映画リスト5
- ツユクサ('22) それぞれの〈生〉があり、それぞれの自己運動が広がっている
- 夜明けのすべて('24) 夜明け前の暗さを乗り越えていく
- ニューオーダー('20) 猟奇的好奇心の卑俗性を削ぎ落とす物語
- 母という名の女('17) 欲望の稜線を広げた成り行きの果て
- この森で、天使はバスを降りた('96) 究極なる「特別な出来事」が完遂する
- 或る終焉('15) 常世の闇の世界に掠われて
- メタモルフォーゼの縁側('22) 「完璧な一日」へのはじめの一歩
- EO イーオー('22) ヒトと動物の宿命の隔たりの大きさ
- 市子('23) 「手に負えない何者か」と化していく
- ほかげ('23) 戦争後遺症という疲労破壊が押し寄せてくる
- コット、はじまりの夏('22) 勇を鼓して駆け走る少女
- 家の鍵('04) 涕泣と受容、その時間の旅の重さ
- ナポリの隣人('17) 「擬似家族」という幻想の行方
- ウェンディ&ルーシー('08) 小さな町の、小さな旅の、小さな罪の、大きな別れ
- the son/息子('23) 無知と恥は痛みを引き起こす
- だれのものでもないチェレ('76) 母の迎えを待つナラティブが壊れゆく
- 怪物('23) 抑圧と飛翔
- Winny('22) 出る杭は打たれる文化の脆さ
- コンパートメントNo.6('21) 出会いはいつも唐突にやってくる
- キャロル・オブ・ザ・ベル 家族の絆を奏でる詩('21) 誰にも奪えない少女のイノセンス
- 君は行く先を知らない('21) 悲痛な叫びが夜の闇を切り裂いた
- 希望のかなた('17) 並外れて優しき者たちの利他的行為の結束力
- 縞模様のパジャマの少年('08) 友情を繋ぐ冒険の危うい行方
- 波紋('23) 狂わなければ〈生〉を繋げない女の突破力
- 福田村事件('23) 則るべき道理が壊れゆく
- 僕たちは希望という名の列車に乗った('18) 自ら考え、行動し、飛翔する若者たち
- ソフト/クワイエット('22) レッドラインを越えていく女たち
- ニトラム/NITRAM('21) 「自分が何者であるのか」という問いを立てる力
- ゲット・アウト('17) 社会派スリラーの傑作
- 戦場のメリークリスマス('07) 「神秘的で聖なる何ものか」に平伏す男の脆さ
- キサラギ('07) エンタメ純度満点の密室劇
- 悲しみのミルク('08) 凄惨なる「地獄の記憶」を引き剥がし、進軍する
- にごりえ('53) 女に我慢を強いる貧困のリアリズム
- 神様のくれた赤ん坊('79) 二つの旅が溶融し、二人の旅が完結する
- ドラマ特例 ながらえば('85) 不器用なる〈心の旅〉が開かれていく
- せかいのおきく('23) 投げ入れる女と受け止める男
- 夜明けまでバス停で('22) 「道徳的正しさ」で闘った女の一気の変容
- ドラマ特例 今朝の秋('87) 善意の集合がラインを成した物語の、迸る情緒の束
- she said/シー・セッド その名を暴け('22) 使命感という闘いの心理学
- LOVE LIFE('22) 幻想崩壊から踏み出す一歩
- 評議('06) 人が人を裁くことの重さ
- エゴイスト('23) そこだけは輝きを放つ〈愛〉のある風景
- アマンダと僕('18) それでも、人間は動く
- 帰らざる日々('78) 〈あの夏〉が蘇り、不透明な自己の〈現在性〉を穿ち、鮮度を加えて立ち上げていく
- ロストケア('23) トラウマを克服する歪んだ航跡
- 小林多喜二('74) 闇があるから光がある
- 銀河鉄道の父('23) 魂の呻きを捩じ伏せて、なお捩じ伏せて、這い出して、熱量を噴き上げていく
映画リスト4
- 橋のない川 第二部('70) 闘い切った映画作家の本領の眩さ
- 橋のない川('69) 沸点に達した少年が状況を支配し、新たな情景を拓いていく
- ザ・ホエール('22) 時間の傷を溶かす距離の重さ
- ケイコ 目を澄ませて('22) 魂を込めたボクシング人生を再駆動していく
- レディ・バード('17) それでも私は東に跳んでいく
- オフサイド・ガールズ('06) 「都会の女たち」の熱気は、地方から出て来た兵士の男を圧倒する
- 生きる('52) 黒澤ヒューマニズムの真骨頂
- わが青春に悔いなし('46) 顧みて悔いのない生活
- 潜水服は蝶の夢を見る('07) 「想像力」と「記憶」を駆使し、窮屈な“潜水服”の状態から抜け出ていく
- ラーゲリより愛を込めて('22) 「堂々たる凡人」 ―― その生きざま
- どん底('57) 黒澤リアリズムの到達点
- PLAN 75 ('22) 復元し、明日に向かって西陽を遠望する
- 蜘蛛巣城('57) 完璧な俳優陣による完璧な構成と完璧な構築力
- 生きものの記録('55) 「神武景気」の只中で堂々と世に放たれたエンタメ排除の反核映画
- 天城越え('83) 「無常と祈り」の映像風景が揺蕩っている
- 用心棒('61) 純度100%のエンタメ時代劇の決定版
- 八月の狂詩曲('91) 「戦時の悲劇」と「牧歌的な平和」が架橋する
- 土喰らう十二ヵ月('22) 「今日」という一日を丁寧に生きていく
- ひろしま('53) 怒りを力に変え、その惨状を描き切った唯一無二の幻の名画
- ある男('22) 束の間の至福を経て昇天する男が物語を揺動させていく
- ルーム('15) 「途轍もない特異性」が抱え込む破壊力が溶けていく
- 1987、ある戦いの真実('17) 公安⇔反体制的学生・市民という激発的衝突の向こうに
- 千夜、一夜('22) 強靭なナラティブを繋ぎ、今日という一日を生きていく
- 嵐が丘('92) 憎悪の感情の束が打ち抜かれゆく
- あのこと('21) 欲望の代償の重さ
- ムーンライト('16) 男らしさという絶対信仰が溶かされていく
- MINAMATA-ミナマタ-('20) 異国の地で、呼び覚まされた写真家の本能が炸裂する
- 醉いどれ天使('48) 時代遅れのヤクザに対峙し、町医者の憤怒が炸裂する
- 親愛なる同志たちへ('20) 他言無用の「赤い闇」が今、暴かれていく
- 英雄の証明('21) 人間の脆弱性を細密に描いた映画の切れ味
