“海” は「革張りのアームチェア」、“高速道路”は「とても強い風」、“遠足”は「固い建築資材」、“カービン銃”は「きれいな白い鳥」。
これらの言葉が、カセットテープを介し、「今日、覚えるのは、次の単語です」というボイスによって、「学習」の日常性から開かれる物語の異様さは、そのボイスを形式的に聴く3兄姉妹の何気ない会話に繋がれることで、冒頭から挑発的に観る者をフリーズさせるだろう。
「ねえ。皆で我慢するゲームをしない?こういうのよ。蛇口から熱湯を出して、その中に指を入れる。最後までどけなかった人の勝ち。どう?」
次女の提案である。
「面白そう」と長女。
「賛成」と長男。
「蛇口は全部使う?それとも一つ?」と長女。
「一つでいいと思う」と次女。
「時間は?時計で測る?それともストップウォッチ?」と長女。
「必要ない話。一緒に指を入れて、最後に残った人の勝ちだから」
「じゃ、蛇口は3つ全部使うの?」と長男。
「一つでいいと思う」と次女。
「別々にやると、誰かズルするかも」と長女。
「この浴槽でいいわ。大きいし」と次女。
「ゲームの名前は?」と長女。
予めインプットされていない情報に接した次女は、反応に窮し、「さあ」と答えるのみ。
彼らには、創意工夫を凝らして、「遊び」を「ゲーム」に変えていく能力が培われていないのである。
なぜなら、その郊外の邸宅を私有する絶対的支配者による、誤った情報のみしか与えられない上意下達的な環境下で育った三兄妹にとって、外部世界との完全途絶を目論む件の男との、塑性的に歪んだ権力関係の中でしか〈生〉を繋げなかったからである。
即ち、この物語は、役割呼称が延長され続けるだけで、固有名詞を剥ぎ取られた者と、固有名詞を持っていても、それを提示する必要のない者との権力関係を通して、その爛れ切った実態を描く映画であることが判然とするだろう。
そんな塑性的に歪んだ権力関係の中で、惹起する風景の変容。
人間が人間を支配し続けるのは、口で言うほど容易ではないのだ。
固有名詞を剥ぎ取られた三兄妹が青春期に踏み入れることによって、微かに生き残されていた外部世界への好奇心が、彼らの内側で生まれたとき、物語の風景が俄(にわ)かに変容していく。
青春期に入った、「体が大きいだけの子供たち」の変化に敏感に気付いた父親(以下、「男」または、「父」と呼称)が、長男の下半身の処理として、会社の女性警備員を紹介するに至った。
女性警備員の名はクリスティーナ。
外部世界で普通に呼吸を繋ぐクリスティーナの出現によって、この特定スポットに閉じ込められている、「体が大きいだけの子供たち」の内側に変化が出来する。
徐々にだが、しかし確実に、閉ざされた内部世界で保持されていた、家族限定のルールに縛られた「不均衡の均衡感覚」が崩されていくのである。
兄の手から荒々しく奪った長女が、それを敷地の外に投げたばかりか、兄の腕を包丁で切って出血させ、母に折檻される一連の暴走行為には、外部世界の臭気をダイレクトに運んできたクリスティーナの影響力を見ることができる。
このシークエンスで印象深いのは、長男が父に頼んで、敷地の外に行って模型飛行機を取ってもらう珍奇な構図である。
この珍奇な構図の異様さは、ほんの一歩の距離を、わざわざ車に乗って、模型飛行機を取りに行く父の行為のうちに集中的に表現されていた。
それは、「外部世界との交流禁止」という、家族限定の絶対規範のメッセージであるからだ。
そして、長男の猫殺し。
長男の内的風景に、あっという間に感染する、「体が大きいだけの子供たち」の変化のシグナル。
それが身体表現されていくのだ。
そんな変化を感受した父もまた、直截な対応を余儀なくされた。
外部世界の恐ろしさを伝えるためである。
「体が大きいだけの子供たち」が惹起した小さな反乱は、程なく、長女の行為のうちに集中的に振れていく。
「独りごとを言うママ」
これは、両親の寝室の棚に隠し込んでいた電話で、父と話す母の部屋の外から、盗み聞きした長女の観念の現実の様態である。
外部との関係を一切断たれて洗脳的に養育された、一つの「人体実験」の範型を視認させられるような絵柄だった。
