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2025年3月29日土曜日

スケアクロウ('73)  物語のリアリズムの、一本の重くて苛烈なライン  ジェリー・シャッツバーグ

 


【心臓病で亡くなったジーン・ハックマンの死を悼み、2007年に投稿し、今なお個人的に絶賛して止まない「スケアクロウ」の映画批評を大幅に再編集して、再投稿します】
 

名優ジーン・ハックマンさん死去

 

「スケアクロウ」 ―― 紛う方なく、完璧な映画だった。

 

この作品こそ、ニューシネマの最高到達点を示す記念碑的映画であると私は考えている。

 

ニューシネマの不必要なまでの濫作の中にあって、この映画だけが、“逸脱し、無軌道に走った者たちのその後の人生”のハードな現実を描き切ったのである。

 

三度観て、とんでもない映画と出会った時の興奮が蘇り、感動の涙を抑えられなかった。 



 

1  「殴るより、人を笑わせることだ」

 

 

 

カリフォルニアの州道の一角。

 

烈風が吹き荒れる殺伐とした風景は荒涼感に充ちていた。

 

そこに、二人の男がいる。

 

彼らは道路脇で通過する車を待っていた。 



偶(たま)さか、通りかかる車は彼らの存在を無視して、平気で男たちを捨てていく。

 

二人の男は、このときまだ、お互いの名を知る由もない。

 

いつまで待っても車が通過することなく、二人は時間を持て余し気味だった。 


大男の方はうな垂れて座り込み、小男の方はピョンピョン跳ね上がって、ストレッチ体操をしている。 


イメージとしてはバックパッカーに近い小男の方は、大男の気を引くべく、ゴリラの真似をしたり、大声を出して電話で話す振りをしたりして、相互の距離を縮めようと懸命だ。 


そんな小男の効が奏したのか、まもなく二人は、小男の持っている最後の一本のマッチを媒介に近づいたのである。 



その直後の映像は、二人のヒッチハイカーがトラックの荷台に身を寄せているシーン。

 

ところが、二人がようやくヒッチハイカーとして小さな成功を収めて眠り込んでいたとき、彼らは道路の途中で降ろされてしまうのである。 


農業用のトラックが、目的地への曲がり角にまで到着したからだ。

 

やむなく下車した二人は、近くのコーヒーショップで休憩をとった。

 

こうして二人は、コーヒーを飲み合いながら会話する関係にまで進んでいったのである。

 

これが、異質のキャラクターを持つ二人の関係の構築の始まりだった。

 

そのコーヒーショップでの短い会話の中に、既にプライバシーに絡む関係ラインの伏線が引かれていた。

 

「商売しないか?」と大男。

「いいよ、どこで?」と小男。

「ピッツバーグ」

「その前にデトロイトへ行く」


「俺はデンバーで妹に会う」

「金は?」

「少しだけ」

「大丈夫。商売を始める金は持っている」

「どんな仕事を?」

 

小男のこの当然なる質問に対して、大男は明瞭に答えた。

 

「洗車だ。地味だが悪くない。確実な商売だ。“マックスの洗車場”だ。車は必ず汚れる」

パートナーだな」

「パートナーだ。仕事は大変だぞ。頑張ろうな」

 

大男の差し出すごつい右手と、小男の小さな右手が重なり合って、ヒッチハイカーの誼(よし)みを超える交流が開かれていったのである。 


大男の名はマックス。

 

気が短い彼は喧嘩が原因で、6年間の刑務所生活を終えて出所したばかりだった。

 

一方、ユーモア溢れる小男の名はライオネル・フランシス。 


その場で、マックスによって「ライオン」と命名される男は、5年間の気ままな船員生活の末、妻子が待つであろうデトロイトに帰ろうとする旅の途中だった。

 

デトロイトに帰る理由をマックスに聞かれたライオンは、相棒の眼の前に小さな箱を差し出した。

 

その箱には、何の変哲もない電気スタンドが収まっていた。

 

ライオンが、そこに加えた一言。

 