- 線は、僕を描く('22) 二つの青春 ―― その浄化の旅
- 硫黄島からの手紙('06) 「自決の思想」を否定する男の、途切れることのない闘争心がフル稼働する
- 百花('22) 複層的に覆う負の記憶が解けていく
- 燃ゆる女の肖像('19) 窮屈な〈生〉を払拭し、湧き出る感情を一気に解き放っていく
- 流浪の月('22) 小さくも、誰よりも清しい愛が生まれゆく
- 死刑にいたる病 ('22) 叫びを捨てた怪物が放つ、人たらしの手品に呑み込まれ、同化していく
- 歓待('10) 群を抜く、「決め台詞」と叫喚シーンを捨て去った映像 ―― その鉈の切れ味
- 杉原千畝 スギハラチウネ('15) 迫りくる非常時の渦中で覚悟を括り、「命のビザ」を繋いでいく
- 暗殺・リトビネンコ事件('07) 「銃弾で死ぬか、毒殺されるか」という悍ましい負の連鎖
- 戦争と女の顔('19) 「戦争が延長された『戦後』」を描き切った映像の破壊力
- 愛がなんだ('18) 後引き仕草が負の記号になってしまう女子の、終わりが見えない純愛譚
- 峠 最後のサムライ('19) 己が〈生〉を、余すところなく生き切った男の物語
- 岬の兄妹('18) 炸裂する、障害者という「弱さ」の中の「強さ」
- 大河への道 ('22) 「奇跡の旅」を受け継ぐ名もなき者たちの物語
- 夕凪の街 桜の国(’07) 被曝で壊された〈生〉なるものを拾い集め、鮮度を得て繋いでいく
- 前科者('21) 自己救済への長くて重い内的時間の旅
- 僕が跳びはねる理由('21) 自分たちのリズムを壊すことなく、成長を望む思いを共有していく
- ヤクザと家族 The Family ('21) 求めても、求めても得られない「家族」という幻想
- ベルファスト('21) 有明の月を目指す家族の障壁突破の物語
- ベイビー・ブローカー('22) 「生まれてくれて、ありがとう」 ―― この生育を守り抜いていく
- ハケンアニメ!('22) 「義務自己」「理想自己」を粉砕する原点回帰への時間の旅
- ノマドランド('21) 最後の“さよなら”がない〈生き方〉を選択していく
- トップガン マーヴェリック('22) 「全員生還」という思いが雪の渓谷を切り裂いていく
- ドライブ・マイ・カー('21) 切り裂かれた「分別の罠」が雪原に溶かされ、噴き上げていく
- チョコレート・ドーナツ('12) 魂を打ち抜く反差別映画
- セッション('14) 光芒一閃する青春の炸裂
- ジョジョ・ラビット('19) 生き抜く強さの連鎖が、刷り込まれた「英雄物語」を解体していく
- コーダ あいのうた('21) 「青春の光と影」 ―― 身を削る思いで束ねた時間の向こうに結実していく
- アルプススタンドのはしの方('20) 迸る熱中に溶融する「しょうがない」の心理学
- わたしは最悪。('21) 終わりが見えない「自分探し」の旅に終止符が打たれいく
- はじまりのみち('13) 旅に出た若者が「基地」に帰還し、新たな旅に打って出る
- さがす('22) 生まれ変わった父を信じる力が、少女の底力の推進力と化していく
- こちらあみ子('22) 小さなスポットに置き去りにされた感情を共有できな無力感
- いつか読書する日('05) たった一度の本気の恋を成就させる思いの強さ
- TITANE/チタン('21) ジェンダーの矮小性をも超える異体が産まれゆく
映画リスト3
- 「泣く子はいねぇが」('20)
- ブータン 山の教室('19)
- ウインド・リバー('17)
- ダラス・バイヤーズクラブ('13)
- 虐殺の大地を走り抜き、鮮烈な時間を拓いていく 映画「ルワンダの涙」('05)の壮絶さ
- 名もなき歌('19)
- 「その日」限定の時間を大切に生きる純愛譚の威力 映画「静かな雨」('19)
- 米騒動とは何だったのか 映画「大コメ騒動」('21)に寄せて
- 後追い死に最近接する青春を掬い切った燃える赤 映画「走れ、絶望に追いつかれない速さで」('15)
- 蒼然たる暮色に閉ざされながらも、〈今〉を生きる母と子の物語 映画「梅切らぬバカ」('21)
- アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発(‘15)
- 最も苛酷な時代に真実の報道の姿勢を貫き、散っていった勇敢なジャーナリスト、その生きざま 映画「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」('19)
- 3人の男のボクシング人生の振れ具合を描き切った傑作 映画「BLUE/ブルー」('21)
- 護られなかった者たちへ('20)
- 海辺の一角で渾身の一撃を放つ男の、人生のやり直し 映画「アナザーラウンド」('20)
- 海街diary (‘15)
- 尊厳死に向かって、「終活」という「生き方」を自己完結させていく 映画「しあわせな人生の選択」('15)
- 望み('20)
- ナチュラルウーマン('17) セバスティアン・レリオ
- 純愛の強靭さを決定づける抜きん出た強度 映画「少年の君」
- 出会うことがない階層社会で呼吸を繋ぐ女性たちの、そのリアルな様態を描く 映画「あのこは貴族」('21) ―― その訴求力の高さ
- 自立する少女の身体疾駆が弾けていく 映画「いとみち」('21) ―― 心に残るエンタメの秀作
- 認知症の破壊力を描き切った大傑作 映画「ファーザー 」('20) ―― その卓出した構築力
- 裸足の季節('15)
- 残された機能を生かし、打って出た自立への旅 映画「37セカンズ」('19)の強さ
- エンタメ性を丸ごと捨てた、直球勝負の社会派の秀作 映画「17歳の瞳に映る世界」('20) ―― その精緻な構成力
- 「罪なき傍観者」を断罪し、復讐劇が自己完結する 映画「プロミシング・ヤング・ウーマン」('20)の破壊力
- “憎しみに居場所なし” 異彩を放つ映画「ブラック・クランズマン」('18) ―― そのシャープな切れ味
- 茜色に焼かれる('21)
- 全篇にわたって心理学の世界が広がっている 映画「空白」 ―― その半端なき映像強度
- 街の上で('19)
- パピチャ 未来へのランウェイ('19)
- 幸せなひとりぼっち(‘15)
