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2025年5月5日月曜日

PERFECT DAYS('23)  「全力で築き上げる平凡さ」  ヴィム・ヴェンダース

 


1  『朝日楼』に聴き惚れる男

 

 

 

明け方の木々の葉が風にそよぐ音、カラスの鳴き声、通りを箒(ほうき)で掃く音。

 

まだ薄暗い朝方、それらを耳にして目を覚ました平山は布団を畳み、階下に降りて歯を磨き、髭を剃って顔を洗い、2階の盆栽に水を霧吹きし、清掃業者の制服に着替え、棚に並べた携帯、カメラ、鍵、小銭などをポケットに入れ、アパートを出る。 


平山が住むアパート

玄関を開けて、まず空を見上げ、一息ついてスイッチを入れ、缶コーヒーを買いワゴン車に乗り込み、コーヒーを飲んで、お気に入りのカセットテープをセットして出発する。 

平山


通りに出ると、目の前にスカイツリーが見える。 


アニマルズの『朝日のあたる家』を聴きながら車を走らせ、仕事場である公園のトイレに到着すると、仕事道具を荷台から降ろし、手際よくゴミを片付け、丹念にトイレ掃除をする。 


客が来ると、一旦、外に出て待つ。

 

そんな一瞬でも平山は、公園の青空に映える木々のグリーンを見て、満足げな表情を浮かべるのだった。

 

遅れて来た同僚のタカシが、渋滞で遅れたと言い訳をし、あれこれ話しかけるが、平山は一言も反応せず、黙々と作業を続ける。

 

「平山さん、やり過ぎっす。どうせ汚れるんだから」

 

次の公園のトイレの清掃を始めると、鍵をかけずにトイレに座って泣いている児童を見つけた平山は、その子の手を引き、公園の中へ入って行く。 


その児童を探していた乳母車を引いた母親が、「ヨウスケ、ずっと探していたんだよ、ママ」と、平山の手からヨウスケを引き剥がし、ちらっと平山を見ただけで礼も言わず、ウェットティッシュでヨウスケの手を拭いてその場を去って行った。

 

その様子を見ていた平山に、振り返って手を振るヨウスケ。 



平山も笑顔を返す。 


近くの神社の境内で昼食を摂りながら、見上げた青空に映えるライムグリーンの葉が生い茂る大木をモノクロの写真に収める平山。 


今度は、木の根から芽を出した楓(かえで)の小さな木を発見し、神主に目配せして頭を下げると、神主も頭を下げ了承を得た平山は、早速、掘り出した小さな木を用意した袋に入れる。

 


次の公園のトイレの掃除をしながら、大木に抱き付き、不思議な動きをしているホームレスに目をやる平山。 



一日の仕事が終わり、満たされた表情の平山は好きな音楽を聴き、街の風景を楽しみながら帰途に就く。

 

アパートに着くと、持ち帰った楓の木を湯飲み茶碗に入れ替え、私服に着替えて自転車で銭湯に向かい、開店と共に一番風呂に入る。 


雨が降り出したのでカッパを羽織って自転車を走らせ、浅草駅地下の飲み屋の席につくと、マスターが「お疲れさん」といつもの酒とつまみをテーブルに置く。

 

アパートに戻って布団を敷いて、本を読み始めるが睡魔に襲われ、灯りを消して眠りに就く。 


読書中の本は、アメリカ文学を代表する作家ウィリアム・フォークナーの『野生の棕櫚(しゅろ)』。 

二つの異なった物語が交互に展開する20世紀アメリカ文学の代表作


その本のページの文字や、その日起きたことの断片が就寝中の平山の夢の中に現れ、やがて朝を迎える。 


そしてまた、箒を掃く音で目を覚まし、昨日と同じ行程を踏んで仕事場へ向かう。

 

昨日と同じ公園のトイレから、ホームレスの男性のパントマイムのような舞を見る。 


タカシの元にガールズバーのアヤがやって来た。

アヤ

 

「やればできるじゃないか」と、平山がタカシの頭をポンと叩く。

 

