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2015年10月13日火曜日

光にふれる(‘14)     チャン・ロンジー

<視覚障害者の青春の断片を切り取った一級の名画>



1  「僕は自分で試してみたいんだ。何でも人に頼らないで、自分の力を確かめたいと思う」



身震いするほど感動した台湾映画。

障害者を出汁に使う狡猾な作品と切れ、構成に全く破綻がないヒューマンドラマの傑作。

視覚障害者のピアニストの主人公を本人が演じ、音楽監督も担当したという、ホアン・ユィシアンの演奏と自然な演技に心の底から酔うことができた。

良い映画だった。

―― 以下、梗概と批評。

「何でも挑戦してみなくちゃ。自立しないとね」

この母の力強い言葉の後押しで、台北の音楽大学に入学し、学生寮での一人暮らしに挑む視覚障害者・ユィシアンの青春が開かれていく。

視覚障害者の入学が初めてであるが故に、受け入れる側の音楽大学も不安を抱えていた。

まず、ユィシアンの最初の難関は、学生寮から教室に通うまでの歩行だった。

一応、大学側は、ユィシアンのこの歩行のサポーターを日直の仕事の一つに加えたが、親しい友人のいないユィシアンは、心の底から喜べない。

教室移動の日直の自己中の学生が、迷惑がって同行を拒んだからである。

だから、この歩行のサポーターなしに教室に通う思いを強くするばかりだった。

「10歩ごとに木が植わり、全部で4本ある。4本の木を通り過ぎて、歩道を最後まで歩くの。 石ころが多いから、油断するとケガするわ」

結局、母との歩行練習で、10段の階段の昇降等を杖と手の感触によって、経験的に学習するユィシアン。

ユィシアン女性補助教員・ワン
自立志向の強いユィシアンが、女性補助教員・ワンによるピアノの小テストで、解答を筆記できない姿を目の当たりにし、聴覚能力の優れたユィシアンにピアノ演奏での解答を求め、出色の出来栄えを見せたことでピアノ科のクラスメートの注目を浴びるに至った。

その光景を見て、安堵する母との別れが待っていた。

「あとは、一人で頑張るのよ」という無言のメッセージを、体全身で受け止めるユィシアン。

そんなユィシアンに、ルームメイトのチンが親しくなる。

ユィシアンチン
体育学科に通いながら、バイオリンが得意という陽気なチンは、ギター部や軽音楽部に負けない「スーパーミュージック」というサークルを立ち上げ、ユィシアンを誘うのだ。

「どんな子が好み?」とチン。
「優しい人がいい。ポイントは声がきれいなこと」とユィシアン。
「きれいな声か」

そう答えたチンは、「声を聴いてみようか」と言って、ゲームを提案する。

目の前を通る女子学生の声で、ユィシアンの好みを検証しようとするのだ。

「65元のおつり」

この声の女性に反応するユィシアンに、チンは嘯(うそぶ)いた。

「声はいい感じだけど、ブスッとした顔だよ」

その声の主はシャオジエ。

ファーストフード店で働きながら、母親に仕送りする女の子である。

ダンサー志望がら、その母親の反対で夢が叶えられず、煩悶の日々を送っていたシャオジエは、ダンスが得意な恋人・ユンとの関係も不安定で、およそ、充実感とは程遠い環境下にあった。

そんなシャオジエが、初めてユィシアンと出会ったシーンだが、当然の如く、彼女には遊んでばかりいるチンたちに何の関心持ち得ない。

そして、ユィシアンとシャオジエの二度目の出会い。

それは、街の中枢の交差点で立ち往生をしているユィシアンを見かけ、「危ないわよ」と声をかけたことが発端だった。

まさにその声は、大学のキャンパスまでドリンクを売りに来ていた「声がきれいな女性」だった。

すぐに相手を特定できたユィシアンの聴覚のレベルは、全盲者であるが故に獲得した特別な「生存適応能力」だった。

そのユィシアンが盲学校に行くと知ったシャオジエは、ドリンクの配達中ながら、オートバイの後部座席に乗せ、方向の違う盲学校にまで同行するに至る。

「楽団には指揮者がいて、皆は指揮を見て合わせるけど、僕らは見えないから、互いの呼吸を聴いて、皆で息を合わせ、そろえて歌うんだ」

盲学校の音楽教諭のこの指示によって、明るく弾けたユィシアンがピアノを弾き、それに合わせて、生徒たちが一斉に歌うのである。

その光景を目の当たりにしたシャオジエの表情に、物語の中で初めて見せる笑みが零れ落ちていた。

以下、盲学校で、ユィシアンとシャオジエの中で生まれた自然な会話。

「僕は自分で試してみたいんだ。何でも人に頼らないで、自分の力を確かめたいと思う。実現できていない夢はある?」
「ダンスがしたいの」
「ダンスって?」
「それをしている時は、私の胸は高鳴って・・・踊っている時だけは、生きてる実感があるの」
「そう思うなら、やってみなくちゃ。でないと、自分の実力が分らないよね」