- MOTHER マザー('20)
- 息を呑む圧巻の心理的リアリズム 映画「瞳の奥の秘密」の凄み
- 天外者('20)
- 父と娘がタイアップし、破天荒な局面を突破する 映画「カメラを止めるな!」 ('17)
- ペイン・アンド・グローリー('19)
- 依存症の地獄と、その再生を描き切った逸品 映画「凪待ち」の鋭利な切れ味 ('19)
- 「第六感」=「ヒューリスティック」が極限状態をブレークスルーする 映画「ハドソン川の奇跡」('16)
- 「母」との短い共存の時間を偲び、想いを込めて世界で舞う「娘」 映画「ミッドナイトスワン」('20)
- ミナリ('20)
- 何ものにも代えがたい男の旅の収束点 映画「すばらしき世界」('20)の秀抜さ
- ジョーカー('19)
- 「怒り」の閾値を超えていく少年の爆裂の行方 映画「怒り」の喚起力('16)
- 孤狼の血('18) 白石和彌
- アンダードッグ('20) 武正晴
- 長いお別れ('19)
- 精神障害者の社会復帰への艱難な旅 映画「閉鎖病棟 -それぞれの朝-」('19)
- 瓦礫の山と化す地場で「家族写真」を撮り切った男の旅の重さ 映画「浅田家!」('20)
- 多様な関係性が思春期を育てる 映画「はちどり」('18) ―― その煌めく彩り
- 叫びを捨てた事件記者と、事件の加害性で懊悩する仕立て職人が交叉し、化学反応を起こす 映画「罪の声」('20)
- 最悪の事態に対してアップデートできない我が国の脆さ 映画「Fukushima 50」 ('20) が突きつけたもの
- 「宮本から君へ」('19)
映画リスト2
- 母さんがどんなに僕を嫌いでも('18)
- 状況に馴致することによってしか呼吸を繋げなかった女の悲哀 映画愚行録('17) ―― その異形の情景
- 恐怖のスポットでグリーフワークが完結する 映画「蜜蜂と遠雷」('19)
- 晩年の2年間に爆裂する男の「激情的習得欲求」の軌跡 映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」('18)
- 午後8時の訪問者('16)
- 映画短評 幸福なラザロ('18)
- 斬、('18)
- 毒気なき「絶対反戦」のメッセージを異化する映画「小さいおうち」('14) ―― その異様に放つ「切なさ」
- 「愛」があって「性」がある関係にのめり込んでいった少女の「愛の風景」 映画「第三夫人と髪飾り」('18)が訴える、女性差別の裸形の情態
- 「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」 ―― 映画「永遠の0」('13)という照準枠
- 愛する人('09)
- わたしは光をにぎっている('19)
- その手に触れるまで('19)
- 「コスモポリタン」を無化した女の情愛が、地の果てまで追い駆けていく 映画「スパイの妻」('20)の表現力の凄み
- 自己運動の底部を崩さず、迷い、煩悶し、考え抜いて掴んでいく ―― 映画「星の子」('20)の秀逸さ
- ある少年の告白('18)
- 生きちゃった('20)
- 町田くんの世界('19)
- blank13('17)
- LION/ライオン 〜25年目のただいま〜('16)
- 勝手にふるえてろ('17)
- ビューティフル・デイ('17)
- ドラマ特例篇 「この戦は、おのれ一人の戦だと思うている」 ―― 「『麒麟がくる』本能寺の変」・そのクオリティの高さ
- 東ベルリンから来た女(‘12)
- 心と体と('17)
- 夜明けの祈り('16)
- 獣は月夜に夢を見る('14)
- きっと、いい日が待っている('16)
- シングルマン('09)
- 「自分自身を信じる力」が強い男の強烈なメッセージが、風景を変えていく 映画「ノクターナル・アニマルズ」の凄み('16)
- 神々と男たち(’10)
- ひつじ村の兄弟(‘15)
- 形容し難いほどのラストシーンの遣る瀬なさが、観る者の中枢を射抜く ―― 映画「帰れない二人」('18)
- 危機意識の共有を崩す若手官僚の正義の脆さ 映画「新聞記者」('19)
- 禁じられた歌声('14)
- 自転車泥棒 ('48)
- ガーンジー島の読書会の秘密('18)
- 残像('16)
- 海を駆ける('18)
- DVの犯罪性を構造的に提示した映画「ジュリアン」 ―― その破壊力の凄惨さ
- ロスト・イン・トランスレーション(’03)
- 「別離のトラウマ」の破壊力 映画「寝ても覚めても」('18) ―― その「適応・防衛戦略」の脆弱性
- 「バカンス」を軟着させた青春の息づかい ―― 映画「ほとりの朔子」(’13)の素晴らしさ
- SOMEWHERE ('10)
- オーバー・フェンス('16)
- The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ('17) ソフィア・ コッポラ
- 武装解除できない青春の壊れやすさ 映画「きみの鳥はうたえる」('18) ―― その「予定不調和」の秀逸な収斂点
- 「俗悪なリアリズム」という、イラン映画の絶対的禁忌 ―― 映画「人生タクシー」の根源的問題提起
- ひとよ('19)
- 「臭気」という、階層の絶対的境界の不文律 ―― 映画「パラサイト 半地下の家族」('19)の風景の歪み
- ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書('17)
- 捩れ切った関係交叉の齟齬が生む「もどかしさ」 ―― 映画「よこがお」('19)の訴求力の高さ
- たかが世界の終わり('16)
- ゼイン ―― その魂の叫び 映画「存在のない子供たち」('18)が訴えた「児童婚」・「児童売買」の陰惨な風景
- 断片でなければ、現実は理解できない ―― 「71フラグメンツ」・映画の構造を提示する、ハネケ映像の圧倒的な凄み
- グリーンブック('18)
- シン・ゴジラ('16)
- かくも長き不在('61)
- ワイルドライフ('18)
- パターソン('16)
- 半世界('19)
- COLD WAR あの歌、2つの心('18)
- エリザのために('16)
- 日日是好日('18)