アヤが仕事の引けるのを待ってくれないので、「今夜、勝負なんですよ」と平山に車を貸してくれるよう懇願する。 

タカシ


平山は首を横に振ったが、アヤが帰ろうとするのを見て、結局、3人で車に乗ることになった。

 

車の運転をしながら、アヤに平山を紹介するタカシ。

 

「メチャ仕事できるけど、メチャ無口。だから何考えてるか、分からないなあ。ハハハ」

 

アヤは平山のカセットテープのコレクションを物色し、一本を取り出して聴いていいかと許可を求めて聴き始めると、タカシの話も聞かず、「この人好きかも…カセットの音、好きかも」と、それが気に入った様子。 

カセットを入れる向きを教える平山

店の前まで降りるというアヤと遊ぶつもりだったタカシは、車から降りるアヤのバッグに、そのカセットテープを無断で入れてしまう。

 

出勤するアヤを見送り、項垂(うなだ)れるタカシ。

 

「平山さん、マジで今日勝負なんすよ。チクショー!金があれば、どうにでもなるのに。金がないと恋もできないなんて、どうなってるんすか、この世の中、この時代」 


タカシは平山のカセットの値段を確かめると言い出し、下北沢のアナログ店へ強引に連れて行く。

 

意外に高額の値が付き、タカシは売ろうと執拗に迫るが、平山は頑として受け付けず、タカシに現金を渡す。 


「ありがとうございます」と言って平山に抱きつき、喜び勇んでアヤのいる店へ直行する。

 

2日後、いつものように朝を迎え、仕事場へ行き、清掃作業を始めると、タカシが出勤してきて、「アヤちゃん、もうダメかもしれない」とぼやく。

 

隣のトイレから、タカシが平山に質問する。

 

「平山さんて、結婚してないっすよね。その年で、一人で?寂しくないすか?」

 

憮然とした様子で聞き流し、無言で仕事を続ける平山。 


突然、タカシを呼ぶダウン症の子の声がして、覗いて見ると、タカシの耳を気に入っているデラちゃんという幼馴染が、タカシの耳を掴んで笑っていた。 


それを見て微笑む平山。

 

平山の元に、アヤがカセットテープを返しに来て、もう一度聞きたいと、車の中で音楽をかける。 


「ありがと。タカシ、なんか言ってた?」 


表情を曇らせ、泣き顔になったアヤは、突然、平山の頬にキスをして車から降りて出ていった。

 

風呂屋へ行き、いつもの浅草駅地下の飲み屋へ行って焼酎を飲みながら、今日あった出来事を思い出して笑みを零(こぼ)す。 


休日の朝、神社でお参りした後、コインランドリーで制服を洗濯し、カメラのフィルムを現像に出して自宅に戻ると、部屋の掃除をして、カセットテープをメンテし、出来上がった写真を取捨して缶に整理する。 


カメラのフィルムを現像に出す


それが終わると行きつけの古本屋に寄って、一冊100円の文庫の中から幸田文(こうだあや/露伴の娘)の『木』を選んで購入し、その帰りに、馴染みのスナックで、知り合いの客との会話を楽しむ。 

スナックのママ


客の一人がギターを弾き、ママが歌う『朝日楼』に聴き惚れる平山。 


何とも言えない平山の表情が忘れ難いシーンだった。 


 

 

2  「何にも変わらないなんて、そんなバカな話ないですよ」

 

 

 

突然、姪のニコがアパートを訪ねて来て、泊まった翌朝早く、仕事に出ようとするとニコも付いていくと言う。 

ニコ

車に乗って、缶コーヒーを飲みながらカセットテープをかける。

 

平山のトイレ掃除が終わるのを待ち、一緒に神社の境内でお昼を食べ、大木の木漏れ日の写真を撮るのを見て、ニコが訊ねた。

太陽の日差しが漏れる「木漏れ日」(「komorebi」)は日本特有の感性的表現


「その木は、伯父さんの友達?」

「友達?」

「でしょ?」

「そうだね。その木は友達の木だ」

 