そんな長女が、長男の下半身の処理という役割を越えて動くクリスティーナに近接し、カチューシャを無心する。
「ここを舐めたら、カチューシャあげる。気持ち悪い?」
「いいえ」
クリスティーナのクリトリスを舐める長女。
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長女(右)と次女 |
クリスティーナとの非言語的身体接触の延長上に、外部世界への侵入の心理的ハードルが下がったことで、外部世界との間接的交叉を具現するのは必然的だった。
クリスティナからビデオを手に入れた長女は、その蠱惑(こわく)的なツールを媒介に、外部世界の風景の片鱗を視界に収めるに至る。
それは狡猾だが、跳躍的な自己運動の意味を内包する行為でもあった。
然るに、ルール違反のアクションに馴致していない、「体が大きいだけの子供たち」の稚拙な振舞いが露見するのは早かった。
明らかに、家族限定の絶対規範を破った長女に対して、男による容赦のない折檻が待っていた。
ガムテープでぐるぐる巻きにされたビデオで、繰り返し頭部を殴打される長女。
殴打されたのは長女ばかりではない。
2 塑性的に歪んだ権力関係の中で惹起する風景の変容②
ルール違反に暴力で応える父。
読唇術で会話する夫婦。
「お前の躾けが甘いからこうなるんだ。泣くな。子供たちに見られる。今日は一日大変だった。クリスティーナの代わりを探そう。もう他人は信用できん」
この会話ひとつで、この夫婦の関係の権力性が明瞭に読み取れるだろう。
その直後の映像は、母親が自ら髪を梳かし、「代わりの女」を長男の部屋に連れていく。
「代わりの女」とは、長女のこと。
「他人は信用できん」と言い切った男は、長男の性の捌け口に長女を充てがったのである。
〈性〉に対するハードルが極端に低い「異界」のスポットの、「不均衡の均衡」を繋ぐ常軌を逸した世界では、兄妹同士のインセストによって子孫を残そうという男の思惑が、その確信犯的行為のうちに垣間見える。
インセストに及ぶ兄妹。
そこでは、課された「仕事」を果たすだけのクリスティーナの場合と切れて、〈性〉を愉悦する者の感情が存分に入り込んでいて、観念としての〈性〉と、行為としての〈性〉が溶融することで、まさに、〈性〉という文化的な幻想が一つの自己完結点を可視化し得たのである。
ぜんまい仕掛けの絡繰(からく)り人形のようなダンスを経て、一人で狂ったように躍る、コンテンポラリー・ダンスとも思しき長女の身体表現の炸裂が、「異界」のスポットの狂気をも呑み込んで〈状況〉を作り出し、束の間、支配する。
疲弊し切るまで狂舞する長女の身体表現の炸裂が、彼女の反乱のシグナルになっていく事態を、程なく観る者は共有するが、それもまた、予約された物語のラインの黙契であったに違いない。
長女の反乱は、観る者の視覚の有効射程に収まる炸裂のうちに、直截に映像提示されていく。
決して醜くない己が相貌の、一つの大切な器官を攻撃する長女。
自らの口元にダンベルを思い切り叩きつけて、根が深く、最も頑丈であるが故に寿命が長い「犬歯」を折ったのである。
外部世界への侵入行為の禁止をシンボライズすることで、「恐怖」のメタファーを被せた「犬歯」を折って脱走を図った長女は、父の車のトランクに潜み、明朝の父の出勤に待機するが、それ以後、彼女の画像の提示は一切ない。
外部世界に対する好奇心と同時に、なお、彼女の自我に張り付く外部世界への恐怖感を克服するためには、とりあえず、乗用車で出勤する父の車のトランクに潜り込むしか方略がなかったのだろう。
そして明朝、男が出勤し、いつものように職場の駐車場に車を止める。
その車のトランクだけがアップで切り取られるが、何の変化もない構図を見せて、物語は閉じていく。
3 「純粋培養の恐さ」というカテゴリーを突き抜ける「無能化戦略」の理不尽さ
人間的感情を包含しない最低限の数学的知識を与えても、外部世界への経路に成り得るような一切の人間的感情に関わる情報は完全に遮断させる。
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フェルディナン・ド・ソシュール(ウィキ) |