「男か女か分らなくて、これにした。どっちでも喜ばれる」 


ライオンの子供は彼が放浪の旅に出た際に、まだ妻の腹の中にいたので、その後、誕生した我が子の性別を知る由もなかったのである。

 

そんな会話の中で急速に親しくなった二人は、もう充分に相棒の関係のフォームを作り上げていた。

 

その日の内に、マックスはピッツバーグ(ペンシルベニア州・米東部)で洗車業を開くという旅の目的を話し、ライオンにその相棒になってくれと頼みさえしたのだ。

 

些か唐突気味の依頼を受託したライオンは、まるで昔馴染みの親友と再会したような感覚で、マックスと意気投合する仲になったのである。

 

「なぜ俺を?」

 

ライオンの問いに、マックスは端的に答えた。

 

「最後のマッチをくれたし、笑わせてくれた」

 

最後の一本のマッチを差し出す優しさも、人を笑わせる能力もマックスにはない。

 

少なくとも、本人はそう思っている。

 

俺って人間は、すごいひねくれ者でな。人は信用しないし、好きにもならん 


こう言い放つマックスをして、「俺がお前を相棒に選んだんだ」と言わせる何かが、ライオンという男の中にあったのだろう。

 

性格の違う二人の友情の根柢には、自分の中にないものを補完し合う絶妙な感情関係が横臥(おうが)していたのかも知れない。

 

「人を殴るより笑わせることだ」

 

ライオンのこのパーソナルな信条は、カラスは案山子(かかし=スケアクロウ)を怖がらず、その瓢軽(ひょうきん)な出で立ちを見て笑っている。“あの百姓はいい奴だ”。だから“奴の畑は遠慮しよう”と話す滑稽譚のうちに端的に示されている。 


まさに、ライオンこそが「スケアクロウ」だったのだ。

 

 

 

2  「ダメだ。アニーに会う。だから行くんだ。謝りに」

 

 

 

そんな風変わりな二人の旅の途中で出来した事態は、マックスの限度を越える短気な性格だった。

 

その度にライオンが仲介していくことで、事態が警察沙汰にまで発展することはなかったが、二人で協力して商売を始めるという約束をしたライオンにとって、暴力事件で刑務所生活を余儀なくされていた相棒の、恐らく、生来的な性格の短気さとの折り合いを付けていくことの困難さを実感させていくものだった。 



まもなく二人の旅は、マックスの妹・コーリーが住むデンバー(コロラド州・米西部)で小休止することになった。 

コーリー

女好きのマックスは妹の親友・フレンチーと懇ろとなり、それが原因で彼女に横恋慕する地元の男と、地元の居酒屋で警官を巻き込んでの大立ち回りする始末。 

フレンチー



事の発端は、妹たちとの一時(いっとき)の別れのパーティを盛大にやろうということになり、その音頭を先導したライオンの芸人精神が遺憾なく発揮されて、ドンチャン騒ぎが始まったことにあった。 



そのことが原因で、町の連中を巻き込んでの喧嘩騒ぎが出来したのだ。 


その結果、二人は拘束されて30日間の強制労働を強いられたのである。

 

喧嘩の原因をライオンのせいにするマックスは、収容所の中で一切口を聞かない。 


マックスの機嫌をとるライオンと、不貞腐れるマックスの子供じみた遣り取りが観る者の笑いを誘うが、ライオンが同囚の男に性的虐待を受けた事件によって、束の間、和んだ描写が一転する。 

マックスに話しかけても無視されてしまう

ライリーに性的虐待を受けるライオン


その夜、ライオンは血だらけの顔を剥(む)き出しにして、マックスの房にやって来て、彼に事情を説明した。 


「ジーザス・クライスト!(ひどいな)」 


マックスの反応は、既に相棒と怒りを共有する同志になっていた。

 

二人の不協和の原因は、カラスを笑わせる「スケアクロウ」のスキルで、状況を仕切った挙句に収容所入りを余儀なくさせたライオンへの、単なる感情的反感でしかなかったのである。

 

二人が強制労働から解放されたその日、マックスは相棒を甚振(いたぶ)った牢名主のライリーの作業場に立ち寄って、最初は静かに語りかけた

 