翌日、ニコは平山の仕事を手伝い、再び境内へ。

 

「伯父さんとママって、仲悪いの?伯父さんの話すると、いつも話変える」

「そうか。ママと喧嘩した?」

「まあね」

「いつも家出するの?」

「これが初めての家出。家出するなら、伯父さんのとこって決めてたから」

「何だよ、それ」

 

二人で銭湯へ行き、自転車に乗って、いつもの道を走る。

 

「ママと伯父さんって、全然似てないね。伯父さんとは住む世界が違うんだって。ママが言ってた」

「そうかも知れない」

「そうなの?」

「この世界は、ほんとは沢山の世界がある。繋がってるように見えても、繋がっていない世界がある。僕のいる世界は、ニコのママのいる世界とは違う」


「あたしは?あたしはどっちの世界にいるの?」

 

自転車を止め、川の先を見る二人。

 

「ここ、ずっと行ったら海?」


「うん、海だ」

「行く?」

「今度ね」

「今度っていつ」


「今度は今度、今は今」


「今度は今度、今は今」

 

復唱しながら自転車を漕ぐ。

 

アパートに着くと、ニコの母親である平山の妹・ケイコが車で迎えに来ていた。

 

「兄さん、久しぶり。こんなとこ住んでるのね。別に悪い意味がないの。ニコ、荷物取ってきなさい」

「イヤ」

 

ニコは平山に助けを求めると、小声で「いつでも遊びに来ていいから」と応え、読みかけの小説を持って行っていいと帰ることを促す。 



ニコは観念して、部屋に荷物を取りに行った。

 

「迷惑かけたわね」とケイコが平山の好物を渡す。

「いい子だ」

「どうだか…父さん、もう色々分かんなってるけど、ホームに会いに行ってあげて。もう、昔みたいじゃないから…ほんとにトイレ掃除してんの?」 

ケイコ

笑って頷く平山。

 

アパートから出て来たニコは、平山に抱きつき、「ありがとう」とお礼を言って、車に乗り込んだ。 



今なお父を拒絶する平山は、ケイコを強く抱き締め、別れを告げた。 


車が去って、佇む平山は嗚咽する。

 

翌朝、いつものように出勤すると、タカシから電話がかかり、突然、仕事を辞めると話す。

 

「おい、シフトどうすんだよ」と言うや電話を切られてしまうのだ。

 

事務所に電話をしても代わりがいないと言われ、夜遅くまで仕事が続いた。

 

そこにデラちゃんがタカシを探しに来たが、平山が首を横に振ると、そのまま走って帰って行った。

 

仕事が終わり、車にゴミを積んだ平山は事務所に電話を入れ、声を荒げて抗議する。

 

「毎日は無理だからね。誰でもいいから、よこして!」 


アンガーマネジメント(怒りの抑制能力)に優れている平山が、物語の中で唯一表現するカットである。

 

どうしても「言いたいことには逃げない」男の人間性の一端が垣間見える。

 

疲れ切った平山は家に帰るとすぐに眠りに就いた。

 

翌朝、仕事場に着くと、辞めたタカシのシフトを担当する女性清掃員のサトウが既に来ていた。

 

早速、サトウはテキパキと仕事に就くのだった。

 

休みの日が来て、いつものようにコインランドリーとカメラ屋に立ち寄り、古本屋で一冊本を買って家に帰り、馴染みのスナックに向かった。

 

まだ店が開いていないので、コインランドリーの椅子に座って本を読んでいると、ママと中年男性が店に入るのが見えた。

 

平山が少し開いたドアから店の中を覗くと、ママとその男性が抱き合っているのを見て、その場を去る。

 

コンビニでビールとタバコを買い、川の遊歩道でビールをがぶ飲みし、タバコを吸うがひどく咳き込む。

 

そこに、先の中年男性が声をかけてきた。

 

「一本、もらっていいですか」 


男が火を点けタバコを吸うと、同じく激しく咳き込む。 

「いや、久しぶりに吸いました…さっき、見てました?」

 


