左からディック・ミネ、市川春代、片岡千恵蔵 |
<オペレッタ時代劇のえも言われぬ「突き抜けた可笑しさ」>
1 「浮かれ鴛鴦。おしゃれ鴛鴦。皆でやんやと踊ろうよ♪」
私のように、この映画の面白さを受け入れられる者には、殆ど病み付きになるコメディ。
とんでもなく可笑しく、生半可ではない笑いの連射は、邦画史上に名を残す紛れもない傑作として、今後も観られ続けるだろう。
特に、一気に畳み掛けていくラストシークエンスは、驚嘆を禁じ得ないこの映画の結晶点だった。
―― 以下、粗筋を紹介する。
日本橋の香川屋という大店の娘・おとみが出入り商人たちに言い寄られ、それを手代の三夫(さんた)によって守られ、その場を去っていく冒頭のシーンから、ミュージカルの軽快な歌と踊りで観る者を引きつける。
ところが、その直後のシーンは爆笑もの。
「殿様」 |
ディック・ミネ扮する「殿様」(峯澤丹波守/以下、「殿様」)が、多くの家臣を引き連れて登場し、もっと軽快なスウィングに乗って歌いまくるのだ。
「僕は若い殿様。家来ども喜べー。今日も得意にどっさり買った掘り出し物だよ。そう、僕の空。憧れの夢の宝。胸に抱けば、にやりと零れるこの笑顔。町を行けば、眩い青春の花園。凄いシャンだ見目好い鷹は掘り出し物だよ。そう、若い者は僕の夢。黒髪の甘い香り。可愛い乙女、一目でとろり。あの子にまいっちゃった♪」
歌の途中で一目ぼれした「可愛い乙女」とは、先の美女・おとみのこと。
ここで一転して、おとみの「別荘」の近くにある貧乏長屋で、父親とお春の生活風景を映し出す。
父親の名は、志村喬演じる志村狂斎(以下、狂斎)。
この長屋で、日傘作りをしながら、身過ぎ世過ぎ(みすぎよすぎ)を繋いでいる父娘であるが、「殿様」と同様、骨董にすこぶる目がない父の道楽に、呆れ返る娘のお春の嘆息が日常化していた。
「わしゃな、お前の嫁入りの費用を貯めておくつもりで買い込んでおるんだ」
「まあ、バカバカしい。誰があんな二束三文の骨董なんか買ってくれる人があるもんですか。せめて、毎日のお米代にこと欠かさないようにして欲しいわ」
ここで、父娘の歌が入る。
「米の飯なら誰も食う。たまにゃ、ふんわり麦焦がし。粋なもんだよ喰ってみな。腹が減るから腹が立つ♪」
「あれじゃ、全くやるせない。聞いただけでも麦焦がし。胸がむかつく嫌なもの♪」
狂斎とお春
|
「麦焦がし」ばかりの食事に辟易(へきえき)する娘と父との「歌合戦」には、「食の貧しさ」があっても、「心の貧しさ」を感じさせないシーンでもあった。
因みに、「麦焦がし」とは、大麦を炒(い)って粉に挽(ひ)いたもので、砂糖を混ぜて、水で練って食べたりするらしい。
物語を進める。
長屋の外に多くの日傘を並べて、「憎い人ほど愛しいわ♪」などと元気に歌うお春のもとにやって来たのは、同じ長屋で暮らす、片岡千恵蔵扮する浅井礼三郎(以下、礼三郎)。
「何、怒ってるんだよ」と礼三郎。
「あたしがいくら稼いだって、お父さんが怪しげな骨董品に皆つぎ込んじゃうんですもの」とお春。
「いいじゃないか。人間誰だって、一つくらい道楽があるもんだぜ」
「ちぇ!あたし、そんな夢みたいなこと大嫌い。こんな傘張りなんか、嫌になってしまったのよ」
「そのうち、掘り出し物があるかも知れない」と父を庇う礼三郎に反発しつつも、想いを寄せているお春の感情が読み取れる。
そこに、日傘をさして、同じく想いを寄せるおとみがやって来るが、「貧富の差」を皮肉る礼三郎の一言が決め台詞になる。
「とかく浮世はままならぬ。日傘さす人、作る人」。
その日傘を作るお春が、二人の遣り取りを嫉妬含みで眺めていた。
左から礼三郎、おとみ、お春 |
日傘を気に入ったおとみが、お春に何十両出してもいいから売ってくれと頼むが、「小売りはしない」と拒むお春との恋の鞘当(さやあ)てが、オペレッタの盛り上がりの中で展開されるのだ。
