みながらバナナを買いに来る狩野など、多彩な顔ぶれに囲まれて、心もとない「32歳の自立」を立ち上げた一子の物語は、コメディラインの基調で開かれていく。
まるでそこは、社会の底辺に蝟集(いしゅう)する者たちの住み処のようだった。
そんな一子が、思いがけないことに、密かに意識していた狩野からデートに誘われる。
狩野と一子 |
軽トラックでの最初のデートの行き先は、閑散とした動物園だったが、その間、全く会話がない。
だから、一子から話しかける。
「あの、どうして私なんかを・・・」
「ライオン行こう・・・断られないような気がした」
これだけだったが、「盛り上がらねぇな」という狩野の呟きが捨てられていた。
これが、一子の最初のデートの風景だった。
特段に落ち込んだりしていない一子の店に、バナナを買いに来た狩野が、金の代わりに残していったのは、ボクシングの試合のチケット。
そこには、スーパーライト級(ウェートは61.235~63.503kg)の6R戦に出場する狩野の名前があった。
その試合を観戦する中年店員の野間と一子。
序盤、試合は相手をロープに追い詰める狩野にとって有利に運んでいたが、一転して相手の逆襲で二度のダウンを食らい、KOされるに至った。
狩野の引退試合 |
その試合を真剣に凝視する一子。
控え室から狩野が出て来るのを待つ野間と一子は、その狩野を交えて中華料理店で会食する。
「痛い?殴られると」と一子。
「最初はそうでもなかったけど、すげぇ痛ぇ。もう、今日で終わりだけどな。定年だから37で」と狩野。
「辞めてどうするんですか?」
「働くに決まってんじゃん」
「お友達なんですか?相手の人」
「何で?」
「肩、叩き合っていたから」
ボクシングのルールを全く知らない一子に不必要なまでに言語介入し、減らず口を叩く野間にボディを浴びせ、「憎まねぇと殴れねぇだろ」と吐き出し、一子がトイレに行っている間に、一人で店を後にする狩野。
一子に惚れられ、嫌々ながら付き合っているなどという、野間の虚言を狩野が信じたからである。
野間が一子をラブホテルに連れ込み、彼女の処女を強引に奪うという忌まわしきレイプ事件が起こったのは、その直後だった。
怒りを抑えられない一子は、その場で警察に、「強姦されました。犯人は寝てます」と通報する。
警察に捕捉されなかった野間が、店の金を盗んで逃走する事件が起こったが、今や、一子にとって、そんなことはどうでもいいことだった。
このときの一子には、自分を置き去りにした狩野のことしか頭になかったからである。
だから、狩野が通っている青木ボクシングジムを訪ねるが、そこにはもう、彼はいなかった。
一子が青木ジムでボクシングのトレーニングをするようになったのは、殆ど事態の成り行きと言っていい。
32歳という年齢制限をジムの会長に言われた一子は、それでも、ボクシングのトレーニングに向かっていくが、当然ながら、なかなか上達しない。
コンビニの店員たちから、「バナナマン」と揶揄される狩野が店内で吐き下したのは、そんな折だった。
路上で酔いつぶれ、ゴミ袋の山に寝転んでいる狩野を、一子が自分のアパートの部屋で介抱する行為は、狩野を想う一子にとって自然な流れと言っていい。
「何で俺に」と狩野。
「困ってそうだったんで」と一子。
「お前、あいつの女なんだろ?」
「あいつ」とは野間のこと。
「違う。あの人は違います!もし良かったら、いていいんです。嫌だったら、鍵はポストに」
野間との一件を頑として否定する一子には、不器用な説明しかできないのである。
狩野を部屋に残して、一子はジムに通う。
そこでのトレーニングは、ミットを打ったり、シャドーボクシングを繰り返すもの。