頷く平山。

 

「あの店、通ってくれてるんですよね」

「ええ。始まった頃からだから、5年か、6年か」


「そうですか、いい店ですね…元夫です」


「ああ、そうですか」

「別れてから7年ぐらいですか。こっちも再婚してますけど。7年ぶりに会いました。自分、が転移しちゃってましてね。抗癌剤やると浮腫(むく)むんですよね…何だか、無性にアイツに謝りたくなって。特に何かあったってわけじゃないんですけど。謝りたいっていうのも、違うかな。お礼を言っておきたくなって。いや、お礼っていうのも違うのかな。会っておきたかったっていうだけなんですけど」

 

平山が缶ビールを渡し、乾杯する二人。 


「あいつをよろしくお願いします」

「そういうんじゃないんで」

「よろしくお願いします」

 

頭を下げる元夫。

 

「影って、重ねると濃くなるんですかね」


「…さあ」

「分かんないことだらけだなぁ。結局、何も分からないまま、終わっちゃうんだなぁ」

「やってみましょうか」

 

平山は街灯の下に元夫を呼び、二人の影を重ねて見せる。

 

「変わらないかな」と言う元夫に対し、平山は「濃くなってないですか?」と訊ねる。 


「なってない気がする」

「なってるんじゃないですか、濃く」


「いや、変わらないかな」

「なってますよ、ほら、なってなきゃおかしいですよ」

「力説しますね」

「何にも変わらないなんて、そんなバカな話ないですよ」


「ないですよね」

「影踏みしましょうか」

 

一頻(ひとしき)り、2人は影踏みをしてから、平山は笑顔で自転車を漕ぎ、帰途に就く。 


そして、また朝を迎える。

 

ラスト。

 

お気に入りのカセットテープの曲を聴いて運転しながら、平山は涙ぐみ、笑い、込み上げてくる感情を抑えることができなかった。 


 

 

3  全力で築き上げる「平凡さ」

 

 

 

「日常性」とは、その存在なしに成立し得ない、衣食住という人間の生存と社会の恒常的な安定の維持をベースにする生活過程である。 

 

従って、「日常性」は、その恒常的秩序の故に、それを保守しようとする傾向を持つが故に、良くも悪くも「世俗性」という特性を現象化すると言える。

 

この「世俗性」は「平凡さ」 でもある。

 

「日常性」のこの傾向によって、そこに一定のサイクルが生まれる。 

 

いつも書いていることだが、この「日常性のサイクル」は「反復」「継続」「馴致」「安定」という循環を持つというのが、私の定義。  

休日のルーティン/映画より

しかし実際のところ、「日常性のサイクル」は、常にこのように推移しないのだ。 

 

「安定」の確保が絶対的に保証されていないからである。 

 

「安定」に向かう「日常性のサイクル」が、「非日常」という、しばしば厄介なるゾーンに搦(から)め捕られるリスクを私たちは宿命的に負っているからだ。 

 

その意味から言えば、私たちの「日常性」が普段は見えにくい「非日常」と隣接し、時には「共存」していることが判然とするであろう。

 

だから私たちの「日常性のサイクル」が、折につけアップデートを拒む恒常的秩序への頑なさと同義ではないことは自明である

 

「安定」の確保を構築する時間こそが「日常性のサイクル」の基本命題である限り、「平凡さ」を侮ることなどできないのだ。 

平山のルーティン/映画より

平山のルーティン/映画より

「平凡というのはね、全力で築き上げるもんだと思うんですよ」

 

その夜の侍」という映画の中で拾われた重要なセリフだが、「平凡なる日常性」が如何に尊い価値を有するかについて、改めて実感する思いである 

                       「その夜の侍」より


「日常性のサイクル」が「安定」を確保することで、「全力で築き上げる平凡さ」の価値が検証されるからである。


 

誰にも依存せず、淡々と日常を繋ぐことで、自らを囲繞する「世界」に全き適応を果たす。

 

