<甘美なる「ギブ・アンド・ギブ」のトラップに嵌った女の焼失点>
1 貢ぐ女と享受する若者
言葉を失うほど感動した。
邦画界に、これだけの映像を構築する映画作家がいることを誇らしく思う。
思い切り主観的に書けば、私の大好きな「パーマネント野ばら」(2010年製作)、「桐島、部活やめるってよ」(2012年製作)に次ぐ本作の発表で、吉田大八監督の職人的手腕は、情緒過多・説明過多・綺麗事が氾濫する邦画界にあって、一頭地を抜く映画作家として検証されたと考えている。
山下敦弘監督・呉美保監督と並んで、次回作が最も楽しみな映画監督の一人である。
そして宮沢りえ。
彼女は、この秀作一本だけでも、邦画史にその名を残すだろう。
それほど素晴らしかった。
―― 以下、梗概と批評。
パートタイマーから契約社員になってまもない銀行員・梅澤梨花(以下、梨花)が、高額な化粧品を買う際に、1万円の不足を顧客から集金した金で補填したことから、彼女の転落人生が開かれていく。
先日、大口契約を成就させたことで上司から評価され、営業ウーマンとしての成功体験に満足感を覚え、自意識が目覚めたのだろう。
専業主婦だった女の成功体験と周囲の評価の高さを受け、高額な化粧品を買うに至ったのもこの延長上にある。
そればかりではない。
その大口契約の吝嗇家(りんしょくか)の平林の孫・光太と偶然出会い、一方的に見つめられたことによって、それを意識する梨花の「女」の「性」が微(かす)かに反応したこと。
それは、自分がまだ、他者からの熱い視線を受ける「現役の女」であることを過剰に意識させる、一つの小さなエピソードだった。
梨花と光太 |
再び、帰宅の地下鉄のホームで、その光太の熱い視線を受けた梨花が、ラブホテルで結ばれたのは、殆ど自然の成り行きと言っていい。
説明描写なく、二人の愛欲を描き出すまでのこのシーンは素晴らしい。
一方、帰宅した梨花に、「上海土産」として、免税店で買って来たカルティエの高級時計をプレゼントする夫・正文は、既に、ペアの腕時計を夫にプレゼントしたばかりの梨花の行為を無にするものだった。
妻からプレゼントされた正文は、数万円程度の時計のチョイスに不満であったが故に、妻の思いを無神経にも逆撫(さかな)でする。
これは、夫の悪意などではなく、夫婦の価値観の相違を顕在化するものだった。
梨花と夫・正文 |
時は1994年、バブルが弾けて数年後の、我が国の中流層の生活風景の一端だった。
父親がリストラされたことで学費が払えなかった光太の事情を梨花が知ったのは、夫が上海に出張する話を聞いた直後だった。
金に煩(うるさ)い顧客の平林から預かった200万円の預金手続きの最中に、その平林から電話が入る。
それは、孫である光太の借金に、営業ウーマンの梨花が関与することへの一方的警告だった。
この一件を機に、孫の窮地を顧みない平林に反発する梨花は、光太への好意と同情を心理的起因にして、横領犯罪へのハードルを一気に超えていく。
平林の定期預金の申し込みがキャンセルになったと偽り、発行された書損(無効書類)扱いの預金証書をコピーして、一旦入金した200万を受け取り、自宅に帰った。
平林 |
平林には、その偽造した定期預金証書を渡したのである。
そして、その200万円を光太に渡す梨花。
「あげるんじゃないの。2年後に完済できるように、少しずつ返して。利子とかは取らないから」
この時点で、梨花の犯罪意識は全く希薄だったと言える。
「受け取ったら、多分何か変わっちゃうよ」
「変わらないよ、何も。200万くらいじゃ」
驚きながらも、光太は受容する。
ここから、一人の女による一連の横領事件が加速するように開かれていく。
「上海には行かない」
光太との関係の深化の中で、夫からの海外出張の同行の求めを断る女がそこにいる。
ここで、梨花の回想シーンが挿入される。
