1 「2人で行きたい。本物の家族みたいに」
ロイヤル・ホバート病院、熱傷センターで入院する子供たちにテレビのレポーターがインタビューをする。
「君はどうして火傷を?」
「ええと、寝室に上がっていく時に、ライターで火をつけてみたくなったんだ。打ち上げ花火があったから。芯がどれだけ速く燃えるか、見たくて火をつけた。すごく速く燃えたから、消そうとして…でも消えなくて…花火を折ってみたけど、消えなくて、ジーパンに穴が開いた」
「入院して長い?」
「一週間くらい」
「もう花火では遊ばない?」
「遊ぶよ」
「懲りてないの?」
「懲りたけど、花火はやるよ」
ニトラム |
テレビに映る、その少年の名はニトラム。
【ニトラムとは、自分の名を逆さ読みにされ、子供の頃につけられた侮蔑的な仇名】
オーストラリア・タスマニア島のポート・アーサーに、両親と暮らすニトラムは、自宅前の庭でロケット花火を上げ、近所から「クソ野郎!静かにしろ!毎晩うるさいんだよ!恥さらしめ!」と怒鳴られるが、意に介さず花火を続ける。
その様子を腕組みをして見ているニトラムの母親。
「取り上げて」と母親。
「害はないさ」と父親。
ニトラムの父母 |
戻って来たニトラムに、母親が「花火をパパに渡して。近所の嫌われ者よ」と言うと、素直に持っていた花火を父親に渡す。
食事の前に汚れた服を洗濯機に入れてくるよう母親に言われたニトラムが、父親の顔を見ると、「そのままでいい」と父親。
母親に再度促され、ニトラムは服を洗濯機に入れ、パンツ一枚で戻り椅子に座って食事を始める。
後日、母親に連れられサーフボードを買いに来たが、ニトラムは金が足りないと戻って来た。
「泳ぎもしないのにサーフボード?」
「ほしいんだ。スキューバはする」
「今はしてないでしょ。納屋で装具が朽ちてるわ…もうお金を無駄にしないわよ。サーフィンは向いてない」
ニトラムは、自在にサーフィンを楽しむウェットスーツ姿の男たちを遠くの浜から、羨望の眼差しで眺めている。
後ろで岩に座っている女性に声をかけるニトラム。
「名前は?」
「ライリーよ」
「きれいな名前だ」
「ありがとう」
その時、海から戻ったサーファーに近づきキスをする。
「彼は誰?」
「知らない人」
「やあ、ジェイミー。よくここでサーフィンを?」
ジェイミー |
二人はニトラムの話を無視して去って行った。
ニトラムは納屋から古い芝刈り機を持ち出し、芝刈りの仕事を求めて家を訪ねるが断られる。
今度は、昼休みの小学生を相手に花火と爆竹で遊んで見せるニトラム。
生徒に花火を手渡していると、教師が慌ててやって来て、生徒たちから花火を取り上げ、「離れろ!」と命じて教室に戻らせる.