このユィシアンの言葉を真剣に聞くシャオジエ。

それは、ダンスに向かうシャオジエの心を開かせていく重要な契機になっていく。

仕事の配達先で見つけた、無料体験ダンスレッスンに参加するシャオジエの目の輝き。

ファーストフード店の店長の後押しもあって、「踊っている時だけは、生きてる実感があるの」と言ったシャオジエの身体が鼓動し、動き出したのだ。

「身体は呼吸と同じです。1秒間も停止しない。その魅力的な身体は緩やかに。まるで影のようにあなたに寄り添い・・・身体をゆっくり溶かしましょう」

シャオジエ
有能なダンス教師の指導によって、シャオジエの身体がゆっくり溶けていく。

「いつも他人と同じ方向に飛んでいた。でも今度は、自分のやり方で羽ばたいてみたい」

シャオジエの意思が、今、ここから、加速的に強化されていくのである



2  「目を閉じて、一緒に体験して知った。光のない世界では、踏み出す一歩に大きな勇気が必要だと」



一方、女性補助教員・ワンから、音楽科が参加するコンクールに誘われたユィシアンは、サークル活動を理由に断ってしまう。

「あなたには大切なチャンスよ。学生時代に成績を残せば、将来に役立つわ。人前で姿を見てもらう場面が必要よ」

ワンからの熱心な誘いに、ユィシアンは意想外の反応をする。

「出場しないと、僕が見えませんか?」

この言葉の意味が、その直後に映し出されたユィシアンのトラウマの回想シーンによって明らかにされる。

「目が見えないから、1位に」

少年時代にコンクールで優勝したユィシアンが、楽屋で他の少年に投げかけられた悪意含みの言葉に傷つき、それが原因となって、コンクールへの参加から逃避する感情を形成していたのである。

繰り返し、「目が見えないから、1位に」という言葉がユィシアンの脳裏をよぎるのだ。

懊悩するユィシアンを助けたのはシャオジエだった。

ピアノがある教室に二人で入り込み、柔和だが、本質的な会話が開かれる。

「もしもいつか、目が見えるようになったら、何がしたい?」
「本当に目が見えるなら、自分で自由に歩いてみたいね。何かにぶつからないで歩きたい。そして、カフェにでも入って、窓辺の席に座るんだ。普通のことをしたいだけさ。それなら誰も、ジロジロ見ないよね」

オーデションを受けることを決意しているシャオジエは、ユィシアンの思いを受容する。

その直後の映像は、光が差し込む暗い教室で、ユィシアンにダンスを教えるシャオジエとの溶け込むような時間が、緩やかに提示される。

ユィシアンのピアノの伴奏で、軽やかに踊るシャオジエの二人が占有する時間だった。

ユィシアンの実家に向かう二人
更に場面が変わり、電車に乗って、花農家を営むユィシアンの実家に向かう二人。

その道すがら、目を瞑って歩くシャオジエを、ユィシアンがリードするのだ。

既に、電話で聞き知っていたユィシアンの母は、シャオジエを温かく迎え、充実したひと時を過ごす二人。

このシーンで重要なのは、ユィシアンが録音したという数々のテープ。

「自動車や列車、雨に台風。幼い時から、何でも録音したわ。レコーダーを持って、どこでも録音」

ユィシアンの母
ユィシアンの母の言葉である。

自立志向の強いユィシアンの性格傾向が鮮明に表現されるシーンだった。

ユィシアンのトラウマを聞かされ、初めて、コンクールを回避するユィシアンの心の風景を知るシャオジエ。

二人の精神的交流が、ユィシアンの田舎の実家を起点に、瞬く間に深まっていく。

「私はどんな女の子?」
「分らない」
「どんな顔だ?」
「分らない」

ユィシアンの手を取って、自分の顔を確かめさせるシャオジエ。

「目がとても大きくて、鼻が高いんだね。そして顔は小さめ。思ってた通り・・・」

「きれいだ」と言いたいのだ。

かくて、晴眼者(視覚に障害のない者)のような視覚認識を持ち得ないユィシアンの、触覚・聴覚・嗅覚などの感覚の中で、彩度(色の3属性の一つ)を下げ(白黒化)、明度を残しながら、シャオジエの踊る世界が暖かな光と溶融するイメージに結ばれたのである。