外部世界との経路を閉ざすことで、「情報砂漠」=「文明砂漠」=「文化砂漠」を常態化する。
この奇々怪々な、そこだけが特化された、疑似城砦化された内部世界のスポットの風景は、家族を支配する男の極端な支配感情によって仮構された「無能化戦略」の産物である。
ここで「無能化戦略」と言っても、一切を無能化する訳ではない。
内部世界で生きていく上で必要最低限の情報を与える。
また、退屈な日常性に堕さないために、単なる、一回完結的な他愛もない遊びとは切れて、一定の向上心を養うに足る「授業」をも恒常的に展開していく。
日常性を安定的に循環させて、その潤滑油と成り得るような一定の熱源を供給するのだ。
プールの中で、どのくらい潜水していることができるかとか、目隠しをしながら、目標地点までどれだけ早く辿り着くことができるかなどという、家族限定の然るべき「学習的要素」を組み入れることで、日常性に相応の熱量自給の継続力を保証しようと図っていくのである。
然るに、これらの営為の意味は、どこまでも、「無能化戦略」を露骨な支配によって遂行するという、命脈の脆弱な愚昧な方略に流れていかないための歯止め(安全装置)であって、その本質的な狙いは、ただ一つ。
言うまでもなく、「無能化戦略」の本質は、外部世界への十全なる社会的適応能力の芽を削ぎ、徹底的に無化していくこと。
それに尽きる。
それ以外に、「無能化戦略」の本質的な狙いは存在しないだろう。
その意味で、この「無能化戦略」を、様々なエピソード繋ぎによって特定的に切り取った、半ば戯画的なショットの連射が垣間見せる風景は、厳密に言えば、「純粋培養」という名の、一部で散見される家庭教育の方略とは決定的に切れていると言える。
本作が、「純粋培養」の「恐ろしさ」を描いた映画であるというレビューが多かったので、ここで改めて、「純粋培養」の「危うさ」というテーマについて簡単に言及したい。
「純粋培養の恐さ」を考えるとき、マクロビオティック(玄米や野菜などを中心に摂取する長寿食)の実践等によって、その多くが、「母子一体・家族一体」の信念によって「危うさ」が強調される指摘が多いのは周知の事実。
栄養学に頓着しない子供がインボルブされることで、子供自身が、「死ぬほど健康になりたい」と揶揄される親たちの、根強い健康幻想の犠牲になってしまう「危うさ」こそ、「純粋培養」の負の極点であるということだ。
そこで、私は考える。
然るに、些か純粋であるばかりに、真面目、且つ、真剣にマクロビ実践にのめり込みやすい、そんなタイプの親であっても、我が子の外部世界への十全なる社会的適応を決して捨てていないだろうと信じられるのである。
寧ろ多くの場合、根強い健康幻想の発火点が、虚弱な我が子の健康の本来的復元を念じているだろう。
その意味で、まかり間違っても、外部世界への十全なる社会的適応の芽を削ぎ、徹底的に無化していく愚昧さを晒すリスクを回避すると言える。
要するに、本作での、家族を支配する男の極端な支配感情によって仮構された「無能化戦略」が、「純粋培養の恐さ」というカテゴリーで単純化するには相当無理があると思うのだ。
なぜなら、この男の自我を占有している感情は、「家族の完全支配」であって、それ以外の何ものでもないと言い切れるからである。
それはもう、「純粋培養の恐さ」というカテゴリーを突き抜けている。
「私が描きたかったのは、人の心を操作しようとすること、自分の意のままに何かを信じ込ませようとすることが、相手をどこまで極端に走らせてしまうかということです。とても危険なことですよ」(公式サイト・ヨルゴス・ランティモス
インタビュー)
即ち、本作は、「自分の意のままに何かを信じ込ませようとすること」のイメージが、「家族の完全支配」という途方もない支配欲を有する男の、その感情ラインを極端な設定のうちに戯画化し、そのラインが何某かの事態の出来によって加速的に膨張すればするほど、我が子のリバウンドを激越化させてしまうことで、遂に、「死体」を生み出さざるを得ない愚昧さ・醜悪さを、究極のブラックコメディ基調で皮肉った映画であるということだ。
