<ヒューマニズムに拠って立つ映像作家であることを検証する究極の一作>
1 ヒューマニズムに拠って立つ映像作家であることを検証する究極の一作
「ピアニスト」より先に製作予定だった、この「タイム・オブ・ザ・ウルフ」という作品は、一言で説明できないほど、凄いとしか言いようのない映像である。
これほどの映像が、一般的に観られていない現実に、正直、驚きを禁じ得ない。
特に、ダークサイドに彩られた物語のくすんだ風景の枠組みの総体を、根柢から反転させてしまう寓話的なラストシークエンスの凄みは、紛れもなく、ミヒャエル・ハネケ監督が、ヒューマニズムに拠って立つ映像作家であることを検証する鮮烈なインパクトがあって、私にとって、絶対忘れられない究極の一作と言っていい何かだった。
出色の映像が居並ぶハネケ監督の表現世界の中で、涙が止まらなかった唯一の作品である。
こういう映像と出会うために、私は懲りることなく、多くの映画を鑑賞しているのだなと、今更ながら実感する次第である。
他の追随を許さないハネケ監督の、その人間洞察力の非凡さに圧倒されて、殆どお手上げだった。
筆舌に尽しがたいほど素晴らしい作品だったからだ。
「監督が描きたかったのは、滅びゆく世界と、そこで生まれ変わる世界を映像化することだったと思う」
これは、本作に主演したイザベル・ユペールの言葉。
「母親と二人の子供が三人で力を合わせ、社会の大きな変わり目となる難局を経験するという物語でしょ。いかにして、彼らがこの状況に反応するのか。この作品では、ある意味、個人という立場が喪失してしまう。心の葛藤が起きたり、日常生活で感じることを、経験するような余裕がなくなってしまう。考えてみれば、安楽な生活感が持てなくなる。悲しいとか、幸せだとか、空腹だ、のどが渇いたとか、眠いとか・・・。生き残った者は、西洋の消費社会での生活から、飢えた人々が生きるこの惑星の現実へと追い込まれていく。まさに生存競争の社会です」(「タイム・オブ・ザ・ウルフ」のDVの特典映像から)
イザベル・ユペール(ウィキ) |
イザベル・ユペールの言うように、本作で描かれていたのは、「滅びゆく世界と、そこで生まれ変わる世界」の映像化であって、どれほどネガティブな世界観を吹聴しても、本音では、私たちが空想としか考えず、イメージの範疇を逸脱しない「世界の終末」が忍び寄る、漆黒の闇の中のアナーキーな弱肉強食の醜悪さの様態である。
「パニック映画を撮る気はなかった。人間同士の行動に関する、とても私的な考えを描こうとした。とくに現代は、ニュースで世界の破壊が映し出されるような時代だ。だが、それは他人が住む遠い世界の出来事。だからこそ、居心地のよい世界で、終末を見ている社会に対し、この作品を提示したかった。もしこれが、あなたの家庭に起こったらどうするのかと問う作品です」
「タイム・オブ・ザ・ウルフ」のDVの特典映像での、ミヒャエル・ハネケ監督のインタビューの言葉である。
「私は、すべての作品において“ヒューマニスト”になろうと努力しています。芸術に真剣に立ち向かおうとするならば、そうするしかない。それが必要不可欠な最低条件です。ヒューマニズムなき芸術は存在しません。それどころが、芸術家の最も深遠なる存在理由です。意思の疎通こそ人間的で、それを拒むのはテロリストであり、暴力を生むのです」
因みに、ヒューマニズムとは、人間の様々な事象に深い関心を持ち、それを包括的に受容し、自らを囲繞する〈状況〉から問題意識を抽出することによって、限りなく発展的に自己運動を繋いでいくこと。
私の定義である。
ともあれ、ヒューマニズムを拒むのはテロリストであると言い切るハネケ監督の言辞は、誤解されやすい彼の映画を偏見なく観れば、説得力を持つことが瞭然とするだろう。
例えば、「ファニーゲーム」(1997年製作)では、家宅侵入して来た二人の若者の理不尽な暴力の空白の時間の中で、既に、一人息子を銃殺された夫婦が、その衝撃を言葉に表現できないまま、重苦しい静止画像のような時間を繋ぎ、その後、お互いに協力し合って必死に助けあう姿が丹念に描かれていた。