「目を閉じて、一緒に体験して知った。光のない世界では、踏み出す一歩に大きな勇気が必要だと。誰の存在にも理由があると思う。辛いこともすべて人生の妨げではなく、大きな決意に繋がると。あなたがいたから信じられた。ありがとう。お陰で気づいた。夢を捨て切れないのなら、人に認められるように頑張るべきだと」

明日をコンクールに控えたシャオジエが、ユィシアンに贈ったテープである。

そして、その日がきた。

緊張をリラックスさせようと準備に余念がないシャオジエ。

一方、音楽科のコンクールに参加せんとする「スーパーミュージック」のサークルは、聴衆の前に出ることに踏み切れないユィシアンの葛藤によって、出場辞退の危機の渦中にあった。

それでも、トラウマの侵入的想起の葛藤を振り切ったのは、今、このときのチャンスに挑戦するシャオジエから贈られたテープの後押しがあったからである。

「やってみなくちゃ。でないと、自分の実力が分らないよね」とシャオジエの後押しをしたユィシアン自身が、シャオジエのテープを聴き、力強い後押しを受けているのだ。

それに加えて、自分を障害者として特別扱いしない「スーパーミュージック」の仲間の後押しをも受けている。

だから、自分自身こそが勇気ある行動を示さねばならなかった。

そして、彼らの演奏が始まった。

ユィシアンの力強いピアノの演奏によって開かれた「スーパーミュージック」のパフォーマンスは、仲間と一体になったユィシアンの演奏も炸裂する。

停電して仲間の演奏が切れても、闇の世界でピアノを独奏するユィシアンの独り舞台が、熱気に満ちた会場を占有するのだ。

シャオジエのパフォーマンスも同時進行する。

この同時進行のシーンは素晴らしい。

映像は、彼らのコンクール結果の直接的描写を映し出さないが、ほんの僅かな差で落選しつつも、夢を諦めずレッスンを繋ぐシャオジエが、トラウマを克服し、聴衆・審査員らの圧倒的な称賛を経由し、プロになったユィシアンと再会するシーンによってフェードアウトしていく。

都会の雑踏の未知のゾーンに囲繞される環境下であるが故に、一人で録音しているユィシアンの目立たないシーンこそ、この映画の最も重要なメッセージであることを示唆するものだった。



3   視覚障害者の青春の断片を切り取った一級の名画                                                                                                                                                                                                                                                                                   
中途視覚障害者とそこだけは違って、視力・視野・色覚の三つの要素から成り立つ視覚の全ての機能が、先天的な視覚障害者であるユィシアンから奪われていた。

即ち、「形を識別する能力」=視力、「見ることが可能な範囲」=視野、「物の色を識別する能力」=色覚という三つの要素の全てを失ったことで、ユィシアンは視覚からの情報が全く入手できない決定的ハンデを、聴覚・触覚・嗅覚という視覚以外の感覚を駆使する人生を余儀なくされる。

幸いにして、人間は学習能力を備えた脳を持っているが故に、目からの情報を手に入れられなくても、他の感覚器官からの情報を駆使し、自分を取り巻く世界を感じることが可能である。

その脳によって、聴覚・触覚・嗅覚からの情報を統合的に組み合わせ、昼と夜の違い、季節感、 部屋の広さなどの空間認知など、数多くの情報を得ていくのである。

中でも、音によって遠くの出来事を知るための感覚である聴覚の機能こそ、視覚障害者の中枢的機能であると言える。

例えば、外出時の際に、車のエンジン音で、 その車の種類や大きさを想像したり、自分の足音や白杖(はくじょう/視覚障害者が使用する白い杖)をつくときに出る反響音によって、視覚障害者を取り巻く空間状況を察知していく。

また、晴眼者が客観的に見えている情報を、視覚障害者の脳内で組み合わせていけば絵画鑑賞も可能になると説く学者もいるが、晴眼者には理解が及ばない「異質の感覚」を駆使して感じ取っているのだろうか。

然るに、聴覚は瞬間的な情報であるばかりか、触覚に至っては手の届く範囲は限られていて、触れた狭い部分の情報しか入手できないために、触っていても、全体の中のどのような位置にあり、どのような役割を果たすかを理解することが困難なのである。