しかし、この二人の恋の鞘当(さやあ)ての中に、もう一人の女性が加わることで厄介な事態になっていく。
礼三郎の叔父・遠山満右衛門(以下、遠山)も許した許嫁(いいなずけ)・藤尾の出現である。
例の「殿様」の家臣の一人である遠山も現れ、「もっと寄れ、抱きつけ!」などとけしかけるのだ。
「それがどうも、はなはだ迷惑」
自分の父と遠山との間で交わされた、許嫁との結婚に逡巡する礼三郎。
「お前の強敵が現れたな」
その話を壁一枚隔てた隣の部屋で聞いていた狂斎が、お春に放った言葉である。
礼三郎とお春 |
そこに礼三郎が現れ、「別に、女が嫌いってわけじゃないんですがね。裃(かみしも)を着けて昔の暮らしに帰るのが嫌なんですよ」と吐露し、傍にいたお春の気持ちを安堵させる。
その気持ちを厭味で返すお春の想いをも、了解済みの礼三郎。
仕官するより素浪人でいる方がいいと考える礼三郎は、根っからの自由人なのだろう。
ガツガツと欲得に走らないそんな性格が、女にもてる理由なのかも知れない。
一方、もう一人の本格的な骨董趣味の「殿様」は、家臣を相手に、茶碗の名器の価値を堂々と歌い上げていた。
「さーて、さって、さってこの茶碗。ちゃんちゃん茶碗と音(ね)も響く。道八茶碗はニッポンじゃ。見たか、聞いたか、聞いたか。塗った薬の色といい。色は艶良し値良し。腰の丸みのほどの良さ。さーて、さって、さってこの茶碗。さても天下の一品じゃ♪」
さすが、プロ歌手・ディック・ミネの本領発揮のシーンである。
「道八茶碗」 |
因みに、ここで言う「道八茶碗」とは、清水焼陶工の代々の名・高橋道八由来の名茶碗のこと。
ある日のことだった。
狂斉は馴染みの骨董屋・道具屋六兵衛の店で、「日本にたった一つしかない道八の茶碗をただの三分」で買ったと喜んで長屋に戻って来た。
しかし、米代の全てを使ってしまった父に不満をぶつけるお春。
これが、この父娘のいつもの生活風景なのだろう。
一方、偶(たま)さか、同じ骨董屋で「殿様」と出会った狂斉は、50両の「狩野探幽の掛け軸」を「殿様」からプレゼントしてもらい、腰を抜かすほどの歓びを隠し切れない。
同じ趣味を持つ者の相性が良かったのかも知れない。
狂斉の人柄が気に入ったのか、「殿様」が貧乏長屋を訪れる。
「静御前の初音の鼓」や「青葉の笛」などの「名品」を「殿様」に対して、自慢げに見せる狂斉。
しかし、「殿様」の目を引いたのは、傍らにいるお春だった。
骨董ばかりでなく女性にも目がない「殿様」は、家臣の一人である遠山に自分の妾になるように働きかける。
左から藤尾、「殿様」、お春 |
それを承知する遠山の思惑は、自分の娘の藤尾のライバルを一人蹴落とせると考えたのだ。
「あの子に参った。よしなに頼むぞ。これ、家来♪」と、「殿様」も上機嫌。
ところが、狂斉にも意地がある。
「絵日傘を描いていても武士は武士。鰹節ではござらん」
礼三郎を慕う娘の気持ちを何よりも理解しているから、妾にすることを拒む狂斉。
怒った「殿様」が五十両の返済を狂斉に求めるが、強気の狂斉は「狩野探幽の掛け軸」を金に換えれば、それで済むと考えていたからである。
ところが、骨董屋・道具屋六兵衛の店に赴いた狂斉は、「狩野探幽の掛け軸」が偽物と鑑定され、衝撃を隠せない。
思うに、自分で売ったにも拘らず、その掛け軸が「売った後に偽物と分りまして」と言ってのける、道具屋六兵衛の阿漕(あこぎ)な商売に文句を付けない、狂斉のお人好しぶりも極まっていた。
もっとも、自分の目利きの悪さが起因するとも言えるので、ある意味で自業自得であると言えなくもない。
結局、「狩野探幽の掛け軸」の偽物を三両で売り渡すに至る。