「どうして?」とニトラム。
「何をしてる?学校の外で花火?非常識だ」と教師。
車で駆けつけたニトラムの父親がニトラムを車に戻し、教師に謝罪する。
「学校の回りをうろつかさせないでくれ」
「二度とさせない。約束する」
今度は、車のクラクションを鳴らし続けるニトラムを止めさせると、車を蹴り続けて感情を爆発させるのだ。
「どうした?お前は、おかしいぞ」
「おかしいのは彼だ。僕を嫌ってる」
「嫌ってないさ。生徒たちが昼休みに花火で遊ぶのを止めただけ」
「ママが何かしろって…」
「だが、これじゃない」
「…皆、友達だ」
「ああ、分かってる」
「皆、僕が好き」
「だけど約束してくれ。四六時中、お前を見張れない。いいな?…こうしよう。ドライブに行くぞ」
父親が連れて行ったのは、融資の目途が立ち、B&B(民宿)として購入する予定の家がある場所だった。
「すてきだろ…経営を手伝ってくれ」
ニトラムは嬉しそうに頷く。
「お前が結婚したら、ここは子育てにも適してる。いずれはお前の場所だ。絶対に買いたい」
そんな夢を語る父親の顔を見つめるニトラム。
日ならずして、母親がニトラムを精神科へ連れて行く。
「大変でしょうに。よくお越しくださいました。彼がどうしているか、心配してました。薬を常用してたんでしたね?抗うつ薬を飲むと落ち着く?」
「もうないんです。飲むと落ち着くから楽になります」
「あなたにとって楽?それとも彼?」
「…誰にとっても」
「薬を止めてもいい時期かもしれません…薬に頼るだけでなく、カウンセリングを受けてみては?」
母親はそれを断り、給付金(障害者給付金)を受け取るため、新しい診断書を書いてもらって薬の処方箋を受け取る。
ニトラムは再び芝刈り機を転がして仕事先を探していると、広い屋敷から出て来た中年女性のヘレンに承諾された。
ヘレン |
ところが、機械が思うように動かず、ニトラムが足で蹴飛ばしているのを見たヘレンは、それを面白がり、芝刈りができないことを謝るニトラムに、翌日からは犬の散歩の仕事を頼むのだった。
早速、10頭近くもの犬の散歩をし、エサを与え、ヘレンに2本指のピアノを習ったニトラムは、決して見下すことなく優しく接してくれるヘレンに心を寄せていく。
ヘレンは高級車の販売店にニトラムを連れて行くが、車内で燥(はしゃ)ぎ過ぎ、ヘレンが試乗するハンドルに手を出して運転を危うくする行為を制止しても止めないニトラムに対し、販売員が激怒して試乗を止めさせる。
ヘレンがその車の購入のサインをしている間、その販売員はニトラムの頭をハンドルに激しく打ち付けながら脅迫する。
「次はその脳みそを何とかしてこい。今度またやったら、タダじゃおかないぞ」
ショック状態のニトラムは平静を装い、ヘレンから自分が乗っているボルボのキーを渡されると、「金持ちなのか」と尋ね、ヘレンは自分がタスマニアの宝くじ会社のオーナーであると明かす。
ニトラムがボルボで自宅に戻り、両親に「ただいま」と挨拶をしたあと、「この家を出る」と唐突に伝える。
「行く所がないでしょ」
「ヘレンが誘ってくれた」
歌手で俳優だという初めて聞くヘレンの行為について両親は理解できなかったが、荷物をまとめているうちに過呼吸となったニトラムを母親が案じるや、ニトラムはその荷物を壁に叩きつけてしまうのだ。
「いいわよ、お友達のところに行きなさい」
「ここが大嫌いだ」
「私も清々するわ。あなたが出ていくとね」
遠巻きに見ているだけの父親は、ニトラムが出て行ってから、「君はいつもあの子を追い詰める。連れ戻してみる」とニトラムを追いかけようとする。
「戻ってくるわよ。誰もあの子とは暮らせない」
ヘレンがオペラ歌手の衣装を纏い、かつての栄光を偲んで涙を流して歌っているところに、ニトラムが荷物を持ってやって来た。
「ここに住みたい」
「いいわよ」
ニトラムは未婚のヘレンが使っていた部屋を案内され、二人の同棲が始まった。
ヘレンはニトラムの誕生日を彼の両親と共に祝うが、母親はヘレンに疑問を呈する。