また、「ピアニスト」(2001年製作)では、母子一体の歪んだ教育を受けてきたヒロインが、屈折的自我を露わにした状態で、「異性愛」という未知のゾーンに自己投入した挙句、些か尖り切っていたが、模倣すべき愛の範型イメージを手に入れられずに煩悶する、極めて人間的な姿が描かれていた。
「ピアニスト」より |
これらは、娯楽映画の範疇の「自在特権」を活かして、リアリティの欠落した暴力描写をゲームの如く量産し、且つ、「奇跡的試練」を経て、予定調和のラインに沿って結ばれていくような、浮薄なメロドラマを供給することを止めない、ハリウッドムービーへの明瞭なアンチテーゼとして立ち上げられていた。
このことは、自らが拠って立つ、映画作家のレーゾンデートルを表白する挑発的なメッセージでもあったが、しかし、そこで描かれていた物語の風景に隠し込まれた作り手の思いには、紛れもなく、ヒューマニズムの息吹が感じられる何かが読み取れた。
ただ、それらが挑発的な構成力を成す作品であったことで、ハリウッドムービーに馴致し過ぎた観客たちを不快にさせただけである。
「居心地のよい世界で、終末を見ている社会に対し、この作品を提示したかった」と言い切って構築した、「タイム・オブ・ザ・ウルフ」(2003年製作)という稀有な芸術作品においては、ハリウッドのパロディは影を潜めて、ハネケ監督自身が、恐らく最も作りたいと考えたに違いない、「極限状況下に置かれた人間たちの在りよう」という問題意識によって、彼の作品の中では珍しいとも思える、「ヒューマニズムほぼ全開」の映像を構築したのである。
「隠された記憶」より |
これは、2年後に発表される「隠された記憶」(2005年製作)と対を成す作品である。
監督自身の問題意識の核心には「先進国文明に無批判的に浸かっている人々へのアンチテーゼ」が映像提示されることで、これらもまた、いつものように、観る者との知的営為を「共有」することを切望する作り手特有の作品に仕上がっていた。
とりわけ、自分の能力の範疇では全く及ばない〈状況〉に捕捉され、その厄介な〈状況〉の破壊力によって追い詰められていったとき、人間はそれまで隠し込んでいたエゴイズムを露呈させるだろう。
人間は脆弱なのである。
極限状況下にあって、「今日、食べるパン」がない現実を認知すれば、どのような「善」なる人間でも、自らが捕捉された危機の打開に動くことしか考えず、周囲の〈状況〉に対して「感覚鈍磨」させることで、自我のサイズを限りなくミニマム化してしまうのだ。
だからこそ、普通の能力の範疇に収まる私たちを、人間の統治能力が及ばないアナーキーな〈状況〉に追い込んではならないということ。
そこでは、エゴによる暴力が常態化し、まさに弱肉強食の世界が顕在化されるだろう。
以下、本作で描かれたエピソードを特定的に拾いあげて、稿を変えて物語をフォローしていこう。
2 無法ゾーンでの「強い者勝ち」の世界の凄惨さ
夫を殺害された妻・アンナ |
父母と姉弟の構成による一家族が、冒頭から、一家の大黒柱を喪失するシーンが挿入され、ハネケ監督の映像に馴致していない観客は、ここで、「とんでもない映画」と遭遇してしまったというインパクトを受けるだろう。
何某かの事情で、食糧不足に陥った果ての飢餓状態が、先進国(フランス)の一画で惹起しているらしいことは、物語をフォローしていけば分明になるが、この時点では、単に別荘を占拠した強盗犯による家族の悲劇という印象しか持ち得ない。
別荘にやって来た車 |
食料を貯め込んで、田舎の別荘にやって来た家族の中で、肝心要の父親が、「問答無用」の理不尽な手法で射殺されてしまうのだ。
全ては、ここから開かれていく。
夫であり、父である人物を喪った3人の母子たちは、仕方なく、藁小屋のような粗末な家屋で寝起きする。
この間、母親のアンナが、最寄りの警察に立ち寄って事件を訴えても、「ここに来たのは間違いだ」などと言われて、帰される始末。
夜が明けて、別荘から持って来た自転車の荷台に息子のベンを乗せて、当て所(あてど)なく、まるで、世紀末のくすんだ風景の中を彷徨う母子3人。
ようやく辿り着いた一件の藁小屋。
思春期の只中にある娘のエヴァの焚火の不始末が原因で、その藁小屋をも失った家族。