「あなたのしたことは、あなた自身が知っていればいい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いて下さる。“愛の子供プログラム”は、個人による団体への寄付ではなく、助けを必要としている子供たちと、彼らを助けたいと願う人達を、直接繋ぐ個人から個人への寄付を仲介しています。今その国では、昨年の大きな水害で、たくさんの子供たちが苦しんでいます。小さな額でいいのです。あなたたちの毎月のお小遣いを、ほんの少し彼らに分けてあげましょう。主の言葉を思い出して下さい。“受けるより、与える方が幸いである”」
クリスチャンの学校の中学生の生徒たちに対するシスターの言葉である。
この回想を受け、募金して、5歳の男の子から手紙が来た話を、光太に吐露する梨花。
「そのあと、その国で色々あって、たくさん人が死んでる。もう、手紙来なくなっちゃった」
この時点で、光太の存在こそ、その5歳の男の子の「代替」というイメージが提示されるが、無論、そればかりではないだろう。
いずれにせよ、この回想シーンによって、光太に対する梨花の援助行為の精神的ルーツが朧げ(おぼろげ)ながら、観る者に印象づける。
そんな梨花に対し、後輩の相川は直截(ちょくさい)に言ってみせた。
「雰囲気変わりましたよね。何て言うか、出ちゃってます。隠せない感じの何かが。着てるものも、ちょっと感じ変わってるし、気をつけないとチェックされちゃいますよ。私はダメです。一瞬、借りて戻すとか?お客さん、意外に気がつかないと思うんですよね」
梨花と相川 |
何も知る由なく、ジョーク含みで話す相川の言葉に動揺を隠し込む梨花。
しかし、金欠状態になった梨花の暴走は止まらない。
まるで他意のない、相川の挑発的言辞に後押しされるように、認知症の顧客から預かった300万を自分の通帳に入れ、詐取してしてしまうのだ。
その300万を詐取して、自転車を疾駆させる梨花をワンカットで見せるシーンは出色である。
光太と会うために、お洒落な服を身にまとって、高級ホテルで待つ女の高揚感を浮揚させるシーンにリンクするからだ。
腕時計を高級店で買い、スウィートルームでじゃれ合い、セレブ感を存分に享受する二人。
この映画で、腕時計が「ステイタス」のシンボルになっていることが判然とするシーンである。
「貢ぐ女と享受する若者」という、このような身の丈を超える生活は、当然の如く、梨花の犯罪をエスカレートさせずにおかない。
コピー機を購入し、自宅で領収書や支店印のコピーを偽造するのだ。
止められない梨花の犯罪はマンションの一室を借り、光太との逢瀬の特定スポットにするに至る。
そんな折、光太が既に大学を辞め、ホームページ作成の仕事に就くという話を聞かされ、失望する梨花。
梨花と光太
|
この辺りから、物語の風景が少しづつ、しかし、確実に変容していく。
2 加速的にステップアップする現象の、ほとんど「約束された堕ち方」
退職狙いの庶務課への転属に不満を持つ、25年勤務のベテラン銀行員・隅(すみ)より子(以下、隅)が、梨花の横領の疑惑を、次長の井上に告発する。
梨花が関わった書損だけが紛失している事実を指摘したのである。
早速、次長の井上から呼ばれ、追求される梨花。
「200万はどこにいったんですか?」と井上。
「申し訳ありませんでした」と梨花。
あっさりしたものだった。
しかし、梨花は逆襲する。
相川との井上の不倫関係の事実を知る梨花の恫喝である。
「伝票操作のことも誰にも言いません。どこでもやってることですから」
相川から直接聞いていた事実である。
「本当に申し訳ありませんでした。来月には返しますので」
うろたえる井上を見透かした梨花の逆襲は成就するが、梨花の前に最も手強い相手が現れる。
隅 |
井上の伝票操作の事実をも知り尽くしている、仕事に厳格な強面(こわもて)の隅である。
梨花の不正を丹念に調べ上げていく隅。