この馴れない練習の中で風邪を引き、疲弊し切った一子は熱を出し、彼女を待っていたかのように、狩野が肉の料理を作って、それを彼女に食べさせるのだ。
食べながら、突然、一子は泣き出してしまう。
狩野の優しさが、一子の情感を揺さぶったのである。
今まで経験したことがない特定他者からの親密なストローク(存在認知)を受けたことで、思わず、相手の体に身を預けてしまう一子。
二人が結ばれたのは、関係の自然な流れだった。
「ボクシングやってんのか?」
「この間から」
「何で?」
「さあ」
寝床の中の二人の会話である。
狩野が豆腐屋の仕事にありついたのは、その翌朝だった。
だから、その夜の食事が豆腐三昧だったのは言うまでもない。
しかし、一緒に豆腐を売り歩く若い女のもとに狩野が入り浸りになってしまう。
「どうして帰って来ないの?」
豆腐屋を売り歩く二人に問い詰める一子だが、無視されてしまうのだ。
この一件以降、一子がボクシングに向かう激情は、突沸(とっぷつ)するかのように炸裂していく。
彼女の心理分析は後述するが、全て他人のせいにせず、一人の人間の心理と行動を丁寧に描くシーンは素晴らしい。
観ていて、震えが走るほどだった。
もう、そこには前半のコメディ含みの展開は払拭されていた。
2 髪を切り、いよいよ、その日がやってきた
そして、プロテストへの合格。
しかし、一子にとって、プロテストの合格のためだけにハードなトレーニングを繋いできたのではない。
試合をやいたいのだ。
「試合するんだって、タダじゃないんだよ。相手だって見つけなきゃいけないんだからさぁ。困んのよ。あんたみたいな人さ。男だってたまにいるんだよ。いい年こいて、何もなしに息づいちゃって、試合をしたいなんて言い出すのが。自己満足の道具じゃないんだよ、ボクシングは」
一子の思いが読めていなかったジムの会長が、一子に対して迷惑そうに言い切った。
会長の言葉は辛辣だが、決して間違っていない。
プロテストに合格しただけで、相手のいる試合が簡単にできるほどボクシングは甘くないのだ。
「東日本新人王トーナメント」で優勝しても、アルバイトを欠かせない「プロ選手」を、私自身、個人的に多く見聞きしているから、ストイックなまでのボクサーの厳しさは想像するに余りある世界なのである。
閑話休題。
それでも、サンドバッグを相手にトレーニングする一子だが、夢を断たれた一子のフラストレーションが、相変わらずガミガミと口煩い店長への暴力に振れて、即座に店を辞めることになる。
因みに、この間のエピソードで納得できないシーンがあるので、一言。
かつて、レジの金を盗んだ池内が店に強盗に入り、金を奪って得意げに去っていくシーンであるが、コメディ基調の映画がシリアス基調に入っても、繰り返される池内の残飯荒らしが、まるでシリアス基調のラインに合わせるようにして、今度は、出刃包丁で「実力行使」する描写の意味は、一体、何なのか。
一子の「負け犬意識」を相対化するエピソード挿入なのか、それとも、「底辺で生きる女のバイタリティの強(したた)かさ」を強調したものなのか不分明だが、犯罪を犯す女の人生の断片を切り取っただけに過ぎないのに、その辺りの過剰な描写が勝ち過ぎてしまって、「エンタメムービー」の範疇をかき回し過ぎる印象が、殆ど稚拙なコミックの世界に呑み込まれてしまうようだった。
物語を進める。
店を辞めた一子のもとに父親が訪ねて来て、母親が骨折したので店を手伝って欲しいという要請を受ける。
「お前、ちょっと変わったな。お父さんみたいに年食ってから自信がないってのは、みじめだからな。お前は、そうなんなくて良かった」
この父親の本音の吐露を、一子は真摯に聞く。
かくて、自宅の弁当屋を手伝う一子。
その間に、ジムに通う一子にラッキーな情報が入ってきた。