不幸が連鎖する。
焚火の事故の際に出来した、息子のベンの失踪に翻弄され、母と姉が大声を挙げてベンを探すが、中々見つからない。
そんなベンが、一人の少年に引率されて戻って来た。
少年の名は、最後まで不明である。
しかし、この少年の存在が母子3人の家庭、とりわけ、エヴァからの好奇心を呼び寄せ、そこに一つの淡い思春期の物語が作られるが、無論、一片の感傷も拾えない。
線路沿いを進む4人。
最後まで、「救済」をイメージさせる「命を運ぶ列車」が、束の間、4人の前を通過すれども、必死に同乗を願う彼らを置き去りにしていく。
火を起こすためのライターが目的で随伴して来た少年は、遺体から奪った古い外套をエヴァに与えて去っていこうとするが、少年の傷ついた手を治療してくれた思いも手伝ってか、数家族の難民が住み着いていた駅舎に同行する。
左からベン、エヴァ、アンナ |
その小さな集団に合流する母子3人。
盗みの常習犯である少年だけは、ルールに縛られることを極端に嫌って、エヴァからの督促があっても、孤独な生活を貫くばかり。
少年もまた、「命を運ぶ列車」の出現に淡い期待を賭けているから、駅舎の近くにホームレスと化して住み着くのだ。
線路に停留している貨車を本線に移せば、列車が止まると説くリーダー格の男の合理的な説明に対して、無駄な労力を払う作業であると反駁する者もいて、既に、この小さな集団の中でも、ルールを決定できない現実が露わにされていく。
南部からの食糧が枯渇しつつあり、北部への食糧輸送が削減されているという情報をラジオで得て、情報の共有の困難さも顕在化する始末。
貨車を本線に移す作業に挺身する人々。
まもなく、駅舎の周囲には、馬に乗ってやって来る者との交渉によって、大切な水を物々交換で買う人の群れで溢れ返る。
「助けてくれたら、あなたと寝てもいい」
「6人で2杯しかない」と泣き叫ぶ、一人の主婦の言葉である。
「奥さん、止めなさい。私たちで助けてあげよう」
他の家族の初老の男から柔和な言葉が挟まれても、「くれないなら、殺して!」と、声を荒げる主婦。
一方、二人の子供を抱えるアンナは、馬に乗ってやって来る者に、「自転車と交換して」と懇願するのだ。
馬を縦横に走らせて「仕事」する者に、「自転車」の存在価値が等価性を持つ訳がないのである。
駅舎で暮らす者にとっても、「自転車」の需要が大きい訳がなく、人力に頼る分、疲弊するだけの動力源でしかない。
世界の終末(イメージ画像・ブログより) |
いつ到着するか分らない、「命を運ぶ列車」という「救済」の象徴を待ち続ける難民たちは、餓死の恐怖と地続きなのである。
そんな〈状況〉下で、殆ど必然的に起こった悲劇。
例の主婦の赤子が、水を得られないために病死するに至った。
いつまでも泣き止まない主婦の慟哭が、漆黒の闇を切り裂いていく。
駅舎で寝起きする小さな集団の中に、もっと大きな難民の集団が加わったのは、一つの「予約された悲劇」が終焉しない、まさにそのときだった。
このことは、それでなくとも、辛うじてルールを保持してきた小さな集団の「コミュニティ」が、同時に、リーダー格の男が仕切る大きな難民の集団の中に、物量的な差によって吸収されていく事態の変容を意味する。
それは、今や、足の踏み場もない駅舎内が、「寝場所争い」のインモラルな空間と化していく現象のうちに顕在化されていく。
そればかりではない。
特に、かつてフランスの家で、一族郎党が住み込んでいた折に、雇用主への殺人と盗みの容疑をかけられたポーランド難民の男が、激しい暴行を受けた事件は、馬を殺して肉を食べる報告をしたリーダー格の男でも関知し得ない、〈状況〉のアナーキー性を露呈するものだった。
間断なく、理不尽な現象が惹起する。
多くの難民が屯(たむろ)する駅舎の寝場所で、一人の少女が、後ろから髪を鷲掴みにされ、レイプされるのだ。
レイプされた少女の自殺と埋葬。
加えて、例の一匹狼の少年によるヤギの窃盗が原因で、再び、ポーランド難民の男が疑われ、「盗った、盗らない」という激しい口論が起こり、今度は集団暴行へとエスカレートする。