「俺の相棒にやったろ?やらなかったか?どうなんだ」


「うるせえや」
 

ライリー

男のこの言葉が、瞬時にマックスを、かつての乱暴者に変貌させた。

 

マックスはあっという間にライリーを袋叩きにし、倍返しの理屈で親友の仇を討ったのである。 


些か定番的な展開だが、しかし作り手は、この暴行を決してハリウッド好みのワンマンショーの美学、即ち、極めつけなクローズアップのベタの描写で切り取ることを一切せず、それを遠くから俯瞰する淡々とした、ロングショットのカメラが捕捉する潔さによって貫いた。

 

それでも、そこには友情を回復した男の余情が画面いっぱいに映し出されていたのである。

 

収容所を去る際、マックスはライオンに語りかけた。

 

「ところでデトロイトだが、行くのはやめとこう…心配だ」


「(電気)スタンドは?」

「小包で送れ」

ダメだ。アニー(ライオンの妻)に会う。だから行くんだ。謝りに


「なら行くが、手っ取り早く頼むぜ」

 

マックスには思わぬ事態の出来で、1ヶ月もの間、収容所に足止めされた時間のロスが惜しくてたまらないのだ。

 

彼は一刻も早く、ピツバーグに向かいたいのである。

 

このとき彼には、デトロイトに拘る相棒の心情の澱みが未だ理解されていない。

 

ライオンもマックスに、自分のプライバシーを必要以上に説明してこなかったからである。

 

ライオンには寧ろ、デトロイト行きこそが最大のテーマだったのだ。

 

この国の西部開拓の歴史を反転するかのような、東方に向かう車両の中で、ライオンの顔は些か陰鬱であり、寡黙であった。

 

映像はこの辺りから、少しずつ暗転していく。

 

 

 

3  「看板を考えついた。“カカシ”だ。それが店の看板」

 

 

 

収容所での暴行の衝撃が、ライオンの心に暗い影を落としていたことも多いに関係するだろう。

 

そして恐らく、それ以上にデトロイトでの妻子との再会の不安が、彼の中に少なからぬ影響を与えていたに違いない。

 

二人が降り立った、とある町の盛り場での出来事。

 

見知らぬ地元民で溢れ返る盛り場で、マックスは些細なことから客の男と揉み合いになり、例によって一触即発の危機。

性的虐待を受けたライオンの傷が痛々しい


心が萎えていたライオンは、今や親友の喧嘩を止める気力を持たない。 


「もういい。勝手に喧嘩してろ」

 

そう呟いて、ライオンが店を出ようとしたそのとき、今にも殴りかかんばかりのマックスが豹変したのである。

 

「スケアクロウ」の生き方とは無縁なマックスは、「俺はカカシだ」と言って案山子の真似をしたり、喧嘩相手の手を取ってダンスの真似事をした後、着膨れした服を一枚一枚脱いでいくのだ。 


その直後、瞬間湯沸かし器の如き大男が、何とストリップショーを演じて見せたのである。


険悪な店内の空気が、一瞬にして爆笑に包まれた。

 

ライオンの表情からも硬さがとれて、彼もまた、その空気の中に自然に溶け込んでいったのである。 


それも一時(いっとき)だった。 



一方、このときマックスは、初めて人の機嫌を取るという、表面的には人並みの柔和さを表現する男に変貌したかのようだった。 


彼は今や、カラスを笑わせる「スケアクロウ」の世界にほんの少し近づいたのだ。

 

―― 本作の基幹テーマに肉薄する最も重要なシーンが、そこに映像提示されたとき、観る者は物語の芯に触れた感銘を忘れ得ないだろう。

 

私が唯一、嗚咽しそうになったマックスのストリップショー。

 

凄い映画と出会ったものだと、今更のように想起される。

 

このシーンの決定力が、本作の完成度の抜きん出た高さを保証したと言っていい。

 

それ程までに重要なシーンだった。

 

このシーンが、ラストカットの決定的構図を決定的に支配し切ったのだ。

 

物語を追っていこう。

 