この間、梨花も防衛手段を講じていくが、それは、堕ち切っていく彼女の「喪失」の始まりでしかなかった。
梨花の幻想の稜線の広がりに息詰まり、結果的に裏切る行為に振れる光太。
恋人を作ってしまったのだ。
「梨花さんごめん。本当に許して下さい・・・あの部屋いると、時々たまんなくなる。いつまで、この生活持つかなぁとか・・・梨花さんも、そう思っていたよね」
「私は、また行く。食べたいもの考えておいて」
「それはダメだよ。無理だよ」
「じゃぁ、お終い・・・」
顔を合わせることを拒む女と、自分の真情を絞り出すように吐露する若者との関係の終焉が、正確に映像提示される重要な会話である。
ここまで観ただけで、女と若者の心理をきっちりと描く一連のシーンの素晴らしさに、正直、驚きを禁じ得ない。
二人の身の丈に合った生活風景から乖離し、加速的にステップアップする現象の、ほとんど「約束された堕ち方」をきっちりと描く、吉田大八監督の人物造形力の凄みに脱帽する。
物語を追っていく。
平林にハニートラップをかけてまで金を必要とする梨花が、今、窮地に追い込まれている。
そんな梨花を追い詰めていく隅は、彼女の顧客先を丹念に調べ上げていく。
この隅の調査によって、梨花の犯罪が銀行の上層部に知られ、完全に逃げ場を失ってしまうのだ。
以下、梨花と隅の直接対決。
「どこかに土地でも持ってないの?全額、耳揃えて戻せば、刑事告訴は免れるかも知れない」
「行きます。行くべきところに。それしかないですから」
以前に、隅が言った言葉を復誦する梨花。
「今のうちに考えておけば。相談できる親戚とか」
「ずるいんじゃないんですか?」
「何が?」
「人を追い込んでおいて、今になって、優しくするんだ」
「別に、そういうんじゃ」
「じゃぁ、今の私なら優しくできるってこと?自分より惨めな人間だから?」
「あなた、惨めなの?あたし、あなたのこと考えてた。幾ら盗ったのか、幾ら使ったのか、何でこんなことしたのか。それから、自分だったらどうするかも考えた。あれはダメ、これはダメて思い込んでいるものを全部取っ払って、自由に何でも好きにやれるとしたら、何をするか。そしたら、徹夜ぐらいしか思い浮かばなくて。したことないの、一度も。翌日に響くから。あなたはしたんでしょ?あたしには想像もできないようなこと。何千万も使ったんだから。そこに座って、あたしを見て、惨めな人間だって思うのは、あなたの方じゃないの?」
この問いに対して、梨花は明け方に残る月を見ながら、それを人差し指で消していくのだ。
「何で、月が消えるの?」
「偽物だから・・・幸せだったんです、あのとき。幸せだけど、いつかは終わるなとも思ってた。哀しいんじゃなく、当たり前に。だって、そういうものだから。本物に見えても、本物じゃない。初めから全部偽物・・・偽物なんだから壊れたっていい。壊したっていい。怖くない。そう思ったら、何だか、体が軽くなったみたいで、ああ、あたし、自由なんだなって。だから、本当にしたいことをしたんです」
「幸せだったから、横領したの?自由って、そういうこと?確かに偽物かもね、お金なんて。ただの紙だもん。でもだから、お金じゃ自由になれない。あなたが行けるのはここまで」
ここまで言われた梨花が、この直後にとった行動は、唐突に椅子で窓ガラスを割り、そこから飛び降りようとするシーン。
当然、隅は梨花の腕を掴み、止めようとする。
「一緒に行きますか?」
隅が行動を共有できないことを知悉(ちしつ)している梨花の言葉である。
窓から飛び降りた梨花は、どこまでも走り続ける。
賛美歌106番・「荒野の果てに」の音楽に乗って、爽快に疾走するのだ。
―― 以下、この会話の意味を考えたい。
この会話の中で、「紙の月」の意味が判然とするが、ここでまた、シスターの言葉が回想的に挿入される。