一切は、大きな難民グループの集団が加わったことから開かれた、殆ど無法ゾーンでの「強い者勝ち」の世界の凄惨さ。
それまで辛うじて保持されてきた、小さな集団のルールが自壊していくさまが顕在化していくのだ。
3 絶望感を極めた果ての「感覚鈍磨」への逃避 ―― アンナの心の風景
ここでは、母のアンナのことを書いていきたい。
一匹狼の少年に導かれて、駅舎に辿り着くまでのアンナの心の風景を覗くとき、全く準備なく襲来してきた不幸の連鎖に甚振(いたぶ)られながら、それでも、二人の子供の命を守るために、必死に動いた彼女の人格を辛うじて支えていたのは、「今」、「このとき」の〈生〉を繋いでいくことだったに違いない。
それは、母子3人が、何とか「安心できる日常性」を確保するために自給し続けた、〈生〉へのマキシマムな熱量だったと言える。
しかし、、人間は寸分も休むことなく、変貌する周囲の異様な「非日常」の風景に簡単に馴致できる訳がない。
だから、「今」、「このとき」の〈生〉を繋いでいくことを優先して遂行しなければならない。
唐突に急襲してきた「非日常」の厄介な事態に馴致するには、その「非日常」を「日常化」させていくしかないのである。
それ以外に生き延びていく選択肢を持ち得ないアンナは、殆ど、その能力の発現の限界の際(きわ)にまで、自らの身体を投げ入れていく。
そして、ようやく辿り着いた駅舎の中で出会った、幾つかの家族の生活様態を目の当りにすることで、自分だけが辛い思いをしているのではないという感情を抱懐し、自己を相応に相対化し得たのだろう。
少なくとも、そこには話し相手がいる。
それだけでも違うのだ。
フランスの難民(イメージ画像・ブログより) |
その後、難民の大集団と「共存」を余儀なくされても、彼女の思いは、自らに覆い被さってきた責任意識によって、当て所(あてど)ない移動の旅を余儀なくされた辛さから、ほんの一時(いっとき)、解放された気分が生まれたと言っていい。
然るに、そこに生まれた心の隙間が、アンナをして、忘れようとして内側に封印していた、最も忌まわしき記憶を思い起こさせるに至ったのである。
それは、ポーランドの難民家族の老夫婦を、まじまじと見詰めることから開かれた。
ミルクを求める老いた妻に、そのミルクを飲ませる老いた夫。
一貫して寡黙な老夫婦は、こんな状況下でも、助け合って生きている現実を目の当りにしたアンナは、一人そっと、夜の闇で視界が遮断された駅舎の外に出て、思い切り号泣したのである。
アンナは、最も忌まわしき記憶を鮮明に思い出してしまったのだ。
当然ながら、彼女は未だに、夫を喪った「悲哀の儀式」を消化していくに足る、辛い行程をクリアしていないのである。
ほんの一時(いっとき)でも、内側に押し込んでしまった、忌まわしき記憶の欠片を濾過する余裕すらなかったからだ。
アンナの心的外傷 |
その場を離れて、駅舎の外で一人嗚咽するアンナにとって、子供たちの視線の届かない場所で、潜めるように悲嘆を身体化することで、「悲哀の儀式」のほんの小さな行為を繋いでいく以外に方略がないのである。
そんなアンナが、死んだ夫宛に手紙を書く、娘のノートの文面を確認したのは、その翌日だった。
娘のエヴァもまた、父のことを忘れていないのだ。
それは、父の死によって、感情表現を途絶させてきたように見える、息子のベンと同様に、この家族は、あの別荘での悪夢を深々と引き摺っているのである。
不幸にも、別荘での悪夢を深々と引き摺っているアンナに、追い打ちをかける事態が発生する。
夫を射殺した男の家族と、この駅舎で出会ってしまったのである。
強盗夫婦を目撃したエヴァから知らされ、男の元に行くアンナ。
いきなり、男から「嘘は言うな!」と否定されて、感情を激発させたアンナは、男に掴みかかっていく。
「無茶をしないで」
そう言って、男からアンナを引き離す駅舎の仲間。
そこに仲裁に入った男から、証拠を求められたアンナは、「死んだことが証拠よ」としか答えられず、「それでは無理だ」と言われるばかり。
まもなく、大きな難民グループのリーダー格の男が仲裁に入ったものの、「双方とも証拠がない」ということで、物別れになるに至った。
