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2014年5月28日水曜日

汚れなき悪戯(‘55)      ラディスラオ・ヴァホダ


<理念系の濃度の高い作品に昇華させた一級の「宗教的ファンタジー」>




 1  “パンとぶどう酒のマルセリーノ”



自我のルーツを切実に求める純朴な幼児・マルセリーノの思いを、その幼児から無償の援助行動を受ける「神の子・イエス」が柔和に吸収し、世俗と天上を融合させ、絶対安寧の世界に送り届けることで、限りなく、理念系の濃度の高い作品に昇華させた一級の「宗教的ファンタジー」 ―― それが「汚れなき悪戯」である。

自我のルーツとは、言うまでもなく、未だその相貌を視認できないが故に、どこまでも「永遠の美」というイメージに結ばれた、幼児の産みの親のこと。

「永遠の美」というイメージで結ばれた母親への思いが強化されていくほど、マルセリーノの中で、そこだけは空洞化された、心の隙間を埋める思いだけが置き去りにされていく。

その契機となった、一つの象徴的エピソード。

それは、見知らぬ農婦との偶然の出会いであった。    
 
「ここの子?」
「そうだよ。生まれてすぐ、門の前で捨てられてたんだ」
「それで?」
「神父さんが見つけてくれた」
「お父さんは?」
「いるよ。12人」
「12人も。お母さんは?」
「一人もいない。おばさんは、お母さん?」
マルセリーノと農婦
「息子が二人。上の子はあなたくらい」

そう言って、その農婦は「マヌエル!マヌエル!」と大声で呼び、マルセリーノと会わせようとするが、農婦の主人から呼び声がかかり、この会話は閉じていった。

マルセリーノの寂しさだけが、そこに置き去りにされたのである。

マルセリーノの心は、若く美しい見知らぬ農婦との出会いによって、「永遠の美」として生き続ける心地良き形象を具現化していく願望が、いよいよ強化されていく。

マルセリーノの心に生き続ける心地良き形象が、具現化されていく閉鎖系のスポット。

そのスポットは、マルセリーノの「父」である、12人の修道士(使徒)が信仰と生活の拠点の内側に息づいていた。

マヌエルを架空の友として、無邪気に遊ぶマルセリーノにとって、物理的に近接することを禁じられた、二階に棲む「巨人」との宿命的な出会いだった。

「巨人」への「恐怖突入」
怖いもの見たさの心理に張り付く膨らみ切った好奇心が、「巨人」への「恐怖突入」を駆動させることができたのは、仮想の友・マヌエルとの「秘密の共有」の安心感の後押しがあったからである。

その「巨人」の正体こそ、磔にされた「神の子・イエス」の彫像だった。

痛みに耐え、空腹の「巨人」への同情心から、パンとワインを運ぶという、無償の援助行動を繋いでいくマルセリーノ。

まもなく、マルセリーノを前にして、「巨人」である彫像の腕が動き、会話を繋ぐ特別な時間が静かに流れていく。

 「静かだな。何を考えている?」と「巨人」。
 「あなたのお母さんはどこ?」とマルセリーノ。
 「天国だよ」
 「“お母さん”って、どんな人?」
 「常に与え続ける人だ」
 
「神の子・イエス」の彫像
「何を?」
 「何もかも、すべてを。子供のために犠牲にする。年を取ってシワが寄るまで」
 「醜いの?」
 「少しも醜くない。母親は永遠に美しい」
 「お母さんを愛してる?」
 「心から」
 「僕の方が愛してる」

今や、マヌエルを必要としない闇のスポットは、「巨人」との「秘密の共有」を占有するマルセリーノの「恐怖突入」を無化して、心地良き悦楽に浸る特化された空間と化していく。

マルセリーノが占有する「秘密の共有」の時間は、いつしか、マルセリーノの養育係でもある“台所さん”(フランシスコ修道士)に知られるに至り、「二人」の会話が立ち聞きされるのだ。