「“愛の子供プログラム”は打ち切りとします。一部の生徒が、極端に金額の大きい寄付をしたからです。ひけらかしは、恥ずべき行為です」
このシスターの「ひけらかし」という言葉に反応し、生徒達の中から梨花が立ち上がり、自分の父親の金を盗んでまで寄付をすることに正当性を訴えた。
中学校時代の梨花 |
この梨花の行為には、心理的伏線がある。
他の生徒たちが止めても、東南アジアの途上国の貧しい子供への募金を繋ぐ中学校時代の梨花。
その子供からの感謝の手紙に感激し、この行為を継続することに使命感を持ち、彼女なりに存分な自己満足の感情を手に入れたこと。
「ぼくの村は悲しいことがたくさんあったけれど、リカの手紙を読むと楽しい気持ちになります・・・また、手紙をください」
代筆された、その子供からの手紙の一文である。
そこには、満面の笑みを浮かべ、左頬に火傷痕のある子供の写真と、寄付金で買ったペンで描いたという絵が添えられていた。
子供たちからの返信を共有し、雑談に花を添える他の生徒たちと切れ、その手紙と子供の写真を抱き締める少女・梨花。
この使命感・占有感が梨花の自我を覆っているのだ。
いつしか、彼女の使命感は自己膨張していく。
だから、父親の金を盗んでまでも、この行為を止められなかった。
金銭感覚を麻痺させていく梨花の犯罪のルーツが映像提示されたのである。
そしてもう一つ、この会話で浮き彫りになったこと。
それは、梨花と隅の対比による人物造形の差異を顕在化されたこと。
前者は、自我の形成過程の不分明さが残るものの、梨花の犯罪のルーツが、キリスト教的禁欲生活が強いられていた少女期にあるという事実。
だから、金銭感覚を麻痺させていた梨花に、その感覚を麻痺させる条件さえあれば、隠し込まれた彼女の「使命感」が発動するということである。
では、隅の場合はどうか。
一貫して、彼女は梨花のような行動に振れることはないだろうと、私は思う。
なぜなら、隅は、これまでの環境的・生得的な養育過程の中で、外的刺激に対する感情の振れ幅の小さい自己像を形成してきたと思われるからである。
利益による精神的満足感よりも、損失による不満足感を感じる「損大利小」の心理を説く「プロスペクト理論」で言えば、「好きにやれるとしたら徹夜ぐらいしか思い浮かばない」と言い切った彼女の「感情予測」(自分の感情を予測すること)は、厄介な事態に陥っても、常にリスク回避の選択に振れていくとほぼ断言できるからだ。
これは、梨花の逃亡後、左遷されたと思われる井上と切れ、転勤させられることなく、支店業務を継続しているシーンによって瞭然とする。
この辺りの行動様態こそ、「損小利大」に振れやすいが故に、外的刺激に対する感情の振れ幅の大さい自己像を隠し込んできた、梨花の流れ方と決定的に乖離する隅の〈生〉の裸形の様態なのである。
―― 物語を続ける。
ラストシーンである。
提示された映像から、タイと思われる途上国に、梨花はやって来た。
ここで、私は勘考する。
なぜ梨花は、タイと思われる国を逃亡先に選んだのかという問いが、脳裏を過ぎるからである。
この問いを考えるとき、私は、チャップリンの名画・「街の灯」(1931年製作)を想起する。
盲目の花売り娘の目を治癒するために、チャップリン扮する浮浪者が孤軍奮闘する物語である。
「街の灯」より |
目の治癒で視力を回復した花屋の娘と、刑務所帰りの浮浪者が再会するが、みすぼらしい風体をした浮浪者は名乗れず、立ち去ることもできないでいるとき、気付いた花屋の娘から、「あなたでしたの?」という言葉が返ってきた。
残酷な着地点に流れる物語だったが、途上国に向かった梨花のモチーフには、この「もしかしたら、あなたですか?手紙も出せず、申し訳ありませんでした。本当に感謝しています」という言葉を受け取る思いがあったのではないか、と思われる。
後述するが、彼女の形成的自我の芯に張り付いている「ギブ・アンド・ギブ」のメンタリティのルーツが、そこにあるからだ。