対戦相手の選手が怪我したことで、一子に出場のチャンスが巡ってきたのだ。
更に、もう一つ起こった意外な出来事。
工事現場の警備員になっていた狩野との再会である。
弁当屋に弁当を買いに来て、逃げていく狩野を追う一子の疾走感は、「現役ボクサー」のトレーニングの結晶のようだった。
「あの女は?」
「捨てた」
「捨てられたんでしょ。日曜、試合やるの。見に来てよ」
「何で?」
「来て欲しいから」
「好きじゃないんだよな。一生懸命な奴、見んの」
「だから出てったの?」
「お前さ、何でボクシングなんか始めたんだよ?」
「殴り合ったり、肩、叩き合ったり、何か、そういうのが、何だろ・・・」
自分のモチーフを語り切れないまま、このシーンは閉じ、以降、ハードなトレーニングに励む一子の本物の疾走感を映し出していく。
今、彼女にとって、狩野のような男への愛着よりも、眼の前に迫るデビュー戦に向かうモチーフが自己運動を繋いでいるのだ。
髪を切り、いよいよ、その日がやってきた。
4戦目の相手との4R戦のゴングが鳴った。
華麗なジャブで繰り出すも、いきなり右のストレートを受け、ダウンを食らう。
一子のボクシングスタイルが無防備のインファイト(接近戦)なので、相手のスピーディなジャブの応酬に対しクリンチで逃げるばかりだった。
全く期待をかけられていないジムで、彼女はアウトボクシングの技術など学習する時間的余裕がなかったのだろう。
2R。
遂にコーナーに追い込まれ、二度目のダウンを喫する。
しかし、本人は試合を断念せずに続行されるが、デビュー戦の風景はサンドバッグの様相を呈するばかりだった。
三度目のダウンも、辛うじてゴングに救われる。
そして、運命の3R。
相手の右フックを交した一子の左ボディが的中し、得意の左で相手の顔面を捉える。
恐々と、娘の試合を観戦していた両親の表情が変わった瞬間である。
しかし、そこまでだった。
一子の得意の左によっても、相手のダウンを奪うに至らない。
戦歴の差が、技術とパワーの差を露わにするのである。
相手の繰り出した左アッパーによって、決定的なダウンを奪われるに至る。
「敗北のテンカウント」の僅かな時間の中で、この数ヶ月間で起こった過去の様々なエピソード、とりわけ、自分を捨てた狩野の存在が脳裏をよぎるのだ。
「立て!」
最前列で観戦する狩野の叫びである。
「立てよ!この負け犬!」
後部座席で観戦する妹の叫びである。
必死に立とうとするが、「敗北のテンカウント」を被弾し、一子の苦いデビュー戦は終焉する。
痣と傷だらけの顔面を、控室の鏡で見詰める一子。
「格闘技の聖地」・後楽園ホールから一人で外に出た一子を、狩野が待っていた。
「ひでぇ顔だな」
この狩野流の挨拶に、涙声の中で、一子は言い切った。
「勝ちたかった・・・勝ちたかったよ・・・一度でいいから、勝ちたかった」
唯一、ボクシングの厳しさが理解され、甘えられる相手に、封印していた感情を解き放つたのだ。
「最高だからな、勝利の味ってのは」
ずっと泣きじゃくっている一子の思いを、このような言葉で受け止める狩野は、「一子、飯でも行くか」と言い添え、動けない彼女の右手を掴んで、一緒に帰っていく。
ラストシーンである。
―― 一子の敗北を、当然のように描き切ったボクシングシーンは大正解である。
言外の情趣を感受させる素晴らしいラストシーンだった。
稀に見る傑作である。
何より、体内の水分を絞り出す「水抜き」を3日間も遂行したという、安藤サクラの凄みが映像総体を支配して圧巻だった。
今後の邦画界を背負うに足る、代替不可能な出色の女優である。
3 ノーサイドに収斂される「戦う女」の疾走感
一子に自立志向がなかった訳ではない。
ただ、自立に向かう内的・外的条件の環境整備が脆弱だっただけである。
