1 「恐怖と欠乏からの自由」を手に入れられない男の「防衛適応戦略」
被写界深度を極端に浅くし、背景をアウトフォーカスにした物語がフォローするのは、他の囚人と引き離され、数カ月間、働かされた後、殺される運命を負った、「ゾンダーコマンド」と呼ばれる一人の男、ハンガリー系ユダヤ人・サウルの二日間を描いた映画である。
1944年10月6日のこと。
場所は、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所(ポーランドの都市・オシフィエンチムにある)。
移送されて来た多くのユダヤ人を全裸にし、ガス室に送っていく。
サウル |
そして、その少年の死を見届けた強制収容所の囚人医師は、これも、いつものように解剖に処することになる。
「解剖しないで。このままに」
囚人医師に対するサウルの言葉である。
銃の標的のために、囚人服の背中に赤い✖マークを付けたサウルら「ゾンダーコマンド」は、ガス室で絶命したユダヤ人の残した貴重品を蒐集する任務も負っていた。
この貴重品は仲間内での賄賂目的であると同時に、「ゾンダーコマンド」の脱走計画の準備の一つでもあった。
一方、少年を自分の息子と信じて疑わないサウルは、ユダヤ教に則った埋葬を施すために、「背教者」と呼ばれるギリシャ人の元ラビ(ユダヤ教の聖職者)を探す行為に振れていく。
サウルの周囲では、「ゾンダーコマンド」たちの叛乱が計画されていて、錠前屋であるサウルもまた、協力する姿勢を示す。
しかし、焼却炉で燃やしたユダヤ人たちの灰を川に捨てる作業に加わる中で、なお、サウルはラビ探しを繋ぐのだ。
その直後、SS(親衛隊)の軍曹のもとに連行されたサウルは尋問を受け、幸いにも救われるが、肝心のラビは銃殺されてしまう。
命を救われたサウルは、囚人医師と会い、少年の遺体を密かに保存している事実を知らされ、解剖室に赴く。
その解剖室から、袋に入った少年の遺体を囚人部屋に運んで来たサウルは、アブラハムら、脱走計画の仲間から具体的なプランを聞き及び、錠前屋としての役割が期待される。
そして、「ゾンダーコマンド」の叛乱は、いよいよ現実味を帯びてきた。
「俺は行かない」
彼にとって、息子と信じる少年の埋葬だけが全てだった。
しかし、それでも脱出作戦に巻き込まれたサウルは任務を果たしながらも、ハンガリー系ユダヤ人たちの移送のパニックの中で、ラビを探し続けるのだ。
焼却場が満杯のため、其処彼処(そこかしこ)で囚人たちを殺害する銃声が響き渡り、命が危ぶまれる極限状態を突き抜け、新たに見つけたラビの協力によって、少年の遺体に対面し、小さな笑みを漏らす。
「この子は?」
「息子だ」「息子なんか、いない」
「いる。埋葬する」
「ラビは必要ない」
「正式に埋葬したい」
「ここは生者の場所だ。死体は処分しろ」
同班のハンガリー系の友人・アブラハムとの対話である。
翌朝になった。
10月7日である。
穴を掘り、少年を埋葬するサウル。
しかし、収容所内に溢れる囚人たちのパニックの中で、銃声音が炸裂する。
そのパニックの中でも、サウルの行為は変わらない。
「戦うんだ!」
既にビーデルマンはガス室で殺され、この一言から開かれる「ゾンダーコマンド」の蜂起(注1)が、収容所の混乱を、一層アナーキーな風景に変えていく。
「祈ってくれ!頼む。カディシュを!」
そう叫ぶサウルの思いに応えるように、疲弊し切ったラビの口元から、ユダヤ教の短い祈りの歌・カディシュ(注2)が、「“偉大にして神聖な神の…御名が…」と、力なく唱えられるが、中断される。
カディシュを唱えられない男は、ラビではなかったのだ。
しかし、銃声が背後に迫る極限状態の中で、追っ手を逃れて来た仲間と共に、偽者ラビは遁走(とんそう)する。
袋を担いだサウルもまた、川を渡る。
遺体の重さで沈み込むサウルを救ったのは、例の囚人医師だった。
遺体を流され、足取りの重いサウルは囚人医師に支えられながら、森の一角の納屋に逃げ込んだ。
そこで、一時休止する「ゾンダーコマンド」たち。
「レジスタンスと共に戦おう」
一人の「ゾンダーコマンド」の言葉である。
無気力感のあまり、その言葉に反応できないサウルの視線に、一人の少年が捕捉された。