「いったいどういう状況?芝刈りをしたら車を与え、今度は同棲。次は結婚?」
「車が必要だった」
「免許もないのよ」
「知らなかった」
母親は、ヘレンが子供も夫もいないことを聞き出し、「彼はどっちなの?夫?息子?」と質問するが、ヘレンは答えなかった。
ニトラムと父親が庭に出て行って、母親は更にヘレンに質問していく。
「なぜ彼なの?息子のどこがいいの?」
「思いやりがある。頼りになる。面白い…特別な人だわ。大切なお友達」
腕組みをした母親は、ニトラムが子供の頃の話を始めた。
「彼が子供の頃、生地店でやる遊びがあった。生地に巻いた長い筒の間に息子が隠れるの。私は彼を見つける役。5歳くらいの頃よ。息子も私も大好きな遊びだったの…でもある時、彼を探したけど見つからなかった。あちこち探した…どこにもいない。見つからなかった。他の店にも行き、知らない人にも助けられ、一時間以上捜したわ。涙を流しながらね。半狂乱だった。だって一番の悪夢だわ。母親が子を失うのはね」
「どうなさったの?」
「あきらめて車に戻った。警察に行くつもりだった。でもそうしたら、誰かの笑い声がしたの。後ろを振り返ると息子がいた。後部座席に寝そべり、笑いながら私を見上げてた。私の苦悩を笑ってた。最高に面白そうにね」
父親がニトラムを連れ、資金を用意して不動産会社に行き、再び、「経営を手伝ってくれるね?」と聞くと、少し考えたニトラムは頷き父の肩を撫でる。
今、ニトラムにはヘレンとの関係が絶対的だったので、父への反応も弱いのだ。
しかし、担当者から、資金繰りを待っている間に民宿が別の夫婦に競り落とされたと聞かされた父は、「あれは私のものだと…もっと出せば?」と食い下がったが、すでに契約済みであり、別の物件を探しましょうと、断られてしまった。
激しく落胆した父親が車に戻って、悔し涙を流すのを見ていたニトラムは、不動産会社にあった飴をバラまく。
ニトラムはヘレンの家の庭で、子供の頃、父親にもらったというエアライフルを撃ちまくり、不安に思ったヘレンが、「処分して。見たくない」とニトラムに言い渡した。
少し考えてから、ニトラムは家に戻り、今度は本物の銃を買って欲しいとヘレンに強請(ねだ)るが頑なに拒否され、その夜、ヘレンの部屋へ来て「ごめん」と謝る。
「もう銃はいらないよ。僕らの好きな映画を作ってるハリウッドに行こう」
そう言って、パンフレットをヘレンに手渡す。
「アメリカに行きたい?」
「2人で行きたい。本物の家族みたいに」
「いいわよ」
早速、旅行会社に手配して、空港へ向かう車の中で、二人はオペラを楽しく歌ってると、ここでもニトラムが燥(はしゃ)いで、またも運転するヘレンのハンドルに手を出して、今度は本当に車が横転してしまう事故を起こしてしまうのだ。
再び、ハンドルに手を出して事故を起こしてしまう |
病院で目を覚ましたニトラムは、ヘレンが死んだことを知らされた。
「警察が話を聞きたいと…」と父親。
「追い払って」
「…スピードを出してた?」
「何も分からない…僕は眠ってた」
「…分かった。パパが話してくるよ。お前は休め」
その直後、ニトラムは激しく興奮して声を上げ、パニック状態になった。
「彼はいい子よ…」
母親は虚しく呟いた。
2 「時々、僕は自分を見て分からなくなる。誰を見ているのか。何て言うか、そいつに届かない」
退院したニトラムはヘレンの屋敷に戻り、地元のバーでジェイミーを見つけ、酒を奢る。
顔の傷を聞かれたニトラムは、サーフィンでケガをしたと嘘をつく。
バーテンにお釣りを渡される際に「ニトラム」と声をかけられ、それを耳にしたジェイミーは、ドラッグに誘った車の中で、その呼び名を繰り返す。
「その呼び方はやめろ」
「何でだ?」
「学校でそう呼ばれてて、嫌いだった」
「なぜそのニックネームを?シラミ持ちか?」
「バカにしてるだけだ」
ジェイミーはニトラムをサーフィンに誘った後、目に入った路上で立っている女性に話しかけて来いと指示する。