結局、嘘を貫き通した男の家族を解放する事態に、全く抵抗し得ないアンナの心に穿(うが)たれた空洞感だけが肥大していく。
この一件は、アンナの絶望感を極めてしまったのである。
絶望感を極めた印象の強い者の自我に、今や、何が残るというのだろうか。
世界の終末(イメージ画像・ブログより) |
ここには、殺人を犯した者を取り調べる「権力機構」が不在なのだ。
夫を殺した男への制裁が、「神の裁き」に委ねる以外にない現実の虚しさ。
それが、殆ど無法ゾーンでの「強い者勝ち」の世界の凄惨さの裸形の様態なのである。
「正義」が通用しない〈状況〉のアナーキー性に捕捉され、一切が無力化されていくのか。
このような事態の処理を必至にするアナーキーな状況への絶望感が、恐らく、アンナの自我を金縛りにしてしまったのだろう。
それは、「感覚鈍磨」と言ってもいい。
人間はこのように、生存・適応戦略の中枢である自我の機能を摩耗させることで、ぎりぎりに自己防衛を果たしていくのである。
それが、映像終盤での、アンナの鈍重な足運びを印象づけたのかも知れない。
物語の主人公が、いつしかエヴァに入れ替わったような展開になっていく、物語構成のエッセンスを、そこに読み取ることも可能である。
それは、切迫した〈状況〉のアナーキー性が増幅されるにつれ、絶望感を極めた女が、自我を「感覚鈍磨」させることで、他の多くの大人たちの裸形の生態のラインに吸収されていったとも言い換えられる。
即ち、ごく普通の自然の様態のうちに、自我の「感覚鈍磨」が加速的に進む中で、その「非日常の日常化」が常態化されてしまったのである。
4 「正常性バイアス」の心理を発現させた少女の「防衛機制」の能動的様態 ―― エヴァの心の風景
この映画では、いつ到着するか分らない「命を運ぶ列車」という「救済」の象徴を待ち続け、それが次第に切迫した〈状況〉のアナーキー性を増幅するごとに、大人たちの裸形の生態が露わにされていくが、この大人たちの尖り切った振舞いと切れるかのように、3人の子供たちの存在が印象的に人物造形されていた。
その一人が、自衛のための盗みを常習化している孤独な少年。
難民の集団に加わることを拒絶し、家畜などを盗むのだ。
野犬に手を噛まれた恨みもあって、平気で家畜を殺す少年の、過剰に防衛的に動くことだけが、〈状況〉を生き延びる唯一の手立てと考えているのだろう。
そんな少年が、エヴァと出会った。
エヴァと少年 |
エヴァだけが、孤独な少年の乾いた心を癒すのである。
少年はエヴァに、初めて野犬に咬まれたときのエピソードを吐露する。
少年にとって、エヴァの存在は、自らの封印された生い立ちを語るべき唯一の「友」であったが、しかし、映像は最後まで、少年の生い立ちを描き出すことはしなかった。
そんなことは説明しなくても想像できるだろう。
ハネケ監督はそう言いたいのか。
そして何より、本作で重要なポジションを占めるのは、アンナの子供である二人の姉弟の存在である。
とりわけ、孤独な少年に最近接したエヴァの存在は、いよいよ暗欝極まる物語後半のくすんだ風景の中で、観る者の感情移入を誘(いざな)うに足る重要な役割を担っていた。
ここに、そんなエヴァの肉筆の言葉がある。
「“パパへ、鉛筆と紙を見つけたので、手紙を書いておきます。こんな事態なのに、話す相手もいません。パパに、この状況が理解できるかどうか分りませんが、届くことを信じて、ここに書いておきます。やさしいパパ。言葉にするのは難しいけれど、誰にも話せないときって、息苦しいものです。『ママや弟には?』と言うかしら。でも違うの。パパも、ここにいれば分るわ。ママには言葉を選ばないと、かんしゃくを起こしそう。ママの手がいつも震えているのよ。パパは状況を理解できても、弟にはまだ無理。少年が独りいて、彼とは話せると思う。プライドが高く、いつも突っ張ってるけど、虚勢を張っているの。なかなか受け入れてくれないわ。混乱した状況に見える?まさに、そうなの。だから、手紙を書いて、自分の気持ちを理解しようとしたわけ。順を追って書くわ。今の生活を教えたいから・・・毎朝、全員が早く起きる。部屋の誰かが起きると、自然と目覚めるの。それから仕事を分担し・・・”」