自立することによって負荷される様々なストレスを貯め込むことと、引きこもることによって得られる安楽な生活が延長されること。
少なくとも、思春期以降において変化が見られることなく、この二つの選択肢が特定個人に対して平等に付与されていたら、多くの場合、後者を選択するだろう。
人間とはそういうものである。
一子もまた、後者を選択し、安楽な生活を延長させていた。
彼女の社会的自立の遅滞の原因が、親の過保護にあることは言うまでもない。
過保護とは、親が子供の顔色を窺う行為の総称である。
子供が望んでいない「状態」を過剰に押しつけることで、親の強制力に服従するだけの非主体的な自我を作ってしまう怖さを持つ過干渉に比べれば、子供自身の不快感を必要以上に解消するほどの過剰にならない限り、愛情を注いでいる分だけ過保護の方がマシであると言える。
この文脈で言えば、一子は母親の充分な愛情を受けたことによって、捩(ねじ)れ切って、屈折した思春期自我に堕ちていくことはなかった。
そこに、一抹の救いがある。
あとは、一子を誘導するに足る自立すべき内的・外的条件が生まれるか否かにかかっていた。
生存の物理的保証のお陰で安楽な居場所を確保していた彼女の内側で、自発的に自立に向かう行為が発動することが難しいからである。
だから、一子を自立に誘導させる機会を待つしかなかった。
そして思いがけず、その機会がやってきた。
「今、幾つよ。親に歯医者行けって言われる年じゃねぇだろ。何考えてんだっつぅの!」
子連れ出戻りの実妹・二三子の、この挑発的言辞に切れ、大喧嘩騒ぎを起こす一子への決定打は、「二人とも、出て行きなさい!」という母親の言葉であった。
このエピソードは、最後に見事に回収される本作の重要な伏線になっていくので、後述する。
ともあれ、「32歳の自立」の条件が脆弱なため、その思いがあっても、自立を立ち上げられなかった一子にとって、過保護を継続させてきた母親の言葉は、モラトリアム終了の最後通牒だったのだ。
啖呵(たんか)を切るように家を出ても、金がないから帰宅する一子だったが、彼女の自立志向が萎えた訳ではない。
アパート生活へ |
母親に金をもらって再起を図る行為に打って出たのは格好よくないが、それでも一子が、「32歳の自立」を立ち上げた事実を否定すべくもないのである。
皮肉にも、現実の生活の厳しい臭気を体感している二三子の行為こそ、「32歳の自立」の後押しの役割を果たしたという訳だ。
かくて、「32歳の自立」を立ち上げた一子は、いきなり、手痛い被弾(レイプ事件)を負うが、打たれ強い彼女は怯(ひる)まない。
前に進むのだ。
失恋した悔しさを直接相手に向けず、その怒りのエネルギーの全てをボクシングにぶつけていく。
この心理を台詞なしに見せる一連のシーンは、とても良い。
人間が変化していく心理の一つのプロセスを、そこに見出すことができるからである。
プロテストを受けるという決意のうちに、彼女の炸裂する感情を収斂させていく心理を精緻に描いていること。
その心理を表現する重要なエピソードがあった。
「何だよ、その目。目付き悪いってクレームきてるんだよ、あんた。接客できる目じゃないっつぅの」
これは、毎晩、廃棄される焼きうどんを盗みに来る池内の行為を敢えて黙認している一子が、店長の怒りを買い、足蹴にされ、睨み返したときの言葉である。
ここまで屈辱を受けながらも、その反撥を身体表現しない一子の心理は、自分の内側に貯留している感情を転嫁する意志に結ばれていたからである。
要するに、ボクシングに向かう激情は、それ以外の他の出来事に、意識の「割り込み」を許さないほど強いものだったのだ。(戸田正直によって提示された「アージ理論
」の援用)