「ニトラム、行け、ニトラム」と執拗に囃し立てられたニトラムは「面白くない」と断ると、「のろまだな」と言い捨て、ジェイミーは車を降りて、その女性とどこかへ行ってしまう。
母親がニトラムを訪ね、父親が会いたがっていると伝えた。
「なぜ、まだここに住んでるの?」
「僕の家だ…ヘレンはすべてくれた」
家に着くと、父親が具合悪そうに横になっており、「ヘレンは50万ドルと全てをあの子に残した」と母親が報告する。
絶望に打ちひしがれている父 |
ニトラムが様子を聞くと、「パパはまだ物件をまだ探している」と答え、ニトラムは髪を撫でながら「欲しいものは、僕が買ってあげるよ」と優しく接する。
しかし、その直後、ニトラムは父親の頬を叩き、「ズボンをはくんだ」と命令すると、激しく殴打していくのだ。
殴る音が響くほどエスカレートしていく異様な光景だった。
「やめてくれ!起きる、起きるよ…ぶたないで。お願いだよ」
叩くのを止めて父親にキスをするニトラムは、父親が部屋に戻ると、黙って見ていただけの母親に訴える。
「こうすべきなんだ。こうやるんだ」
ニトラムの行動に終わりが見えなかった。
父がB&Bの物件として買おうとしていた家に車で乗りつけ、乱暴にドアを叩くと、老夫婦が驚いて出て来た。
ニトラムは無造作に札束が入っている大きなボストンバッグを開け、「ここを買う資金だ」と言って押し付ける。
「僕らが先に見つけた…先に見つけたのに横取りされた」
「我々が住んでる。我々のものだ」
「カネを受け取れ」
「いらない。売るつもりはない…警察を呼ぶぞ!」
押し問答の末、ニトラムは締め出された。
ストレスを発散するためにか、サーフボードを持って初めて海に入り、サーフィンに挑戦するが、大波にただ打ち付けられるだけで、泳げないニトラムはやっとの思いで砂浜に戻り、震えながら立ち尽くす。
その直後に父親が海で自殺し、遺体が収容された。
父親の葬儀会場に派手な衣装で現れたニトラム。
「まるでピエロよ…今日は恥をかかせないで」
「見て。森の中にオオカミがいるんだ」
「面白がってるの?」
「いいや」
「帰りなさい。式を台無しにしないで」
「パパにお別れしなきゃ」
「帰って」
母親を抱き締めようとするが拒否され、ニトラムは「分かった」と、被ってきた帽子を父の棺に置いて、車で帰って行った。
ニトラムはその足で旅行代理店へ行き、「遠くに行きたい」と店員の女性に告げた。
希望の国を聞かれたニトラムは、「ヘレンとはLAに行く予定だった」と答える。
「LAですね…ご出発はいつ頃?」
「今すぐ」
札束を机に置くと、「十分です。ありがとうございます」と店員はプランの内容を確認するが、ニトラムは、「僕はビジネスマンだ。僕らはファーストクラスで行く予定だった」と話し、連れがいるかを聞かれた。
「あなたも来る?…僕がチケットを買う」
「悪いけど忙しすぎるわ」
「気にしなくていいよ…」
結局、一人分の予約を取り、ニトラムはLAを旅して、その様子をビデオカメラに録画する。
母親にLAで買ってきたスノードームを渡すと、「パパが恋しい」と呟く。
「なぜ泣かないの?」
「何ですって?」
「パパが見つかった時も泣かなかった」
「泣かなくても、つらいのよ」
「あなたも泣かなかったわ。恋しくないの?」
「別に」
「パパはあなたを愛してた」
「でも、いなくなった」
「弱り切ってたのよ」
「だから?皆、絶望的な気持ちで毎日過ごしてるんだ。パパはなぜ…命を断つなら僕のはずだった。皆に無視されてる“うすのろ”だもん」
「そんなこと言わないの」
「ママも僕を“ニトラム”って呼ぶ連中と同じさ」
「それは違うわ。私は母親よ。あなたを産んだの」
「時々、僕は自分を見て分からなくなる。誰を見ているのか。何て言うか、そいつに届かない。皆と同じになるよう、そいつを変えたいけど方法が分からない。だから結局、僕はここに、こうしてるしかない。こんなふうに、僕がこうしてるのは、パパみたいな弱虫じゃないってだけ」