その三両に、残り四七両を工面するため、それまで道楽で蒐集したガラクタの如き骨董品を六兵衛に処分してもらうものの、八両二分にしかならず、とうてい「殿様」への返済額には届きようがなかった。
「あたし、お妾なんて、死んだって嫌よ」
娘・お春の言葉に、「すまん。すまんのう」としか反応できない狂斉の落胆ぶりは極点に達していた。
狂斉の落胆が「夜逃げ」という結論に達したのも当然だった。
「すっからかんの空財布。あるのはガラクタ、骨董品。夜逃げをするなら今のうち。娘よ手伝え、支度しな。別れておいでよ、あの人へ。お前の心を察しては、鼻水垂らしてわしも泣く♪」
「夜逃げ」の準備をしながら、どうしても「夜逃げ」に踏み切れないお春の気持ちを察しつつも、狂斉はこんなバカな歌を歌っている。
一方、金よりも女を求める「殿様」は、五十両を返済されたら困るので、家来を連れてお春の略奪という物騒な手段に打って出るのだ。
「僕はお洒落な殿様。君は可愛い乙女。素敵な青春の花束を上げましょう。家来もついて来い。何て楽しい青空♪」
相変わらず、能天気な歌を歌いながら、「略奪行」に向かう「殿様」のシーンは、狂斉の落胆ぶりの描写と合わせて、この映画の「突き抜けた可笑しさ」の白眉でもある。
礼三郎がお春を救出したのは、家来を連れた「殿様」の略奪事件を目視したときだった。
刀を持たない礼三郎が、家来たちを次々と倒して、退散させていくこのシーンは、唯一の殺陣で最高の見せ場になっている。
その礼三郎がお春に愛を告白したことで、他の二人のライバル(藤尾とおとみ)は、この恋の鞘当てから手を引くに至る。
そして、「夜逃げ」していく狂斉は、道具屋六兵衛に渡した「麦焦がし」の入れ物が、一万両の価値がある伊達政宗の「文久の茶入れ」であることを知らされ、狂ったように驚嘆し、「別荘を建てる」と言って、お春と共に歓びを隠せない。
しかし、その歓びを礼三郎に話し、共有しようと近づくお春に、礼三郎は強い口調で言い切った。
「わしは金持ちは嫌いだ!」 |
「わしは金持ちは嫌いだ!ことに成り上がりの金持ちは、なお嫌いだ!お春さん、お前さんは金持ちを好きな人と一緒になりなさい。わしは引っ越しだ」
頓挫した二・二六事件の青年将校が聞いたら喜びそうな言葉だが、本作のメッセージであることは自明だろう。
ともあれ、そのあとのお春の行動は、この映画を通して最高のパフォーマンスであると言っていい。
父から「文久の茶入れ」を取り上げ、それを地面に叩きつけ、壊してしまうのだ。
「あたしは、今ごろ知りました。お金なんぞが何でしょう。愛の珠玉の尊さは、永久(とわ)に曇らぬ光なの♪」
愛する男に言われて目が覚めた女の晴れやかな歌声が、天を劈(つんざ)いていく。
娘の思いを知った父もまた、目が覚めるのだ。
「娘でかした金よりも、胸の真珠を掘り出した♪」
引っ越しの支度をして出て来た礼三郎の前に、「文久の茶入れ」の破片を見せ、金に目が眩(くら)んだ自分を恥じ、礼三郎への想いを形にして表現するお春。
微笑む礼三郎。
「あっぱれ、でかしたぞ。親の欲目じゃないけれど、わしにお前はでき過ぎだ。たった一つの宝じゃよ♪」
狂斉の陽気な歌が、ラストシークエンスに向かって一気に畳み掛けていくシグナルになる。
礼三郎、おとみと三吉ら香川屋の奉公人、更に、藤尾の父・遠山や道具屋六兵衛らが円陣を組んで、一斉に歌い出すのだ。
「浮かれ鴛鴦。おしゃれ鴛鴦。皆でやんやと踊ろうよ♪」
そしてラストカットは、皆が一斉に日傘を開く構図。
陽気な連中の陽気な歌で閉じる映画の、誰も真似ができないような決定的な構図の勢いに引き込まれる、ラストシークエンスの凄みに圧倒された。
全く文句の付けようがないオペレッタ時代劇だった。
2 オペレッタ時代劇のえも言われぬ「突き抜けた可笑しさ」
「昭和モダン」という言葉がある。