本作の主人公・平山体現した全力で築き上げる平凡さ」という確個たる生き方への私なりのオマージュである。 



―― 以下、この「全力で築き上げる平凡さ」という生き方を、「自尊感情の心理学」という視点で言及していく。 

イメージ画像・昭和記念公園


自尊感情とは自己肯定感である。 

 

自分を価値ある存在だと感じる感覚 ―― これが自尊感情である。 

自尊感情

「自分をできる限りポジティブに評価したい」 

 

この欲求は人間の普遍的欲求である。

 

一言でいうと、自尊感情とは現実の社会生活への「適応」を具現化する感情である 

 

即ち、私たちの自尊心は、進化的に発達してきた、人間固有の「生き延び戦略」の最も重要な「複合的感情」(羞恥心・道徳心など)として捉えられるものである。 

 

だから私たちは、この自尊感情を高めてこそ意欲的・積極的であることができる。

 

現代において、自尊感情は「適応」の重要な指標なのである。 

 

この自尊感情が現代心理学の重要なテーマの一つになっているのは、自尊感情の低さが引き起こす深刻なトラブルが後を絶たないからだ。 

 

その深刻なトラブルの典型例に、疾病としての「依存症」の問題がある。 

 

この疾病としての「依存症」という厄介なトラップに嵌ってしまったら、依存対象から得られる快楽に浸り切って、刺激を求める欲求が抑えられなくなり、刺激が枯渇すると身体的・精神的状態が極端に不安定になって、セルフコントロールの資源が枯渇し、いつしか自我が疲弊して消耗する現象にまで堕ち切っていくだろう。

 

「依存」の本質は「欠損感」である。  

「依存」

その「欠損感」の本質は「不適応」である。 

「不適応」

 

「適応」の重要な指標である自尊感情の欠如こそ、「依存」の本質であると言っていい。 

 

自己肯定感の欠如 ―― これが「依存」の心理に張り付いているのだ。 

 

オーストリアのユダヤ系アメリカ人の精神分析学者・ハインツ・コフートは、そこだけはフロイトと切れ、「他者に対する愛」を含む「健全な自己愛」の大切さを説き「自己心理学」を提唱した。  

ハインツ・コフート

母親の愛情を十分に受けなかったコフートらしい仮説である。 

 

全く異論がない。

 

自分自身を肯定し、自分自身に対する愛着や自己評価の高さ。

 

この自己愛なしに、「他者に対する愛」など成立しようがないのである。 

 

「健全な自己愛」=「成熟した自己愛」なのである。

 

―― 以上、縷々(るる)言及してきたが、「全力で築き上げる平凡さ」という生き方を体現した本作の主人公・平山の〈生〉を支え切っていたのは、「成熟した自己愛」に通底する自尊感情であると私は考えている。 

平山が住む東京下町のアパート


「成熟した自己愛」に通底する自尊感情は排他的・閉鎖的ではなく、寧ろ融和的・開放的なのである。

 

「成熟した自己愛」は他者の生き方を認知し、受容するのだ。

 

物語の事例を挙げれば、仕事に身が入らず、アヤとの恋に勝負を懸けるタカシの青春を「やればできるじゃないか」と言って励ます平山は、「金がないと恋もできないなんて、どうなってるんすか、この世の中、この時代」とぼやくタカシの愚痴に上から目線で異を唱えないばかりか、平山の貴重なカセットを売ってまで金を得ようとするタカシに対して、不承不承ながら現金を渡すのだ。 


綺麗事で解釈すれば、恋に勝負を懸けるタカシの一連の振る舞いを「青春の一つの生き方」として、平山は受容しているように見える。

 

カセットテープのようなアナログの世界で生きる物腰が柔らかい大人の存在を目の当たりにしたアヤが、平山に好感を抱いたのも何ら不思議ではない。 


彼女には鮮度の高い経験であったに違いない。

 

また本作には重要なエピソードがインサートされている。

 

姪のニコ(妹の娘)が家出して、平山の元に駆け込んで来るという非日常の事態が出来したのだ。 


長らく会っていなかった平山妹・ケイコニコを連れ戻しにやって来た時のこと。

 