- 映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ('17)
- イングマール・ベルイマン ―― その映像宇宙のいきり立つ表現者
- わらの犬('71)
- 万引き家族('18)
- 女は二度決断する('17)
- 三度目の殺人 ('17)
- 判決、ふたつの希望('17)
- ラブレス('17)
- バスキアのすべて('10)
- エレナの惑い('11)
- スポットライト 世紀のスクープ('15)
- 永い言い訳('16)
- 湯を沸かすほどの熱い愛('16)
- 山河ノスタルジア('15)
- 幼子われらに生まれ('17)
- スリー・ビルボード('17)
- わたしは、ダニエル・ブレイク ('16)
- ヒトラーの忘れもの('15)
- ティエリー・トグルドーの憂鬱('15)
- セールスマン(’16)
- ハッピーエンド(’17)
- あの夏、いちばん静かな海。('91)
- ライフ・イズ・ビューティフル('98)
- 夜と霧('55)
- 葛城事件(’16)
- 映画「ブラス!」に見る怨嗟と甘えの構造
- 淵に立つ
- キャロル(’15)
- あん(’15)
- さざなみ(’15)
- サウルの息子(’15)
- ディーパンの闘い(’15)
- ぼくらの家路(’13)
- 草原の実験(’14)
- マルタのことづけ(‘13)
- 失われた週末(’45)
- 冬冬の夏休み(’84)
- 悪魔のいけにえ(’74)
- 珈琲時光(’03)
- イロイロ ぬくもりの記憶 (’13)
- デリカテッセン(’91)
- スモーク(’95)
- サン★ロレンツォの夜(’82)
- アリスのままで(’14)
- 山椒大夫(’54)
- エデンより彼方に(’02)
- 祇園囃子(’53)
- サイの季節(’12)
- 未来を生きる君たちへ(’10)
- 真夜中のゆりかご(‘14)
- エル・スール(’82)
- 野火(’14)
- 名もなき塀の中の王(’13)
- 岸辺の旅(’15)
- さよなら渓谷(’13)
- 夏をゆく人々(‘14)
- ショート・ターム(’13)
- 父 パードレ・パドローネ(‘77)
- 楢山節考(‘83)
- リアリティのダンス(‘13)
- その男、凶暴につき(‘89)
- サイダーハウスルール(’99)
- トレーニングデイ(‘01)
- サンドラの週末(‘14)
- きみはいい子(‘14)
- 海にかかる霧(‘14)
- 大統領の執事の涙(‘13)
- フォックスキャッチャー(‘14)
- おみおくりの作法(’13)
- 黒衣の刺客(‘15)
- 私の、息子(‘13)
- 初恋のきた道(‘99)
- 自由が丘で(‘14)
- 仮面ペルソナ(‘66)
- 第七の封印(‘56)
- 利休にたずねよ(‘13)
- コーヒーをめぐる冒険(‘12)
- こわれゆく女(‘74)
- ガタカ(‘97)
- ローマ環状線、めぐりゆく人生たち(‘13)
- 狩人の夜(‘55)
- 遠い空の向こうに(‘99)
- マレーナ(‘00)
- 声をかくす人(‘11)
- バンクーバーの朝日(‘14)
- ラリーフリント(’96)
- 悪童日記(’13)
- エレニの帰郷(’08)
- 父の秘密(‘12)
- 少女は自転車にのって(‘12)
- 柘榴坂の仇討(‘14)
- 光にふれる(‘14)
- 紙の月(‘14)
- 百円の恋(‘14)
- 鴛鴦歌合戦(‘39)
- ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅(‘13)
- 真珠の耳飾りの少女(‘03)
- 蜩ノ記(‘13)
- 眺めのいい部屋(‘86)
- 転々(‘07)
- 鉄くず拾いの物語(‘13)
- 薄氷の殺人(‘14)
- 蝉しぐれ(‘05)
- 蠢動 -しゅんどう-(‘13)
- バートン・フィンク(‘91)
- フルートベール駅で(‘13)
- 罪の手ざわり(‘13)
- ある過去の行方(‘13)
- 武士の献立(‘13)
- 武士の家計簿('10)
- インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌(‘13)
- トゥヤーの結婚(‘06)
- さよなら、アドルフ(‘12)
- 酒井家のしあわせ(‘06)
- その夜の侍(‘12)
- 私の男(‘13)
- オカンの嫁入り(‘10)
- それでも夜は明ける(‘13)
- 少年は残酷な弓を射る(‘11)
- ぼくたちの家族(‘13)
- そこのみにて光輝く(‘13)
- ブルージャスミン(‘13)
- 東京公園(‘11)
- ハンナ・アーレント(‘12)
- ツレがうつになりまして(‘11)
- ポセイドン・アドベンチャー(‘72)
- うなぎ(‘97)
- そして父になる(‘13)
- ペコロスの母に会いに行く(‘13)
- 迷子の警察音楽隊(‘07)
- 黄昏(‘81)
- マグノリアの花たち(‘89)
- 奇人たちの晩餐会(‘98)
- 共喰い(‘13)
- 嘆きのピエタ(‘12)
- もう一人の息子(‘12)
- ブロークン・フラワーズ(‘05)
- そして、私たちは愛に帰る(‘07)
- ヒッチコック(‘12)
- 復讐するは我にあり(‘79)
- プライドと偏見(‘05)
- ふがいない僕は空を見た(‘12)
- マイライフ・アズ・ア・ドッグ(‘85)
- 北北西に進路を取れ(‘59)
- 知りすぎていた男(‘56)
- 真実の行方(‘96)
- 百万円と苦虫女(‘08)
- めまい(‘58)
- 亀も空を飛ぶ(‘04)
- コンプライアンス 服従の心理(‘12)
- もらとりあむタマ子(‘13)
- 思秋期(‘10)
- ミザリー(‘90)
- 凶悪(‘13)
- 光のほうへ(‘10)
- 偽りなき者(‘12)
- 終着駅 トルストイ最後の旅(‘09)
- 汚れなき悪戯(‘55)
- フライト(‘12)
- 聯合艦隊司令長官 山本五十六-太平洋戦争70年目の真実- (‘11)
- ゼア・ウィル・ビー・ブラッド(‘07)
- 仁義なき戦い(‘73)
- トト・ザ・ヒーロー(‘91)
- JAWS/ジョーズ(‘75)