これは、様々なエゴが衝突する風景をも目の当りにしながらも、ようやく落ち着いた駅舎の中で、期せずして見つけた鉛筆と紙を手立てに、一人の少女が、自分の周囲で起こっている状況を、自分の思いを込めながら書き綴った文章である。
少女エヴァは、このようにして、自己と周囲の〈状況〉を客観的に観察し、それを直截(ちょくさい)に表現することで、困難な事態に対峙しようと努めるのだ。
このエヴァの行為は、社会心理学で言うところの、「正常性バイアス」の心理であると言える。
「正常性バイアス」とは、とうていコントロールし切れない、自らを囲繞する〈状況〉に対して、いつ破壊されるか分らない不安を包含する日常性を、少しでも安寧の循環にシフトさせるような、自我の「防衛機制」の有効な機能の発現の様態である。
エヴァ |
それがバイアスであるが故に、その発現が過剰になれば、破壊力ある「本物の危機」に直面しても、「安心幻想」に逃避してしまうハザードを招来しかねないが、エヴァの場合は、自己を相応に客観化できる能力を有するので、アナーキーな〈状況〉の中でも理性的自我を喪失する事態を回避できたのだろう。
理性的自己を喪失する事態を回避できたからこそ、そこで作り出した僅かな心の余裕の中で、エヴァは、母に代わって、いつしか感情表現を失いつつあった、弟ベンの庇護に能動的に動いていく。
驟雨(イメージ画像・ウィキ) |
驟雨(しゅうう)のために駅舎に戻れずに、動かぬ列車の下で震えていたベンを保護したり、夜の闇の駅舎内でレイプされる現場から、ベンを早く就眠させようと努めたりしたのも、思春期自我の只中にあったエヴァだった。
思春期自我の只中にある、そんなエヴァの「正常性バイアス」の心理の発現の様態が、ヒューマニズムの息吹を感じさせる柔和なエピソードとして、本作の中に挿入されていた。
一人の若い難民の男が、カセットテープで音楽を聴いていた。
それに興味を持ったエヴァが、翌日、彼の元に近寄って、自分にも音楽を聴かせて欲しいと頼み込んだ。
快諾する若者。
エヴァが、そのカセットから流れてくる音楽(ベートーベンのバイオリンソナタ)を、しみじみ聴き入るシーンには、理性的自我を喪失する事態を回避する巧みな適応戦略が垣間見える。
恐らく、「塩と交換していれば、靴下2足分」なのに、「忙しくてね」と語る若者もまた、極限状況下に置かれた者の追い詰められた心理を、常にこうして、かつてそうであったような、カセットテープで音楽を聴く日常性のうちに変換させようと努めているのだろう。
狭い駅舎内に押し込められた二つの若い自我が、音楽という格好のツールによって、澱みなく言語交通を繋いでいることが了解できるシーンだった。
5 「緘黙」の世界に押し込まれた児童の、「殉教」という名のとびっきりの「寓話」 ―― ベンの心の風景
姉エヴァのような生存・適応戦略を獲得できていない幼い弟のベンには、言語交通を繋ぐ機会すらなく、ただひたすら、何が起こるか分からない不気味な世界が放つ破壊力の前で、何も為し得ず、貝のように押し黙っているだけだった。
或いは、ベンはこのとき、突然の父の死の喪失感によって、「全緘黙症」(ぜんかんもくしょう)とは言えないものの、精神的ショックの直後に起こる「心的外傷性緘黙」という、抑制系の壊れた闇の世界に捕捉されていたとも思えるが、そのような病理診断の正否はともあれ、少なくとも、日々に悪化する顕著な環境の変化が、怒涛のように押し寄せてくるアナーキーな〈状況〉に翻弄されていくばかりだった。
押し黙って、雨に打たれて泣く無力な児童には、家族によって保護される立場から恒久に解放されない無力感を感受しているだけだった。
ウグイス(イメージ画像・ブログより) |
しかし、籠から飛び立った一羽のウグイスを、姉と協力して捉えたのも束の間、懐に押し込んだことで死なせてしまった感情が、形式的には、「埋葬」というセレモニーのうちに自己完結したものの、そこで累加された精神的苦痛の凄惨さは、語る言葉を奪う「緘黙」の世界に入っていくしかなかったのか。