「あなたが何を言ってるか、分からない」
「別にいいよ、ママ。僕も分からない」
涙ながらに語るニトラムと、涙ぐむ母親。
ニトラムはエアライフルでスノードームを撃ちまくった後、現金が詰まっているカバンを持って銃販売店を訪れ、店員の質問の意味も理解せず、答えに窮しながら、店員が答えを先取りするのに合わせて「イエス」と答え、目についた銃の撃ち方を教えられた挙句、ライフルとショットガンの購入を決めた。
「銃免許はありますね?」
「いいや。持ってない」
「ない?…ええ、お金持ちなのは分かってます。ライフル登録はしない?」
「何?」
「登録しないんですんね?」
「しない」
「分かりました…大丈夫です。拳銃だったら、売れませんでしたけどね」
更に拳銃を取り寄せ、それらを持って海岸へ行き、サーフィンから戻って来たジェイミーに、「君のために買った」と渡そうとするが、ジェイミーは受け取らずに後ずさりしていくのみ。
後ずさりして離れていくジェイミー |
「どうした?」と怪訝そうに見つめるニトラムを置き去りにして、ジェイミーは車で帰って行った。
ニトラムは射撃の練習に勤しむ中、スコットランドの小学校で起きた銃乱射事件のニュースを食事中に耳にし、引きつけられるように、事件の惨劇を伝えるテレビの前で見入るのだ。
「“…この無差別殺人事件の犯人は、地元でよく知られた男でした。はみ出し者、孤独者、変わり者、奇人…男児と銃への執着から不信感を買っていました…”」
ニトラムは新しい服を買い、更に買い足されて増えた銃を広いテーブル一杯に並べる。
散らかった部屋を片付け、掃除をして、自身も風呂に入って身綺麗にしたところに、母親がアップルパイを買って訪ねて来た。
アップルパイを食べながら、嬉しそうに母親の顔を見ているニトラム。
「明日の予定は?週末よ。何かしなきゃ。ダンスにでも行ったらどう?女の子と出会えるかも。もしかして、もうカノジョがいる?」
「いるよ…ライリー」
「いい名前ね?出会いは?」
「ビーチで会った」
「サーフボードを買って正解ね。今夜、食事すればよかった」
次第にニトラムの表情が暗くなってきて、母親はニトラムの話が嘘だと分かり、話しかける言葉もなく居づらさを覚えてしまう。
母親の沈黙に反応し、ニトラムは母親に顔を向けて見つめると、母親は部屋を見回し、「本当にきれいにしたわね」と話を逸(そ)らした。
何も答えず、下を向いてアップルパイを食べるニトラム。
夜、ニトラムがベッドに入り、おやすみのキスをした後、母親は帰って行った。
不安含みでニトラムと別れて帰っていく |
目覚ましで目を覚ましたニトラムは、ヘレンから誕生日プレゼントで貰った、お揃いの牡牛座のペンダントをつけ、ヘレンに教わった2本指のピアノを弾き、身支度をして鏡に映った自分にキスをする。
車に銃を積み、飼い犬たちを乗せて路上で解き放ち、父親と共同経営するはずだった家に向かい、先日追い返された老夫婦を銃殺するのだ。
惨状の始まりだった。
次に、人が大勢集まるポート・アーサー史跡にやって来て、ヘレンと両親とで誕生日を祝ったレストランでフルーツを食べ、ジュースを飲み、ビデオカメラをテーブルの上にセットし、銃を取り出す。
惨状を映すことなく、物語が閉じていく。
「“現在25人の死者を確認…オーストラリア史上最悪の銃乱射事件です…”」
事件を報道するテレビのニュースが流れる中、母親は外の椅子に座り、タバコをくゆらせていた。
「1996年4月28日、タスマニアのポート・アーサーにて35人が死亡、23人が負傷。単独の武装犯は35回の終身刑を宣告された。この日の一件を機に、オーストラリアの銃規制の見直しが求められ、事件の12日後、全州が銃規制法に合意。64万丁を超す銃器が政府に買い取られ破棄された。しかし、この法律はどの州においても、完全には順守されていない。現在、オーストラリアでは、1996年よりも多くの銃が所持されている」