デトロイトに向かう列車の中で、マックスは、なお表情を固くするライオンに向かって自慢げに語りかけた。

 

「ウケたぜ」 


それでも反応が薄い相棒に、マックスはリアルな話に切り替えた。

 

看板を考えついた。“カカシ”だ。それが店の看板」 


なお反応しないライオンが、そこにいる。

 

デトロイトに近づくほどに、彼の中の不安感が明らかに増幅しているのだろう。 


 

 

4  「生まれもせずに。洗礼もなし。あなたは自分の子供を闇から闇に葬った!天国へも行けない!」

 

 

 

ライオンはいよいよ、「スケアクロウ」の世界から逸脱しかけていた。 


妻子が待つデトロイトに立ち寄ったからである。

 

妻の妊娠時に姿を消した小さな逸脱者は、今や5歳になるはずの我が子の顔を知らないのだ。

 

彼が後生大事に抱えた子供への土産は、子供の性別を問わない電気スタンドだった。

 

我が子の顔を一目見たい。

 

それがライオンンの、この長くて険しい旅を辛うじて支えていたのである。

 

この艱難(かんなん)な旅の一つの終着点で、彼は教会で祈りを捧げていた。 


捧げざるを得ない感情が、「スケアクロウ」を自認する男の心を騒がせていたのである。 


妻子が住むであろう自宅の前で、ライオンの足は竦んでしまった。 

自宅を前にして「厚着してろ。寒いだろ」とマックスと言われ、緊張感が走るライオン


「行けよ」とマックス。


「まず電話だ。気がとがめる」とライオン。

「忘れるなよ。お前だって立派な人間だぞ。若気のために家を飛び出した。それだけだ」 


マックスに励まされて、ライオンは恐々と受話器を取った。

 

その直後、映像は受話器を取る妻の日常的な振舞いを映し出した。

 

数秒の後、その妻の表情が劇的に変化した。

 

「フランシス…どこなの…なぜ?…話を?…当分、いる気?」 


今度は、平静を装うライオンの表情を映し出す。 


彼は妻・アニーから、彼女が再婚した事実を知らされたのである。

 

「結婚したわ。聞こえた?」

「それで君は元気なのか。万事、順調か…いつだ。結婚した?」

「2年前よ。仕送りをありがとう。それで商売を始めたのよ…」 


ここまで言葉を繋いできた妻は、遂に感情を噴き上げてしまった。

 

「なぜ…出てったの…いいのよ。言い訳しないでも。あんたは家出した」 


受話器の向うから、嗚咽する妻の悲痛な呻きが滲(にじ)み出てくるように伝わってきた。

 

「幸せ?ええ、もちろん今は幸せよ。いきなり黙って家出だなんて卑怯だわ。仕送りだけして自分は放浪。私は置き去り。あんたの送金だけじゃ、こんな貧民窟に私を置いて、ひどい男! 


なお平静を装うライオンは、必死に言葉を繋いでいく。

 

「アニー、会いたいんだ」


「会いたくないわ。二度と来ないで!」

 

ここまで嗚咽を叫びに変えてきた妻は、今度はゆっくりとリアルな現実を語り出したのである。

 

「フランシス、子供のことは聞かないの?…死んだわ。死んだのよ…月も満たずに、あのあと、すぐ流産を…8ヶ月だったわ…雪の日、階段で転んだの。誰も知らん顔。流産したのよ…たぶん男だったわ。生まれもせずに。洗礼もなし。分かっているの?天国へ行けないのよ。あなたは自分の子供を闇から闇に葬った!天国へも行けない!」 


呻きの最後に放たれた妻の一言が、家庭を捨てた男の心に深々と突き刺さってきた。 


しかし、それは妻の作り話。

 

女の傍らには5歳になる父親似の男の子が、いつにない母親の異様な様子に眼を凝らしていた。

 

男だけがそれを知らない。

 

男だけが、自らの奔放なる逸脱のペナルティを受けてしまったのだ。

 

ひたすらそれを願って、ようやく辿り着いた男の魂に高圧電流が走り抜けた。

 

男はもう、言葉を放てない。

 