籠から飛び立ったら〈死〉が待機しているという現象を印象づける、このウグイスのエピソードは、本作を決定づけるラストシークエンスへの決定的な伏線として回収されていく。
それを書いていく。
ある夜、難民の一人の男が、宗教的な色合いの強い「救済論」を、滔々と説いていた。
その男の話を、真剣に聞き入るベン。
以下、男の話。
「“正義”の一員だったかも知れん。ある村にいた男の奇跡は、この目で見たよ。村の広場で服を脱いだと思ったら、火に飛び込んで、全身火だるまに。目を疑った。至るところに、癒しの心が広まった。正気が失われたところだな。そんな所が幾つもある。我々のために、裸で火に飛び込むんだ。自らの体を犠牲にして、腐った世界を建て直している。彼らこそ、“正義”の団員かも。飛び込むたびに、一人ずつ減っている。その36人の団員は、腐った世界のために働いているのか?本当に世界を救済するのは、“火の兄弟” たちだ」
そして、この話を真に受けて、男の話を真剣に聞き入っていたベンが動いていく。
男が話した通りに、“正義”の一員に化けようとするのだ。
籠から飛び立ったウグイスのように、物音立てずに駅舎から抜け出して、紅蓮の炎の前で全裸になったベンは、顔中、鼻血だらけになりながら、〈死〉が待機している現象を〈状況〉に変換させようとすべく、今にも、劫火(ごうか)の渦中に飛び込もうとした。
そんなベンの行動に気がついた、当夜の見回り役のパトロールは、急いで駆け寄り、ベンを救出する。
その見回り役の男こそ、ポーランド難民の男に、「盗みと殺人」の疑いを被せて、彼の家族の前で激しい暴力を振るったグループの一人だった。
その男が、ベンを抱擁しながら、思いの丈を語るのだ。
「思い切り泣けば落ち着けるさ。イヤな話でも聞いたか?信じるんじゃない。あのカミソリ男には、誰もがウンザリしている。奴は本気だろうが、臆病だ。だが、お前は勇敢だから考えたんだな。・・・お前なら飛び込んでいた。でも、やろうと思っただけで充分なんだよ。待ってろ。すべて解決する。たぶん、明日にでも。明日になれば、大きな車がやって来る。乗って来た男が、こう言う。“世界が生まれ変わる”水とお肉も、たくさん来る。死んだ人だって、生き返るかも知れん。お前の気持ちだけで充分だ」
感動に心を震わせて語る男の一言一句には、駅舎の隅に押し込められたように呼吸を繋ぐ児童の存在を忘れて、暴力を振るった蛮行を反省する思いが内包されていた。
男たちによって暴行を受けたポーランド難民の男が、本来的には、親思いの善良な人物であったかも知れないように、暴力を振るった男もまた、決して、暴力を日常化している人物であると決めつけることなどできないのだ。
最低限の規範の確立もなく、ごく普通の「正義」が通用しない厄介な〈状況〉が、人間を変えてしまうのである。
ハネケ監督は、そう言いたいのだろう。
とびっきりの「寓話」の挿入によって、どうしてもそこだけは、ヒューマニズムに充ちた構図を提示したかったと、私は考えたい。
そして、2分間のラストカット。
「救済」の象徴であったはずの「命を運ぶ列車」が、車窓越しに、目眩(めくるめ)く美しい自然の風景を映し出していく。
「明日になれば、大きな車がやって来る」と言った男の言葉を裏付けるように、「生まれ変わった世界」の相貌の片鱗を提示して閉じる映像は、どうしても、この作品だけは作りたかったと語る、ハネケ監督のヒューマニズムの精神が存分に込められた一篇だった。
ハリウッドの「パニック映画」と一線を画す本作は、「居心地のよい世界で、終末を見ている社会に対し、この作品を提示したかった」と言い切って構築した、極めて挑発性の強い映画でありながら、そこで描かれる世界のリアリティを直視し、それを「共有」する者とのヒューマンな交叉を求める、ハネケ監督の作家精神のルーツをも感じ取れる柔和さが、全篇を通して漂流していたように思える。
一度観たら絶対に忘れられない映像が、観る者の脆弱な心の芯にまで肉薄してきて、その圧倒的な強度が、本作を一貫して支え切っていたからである。
(2013年7月)
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