遂に、「死体」を生み出さざるを得ないという事態は、「教育とは当該社会への適応をアシストする仕事である」という意味の「教育」の範疇をも突き抜けている。
「反教育」の毒素が詰め込まれた極端な支配欲の爛れの醜悪さ。
「純粋培養の恐さ」というカテゴリーを突き抜ける「無能化戦略」の理不尽さ。
それに尽きると、私は思う。
4 「反教育」という「無能化戦略」の安定的な自己完結の困難さ
「純粋培養教育」との比較において、「無能化戦略」は、外部世界との経路を閉ざすことで、自分の妻を含む、3人の息子・娘を完全支配する戦略として功を奏していた。
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「次女」という役割呼称 |
彼らには、決して固有名詞を被されることはなかった。
初めから存在しないからである。
固有名詞の剥奪こそ、男が作った家族のルールの中枢的機能を果たしていたと言っていい。
固有名詞を持たないから、当然、個性が剥奪されている。
個性を剥奪され、「無能」化され、「記号」化された面々が、絶対支配者としての男の下で命を繋ぐには、途切れることなく、恐怖としての外部世界に向かって、「ワンワン」と吠えるだけの「犬」という、家畜的役割の存在性のうちに押し込められていく以外になかった。
まさに、本作の物語の基幹ラインは、固有名詞を剥奪された人格に、「犬」という家畜的役割を強引に嵌込んだところにある。
「犬」こそ、この映画のキーワードと言っていい。
世俗世界の「記号」である「シニフィアン」(記号表現としての音声)の、「シニフェ」(記号内容としてのイメージや、その意味)への誤った変換の中で、「ネコ」は「外部世界の大敵」という誤謬のメッセージによって固められていた。
外部世界に向かってワンワンとしきりに吠える「犬」に成り切ること、即ち、固有名詞を持たない父親以外の4人の家族は、外部世界に対する恐怖を増幅させ、それと戦う家畜に化け切ることで、内部世界で常態化されている「無能化戦略」が決定的な意味を持つのである。
この「犬」に関わる重要なエピソードがあるので、それを再現する。
子供たちの微妙な変化に気がついた父が、ドッグトレーナーの元に赴くシーンである。
自分の犬の調教を依頼しているドッグトレーナーから、調教のレクチャーを受ける父親が、熱心に聞き入っている。
「犬は粘土です。我々の仕事は、粘土を形作ること。活発に動く犬、闘志剥き出しの犬、臆病でやさしい犬、いろんな性質と忍耐強く向き合う必要がある。どの犬も待っているんです。人間が躾けてくれるのを。ポイントは、どんな犬を望んでいるのかを、私たちが一緒に決めることです。野生的な動物か、あるいは最良の友か。ご主人さまを敬い、命令には忠実に従う頼もしい番犬か」
「分りました」
男は、そう答えた。
郊外の邸宅という特定スポットに「箱庭」を築き、そこで「箱庭の帝王」に成り切った男が切望したものは、まさに、「ご主人さまを敬い、命令には忠実に従う頼もしい番犬」を作り出すことであった。
権力関係のナンバー2にあるとは言え、男の妻もまた、男の指示によって動く、「番犬の番犬」という役割を担わされ、、それが、ラストシークエンスでの「3匹の遠吠え」という構図に収斂されていった。
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長女の反乱のシグナル |
もはや、「純粋培養」という、一見、緩々系の過保護的なイメージで語られる家族の風景とは切れていた。
今や、そこに転がっているのは、絶対的支配者としての「父」、または「夫」と、他の家畜的存在との、歯止めがかからない権力関係の、爛れ切った醜悪な風景以外ではなかった。
相手の意思とは無縁に、自分の支配欲のために、相手に代わって意思決定するという、極めて狭義な意味で解釈すれば、男が作った権力関係の本質は、歪み切ったパターナニズムの変種と言い換えられるかも知れない。
この男のパターナニズムを駆動させている心理を要約すれば、家畜的存在にまで権力関係を延長せずにはいられない、膨張し切った支配欲の極限的な様態である。