3 「自分が何者であるのか」という問いを立てる力
実話ベースの本篇を、どう受け止めたらいいのか。
多くのレビューで言及されることがなかったので、散々悩んだ末に、私が考察した結論から書いていく。
作り手の思惑とどこまで重なるか否か分からないが、「給付金」(障害者給付金)というセリフで明白なように、この映画を発達障害という視点から起こしていかない限り、事件に至るまでのニトラムの内的時間をフォローすることが困難であると思えるのである。
ここで、個々の事例を列記していく。
ファーストシーンで敢えて紹介しなかったが、「懲りたけど、花火はやるよ」と答えるニトラムと対比させて、花火で懲りた少年のインタビューがセリフのみの黒枠の画面でインサートされていた。
それを再現する。
「どうして火傷したの?」
「火で遊んでたんだ。雨が降ってて、僕は石油を持ってた。でも石油が火に近づきすぎて…だから石油に火がついて、びっくりして慌てちゃったんだ。石油缶が滑って落ちて火が広がったから、慌てて飛び込んで脚を火傷した。今度はホースを取りに走って、思いっきり水を出して、火を消したんだ。その後お隣に走った」
「そして、皮膚移植手術を?」
「うん、3か所」
「大丈夫?」
「もう大丈夫。かゆかったけど、もう治った」
「また火で遊ぶ?」
「二度としない」
ニトラムとの差が歴然としていることが分かる。
ニトラムの自我の発達の遅れを無視し得ないのである。
これは成人になっても花火への異様な拘泥が描かれていることで、言わず語らずのうちに納得できるだろう。
多くの小学生相手に花火で派手に遊び、花火遊びを止めさせる教諭に怒ってクラクションを鳴らし続けたばかりか、「おかしいのは彼だ。僕を嫌ってる」と決めつけ、車を蹴り続けて激しくレジストするのだ。
「皆、僕が好き」と言い放ち、抗議の意思を暴力によってしかできない成人が、そこにいる。
このエピソードは、物語の主人公が知的障害を患っている事実を確かめるのに十分な例証になる。
ほぼ無意識的な暴力性の発現という、固定化された方法でしか対処できないニトラムの問題解決能力の致命的低さ。
これが検証されるのである。
その騒音を世間に注意されても一切耳を貸さず、花火遊びにのめり込んだ挙句、自宅に戻り「ズボンを洗濯機に入れて。汚いわ」と母に言われたらパンツ一丁で食卓に現れるニトラム。
更にヘレンから車を買ってもらうエピソードで分かるように、試乗運転するヘレンのハンドルに手を出し、剣呑(けんのん)極まりない行動に振れるニトラムには、危険回避能力の片鱗も見えないのだ。
危険という感覚すらも希薄なのである。
感情が高ぶると抑制が効かず、回避困難な危険を冒してしまうのだ。
この行為が失ってはならない者の命をも奪う悲劇を出来させるから、どこにも救いを拾えない。
危険を予測し、それを避けるための対策を取る能力の欠陥。
これが、いつも付き纏(まと)っているから、大好きな父をして、「四六時中、お前を見張れない」と言わしめてしまうことになる。
ニトラムに対して「イエス」としか言わない父の現実逃避の日和見主義と、夫の欠損を補うに至らない母の厳格さが嚙み合うことなく延長されてきた、両親の子育ての手抜かりを誹議(ひぎ)するのに忍びないが、協力し合って事態に向き合い、要所要所で一人息子と対峙し、家族として構造的にサポートする環境作りができたら凄惨な事件に流れなかったとも推量できる。
では、ニトラムにとって最も大切なヘレンの存在とは、一体、何だったのか。
私は両者共に孤独の埋め合わせであったと考えているが、気になる会話があった。
ニトラムの両親がヘレンと会った時の会話である。
「彼(ニトラムのこと)はどっちなの?夫?息子?」
ニトラムの母からこの不意打ちを受け、関係の本質を尋ねられたヘレンは黙したのである。
その前に「大切なお友達」と答えているにも拘らず、どちらでもないと答えるはずなのにそうしなかった。