- コード・アンノウン(‘00)
- 明日の記憶(‘05)
- ザ・マスター(‘12)
- 横道世之介(‘12)
- 塀の中のジュリアスシーザー(‘12)
- バベットの晩餐会(‘87)
- 南極料理人(‘09)
- 最強のふたり(‘11)
- 舟を編む(‘13)
- パーマネント野ばら(‘10)
- キツツキと雨(‘11)
- 蒲田行進曲(‘82)
- プラトーン(‘86)
- シャイン(‘95)
- カサブランカ(‘42)
- 鍵泥棒のメソッド(‘12)
- ローマの休日(‘53)
- 青の炎(‘03)
- 夢売るふたり(‘12)
- 大いなる西部(‘58)
- 阿修羅のごとく(‘03)
- 女相続人(‘49)
- リービング・ラスベガス(‘95)
- ジャッカルの日(‘73)
- U・ボート(‘81)
- 東京オリンピック(‘65)
- 細雪(‘83)
- 愛、アムール(‘12)
- ビルマの竪琴(‘56)
映画リスト
- ショート・ターム(’13)
- 17歳のカルテ(‘99)
- 月世界旅行(‘02)
- 世界最古の洞窟壁画 3D 忘れられた夢の記憶(‘10)
- ベニーズ・ビデオ(‘92)
- 櫻の園(‘90)
- アギーレ/神の怒り(‘72)
- 魚影の群れ(‘83)
- わが心のボルチモア(‘90)
- 籠の中の乙女(‘09)
- 陸軍(‘44)
- セブンス・コンチネント(‘89)
- 田舎司祭の日記(‘50)
- 生きるべきか死ぬべきか(‘42)
- 小間使の日記(‘63)
- 空中庭園(‘05)
- ピクニックatハンギング・ロック(‘75)
- タイム・オブ・ザ・ウルフ(‘03)
- 西部戦線異状なし(‘30)
- 蛇イチゴ(‘03)
- 先生を流産させる会(‘11)
- 必死剣 鳥刺し(‘10)
- 忘れられた人々(‘50)
- メランコリア(‘11)
- ル・アーヴルの靴みがき(‘11)
- かぞくのくに(‘11)
- 終の信託(‘12)
- 桐島、部活やめるってよ(‘12)
- 暗殺の森(‘70)
- リアリズムの宿(‘03)
- 僕達急行 A列車で行こう(‘11)
- 腑抜けども、悲しみの愛を見せろ(‘07)
- 愛の嵐(‘73)
- アーティスト(‘11)
- おとなのけんか(‘11)
- 灼熱の魂(‘10)
- ヒューゴの不思議な発明(‘11)
- ミッドナイト・イン・パリ(‘11)
- マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙(‘11)
- ニーチェの馬(‘11)
- 八月の鯨(‘87)
- 隠し剣 鬼の爪(‘04)
- 反撥(‘64)
- わが母の記(‘11)
- アメリカン・ヒストリーX(‘98)
- カイロの紫のバラ(‘85)
- ヒミズ(‘11)
- 大鹿村騒動記(‘11)
- 苦役列車(‘12)
- あ、春(‘98)
- 刑事ジョン・ブック 目撃者(‘85)
- モンスター(‘03)
- たそがれ清兵衛(‘02)
- 無言歌(‘10)
- 気狂いピエロ(‘65)
- 少年と自転車(‘11)
- グッドフェローズ(‘90)
- 別離(‘11)
- ロルナの祈り(‘08)
- アンチクライスト(‘09)
- 一枚のハガキ(‘10)
- トラフィック(‘00)
- マネーボール(‘11)
- 2001年宇宙の旅(‘68)
- 冷たい熱帯魚(‘10)
- ゴーストライター('10)
- ツリー・オブ・ライフ('11)
- まほろ駅前多田便利軒(‘11)
- アウトレイジ('10)
- クィーン(‘06)
- 家族の庭(‘10)
- セブン(‘95)
- 息もできない(‘08)
- レインマン(’88)
- ブラック・スワン('10)
- 冒険者たち(’67)
- 空気人形('09)
- マンデラの名もなき看守('07)
- 激突('71)
- 八日目の蝉('11)
- ミツバチのささやき('73)
- ラストキング・オブ・スコットランド('06)
- カティンの森('07)
- クラッシュ ('04)
- 蜂蜜('10)
- ソーシャル・ネットワーク('10)
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- 街の灯('31)
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2012年4月1日日曜日
蜂蜜('10) セミフ・カプランオール
<正夢になってしまったリアリティの中で、6歳の児童の自我を噴き上げた情動の氾濫>
1 行間を語らないことによって保証された映像宇宙のイメージ喚起力
映画の中で提示された物語が、その映画総体の中で、殆ど「予約された感動譚」の本質とも言うべき、2時間程度の時間限定的な物語のうちに自己完結してしまう映画の脆弱さは、物語の肝の部分だけが特化され、切り取られた形で集中的に提示されてしまうので、観る者の主体の表層にヒットした心地良き情感系が、束の間、騒いで止まないだろうが、それはどこまでも、賞味期限を持つ「虚構の感動譚」の、「快然たるヒーリング効果」を保証する以上の決定力を有しないからである。
その類の「予約された感動譚」は、観る者の主体に「解釈の自在性」を担保させないが故に、観る者の主体の内側に喰い入るように侵入し、そこで主体に関わる普遍的なテーマ思考からの逃避を寸止めにさせる映像的提示の、深く、シビアな固有の表現世界にまで昇華し得ないのである。
観る者の主体の内側に、そこで提示された問題意識を共有し得るミニマムな考察すらも捨てられてしまうから、「虚構の感動譚」の虚構性の持続熱量が剝落する瞬間こそが、その映画の賞味期限の初発点になってしまうのだ。
それが、時間限定的な物語のうちに自己完結してしまう映画の脆弱さの崩れ方の、その裸形の様態である。
最後まで、観る者の主体の内側に、「解釈の自在性」を担保させない「虚構の感動譚」の、何とも言いようがない軽量感。
「虚構の感動譚」の虚構性の崩れ方とは、まさに浮薄なナルシストの自家中毒をなぞるものではないのか。
「虚構の感動譚」の言いようがない軽量感と明瞭に切れた、本作の最も評価すべき点は、吃音症の児童が、唯一、言語交通の可能な父との密かな会話が拾われているだけで、一切の描写が、映像の固有の表現世界のみで勝負しているという、その一点にあると言っていい。