これは、晴眼者の想像を絶する世界であると言っていい。

この決定的ハンデを如何に補填するのか。

視覚障害者に最近接する者の援助行為によって、補填する以外にあり得ないのである。

そこで、言葉による丁寧な説明が不可避となる。

聴覚と触覚などで得られた情報を統合的に組み合わせ、更に、その情報と特定他者による言語的アプローチを巧みに整理する高度な能力が求められるが故に、視覚障害者は、それまでに受けてきた教育・経験のレベルの多寡により、視覚以外の感覚から得られた情報の活用という緊要な一点で、その能力に大きな個人差を生じてしまうのである。

ここで、ユィシアンの場合を考えると、彼の母親の役割が決定的に大きかった事実を認知せざるを得ないだろう。

教室移動の歩行のサポーターなしに教室に通えない、ユィシアンへの母親の援助の一連のシーンは、この映画で最も感動的な描写の一つだった。

「10歩ごとに木が植わり、全部で4本ある。4本の木を通り過ぎて、歩道を最後まで歩くの。石ころが多いから、油断するとケガするわ」

ユィシアンの母は、そう言いながら、最後まで過保護に振れないのだ。

10段の階段の昇降等を白杖と手の感触によるこの歩行練習で、ユィシアンが経験的に得たものは、自立歩行の能力の広がりである。

その現実を確認したユィシアンの母は、「あとは、一人で頑張るのよ」という無言のメッセージを残して、遠く離れた実家に帰っていく。

観る者の感動をあざとく誘導せず、母の愛の大きさを淡々と描く物語の基調の一貫性が保持されていたが故に、本作は一級の名画に昇華し得たとも言える。

そんな母に養育されたユィシアンが、自立志向の強い自我を作り得たのは、まさに、視覚障害者を取り巻く「環境の最適化」という有利な状況のお陰だった。

「僕は自分で試してみたいんだ。何でも人に頼らないで、自分の力を確かめたいと思う」

シャオジエに吐露したユィシアンの言葉である。

その言葉に全く嘘がない事実を目の当たりにしたからこそ、ユィシアンを援助するシャオジエ自身が変容していったのである。

限定的だが、それでも「自分の力」の能力の広がりを確かめるために、ユィシアンは動いていく。

だから彼は、常に未知のゾーンに囲繞されているシビアな環境と折り合いをつけるために、録音テープを用意し、そこで録音した音を聞き分けていく努力を欠かさない。

幼い時からレコーダーを持って、「自動車や列車、雨に台風など何でも」録音する習慣こそ、自立志向の強いユィシアンの真骨頂である。

一切は、ユィシアンの母の養育の成果である。

「自分の力」で社会に適応する子になって欲しい。

母のこの思いが、本作を根柢で支え切っていた。

ユィシアンがトラウマから解放された直接的契機はシャオジエとの出会いであったが、その突破力の芯にあるのは、「何でも人に頼らないで、自分の力を確かめたいと思う」というユィシアン自身のポジティブなメンタリティである。

加えて言うならば、ユィシアンをを障害者として特別扱いしない、ルームメイトのチンを筆頭にする「スーパーミュージック」の仲間の存在である。

「スーパーミュージック」の仲間
これは幸運だった。

何しろ、「スーパーミュージック」の仲間は、コンクールの会場までユィシアンを走らせるのである。

無論、彼らは、外部の危険から庇いながらユィシアンを誘導する。

「スーパーミュージック」の仲間への信頼があるから、ユィシアンも快走できるのだ。

だから、ユィシアンのトラウマから解放は、単に切っ掛けの有無の問題に過ぎなかったとも思われる。

なぜなら、彼がピアノが大好きで、「自分の力」で社会に適応する意思を失っていなかったからである。

そんなユィシアンの青春の断片を切り取った本作は、障害者を出汁に使う狡猾な作品と切れた素晴らしい映画だった。

特に、コンクール結果の直接的描写を映し出さず、僅かな台詞と映像のみで見せるラストシーンの素晴らしさは圧巻だった。


【参考資料】  PDF文書「視覚障害者の理解 及び 災害に関する知識のための 参考資料」
  

(2015年10月)

2 件のコメント:

  1. すばらしいストーリーですね。全く知らない映画ですが、今度見てみます。
    読んでいた時に思い出した映画が2つあります。
    「風の歌が聞きたい」と「マラソン」です。
    前者は大林宣彦の映画ですが、雨宮良の好演と、テンポの良いストーリー展開で非常に良い映画だったと思っています。
    後者は韓国映画です。自閉症の青年がマラソンの最中に差し出されたお菓子を取って立ち上がり、いつしかそのお菓子を手放して走り続けていくところの演出はすばらしかったです。
    大澤豊監督の「アイラブユー」という聴覚障害者を描いた映画の市内上映の発起人に成り行きでなった事がありますが、残念ながら映画の記憶はありません。

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    1. コメントをありがとうございます。

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