梨花には、もう、自分を必要とする対象人物が限定されていた。
では、物語のラストシーンは、果たしてどうだったのか。
途上国の市場の店前で、リンゴがこぼれ落ちてしまった。
その一つを拾った梨花が、少女にリンゴを手渡した。
そこで、一人の成人男性と視線が合う。
この男性こそ、梨花が寄付し続けていた人物である。
5歳のときの例の子供の顔に似ていて、左頬に火傷痕があるからだ。
しかし相手は、当然、梨花を特定できない。
与えられたリンゴを齧(かじ)りながら、嗚咽含みの表情を見せる梨花。
見知らぬ異国人(梨花)にリンゴを与えるほどに自立した青年は、もう社会的弱者ではないのだ。
それを目の当たりにして、梨花は、今や、自分を必要する何者もいない現実を思い知らされる。
映像は、警官が近づいて来るのを見て、その場を足早に立ち去り、雑踏に紛れ込んでいく梨花を映し出す。
梨花が寄付し続けていた人物の視線が、市場の雑踏の中の一つの点景になった、後ろ姿の梨花を映し出す素晴らしいラストカットに結ばれ、物語は閉じていく。
3 甘美なる「ギブ・アンド・ギブ」のトラップに嵌った女の焼失点
パートから仕事を始め、元々、大金の扱いに馴れていない彼女が、会社人間としての夫との夫婦生活の欲求不満の中で、突然、大金を扱う人たち(顧客)との接触によって感覚を麻痺させ、大金をコントロールする術を身につけてしまった。
これが、彼女の犯罪の客観的要因になっている。
しかし、当然ながら、それだけでは説明できない。
では、何が彼女をそうさせたのか。
ここから、彼女の犯罪のルーツに関わる私なりの分析をしたい。
何より、彼女の犯罪の分析の重要な視座は、成人後の梨花が自分の欲望を隠し込み、禁欲的に生きてきたことの反動にある。
これが、私の問題意識のコアにある。
つらつら惟(おもんみ)るに、「ギブ・アンド・ギブ」(「無償供与」という不等価交換)などという甘美なる幻想に酔い、それを実践する人が、この世にいてもいい。
所詮、人間は「物語」の中でしか呼吸を繋げないのである。
人間洞察力の欠如のため、その行為によって相手が不利益を被る事態に著しく鈍感になっている、そのような人物に近づかなければいいだけの話なのだ。
しかし、大抵の人は、「ギブ・アンド・テイク」(「供与と感射による相応の自己満足」という等価交換=日本流の「お互い様」という黙契)の振れ幅をコントロールできる心理の枠組みの中で呼吸を繋いでいる。
だから、販売心理学で言う、「ゴルディロックス効果」(極端な選択を避け、無難な選択をする⇒人間関係での適性な距離感)が保持され、延長されていく。(注)
但し、「ゴルディロックス効果」が保持され、延長させていくには相応の能力と努力が求められる。
このことは、「ギブ・アンド・テイク」の振れ幅をコントロールすることの難しさを示している。
なぜなら、稀に「ギブ・アンド・ギブ」に隠し込まれた、「ギブ・アンド・テイク・テイク」(「供与と報恩の被欲の途切れのなさ」という不等価交換)というトラップに嵌る危うさを露わにするからである。
このトラップに嵌ると、どうなるか。
「ギブ・アンド・テイク・テイク」の「ギブ」が膨張してしまうのだ。
ここから、映画に言及する。
横領で手に入れた大金を蕩尽しても、梨花がまるで人が変わったように、煩悶どころか、一片の悔いなしと言わんばかりに振る舞うことができたのは、甘美なる「ギブ・アンド・ギブ」という行為に隠し込まれた、「ギブ・アンド・テイク・テイク」のメンタリティが自壊していなかったからである。
だから「ギブ」だけが膨張し、どこまでも突き進む。
「ギブ」の対象人物は、バイトとサラ金で学費を捻出している大学生・光太。
しかし、その若者は中退の危機にあった。
この現実を目の当たりにしたことで、梨花の「ギブ・アンド・ギブ」の捩(ねじ)れ切った使命感が刺激され、未だ閉じられていない過去の記憶が喚起された。