何より厄介なのは、爛れ切った権力関係の内実を再生産することによってしか、内面的に膨張し続ける男の支配欲を補填し得ないが故に、この権力関係の稜線が、視界の見えない辺りにまで広がっていく運命を免れ得ない怖さを同居させている無秩序性である。
だから大抵、権力関係の累加された膨張は、それを被弾する家畜的存在の脆弱性を強化するだろう。
ところが、ルール違反を犯さない限り、男の支配欲の発現が表面的には隠し込まれているので、疑似家族の風景を仮構することが可能だった。
内面的に膨張し続ける男の支配欲は、家畜的存在にまで権力関係を延長している限りにおいて、舐め合ったり、ゲームでの物理的近接感を出し入れしたりという、相互の身体接触の累加(自我形成を阻害する幼児性の延長)の中で、権力関係の歪みを希釈化させる方略を保証することが可能だったのだ。
しかし、人間が人間を支配し続ける蛮行を貫徹させるのは容易ではない。
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長女とクリスティーナ(右) |
自我を壊されなかった子供たちが青春期に踏み入れたことによって、惹起した変化。
それは、ほんの僅かだが、外部世界への好奇心が、彼らの自我に生き残されていたことである。
これが大きかった。
そのほんの僅かな好奇心に刺激を与える存在が、外部世界から入り込んで来ることで、彼らの外部世界のイメージを変容させていくのである。
恐怖心と共に張り付く好奇心の芽が、一気に広がっていく可能性を分娩したのだ。
無論、外部世界への彼らの風景イメージの基調は、恐怖心に塗り固められていたが、それでも、犬歯を自壊させてまで、「恐怖越え」を果たさんとする情動が炸裂してしまったとき、物語の風景の決定的な変容を必至にしてしまったのである。
人工的に仮構した、「箱庭」という「城砦」の命脈の賞味期限が切れたのである。
その辺りを、具体的に書いていこう。
子供たちの身体的発育が青春期に踏み込むことによって生じた、微かな人間的感情の希求を再支配するために、男が選択した行動様態は、この家族の中で、そこだけはタブー視されていなかった、相互の身体接触の習慣を通して、長男の中に僅かながらでも発現していた、性欲の処理としての「女」の提供だった。
あまりに単純な支配者の発想が崩されていくのは、もはや、このような処理によって解決し得ない難しい問題を包含しつつあったからである。
青春期に踏み入れた子供たちの、外部世界への好奇心を完全に封印するのは、「無能化戦略」によって成就するほど単純なものでなかったのだ。
その詳細については未だ不分明だが、カスパー・ハウザーのように、生まれてから一貫して、外部世界との交流どころか、人間的関係の一切を閉ざされた者には、ごく普通の自我の形成や、或いは、人間的欲望の発現は見られないのは当然だが、しかし、この家族には、巨大パークのような敷地の中で、限定的ながらも、身体を自在に動かす自由が与えられていたため、睡眠欲と食欲という二大本能以外に、普通の世俗世界で学習的に手に入れる欲望の片鱗が壊されていなかったのである。
まさに、その最も肝心な部分が生き残されたことによって、そこから広がる外部世界への侵入の可能性が生まれたのである。
その可能性を作ったのが、クリスティーナという「女」の存在だった。
どれほど人工的に変換させようとも、人間が人間を支配し、管理することの難しさを描く本作は、その女によって一度誘導された、外部世界への侵入経路への隘路を広げて、遂に、「恐怖越え」を果たさんとする長女の情動が炸裂してしまったのだ。
その結果、「死体」が現出するだろう。
そして、その「死体」の上に、もう二つの「死体」が重なっていく、恐怖の未来像が透けて見えるのである。
即ちこれは、「反教育」という「無能化戦略」の安定的な自己完結が如何に困難であるかということを、極端な映画的加工の中で問題提示した主題先行の一篇だった。
これが、私の本作の基本的把握である。
(2013年8月)
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