然るに、そんな一子でも、プロテストに合格しても試合ができない苛立ちを、口煩い店長への暴力に流れ、馘首(かくしゅ)される脆弱さを露わにする。
それでも自壊していかない辺りに、彼女の真の強さがあった。
この強さが、彼女に幸運をもたらしたと考えれば面白い。
ボクシングという厳しいルールを有するスポーツの晴れの舞台で、一世一代の大勝負が可能となって、一子の生体の神経回路網は一心不乱に動き出す。
しかし、決定的敗北を喫したことで、一子の大勝負は頓挫する。
唯一、甘えられる相手に、「一度でいいから、勝ちたかった」と泣きじゃくった一子だったが、彼女にとって、この得難い経験は彼女の人生の頓挫を意味しない。
むしろ、この経験は彼女の人生の節目となって、彼女自身を大きく変えていくだろう。
ここで、私は勘考する。
一子はなぜ、ボクシングに向かったのかということを。
この点を考える時、この映画で最も重要なシーンの一つを想起せざるを得ない。
工事現場の警備員になっていた狩野から、ボクシングを始めた理由を聞かれた際の一子の反応の曖昧さのエピソードである。
「殴り合ったり、肩叩き合ったり、何か、そういうのが、何だろ・・・」
一子は口を濁したが、彼女自身も自覚し得ていないのだ。
確かに、ボクサーだった狩野の影響を無視できないが、それは表層的な因子でしかないだろう。
ここで、更に勘考すれば、どうしても、もう一つの重要なシーンを想起してしまうのである。
それは、引退試合で負けたときに、狩野が相手の選手と抱擁し、肩を叩き合っているシーンである。
試合で負けたのに、相手の選手と肩を叩き合っている狩野の態度を、体を乗り出して、一子は真剣に凝視するのだ。
「お友達なんですか?相手の人」
ボクシングのルールを全く知らない一子は、そう聞いたのである。
「終わってしまえば、ノーサイド。憎しみ合っているわけではないからね」
その直後にレイプされる野間から説明を受け、納得する一子。
これが、ラストシークエンンでの一子の行動に反映されるのだ。
試合に負けた一子は、疲弊し切っているのに拘わらず、よろけながらも相手に近づき、ノーサイドの抱擁を求めていくのである。
「ありがとう。ありがとう」
そう言って、対戦相手と肩を叩き合う一子は観客席に向き、頭を下げる。
これが、一子をボクシングに向かわせた決定的モチーフだったのだ。
ただ単に、その思いのコアを自覚的に意識していなかったから、狩野の問いに的確に反応できなかったのである。
二三子の視線 |
そして、何もかも終焉した今、その視線の向こうには、家出の原因になった二三子の視線がある。
二三子もまた、俯(うつむ)きながら沈考するカットが映し出される。
姉を「負け犬」と愚弄する妹が、痣(あざ)だらけの顔を観客席に向かって頭を下げる行為を視認し、見ていられない気持ちになったのだろう。
そんな感情が起こったこと自体、「戦う女」を具現し、ノーサイドの抱擁を体現した姉に対する妹の心の大きな変化だった。
本作で最も重要なシーンであると言っていい。
僅か数ヶ月の間で、一子が経験的に学習したものの大きさは計り知れなかった。
何より、凄まじいまでの姉妹喧嘩をした二人の女は、今、「ノーサイドの思いの交換」に辿り着いたのだ。
追われるように、「32歳の自立」を立ち上げた一子は、ノーサイドに収斂される「戦う女」と化し、精神的自立を伴って自己完結する。
単なるラブストーリーではなかったのだ。
「戦う女の映画」(武正晴監督インタビュー)という言葉を援用すれば、本作は、「ノーサイドに収斂される『戦う女』の疾走感」というサブタイトルが相応しいと、私は思う。
(2015年9月)
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