これが、夫婦間で満たされていなかっただろう、彼女の心の空洞を埋めていく。
思うに、経済的に満たされているだけで、自分の欲望を抑え、禁欲的に生きてきた梨花の「ギブ・アンド・ギブ」のメンタリティが、時計の一件に象徴されるように、夫との夫婦生活の中で全く生かされていないのだ。
そんな梨花の心の空洞を埋めたのが光太だった。
光太こそ、途上国に住む貧しい5歳の男の子の「代替」でもあった。
ここで、その途上国の子供から手紙を受け取ったときの、少女・梨花の歓喜に満ちた過剰な反応を、否(いや)が応にも想起せざるを得ないのである。
だから、「手紙来なくなっちゃった」と光太に吐露した梨花の、捩れ切った使命感を推進力にする「ギブ・アンド・ギブ」の行為が発動するのは必至だった。
途上国の子供への「ギブ・アンド・ギブ」の行為は、梨花の内側で未だ閉じられていないのだ。
繰り返すが、梨花の「ギブ・アンド・ギブ」の行為の本質は、「供与と報恩の被欲の途切れのなさ」という不等価交換=「ギブ・アンド・テイク・テイク」のメンタリティである。
夫婦の価値観の相違に無頓着な夫への「ギブ・アンド・ギブ」の行為が封印され、禁欲的に生きてきたことの反動が一気に炸裂していくのは、心理学的に言えば納得できる行為であると言える。
いつしか、限りなく自分に甘えてくる光太によって、封印されていた使命感が自己運動を起こし、加速的に膨張していく。
今や、何の障壁もなく、禁断の男女関係に流れていき、梨花のフェロモンもまた、加速的に分泌されていくのだ。
他を圧するような澎湃(ほうはい)たる波浪の勢いで、梨花の「ギブ・アンド・ギブ」の行為が、二人を囲繞する空気を支配し、「供与と報恩の被欲の途切れのなさ」という不等価交換を具現する。
それは、自壊的な危機を孕(はら)むデトネーション(異常燃焼)だった。
だからこそと言うべきか、この行為は挫折する。
光太が、梨花の「ギブ・アンド・ギブ」の連射に耐えられなくなったからである。
弾ける笑顔や、恍惚として満たされるセックスも飽和状態になって、破滅に向かって堕ちていくまで、「妄想系」の世界を突き進むには、光太は「普通」過ぎたのだ。
「供与と報恩の被欲の途切れのなさ」という不等価交換に耐えられる者がいれば、それこそ自我の病理と言っていい。
しかし、光太の自我は病理に冒されていなかった。
それが、光太を救ったのである。
ただ一人、梨花だけが自我の病理を顕在化させてしまったのだ。
―― 敢えて、「展開のリアリズム」(偶然性の多用・途上国行き)と「描写のリアリズム」(二階の窓を割って飛び降りる行為)をスルーして構築し得たのは、映画的虚構の世界で氾濫の渦を巻き、疾走する一人の女の焼失点の風景の提示だった。
まさにそれこそは、「あなたが行けるのはここまで」という隅の言葉を振り切った女の、激発的疾走を起点にした「その先」のゾーンへの、物語の風景を一変させる世界だった。
こういう武器を有する、映画的虚構の独壇場のフィールドに、しばしば、不愉快な思いを隠せなかったであろう観る者を誘導していく。
「あなたが行けるのはここまで」
この言葉を振り切ってしまえば、あとはもう、それまで保持していた物語の「リアリズム」を突き抜けて疾走する先に待つ未知の風景のみである。
この未知の風景を、感情移入の有無に関わらず、ヒロインと共に観る者が共有するのだ。
吉田大八監督 |
総合芸術としての映画の武器を駆使した、吉田大八監督の力量の凄みに感嘆せざるを得ない。
閑話休題。
改めて考えてみるに、それが開く世界が、偽物(「紙の月」)の価値でしかないことを確信的に知りつつも、そこで手に入れられる解放感が、たとえ束の間であっても、何ものにも代えがたい、言い知れぬ満足感に浸れるが故に、女の疾走に誰もバリアを張ることなど叶わなかった。