国内外が激動の時代(第一次世界大戦)であったにも関わらず、日本初のヌード広告(のちのサントリー・寿屋の赤玉ポートワインの広告)が出現する現象に象徴される、個人の解放が声高に謳われていた時代が我が国・日本にあった。
1922年(大正11年)のことである。
19世紀のヨーロッパの「ロマン主義」という名の精神運動の影響を受け、自由主義的な気風の運動の頂点と言うべき、我が国の民主主義の発展に寄与した大正デモクラシーを経由し、個人主義(自由恋愛の流行)を主潮とする和洋折衷の近代市民文化が一気に花開いた新時代の息吹き ―― それが「昭和モダン」である。
世界恐慌の影響を受けつつも、高橋蔵相の世界初のケインズ政策(積極財政政策)=リフレーション(金融緩和)の実施によって経済活動の回復もあり、市民文化の主潮は、「大正ロマン」(「大正モダン」と表裏一体)から「昭和モダン」へと継承されていった。
職業婦人・洋食レストランや宝塚や甲子園球場など、近代的文化・生活様式の「阪神間モダニズム」の出現や、洋服と帽子の「モダン・ガール」(モガ)・「モダン・ボーイ」(モボ)が注目された、この「昭和モダン」の風潮の渦中で、我が国の映画文化もまた大きく花開いたのである。
明治32年に、日本で国産第一号の活動写真(動く写真という意味で使われた映画の旧称)が公開され、日本初の映画俳優・横山運平を生んだ、この画期的な大衆文化は、1929年(昭和4年)に日本初のトーキー映画「大尉の娘」に結ばれ、以降、戦前の日本映画の黄金時代を作り上げていった。
その黄金時代の中から生まれた究極の一作 ―― それが「鴛鴦(おしどり)歌合戦」だった。
青年監督時代のマキノ(ウィキ) |
その作り手はマキノ雅弘。
のちに、高倉健を任侠映画の看板スターにした「日本侠客伝」(全11作/1964年から1969年)シリーズの大半(9作)を世に出したことで、高校時代以来、その全てを観た私にとって、最も忘れ難い映画監督の一人になっている。
85年の生涯で、260本もの映画の監督・製作に携わってきたマキノ雅弘監督が、戦前に作った映画の中で、「突き抜けた可笑しさ」を炸裂させた映画こそ、本篇の「鴛鴦歌合戦」であると言っていい。
後にも先にも、これほどまでに面白い映画と出会うことは難しいだろう。
少なくとも私にとって、一度観たら二度と忘れられない映画とは、こういう映画のことを指す。
主演の片岡千恵蔵も何気に面白かったが、このオペレッタ時代劇のえも言われぬ「突き抜けた可笑しさ」を体現していたのは、志村喬とディック・ミネ、市川春代である。
無論、私の主観である。
ディック・ミネ |
ディック・ミネの「殿様」の可笑しさは、伊賀山正徳監督の「ジャズ忠臣蔵」(1937年製作)や、マキノ雅弘監督の「弥次喜多道中記」(1938年製作)、など、多くのミュージカル映画に出演していたキャリアも手伝って、演技力は上出来とは言えないが、プロのジャズ歌手の本領を発揮する実力を披露しつつ、一貫して、歌と台詞が絶妙な均衡感を保持した演出に因るところが大きかった。
片岡千恵蔵とのチャンバラで、刀を持っていない相手に向かわず、画面の片端で、刀を一人で振り回しているシーンは爆笑ものだった。
底抜けの明るさと軽快感、そして自由度の幅の広さ。
これを体現したのが、当時、30歳そこそこのディック・ミネだから、余計、笑いを堪えられないのだ。
また、お春を演じた市川春代も特筆もの。
「ちぇ!こんな傘張りなんか、嫌になってしまったのよ」
この台詞は最高だった。
舌足らずの微妙な演技と歌唱が市川春代の可愛さを倍増させていたが、当時26歳の彼女の感情表現は可憐な娘姿に見事に同化し、出色だった。
この映画一本で、市川春代は邦画史に残るだろう。
そして、何より特筆に値するのは志村喬。
これは凄かった。