映像の固有の表現世界が提示する構図の大半が、特定的に切り取られた一幅の絵画であり、感傷を誘(いざな)う音楽の代りに、後述するように、「野生の動物のざわめきと鳴き声、夜の鳥、突然吹く風、日中止まずに降る雨、緑の何十もの異なるトーンとただよう霧」(セミフ・カプランオール監督による表現)等々の、自然が醸し出す効果音で埋め尽くされるのだ。
当然、説明的なスクリプト(脚本)を一切排し、オープニングシーンの長回しのフィルムロジックに集中的に表現されているように、観る者の主体の内側に「解釈の自在性」を担保させる構図の連射は、そこから開かれる固有の映像宇宙のイメージ喚起力を誘導し、まるでそれは、評判の高かったクラウス・ハロ監督によるフィンランド映画、「ヤコブへの手紙」(2009年製作)の「虚構の感動譚」の虚構性の崩れ方とは切れて、逆に、行間を語らないことによって提示された、充分な余白を埋めるに足る知的過程を保証する映像構成を構築していて、蓋(けだ)し圧巻だった。
2 物語の簡潔な梗概 ―― 陰翳感のイメージ深いオープニングシーンから開かれて
トルコ東部、アララト山近くに住む、養蜂業を生業(なりわい)にしている3人家族の物語の概要は、数行で済んでしまう程に簡潔なものだったが、その内実の濃度の高さは一頭地を抜く出色の出来栄えだった。
極相林に近い「森林」(後述)に囲繞されて、身過ぎ世過ぎを繋ぐ3人家族の中心に、父親ヤクプが居て、危険を顧みない父の仕事に憧憬の眼差しを注ぐ、一人息子の6歳の児童ユスフ。
その父と小声で話すときは問題ないが、母を含めて他者との言語交通が儘(まま)ならない、吃音症で悩むユスフは、学校での読誦(どくしょう)の時間が大の苦手。
そんなユスフの吃音症状から、言語を奪い取る甚大な「事件」が出来したのが、突然の父の失踪だった。
懊悩する母と、その母に心配をかけまいと努める、6歳の一人息子に襲いかかってくる不幸を描く物語は重々しいが、一貫して、絵画的空間の神秘なる世界に誘(いざな)う映像美は抜きん出ていた。
ここで、「語り」を極端に閉ざした物語の中にあって、そこだけが独立系のゾーンとして、スピンアウトされているかのような印象を与えるが故に、却って気になる冒頭のシーンについて触れておく。
森の奥深くに、荷物を背負わせた驢馬(ろば)を引いて、這い入って来る一人の男。
ユスフの父親ヤクプである。
大樹を探していたヤクプは、特定した樹木に自前のロープを投擲(とうてき)し、見るからに高い樹木を登っていくが、ロープを引っかけてある枝が軋(きし)みかけ、男の体重を支え切れず、折れてしまった。
そのまま落下したが、運良く、枝が完全に折れることなく、途中で止まったのである。
しかし、身動きが取れなくなって、宙吊りの状態になったヤクプの必死の表情が、激しい呼吸音を伝えながら、アップで映し出されたのだ。
それだけのシーンだが、そこから開かれる物語に、少なくとも、陰翳感のイメージを付与するのに充分なオープニングシーンだった。
3 「森林」という名の薄暗い自然への身体投入を継続させ、その時間を共有する「夢」を追体験していく物語
「『蜂蜜』で私が最も表現したいと思った最も重要な映画の要素は、1人の子供が目で見て感じ取る自然である。子供による隠喩的な森の認識。特に奇妙な音や暗闇、不可解なわずかなうごめきや動き、ものがこすれ合う音やはじける音…。野生の森の夜。青白い月の光が木の幹や葉に作り出す陰影、野生の動物のざわめきと鳴き声、夜の鳥、突然吹く風、星々、恐怖から開放される子供。日中止まずに降る雨、湿気。森特有のはかなさ、光とあらゆるものを包み込む音の雰囲気。緑の何十もの異なるトーンとただよう霧。行き詰まりの小道。高い木々の上には忘れ去られた手作りの蜂の巣箱。
そして突然森に現れる、それぞれが聖人に似た養蜂家たち。森のはずれの茶畑、お茶栽培で働く女性たち。若者たちが出ていき、お年寄りだけが暮らす過疎の町や村。
父の喪失とこの喪失が母子の間に生み出す感情。自然と比べはかない人生。山村の小学校での文字の学習、子どもたちが自分たちと現代的な世界をつなぐ唯一の手段であるテレビで見たことがらと、実際に暮らしている生活との間の埋められない溝。祖母から伝えられる自分たちのルーツやバックボーンに関する話と知識、迷信、怖い話。死に備える年老いた女性とこれから人生に踏み出そうとする子供の間に行き来する、ある種かみ合わない会話、問い、沈黙」(2010年02月20日付 Radikal紙 翻訳者:永山明子 東京外国語大学運営サイト・筆者段落構成)
物語の中に再現されていた印象深いカットを、敢えて私が詳細に羅列せずとも、些か長いが、ここで語られているセミフ・カプランオール監督の言葉の中に、この映画の全てが集約されている。
とりわけ、「1人の子供が目で見て感じ取る自然」についての描写は、ラストシークエンスで描かれた、「自然との溶融」の決定的な構図の累加の先に待機していた、その見事なまでの最終到達点の中で芸術的に昇華されていて、正直、そこに加えるべき何ものもない括りであった。
前述したように、語りのない映像の中で構成された構図の大半は、殆ど特定的に切り取られた一幅の絵画でもあった。
その絵画の中に生命を吹き込んだのは、言うまでもなく、本作の主人公、ユスフという名の6歳の児童である。
従って映像は、そのユスフが見聞きし、体感した出来事を、山村の限定エリアの小さな教室という人工的空間と、最愛の父ヤクプとの睦みの中で習得する生活技術の一端と、そのバックグランドになっている自然環境、具体的には、そこに呼吸する生物及び、土壌を含めた総体としての「森林」という名の「植生遷移」の一つの様態、そして、父と二人だけになる会話の特定スポットに時折り挿入される、母ゼーラの情感によって構成されているが、その中枢には、父以外の他者(母も含めて)との言語交通を不得手にする、繊細な児童の揺れ動く自我が、そこもまた、切り取られた絵画的空間の中で特化され、過不足なく捕捉されているのである。
自然は、いずれの国の子供にとって、「無限抱擁の母」であると同時に、「有限抱擁の父」でもある。