女の疾走を起点にした「その先」の世界が、女の「ギブ・アンド・ギブ」を必要とする何者もいない、蕩尽の果ての焼失点でしかなかった風景の提示は、殆ど予約済みであるが故に切ないのだ。
「急に金持ちになっても、それ自体では、めったに、長きにわたって至福を味わい続けられるようになるわけではない。最初の高揚感が薄れたとき、その突然のたなぼたは、むしろさらに幸福感を減らしさえするかも知れない」
感情心理学・ロボット工学を研究する英国出身の学者・ディラン・エヴァンズの、この彰々たる言辞の文脈を知りつつも蕩尽し、疾走し続けた女の〈生〉が見せた、どうしても変えられない偽物の世界での束の間の解放感。
そのペナルティが、人生の断片を彼女なりに切り取って、蕩尽し切った果ての焼失点だった。
「その先」を描いたことで成功した映像は、まさに「その先」を描いたことによって、ペナルティなしに閉じられない物語の帰結点を炙り出す。
甘美なる「ギブ・アンド・ギブ」のトラップに嵌った女の寄る辺なき彷徨の物語は、観る者のモラルの容赦ない裁きを受ければ処理されるだろうが、感情移入の有無やモラルで映画を観ない私には、思考の稜線を伸ばしてくれた本作への感謝の気持ちしかない。
「よりゆっくりと時間をかけて貴い方向に進んでいける者こそが、最も幸福なのである」(「道徳感情論」)
私には、アダム・スミスのこの平凡だが、本質的な言辞を具現することが、如何に難しいことであるかを教えてくれる秀作であった。
しかし、丁寧に生きることを肝に銘じても、丁寧に生き、それを継続させていくことの難しさは、単に、年輪を重ねるだけでは具現しない現実を経験的に内化しているが故に、良い映画を観る辛さを否が応でも感受してしまうのである。
(注)歴史学者・阿部謹也が言うところの、「贈与・互酬」と「世間体」(未だ安楽死せず)という道徳的規範が、我が国ではなお健在なので、「ゴルディロックス効果」の保持を延長させていくことは、さして困難ではないだろう。
【参考資料】 「感情」ディラン・エヴァンズ/〔著〕 遠藤利彦/訳・解説 岩波書店 拙稿・人生論的映画評論・続「街の灯」
(2015年10月)
言葉を失うほど感動した、という冒頭の讃辞を読んでしまい、読み進めてしまう事にもったいなさを感じ、今回は先にDVDで鑑賞させていただきました。
返信削除感想はさておき、毎回感動を持って映画の感想を考えられるところは、本当にすばらしいですね。
映画ファンは詳しくなればなるほど、斜めから見たような感想に振れてしまうところがあると思っています。
そして、何より心が健全でなければ、感動は出来ないものと、自分の経験から断言できます。
私は感動しやすいタイプだと自分を思っていますが、一時期いろいろと大変な状況にあった時は、何を見ても心が動きませんでした。今でもその時の感覚になる事があるようで、寝不足が続いたりすると、精神と体がそのような状況になっていると実感できるような気がします。
しかしながら、そのどん底にいた時にも、やはり私なんかの悩みは薄っぺらいのか、私の憂鬱を吹き飛ばしてくれるような映画に遭遇する事がありました。それが、ディカプリオの「ブラッドダイヤモンド」です。たまたま映画館で見ましたが、最後のディカプリオが山の上で追い込まれたシーンは、何とも言えず心に迫るところがあり、気づいたらずっと頭に張り付いていた悩み事から一瞬解放されていた事は間違いありません。
それにしても最近は映画を見て鳥肌が立つような事はなくなったような気がします。数年前まではビデオ撮影をしていると、時々自画自賛してしまう瞬間に鳥肌が立っていましたが、それも最近はなくなったようです。とても残念ですが、仕事をしていてそういう瞬間をもつ事が出来ただけでもありがたい事だろうと思うようにしています。
お忙しい中、コメントをありがとうございます。
削除お仕事頑張ってください。