失った青春を取り戻すべくと表現していいのか分からないが、未婚のヘレンには異性感情があったと考えられるが、無論、断定すべくもない。
ここでの要諦(ようてい)は、この時、ニトラムが二人の会話を真剣な表情で聞き入っていたということ。
「自分がヘレンから、どう見られているのか」
この思いが強いことが明瞭に読み取れる。
土地の者からネガティブに見られていることに慣れているニトラムにとって、今やヘレンの存在だけが全てだった。
そのヘレンに異性感情を持っていなかっただろうニトラムには、ヘレンに「息子」と言って欲しかったに違いない。
幼少期から母は逆らえない存在だから特段の反抗に振れないが、もう、交し合う母子の深い感情の共有を失っている。
これが映画後半で、唯一交される母子の深刻な会話のうちに切り取られていた。
「時々、僕は自分を見て分からなくなる。誰を見ているのか。何て言うか、そいつに届かない。皆と同じになるよう、そいつを変えたいけど方法が分からない。だから結局、僕はここに、こうしてるしかない」
嗚咽を漏らしながら母に語るニトラムに、「自分が何者であるのか」という問いを立てる力が垣間見える物語のキーとなるシーンに息を呑んだ。
その母もまた、「あなたが何をいってるか分からない」としか反応できなかったが、母に愛情欠損があるとは思えない。
それでも、こういう反応しかできないのだ。
長い年月を経て母子の関係に埋め難い距離ができて、その修復が難しくなってしまったのである。
【因みに、ここでいう「そいつ」とは、「"普通"になれない“ニトラム”と呼ばれ、孤立化する自己」であると考えられる】
だから、ニトラムにとってヘレンの存在こそ母子なのである。
「2人で行きたい。本物の家族みたいに」とヘレンに吐露するシーンがあるが、これがニトラムの正直な思いであった。
ヘレンから銃を持つのを止めろと言われれば素直に従うのである。
この素直さは母に対する素直さと一線を画す。
自我の空洞を埋めるには、ヘレンの存在しかなかった。
しかし、失ってはならない大切なヘレンを喪ったニトラムを襲う途轍もない空洞感・孤立・孤独感。
旅行代理店の女性に「あなたも来る?…僕がチケットを買う」などと尋ねるほど、孤独の境地に追い詰められたニトラムの一縷(いちる)の望みが壊れていく。
EQ(感情察知・抑制・適応能力)とSQ(社会的知能)という精神年齢の低い彼の〈生〉が壊れていくのだ。
EQとSQ |
EQ・SQが低いニトラムの内面を考察して目立つのは、嘘をつく場面が多いこと。
その典型例は、ヘレンの死因を聞かれて「何も分からない…僕は眠ってた」と言って誤魔化したことである。
これは自らの責任回避の反応である。
EQ・SQの不足を補うに足る最低限の詐術(さじゅつ)だけは手に入れていた。
このように自己防衛的な嘘をつき続けるニトラムにも、社会の視線に対して決して鈍感ではないことが瞭然とする。
そして何より際立つのは、周囲の差別視線に対する苛立ちと怒りの感情が身体化される行動。
これは、父と共同経営することになったB&Bを略奪されたと決めつけて、単身、その買い主の家に乗り込んでいくシーンに凝縮されていた。
B&Bを手に入れられず、動かず横になっているだけの父に暴力を振るうシーンがインサートされていたが、共同経営すると約束したはずの「弱虫」の父に対する反発の表現であることが分かるから余計に痛ましかった。
ここで垣間見える、ニトラムの心理の遷移の様態。
要するに、ヘレンとの出会いによって相対的に希薄になったB&Bへの熱情が、そのヘレンを喪ったことで再燃したのである。
ヘレンが存命中だからB&Bに消極的だった |
B&Bの共同経営者になれば、芝刈り機の仕事で収入を得られることなく、いつまで経っても自分サイズの社会的自立を果たせず、アイデンティティを確保し得ないで溜め込んだストレスを解消できるのだ。
これが父への暴力に振れてしまったのである。