そんな自然保護派のゴールデンルールが洩れ聞こえてきそうな、それ以外にない、決定的な構図の連鎖の中で、呼吸を繋ぐユスフの一挙手一投足は、一貫して、「最も美しい映像」と称された、決して長尺でない物語の中に深々と再現されていたが、セミフ・カプランオール監督もまた、以下のコメントの中で、「有限抱擁の父」の恐怖について言及していた。
「子供たちは神に近い存在だと、私は信じています。『蜂蜜』に登場する子供も、本来備わっている感情と、父から受け継いだ感情があふれています。そして自然とは、その感情を浮き彫りにしてくれるのです。もしあなたが安全なところにいたら、自分は何でもできると思うかも知れないけれど、自然の中にいたら、自分がどれだけ弱い存在か、思い知ることになるでしょう」(ウェブ yorimo : ベルリン映画祭で最高賞受賞『蜂蜜』のS.カプランオール監督)
「子供たちは神に近い存在だ」という意味は想像し得ても、なお不分明なのでスル―するが、この映像が常に、特定的に切り取った自然美を視界に収めても、先進国と言われる国々の若者が、日々に呼吸を繋ぐ日常世界とあまりに隔たっているが故に、映像のみでしか語らない、淡々と刻む物語への初発の印象を、彼らの自我形成のうちに特別の記憶として捕捉し得ない一篇のファンタジーと感受し、多くの場合、憧憬の念を抱く心情よりも、心霊スポットの如き異界性のイメージで俯瞰する思いもまた理解できなくはない。
大体、「森林」という概念の理解すら覚束ないだろう。
多様な樹木の密度の高さを特徴づける「森林」の世界は常に暗く、最高気温の低さと最低気温の高さの均衡感によって、湿度は一定に保持され、大雑把に書くと、裸地 ⇒ 1年草・2年草から多年草の優先種 ⇒ 陽樹林(光の必要性・マツ、コナラ、シラカバ類) ⇒ 陰樹林(光の不足・シイ類、カシ類、ブナ林) ⇒ 極相林(「森林」の安定)に至るまでの、植物の数百年に及ぶ変遷を「植生遷移」(画像/Wikipedia)と言うのが、植物生態系の構成の特徴なのである。
従って、「森林」には、以上のような多様な植物以外にも、その植物に寄生し、それを糧とする各種の微生物や動物が生息し、それらが高密度の有機的結合体を構成しているが故に、「森林」こそ、陸上における最も典型的な生態系であると言えるのだ。
本作の「森林」もまた、「植生遷移」の一つの様態を表現していたのである。
その意味で、「植生遷移」の一つの様態を表現していた、「森林」という名の薄暗い自然への身体投入を継続させていく中で、その「非日常」の不思議を日常内化していった児童が、危険を顧みず、家族のために命を張って働く父の仕事の崇高さを実感し、その時間を共有する「夢」を追体験していく物語 ―― それが、本作の全てだったかも知れない。
4 鋭角的な攻撃性を体感させる畏怖感覚とも共存する、「自然との共生」のリアリズム
豊かだが、それ故に、昼でも薄暗い「森林」の中で、高木に仕掛けた巣箱によって蜂蜜を取る養蜂業を生業(なりわい)にしていた、父ヤクプの生活に関わる苦闘の原因は、突如として、蜂蜜が取れなくなってしまった事態に直面したこと。
理由は、蜂群崩壊症候群(CCD)。
突然、蜜蜂が大量に失踪したり、或いは、死亡したりする現象である。(注)
当初、米国各地で出来した、コロニーの崩壊という厄介な事態の原因は、蜂群のウイルス感染説、農薬影響説など様々に報告されているが、未だに原因不明である。
かくて、養蜂での生業の危機意識を持ったヤクプは、謎めいたオープニングシーンで描かれていたように、馬を引いて、更に、深い森の奥に分け入っていくリスクを負うに至り、遂に断崖で転落死する。
そして、詳細は後述するが、印象的なラストシークエンス。
父の死と、その父を愛するユスフの「自然への溶融」を果たす、ラストシークエンスに込められた作り手の思いの中に、過剰な消費文明への批判的メッセージが含まれていたと解釈するのもまた、強(あなが)ち誤読とは言えないだろう。
だからと言って、この作り手が、ルソー流の「内的自然」への回帰ではなく、原始的未開状態への「自然への回帰」というアナクロニズムに固執して、そこに児戯的な「脱文明」とか、「脱近代」とかいうメッセージを集中的に情感投入しているという印象を受けないのも事実。
声高に主張することのない静謐な映像は、極相林としての「森林」にシンボライズされる「外的自然」に依拠し、そこで手に入れる、僅かばかりの恩恵に預かって、家族3人の身過ぎ世過ぎを繋いでいるシビアな現実をも映し出していて、それが、「この先、どうするの?」という、夫に向かって放ったゼーラの一言が、意想外なアクチュアル・リアリティの重量感を有するに至った。
母と正対しても、緊張のため吃音になってしまうユスフは、その母から、「警察官になりたい?ユスフは何になるの?」と誘導されるに及び、山村の目立たない一角で、細々と生活する家族が負う苛酷な現実をも映し出していたのだ。
深い森の奥に分け入っていかざるを得ない状況の果てに、「お前は家族を守れ」と6歳の児童に言い放った父の行方が不明になる辺りから、たった二人だけになるリスクを抱えた母子の現実が、そこにあった。
そんな母を、健気に守ろうとするユスフ。
どこまでも、父の教えは絶対規範として内化されているのだろう。
既に、この家族は、「生き死に」の冷厳なリアリズムに捕捉されてしまっているのだ。
だから、「森林」の只中で身過ぎ世過ぎを繋ぐ現実の裏には、自然の恩恵を享受する利得ばかりか、その自然が本来のシビアな相貌を発現させるときの、鋭角的な攻撃性を体感させる畏怖感覚とも共存することを意味しているのである。
些か飛躍するが、これだけは書いておきたい。
永い年月にわたって人間が構築した文明を破壊することによって、自然が自己防衛するなどという不可解な仮説は無視できるだろうが、しかしそれは、かつて我が国で流行した「清貧の思想」(中野孝次の著書名)というものが、単に「金持ちの特権的趣味」(金持ちが質素な生活を愉悦するという「アディクション」=嗜癖)の範疇でしか具現できなかったように、「自然との共生」を声高に主唱する者たちの情感的な物言いが、どこまでも理念系の産物でしかない現実をも逆照射するであろう。