以下、そのときの会話。

 「お前はとても良い子だ。マルセリーノ。ご褒美に望みを叶えてあげよう。言ってごらん。僧侶になりたいか?“台所さん”や修道院長のように。マヌエルと遊びたいか?」
 「お母さんに会いたい。あなたのお母さんにも」
 「今、会いたいのか?」
 「そう。今すぐ」
 「眠らねばならない」
 「でも、眠くないよ」
 「来なさい。眠らせてあげよう」
 「いいね」
 「お眠り。マルセリーノ」

母の懐に抱かれるように昇天するマルセリーノ
この会話が全てである。

かくて、「神の子・イエス」の彫像の傍らで、天上世界にいる母の懐に抱かれるように、昇天するマルセリーノの微笑みが、そこで眩く輝いていた。

修道士たちの視界に入ってきた奇跡が知れ渡り、マルセリーノが昇天したその日は、村を活況にするほどの変貌を見せていく。

「神に召される」

“パンとぶどう酒のマルセリーノ”と刻まれ、床に嵌め込まれた墓標が、「マルセリーノの奇跡」の伝説を物語っているのである。




2  理念系の濃度の高い作品に昇華させた一級の「宗教的ファンタジー」




本作を「完全無欠」の「宗教的ファンタジー」と考えているので、私の恣意的な解釈も許されると思い、以下、言及した次第である。

戦争で荒れ果てた村を「聖地」にするために、神は12人の使徒(修道士)を地上に送った。

12人の使徒(修道士)に送られてきた小さな「天使」
村人たちの協力を得て完成した修道院の、その限定的な閉鎖系のスポットを、ほんの少し明るくするために、今度は小さな「天使」が送られてきた。

マルセリーノである。

その「十二人の使徒」を父親に持つマルセリーノは、「不在の母」への募る寂しさを託っていく。

そんな中で出会った、一人の若く美しい農婦。

マルセリーノは、その農婦に「永遠の美」としての母親像を見て、いよいよ、母を求める思いが強くなっていく。

その農婦と自分の関係を繋ぐ、仮想の友人(農婦の長男)を作り出す。
 
マヌエルである。

以降、マヌエルとの「仲間意識」の中で浄化され、本来の開放系の性格を躍動させていくマルセリーノ。

この心理を、「正常性バイアス」と呼ぶことが可能である。

自らの努力でコントロールし得ない環境下にあって、少しでも安寧の循環にシフトさせるような、自我の「防衛機制」の有効な機能の発現の様態である。

賑わいのある町で
ところが、マルセリーノが、賑わいのある町の中枢で起こした「汚れなき悪戯」の極点を示す行為が、その町を仕切る鍛冶屋の激怒を買い、「十二人の使徒+小さな天使」が呼吸を繋ぐ修道院は、存亡の危機に立たされた。

荒れ果てた村を本物の「聖地」にするために、ここで、神は奇蹟をもたらすのだ。

恐怖のスポットの中枢を占有する「巨人」=「神の子・イエス」と、マルセリーノとの柔和なる精神的睦みは、「パンとワインを運ぶ天使」の行為のうちに結ばれていく。

「天使」が「神の子・イエス」に奉仕するのは、当然の責務であるからだ。  

マヌエルを友にするマルセリーノにとって、恐怖のゾーンへの侵入のハードルは低かったのである。

まもなく、「神の子・イエス」は「天使」の思いを叶えてあげる。

マルセリーノと“台所さん”
清浄なる天上世界に住む多くの「天使」たちの元へ、小さな「天使」を戻すことで自己完結する物語の本質は、詰まる所、「神の子・イエス」と「十二人の使徒」と、そして、小さな「天使」との宗教的融合の物語だったということである。

以上が、私の恣意的な解釈だが、「美しいもの」を、「美しいもの」として、そのままダイレクトに映し出してくる映像に、特段の不快感を抱かなかったのは、抒情性豊かなBGM(「マルセリーノの唄」)の後押しを受けた本篇が、「完全無欠」の「宗教ファンタジー」であったと考えているからである。


(2014年5月)

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