激しい動揺を抑えるようにして、受話器を降ろし、そこに立ち竦むだけだった。

 

唐突に電話を切られて狼狽するアニーには、イヤというほど恨み辛みを晴らしたら、夫フランシス(ライオン)を受け入れて9年ぶりの再会を果たす心積もりがあったかも知れない。

 

もう、何もかも手遅れだった。

 

8ヶ月目で流産した我が子が、洗礼も受けられずに死んだという想像を絶する現実が、ライオンと呼ばれた男の身勝手な自我を破壊した。

 

会話の内容を知ることのないマックスに対して、ライオンは不必要なまでにおどけて見せるのだ。 


この気力の命綱の息も殆ど絶え絶えだった。

 

 

 

5  「俺たちは一心同体だ。約束しただろ。俺一人じゃダメだ。起きろ!一人じゃダメだ。ダメなんだ」

 

 

 

広場の子供たちを集めて、「宝島」のロングジョンを演じるライオンの表情から、少しずつ「スケアクロウ」の愛嬌が消えていく。 



傍らで相棒のワンマンショーを見守っていたマックスが相棒の異変に気づいたとき、既に一人の男児を抱え上げたライオンは冬枯れの噴水の中を突き進んでいた。 


「私の子供を!何してるの 


子供の母親がそう叫んだ。

 

そしてマックスが水の中を走り寄って、相棒から子供を奪い返したのである。 


「洗礼する。愛してくれ、この俺を」 


常軌を逸したライオン(獅子)は、噴水の中央の獅子像に縋りついて呟いた。 


それは、せめて我が子を噴水の聖水で受洗させようとする、あるべき慈父の真似事だった。

 

ライオンがライオンの像に縋りつくショットの、そのあまりの痛々しさ。

 

我が子を天国に届けられなかった悔恨の念が、男の自我を打ち砕く。 


完膚なきまでに打ち砕く。

 

男は完全に正気を失っていた。

 

正気を失うことけが、男にとって唯一の逃げ道であるかのようだった。

 

男はそれでも、虚勢を張った。

 

消耗寸前の自我の余力が、瞬時、男を行動的理想主義者に変貌させた。

 

「俺は戦う!戦い抜くんだ!」

 

そこまでだった。

 

ライオンをいたわるマックス。

 

これが、「スケアクロウ」を演じた男が、映像に刻んだ最後の言葉だった。

 

しかし男はもう、「スケアクロウ」とは違う別の何者かになっていた。

 

今、寒々とした救急病院のベッドの上に、麻酔で寝かされた男が縛られている。

 

病院の医師は男の症状を精神錯乱と判断し、近く州立のラグナ精神病院に転院させると言う。 


相棒の突然の変調に戸惑うマックスは、他人事のような医師の説明に反発し、無機物と化したかの如き唯一の親友に向かって叫び続けるのだ。

 

「きっと夢だ。この野郎。痩せっぽち、目を覚ませ。起きろ!自由にしてやるぞ。俺を見ろ。聞け。俺一人じゃ商売はできんぞ。誰を信用すりゃあいいんだ。あの公衆電話へ戻ろう。やり直しだ。女に何を言われた。俺たちは一心同体だ。そうだろ。頑張ろうぜ。どうだ。約束しただろ。俺一人じゃダメだ。起き一人じゃダメだ。ダメなんだ。起きるんだ!」 


自分の眼の前で起きている現実を受け止められないマックスは、相棒を救い出すべく、その足で直ちにピッツバーグへと向かった。

 

ピッツバーグ ―― それはマックスが洗車屋の開店資金が保管してある街であると同時に、相棒との苛酷なる旅の到達点でもある。

 

そしてそこは、二人の細(ささ)やかな夢の実現の出発点でもあった。

 

二人の性格の異なった逸脱者が、恐らく生まれて初めて本気で、ありふれた生活感覚という名の秩序に復帰を果たそうとするアメリカンドリームを約束する街 ―― それがピッツバーグだったのだ。

 