思うに、児童期において、自然との触れ合いの価値の是非の問題への、国家レベルの学術的研究や、自然体験の普及への指導者の育成への本気の取り組みの不備もあって、我が国での自然教育のレベルは、農林水産省主導の「グリーン・ツーリズム」や「田圃体験」に象徴されるように、概して情緒過多であり、一貫して不完全な様態を露呈させている印象を拭えないのだ。
(注)以下、直近の共同通信社が配信したニュースより抜粋。
「ネオニコチノイド系農薬にさらすと、群れの中での女王蜂の数が減ったり、帰巣能力を失って巣の外で死んだりする異常が起きるのを確認したと、英国やフランスのチームが29日付の米科学誌サイエンス電子版に発表した。(略)ネオニコチノイド系農薬は、1990年代から殺虫剤として日本を含め世界で広く使用。チームがマルハナバチの群れを低濃度の農薬にさらす実験をすると、6週間後には正常な群れと比べて次世代を生み出す女王蜂の数が85%少なくなったことが判明した」(2012年3月30日付け)
5 正夢になってしまったリアリティの中で、6歳の児童の自我を噴き上げた情動の氾濫
3.11以降、我が国に「脱近代」という言葉が飛び交っている。
「やれやれ」という思いが隠せないのが本音。
左右両派を問わない文化人が、またぞろ、恰も自分のスタンスを確認するかのように、観念系の暴走が開かれているのだ。
3.11以降、一時的に「復興バネ」という「防衛機制」が機能して、「日本人の崇高さ」が必要以上に喧伝される空気が、そろそろ萎み始めるタイミングに合わせるかのように、まさにジワジワと忍び寄ってきたと信じる件の文化人の、拠って立つ専売特許である、「閉塞的状況」という観念系の文脈を声高に叫んで止まない嗜好が突沸(とっぷつ)しているのである。
「今の日本に求められているのは、前向き・上向き・外向きで『新しい近代』をつくりあげていくための模索だろう」
これは、「日本経済新聞 電子版」に掲載された、「前・上・外を向いて『新近代』模索を」と題する社説(2012年3月10日付け)の一節である。
同感である。
殆ど観念系のゲームの如き、「脱近代」という言葉とは無縁に、「閉塞感」の病理に陥っている暇すら持ち得ない、映像で映し出された母子のシビアな現実を拾っていこう。
映像のラストシークエンスである。
父の失踪以来、すっかり言葉を失ってしまったユスフは、その日もまた、苦手な読み書きの授業を迎えていた。
「読んでごらん」
決して生徒を差別しない誠実な教諭は、ユスフから言葉を復元させようと指名したのである。
必死に発語しようとするユスフの表情を視認して、「よくできた」と褒める教諭。
「ユスフに拍手を」
教諭の一言で、クラス全員からの拍手が、教室中を反響する。
「ユスフ、前に出て」
教諭に督促され、前に出るユスフ。
そして、音読が上手な生徒の証明であるバッジを、教諭から付けてもらって、その喜びを、家で待つ母に伝えようと必死に走って帰っていくユスフが、近道をして森の中を上り切ったとき、その耳に入ってきた言葉に、思わず立ち止まってしまった。
「黒崖で事故に遭ったらしい。今、運んでいる。お気の毒に・・・今は待つしかない。神の御慈悲を・・・」
母の啜り泣きの声が漏れ、ユスフの表情が、見る見るうちに暗鬱になった。
ユスフは、たった今、上って来た森の中を下り、途中で学習教材の入っているリュックを放り投げ、森の奥に踏み込んでいく。
野鳥の鳴き声を間近で聞いて、一瞬、立ち止まった。
そこから、また走り始め、ぐんぐん、深い森の奥にまで突き進むが、それは、父の仕掛けた巣箱を求めて探しているようでもあった。
一時(いっとき)、恐怖を忘れた児童が、深い森の暗みまで潜り込んでいって、一本の大木の根元の辺りで横たわっていく。
そこは、雷鳴が轟き、動物の鳴き声が木霊し、木々が風で掠れ合う音のする、生態系の神秘なる世界。
いつしか、自然の只中で、ユスフの呼吸音は寝息に変わり、一つの掛け替えのない命を吸収していった。
このラストカットでフェードアウトしていく構図の意味に、「父の葬送のイニシエーション」とか、「自立歩行への、その初発の象徴的表現」などという観念系の含みを持たせる意味など必要ないだろう。
6歳の児童の自我に、そのような観念系の文脈が分娩できる訳がないのだ。
ただ、未だ6歳の児童には、父の匂いを嗅ぎたかったに過ぎないのだろう。
そこで想起されるのは、映像序盤での、父と子の「秘密の共有」のシーンである。
「夢を見たんだ。僕が木の下で座っていて、星たちは・・・」
ユスフがここまで話したとき、父はユスフの言葉を制した。
「夢を人に聞かれちゃだめだ。耳元で話して」
そう言われたユスフは、父にだけこっそりと夢を囁いた。
「話しちゃダメだよ」
それが、ユスフに語った父の言葉だった。
一体、このとき、6歳の児童が見た夢とは何だったのか。
ここで想起されるのが、オープニングシーンで、父が滑落して、中途で止まっていた場面である。
恐らく、ユスフが見た夢とは、この場面であるように思われる。
滑落しても死ぬことなく、そこから再び大樹を登っていくイメージの中で、ユスフは、「強い父」を憧憬する思いを吐露したかったのだろう。
画面には映し出されなかったが、「悪夢」のイメージに流れない構図のうちに、ユスフが目覚めたのだろう。
だから、「強い父」のイメージだけが再生産されていったのではないか。
しかし、この夢には残酷な続きがあった。
父の失踪以来、すっかり言葉を失ってしまったユスフが、再び見た夢は、その大樹を登っていくことが叶わず、中途で止まっていた状態から、本当に滑落してしまう夢である。
そして、この夢は、正夢になってしまったのだ。
ユスフの中で、ずっと、この夢の恐怖が取り憑いて離れなったに違いない。
だから一層、失った言葉の復元が困難になってしまったのだろう。
正夢になってしまったリアリティの中で、6歳の児童が選択した行為 ―― それは、夢の中で見た大樹を探し、そこで父の匂いを嗅ぎたかったのではないか。
ただ、それだけだが、それをしなければ済まない情動が、6歳の児童の自我を噴き上げていったのだろう。
そのように解釈し得る、ラストカットの構図の決定力の凄み。
それが、本作に対する私の把握である。
様々な含みを持たせた映像の完成度は、抜きん出て一級品だった。
それだけは疑う余地がない。
(2012年4月1日)
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