「生きる」(1952年製作)や「七人の侍」(1954年製作)に代表される、「黒沢映画」の志村喬というイメージと無縁な、もう二人の「志村喬」がここにいる。
「コメディアン・志村喬」と「歌手・志村喬」の二人である。
特に、「コメディアン・志村喬」の存在感が際立っていたが、「歌手・志村喬」との見事な融合が、この名優の面目躍如たる演技の幅の広さを裏付けていた。
この二人の「志村喬」なしに、この映画は成立しなかったと言い切れる。
志村喬 |
実質的に主役を演じた二人の「志村喬」の炸裂 ―― これが、オペレッタ時代劇のえも言われぬ「突き抜けた可笑しさ」を体現したこの映画の生命線だった。
えも言われぬ「突き抜けた可笑しさ」を体現した「鴛鴦歌合戦」を、モダン時代劇の傑作として絶賛したい。
まさに職人芸だった。
「映画職人」・マキノ雅弘監督、恐るべしである。
3 底抜けの明るさと軽快感を醸し出す映画の製作が可能だった時代
本稿の最後に、日中戦争の最中の1939年(昭和14年)に、底抜けの明るさと軽快感を醸し出す映画の製作が可能だったという「不思議」の理由について、簡単に言及したい。
結論から言うと、「少なくとも太平洋戦争がはじまるまでは、町には庶民の生活があった」という、小説家・吉村昭の「東京の下町」(文芸春秋社刊)に収められた言葉によって説明できるだろう。
この吉村昭の言葉を援用し、今でも下町風情漂う板橋区に限定して、当時の庶民の生活を総務省の資料に基づいて検証してみる。
戦前の防空演習や出征風景の写真を見ても、板橋区民には笑顔があり、緊張感を感じさせない。
太平洋戦争前の中国戦線では日本軍は勝ち戦続きであったが、ところが、昭和16年(1941年)以降、戦況は一変した。
板橋区での徴兵は、区役所の兵事課を通じて行われ、出征兵士には親類縁者をはじめ、近隣に住む者までを含めた盛大な壮行会が開かれ、武運長久を祈る風習があった。
余裕があったのだ。
即ち、国家総力戦体制に転じていない太平洋戦争前は米軍の空襲もなく、庶民の生活は長閑(のどか)だったのである。
しかし、日中戦争までは盛大に行われた壮行会も、太平洋戦争以降は自粛の方向に動いていき、のぼり旗を立てた駅までの派手な街頭行進から、自宅前での近親者に囲まれた出征風景へと変化していく。
ジミー・ドーリットル中佐(ウィキ) |
アメリカ陸空軍の航空母艦・ホーネットに搭載したB-25による、日本本土に対する初の空襲・「ドーリットル空襲」(ジミー・ドーリットル中佐)が起こったのが、1942年(昭和17年)4月18日のこと。
真珠湾攻撃以降で被弾した国内の空気を鼓舞することと、日本側の士気を挫くという目的だが、日本側の死者87名、重軽傷者466名、家屋262戸の被害が出たという結果を見れば、この空襲が成功裏に終わった事実を否定できないだろう。
この「ドーリットル空襲」による板橋区の空襲被害は、日本軍が撃った高射砲の破片で、赤塚の家屋が被害を受けたというものだったが、それまで空襲というものを知らなかった日本国民に対して少なからぬ心理的影響を与えたのは間違いない。
それでも、日本国民には、まだ余裕が残されていた。
「初めての本当の空襲であるが、晴れて明るい日のこととて、のん気である。(略)今まで受け身でばかりいたアメリカ人も初めて少しは仕事らしいことをしたと、ほめてやりたい位の気持ちである」(「太平洋戦争日記」新潮社刊)
「チャタレイ裁判」で名高い小説家・伊藤整の日記の一節である。
しかし、伊藤整のこの余裕は長続きしなかった。
昭和17年・18年辺りまで何とか誤魔化せた余裕が、戦争末期の2年間に一気に深刻化し、自壊していくのだ。
戦略爆撃機による爆弾投下(ウィキ) |
B-29による本土無差別爆撃に象徴されるように、国民が辛酸を嘗(な)めるようになっていくのである。