マックスはステーションで、ピッツバーグ行きの往復券を買おうとするが、金が少し足りない。 


【因みに、往復券を買うという行為は、ピッツバーグに保管する金銭を持ち出した後、ライオンが入院する病院に駆けつけることを意味するだろう】

 

彼は相棒に最後まで見せることがなかった、靴の裏底に隠した10ドル紙幣をナイフで抉(こ)じ開け、取り出したのである。 


代金を払ってチケットを手にしたマックスは、靴の裏底を修復するために、窓口の棚にその踵(かかと)を何度も強く叩きつけていた。


 

それが、映像が最後に用意したカットだった。

 

 

 

6  物語のリアリズムの、一本の重くて苛烈なライン

 

 

 

この映画は、決して捨ててはならない大切な何かを、無残にも失ってしまった男たちの哀切なる物語だった。 


一方は貧しいが、慎ましやかな日常を置き去りにした身勝手さ故に、無残な返り討ちに遭った悲劇であり、もう一方は、その悲劇とクロスしたばかりに、束の間手に入れたかけがえのない友情を、やがて失うことになるであろう極めつけの悲哀である。 



二人の逸脱はもともと確信的でなかったが故に、〈日常性〉という秩序への復帰を切実に希求するいじらしさが虚勢の奥に見え隠れしていて、その思いが呆気なく砕かれる物語の厳しさに、観る者は時には共感し、時には反発するかも知れない。

 

それでも、対極する二つの異質なる個性がクロスする度に補完的に溶融していく絶妙な展開は、淡々とした筆致で貫流するリアリズムに支えられて、一級の人間ドラマの領域に届くに足る、完成度の高さを裏付けるものとなっていた。

 

そこにはもう、ニューシネマの大袈裟で、半ば悪ふざけ的なゲーム感覚は微塵も存在しなかった。

 

近代文明社会に昇りつめた豊かな国の見えない部分では、確信的に逸脱できない者たちの悲哀が至る所に転がっている。

 

そんな人生の断片を確かな視点で拾い上げた、この湿り気の少ない映像の持つ重量感は際立っていた。

 

大切なものを失って立ち竦む人生は私の中にもあり、多くの人々の中にもあるはずだ。

 

「スケアクロウ」を演じて駆け抜けるほど人生はシンプルではないし、また幻想の翼に身を預けて確信的に逸脱し切れるほど、私たちの人生は短くもない。 


同時に、絶対的な逸脱者を演じ切れるほど、人生はオプチミスティックなまでにフラットなものであるはずがないのだ。

 

自由の使い方さえ大きく間違わなければ、人は程ほどに、それなりの心地良さを堪能し、そこで居眠りする手前勝手な時間をも手に入れられるに違いない。

 

そんな感懐を切実なまでに抱かせてくれる映像 ーー それが「スケアクロウ」だった。



この映画ほど、私の心の琴線に鋭く触れてきた作品はかつてなかった。

 

それは、ニューシネマが生んだ最も良質な贈り物でもあった。


 

ラストシーンの何となく滑稽だが、必死の形相を伝えるマックスの描写は、未だベッドに眠る相棒なしに自らの人生を再出発できないという切実感を、実に見事に映し出している。

 

この印象深いラストシーンは、所詮どれほど強がっても、人生を一人きりで走り切ることの難しさを語っていて、深々と抉(えぐ)るように胸を打つ。

 

しかし映像は、物語を中途半端に切ったような印象を残して完結した。 



この印象深い映像の作り手は、二人のその後の不幸なる人生を語りたくなかったか、それともラストの決定的な描写によって、彼らの人生をポジティブに捉えているのかも知れない。 

フェイ・ダナウェイ(右)とジェリー・シャッツバーグ監督


しかし、語るに忍びない二人の近未来のイメージをリアルに考えれば、殆ど予約されているとも言えるのだ。

 

敢えてペシミスティックに言えば、あまりに繊細なライオンが精神的な障害を克服できる可能性は大きくないだろうし、相棒を失ったトラウマを克服する能力がマックスにあるとも考えにくいからである。

 

体制の秩序の内に戻れないかも知れない。

 

生来の短気が災いして、彼は再び塀の中に戻っていく公算が少なくないように思われるのだ。

 