この暴力が、B&Bの所有者への攻撃に向かっていくのは必至だったということ。
それでも、心に空いた穴を埋める何かを求めるニトラムが目指したのは、「男らしさ」の記号であるサーフライダーへの変容。
無理だった。
負の様態が連鎖する。
なお藻掻(もが)くニトラムが向かったのは、却って孤立・孤独感を際立たせてしまうだけのLA行。
もう限界だった。
ヘレンが禁じた銃への執着が、ここから開かれていく。
銃の桁外れな収集に走り、その訓練に時間をかけていくニトラム。
【免許を持たないニトラムに多種の銃を売る銃販売店に驚かされるが、我が国では考えられない銃社会の現実に唖然とする。その辺りに作り手のメッセージが読み取れる】
印象深いシーンがあった。
銃で武装して、出かける前にヘレンの家で鏡に見入るニトラムの画である。
これは何を意味するのか。
「自分が何者であるのか」という問いを立て、「誰よりも強き男」であるという仮構の自己像を確認する意味ではなかったのかと私は勘考する。
「自分が何者であるのか」という問いを立てる力を有することの難しさ。
それを感じざるを得ないのだ。
然るに、幼少期から抗うつ剤を服用するほどの障害を抱えた男が最後に打ち立てた自己像は、一貫して憧憬の念を抱いていた「誰よりも強き男」という虚像であった。
「ニトラム」という蔑称を、今、ここで返上し、破壊する行為に打って出るのである。
いの一番に狙ったのがB&Bを略奪したと決めつける老夫婦だった。
そこまでして固執していた「共同経営者」という絶対的観念が、ニトラムの内面を支配しているのだ。
映画は、その先に待機する陰惨な事件(ポートアーサー事件/1996年4月28日)を描かずに閉じていく。
銃撃の大部分が行われたポートアーサーのポートアーサーベイ(ウィキ) |
事件の遺族が今もトラウマを抱えながら存命中の現状にあって、事件それ自身を映像に結ぶことなどできようがない。
何より、事件の犯人もまた刑務所に収監されているのだ。
自殺未遂を起こしたらしいが、死刑制度のない国(オーストラリアは1973年に「死刑廃止法」を制定)の刑務所で生涯を終えることになる。
「自分が何者であるのか」という問いを立てる力が生き残っているか否かについて、私には皆目分からない。
―― 以上、映像が提示した情報を知る限り、ニトラムが何某かの発達障害を抱えていることを認知せざるを得ないだろう。
では、ニトラムが抱えていた発達障害とは何だったのか。
正直、分からない。
私個人として言えるのは、障害特性(特定の拘泥・感覚過敏)と環境要因(物理的環境・不適切な対応)において特徴づけられる「強度行動障害」ではないかと考えているが、自信がないから、ここでは資料だけの提示に止めておく。
「ハートネットTV 2024年1月22日放送『特集「強度行動障害」(1)~孤立する親子たち~』」より
―― ただ、これだけは書いておきたい。
まず、「定型発達」と「発達障害」の違いを認知すること。
「定型発達」と「発達障害」 |
自閉スペクトラム症・注意欠陥多動症・学習障害などの「発達障害」を伴わない「定型発達」と「発達障害」の違いを認知することは差別ではないこと。
自閉スペクトラム症 |
寧ろ、「違い」を認めることが平等で、「違い」を認めないことが差別なのである。
映画の例を挙げれば、葬儀の時のニトラムが場違いな服装をしたり、ジェイミーに、「君のために買った」と言って銃を渡そうとする異様な行為は、当の本人は「これでいい」と思って行動しているのである。
だから、この問題行動をして「異常者」と簡便に言語処理してしまう「定型発達」サイドのアプローチを改め、その両者の違いの判別の難しさをも考慮しつつ、「発達障害」と思われる対象人格と真摯に向き合う態度こそ緊要であるということ。
私はそう考える。
(2024年4月)
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