出征する方も送る方も、どちらも悲痛な顔をしている。
男は国民服を身につけ、女はモンペ姿に防空頭巾、靴の配給も滞りはじめ、下駄の着用が増加するのは昭和18年(1943年)暮れ以降である。
銃後と呼ばれた人々は「隣組」に組織され、出征兵士のために「千人針」(武運長久を祈る民間信仰)や「慰問袋」(出征兵士を慰めるために手紙や娯楽品などを入れた袋)の作成、貴金属の供出や勤労奉仕など多忙であった。
「隣組」からの脱落は考えられず、教育現場も戦時色に染まり、誰も戦争遂行には疑念を抱いていなかった。
もし、そう思った者がいたとしても、周囲の監視から逃れることはできず、社会全体の流れに従わざるを得ない状況であった。
では、板橋区では、どうだったのか。
板橋区が本格的な空襲に初めて見舞われたのは、昭和19(1944年)12月3日のこと。
被害の程度は皆無だったが、爆撃機B-29による白昼の空襲で、現在の小茂根一帯に爆弾・焼夷弾が投下された。
この年の暮れの12月27日には、志村蓮沼(現在の本蓮沼)で爆弾2発が炸裂、家屋2棟が全半壊して死者3名を出し、区内最初の犠牲者を記録した。
翌20(1945年)には、1月27日以降、8月10日の終戦直前まで、16回の空襲があった。
特に、4月13日夜、板橋町一帯を襲った空襲は甚大な被害をもたらし、232名の死者を出した。
また、6月10日の朝、上板橋を中心にした空襲も激しく、269名の死者が出ている。
一連の空襲で板橋区は、死者500名、被害建物12000軒、罹災者60000人余を数える激甚な被害を被った。
殆ど、地獄絵図のような風景が、そこかしこで見られるようになっていくのだ。
―― 以上、見てきたように、太平洋戦争に突入することなく、米軍の空襲がなかった庶民の生活が長閑だった時期に製作された、「鴛鴦歌合戦」という底抜けに明るい映画がモダン時代劇の決定版として公開されたのである。
【参考資料】 「板橋区における戦災の状況(東京都) - 総務省」
(2015年9月)
とても面白そうな映画ですね。
返信削除市川春代という人ははじめて知りました。
学生時代は映画を専攻してた事もあり、猪俣勝人の「日本映画名作全史」などを電車で好んで読んでいました。
社会人になってから、映画史を全10回に分けた講座で解説して欲しいと市役所に依頼された事があり、20代後半だった私はとても困りましたが、半年近く映画史の本を読みあさって、なんとかやり終えた思い出があります。
その時に実際に一番参考に出来た本は、なんと言っても田中純一郎の「日本映画発達史」全5巻でした。偶然田中純一郎生誕の群馬県太田市に隣接した街に住んでいるため、関係書籍を大切に保管や展示してある新田図書館にも簡単に足を運べたため、大変助かりました。
田中純一郎さんは、全史の中では映画に対する私感を可能な限り排除して、事実のみを積み重ねていってくれていましたので、私には理解しやすく役立ちました。
先の戦争では、確かに実際に本土に戦闘機が飛んで来るまでは実感をあまり感じる事なく、大相撲などに興ずる市民の姿が空襲ギリギリまで見る事が出来ますね。目の前でドンパチやっていなければ、何となく対岸の火事ととらえることも出来たのでしょう。でも、時代が変わると戦争の形が変化してくるのだとしたら、やはりその時々に人々はその時の見え方に固執し、見誤るのかもしれないとも思います。
いっそ壷を割ってしまえる気概が持てたら良いのかもしれませんが、わたしなぞはそれも持ち得ない生き方をやっとの事で繋いでいる人間です。
いつも興味深いコメントをありがとうございます。
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