「僕のいる世界は、ニコのママのいる世界とは違う」

 

ニコに対して、そう話していた平山が、「悪い意味がないの」と言いながら、ケイコは「こんなと住んでるのね」「ほんとにトイレ掃除してんの?」などと直截に口に出すが、兄妹が抱擁して別れていくカットでケイコの言葉に悪意が見えないことが瞭然とする 


「いつでも遊びに来ていいから」

 

ニコへの平山のこの一言で家出問題が終焉するが、このエピソードで明らかになったのは、兄妹の生きている世界が異なっていても、それを二人が尊重し合っていること。

 

恐らく、兄妹の父親に反抗的だった平山の生き方と異なって、老いた父親の面倒を看るケイコの立場との矛盾が生んだ、両者の心理的距離が埋められることなく遣り過ごしてきた時間が、いつしか溶融し、今では肉親の絆が内包する、かつてそうだったような親愛の情感が推進力と化して、生きている世界が異なっていても認め合う辺りにまで復元したのだろう。



【但し、映像では父に対する感情が変わっていないことが提示されていた】

 

そしてもう一つ。全身アナログの世界を愉悦する平山の生き方に、アヤと同様に、Z世代のデジタルネイティブであるニコが親近感を持って受け入れていること。


 

特に実家に嫌気が差して家出したニコの気持ちが十分に理解できながら、銭湯の公衆電話から実家に連絡した平山にとって、ニコの未来を自分の主観で判断し、決めつける行為だけは避けたかったと思われる。

 

一人で生きていくことの難しさを知悉(ちしつ)する者の経験則が、そこに読み取れる。

 

いずれにせよ、彼女らの視点の挿入によって、他者の生き方を認知し、受容する平山の「成熟した自己愛」が煌(きら)めきを放っていたシーンだった。

 

ラストにインサートされたエピソードも心に残る。

 

平山と同世代のスナックのママの元夫とのエピソードである。 


「結局、何も分からないまま、終わっちゃうんだなぁ」と吐露する癌患者の元夫に対して、二人の影を重ねれば濃くなると信じる平山との短い会話が印象深い。

 

「変わらないかな」と漏らす元夫に、「何にも変わらないなんて、そんなバカな話ないですよ」とまで言い放つのだ。 


二人の影を重ねれば濃くなると信じる平山にとって、影を重ねることで何某かの変化が生まれると言いたいのである。

 

この小さな変化を、事を荒立てないようにして摂取する。

 

成熟した自我の心理的技巧であるが、他者との関係によって生まれる人間の変化の大切さを説いているのである。

 

物理的孤独を貫きながら、「成熟した自己愛」を体現する男にとって、ルーティンで日常性を繋ぐ時間の中で複数の他者と小さな交流を続ける行為は、その交流によって生まれる小さな変化の大切さを噛み締めていくのだ。

 

中でも、スナックのママが歌う『朝日楼』に聴き惚れる平山。 


こういう小さな交流を通して小さな変化が生まれ、それを摂取し、明日の日常に活力を与えていく。

 

「全力で築き上げる平凡さ」という生き方を貫き、「成熟した自己愛」に通底する自尊感情の融和的・開放的な世界の大きな広がりがそこにある。

 

これがラストシーンの平山の何とも言い難い表情のうちに収斂されていくのだ。

 

―― ラストシーンの選曲は、ニーナ・シモンの黒人差別を乗り越えて生まれ変わる歌「Feelinggood」。

 

 

以下、某ブログから曲の和訳の一部を引用する。


空の彼方を飛ぶ鳥たち、私の気持ちが分かるでしょ

 

照りつける太陽よ、分かるでしょ

 

やさしくそよいでくる風よ、分かるでしょ

 

夜が明けて、新しい一日が始まる、私は私の人生を生きる

 

最高の気分だわ

 

―― まさに歌詞だけを見れば、本作の主人公・平山人生を奏でる歌である。



(2025年5月)