人生の再生を賭けたポジティブな旅の中で、一時(いっとき)、「スケアクロウ」に近づいたマックスは、決定的な相棒を失った不幸のさまをたっぷりと味わっていくのだろうか。 


切れ味鋭い映像の後半の流れは、人一倍、楽観志向の苦手な私に、そんな文脈を残酷なまでに予感させてしまったのである。

 

「スケアクロウ」は、そのドキュメンタリー風な筆致によって、映像をよりリアルに仕上げ過ぎてしまった。

 

何度観ても、この作品は残酷すぎるほどの映像である。

 

繰り返すが、彼らの未来にはあまり希望が見えないのだ。

 

相棒を救おうとするマックスの心情は、映像の後半辺りから少しずつ際立っていくが、それ故にこそ、相棒を失ったマックスの将来の暗いイメージをどうしても払拭できない物語のリアリズムの、一本の重くて苛烈なラインがそこに置き去りにされたのである。 


確かに、ラストシーンの稀に見る極め付けの描写によって、二人の男の人生の近未来を覆う暗雲が払拭されるかのようなイメージを提示していたが、それはどこまでも、そこに勝負を賭けた作り手の映像的メッセージであって、「括りの描写」へのそんな仮託的な思いとは無縁に、実人生のシビアなリアリズムの苛烈な洗礼を突破し得る、能天気でオプチミスティックなイメージに簡単に辿り着けない男たちのナラティブの脆さが、そこに厳然と存在すると言わざるを得ないのである。

 

まさにそれは、人生の真実を直視する映画だったのだ。 


 

 

7  逸脱し、無軌道に走った者たちのその後の人生 

 

 

 

本稿の最後に、映像を仕切った二人の男の心理描写について簡単に言及したい。 


恐らく、自分が成した行為をさして無軌道と思わずに、殆んど成り行きと感情に任せて、身を預けた果てに待っていたペナルティ。 


それは、自分の社会的ポジションが、必ずしも、好都合な適応性を見せていないことを感じる程度の「逸脱性」の感覚であったに違いない。

 

そんな二人の男が、磁石のS極とN極が強く引き合うような状況の流れ方に嵌って、決定的に遭遇し、その本来の性癖を露出した振舞いを展開させていった。 


カラスを駆逐する男と、カラスを笑わせる男。

 

「男」という観念をなお捨てられない大男と、それを本来的に持ち得ない小男。 


そして、粗暴性と排他主義で武装したかのような男と、妥協性と協調主義という偽装武装によって世渡りしてきたかのような男。

 

こんな対極の位置にある男たちがクロスして〈状況〉を作り出しても、そこに、身体を介在する激しいバトルは決して起こり得ないであろう。

 

そんなイメージラインをなぞるように、男たちはバトルを不毛にする関係を作り出していくのである。

 

粗暴な男が、愉快な気分を乗せて止まない小男のナイーブさに触れたとき、そこに、二つの異なる個性のクロスによる細(ささ)やかな感動を生み出す変化を見せていく。

 

この映像が秀逸なる人間ドラマの深みに到達し得たのは、その辺りの心情の微妙な振れ方を、俳優の傑出した表現力によってフィルムに鏤刻(るこく)することに成就したからに他ならない。

 

従って、大男と小男の人生の、曲線的な航跡の中で偶(たま)さか現出した出会いの奇跡こそが、二人の内包する「逸脱突破」のエネルギーを、より固め上げた能力に進化させる可能性を保証させてしまったということ、これが決定的に重要なのだ。

 

まさにこの二人は、それ以外にないという絶妙なタイミングでクロスし、それ以外にないという絶妙な嵌り方をしてしまったのである。 


物語から溢れ出るような哀感は、そんな男たちの、それ以外にないという人格的クロスの中で爆発的に表現され、そして絶望的なまでに下降した魂の、その救済を賭けた男の突破力に委ねられた、あのラストシーンの決定的な描写によって極まったのである。

 

それが逸脱し、無軌道に走った者たちのその後の人生の様態だったのである。 



(2025年3月)