映画の中で、初めて、存分な感情を込め、明瞭な笑みを漏らすサウル。
その直後、SSの追手から、その少年を守り切ったサウルだが、他の同志らと共にSSの銃丸の犠牲になっていく。
ラストシーンである。
エンドロールの中に、静穏な水音が流れていく。
また、ラストシーンのサウルの表情が意味するのは、人間性の復元の隙間すら与えない酷薄な時間の中で、唯一、明瞭な目的を抱懐して、「自己の尊厳」を繋ぎ切ったという安堵感であると思われる。
「自己の尊厳」を繋ぎ切った男の内側で、少年の魂は再生したのである。
サウルの「葬送儀礼」は自己完結したのだ。
(注1)「1944年10月7日 アウシュビッツでのゾンダーコマンドの蜂起
「死の門」・アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線 |
しかし、1944年の秋までに、この特殊別働隊の人数が再び減少します。ゾンダーコマンドの囚人は、自分たちも殺害されることを恐れ、反乱を起こし、逃亡することを計画します。この反乱の計画では、女性囚人の協力もあり、ゾンダーコマンドの囚人のため近くの工場の火薬を密かに入手します。
ハンガリーから到着したユダヤ人(1944) |
(注2)「大いなる御名があがめられ、聖められんことを、御心のままに創造された世界にて。汝らの生涯と汝らの時代において、またイスラエルのすべての家の生命のあるうちに、その御国が一刻も早く実現されんことを。アーメン」(日本福音ルーテル 宮崎教会HPより)
2 「今」・「ここ」で起きている歴史の現場に立ち会わされてしまう映画の怖さ
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に象徴される絶滅収容所は、ホロコースト(ユダヤ人などに対する組織的な大量虐殺)のために設置された強制収容所のことである。
そこに、自分の延命と引き換えに、囚人のガス室送りと、その死体処理を任務とするユダヤ人による特殊部隊がいた。
復元された焼却炉(オシフィエンチム博物館展示) |
ルドルフ・フェルディナント・ヘスの手記(『アウシュヴィッツ収容所:所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』)によると、彼らは、自分たちも、いずれは同じ運命を辿ることになるのを承知していたにも拘らず、淡々と、手際よく、この悍(おぞ)ましい任務をこなし、任務直後にも、ごく普通に摂食し、喫煙していたと言われる。
彼らのこの行為を、私たちはどのように把握したらいいのだろうか。
彼らにはもう、「人間性」の一欠片(ひとかけら)もなくなってしまったのか。
これだけは明言できる。
彼らに強いられた、それ以外にない悍(おぞ)ましい状況に、彼らは「適応」しているに過ぎないのだ。
「恐怖と欠乏からの自由」(2005年・国連総会で採択された「人間の安全保障」の重要な概念)を手に入れられない絶望的な状況下にあって、「適応」するために「罪悪感」を抑圧し、自らの行為を、「防衛機制」として「合理化」(精神分析概念)し、僅かでも残された「生存」に繋げるべく、自己防衛しているのである。
それこそが、限りなくコストを削減し、「生き延び」に有利に働く細胞レベルで言えば、人間の本性としての、「人間性」の裸形の様態の一端であると言えるのだ。
だから、「人間性」という難しい概念に、「気高さ」・「崇高」といった極めて曖昧な概念を一方的に押し込んでしまうことの危うさを認知すべきである。
「人間観」の厳密な定義を曖昧にした非武装な状態で、「人間性」の概念を決め打ちし、その無頓着な暴走をセルフコントロールできなければ、大抵、チープな道徳感によって、「不道徳」な行為に走っていると決め付けられた特定他者をジャッジしてしまうだろう。
―― 批評に戻る。
「ゾンダーコマンド」にとって、〈死〉は日常性であり、早晩、「約束された死」を迎える順番が、少し早いか遅いかという違いでしかない。
「死の壁」。多くの被収容者がこの壁の前で銃殺刑に処された |
しかし、囚人のガス室送りと死体処理という任務が常態化し、「非日常の日常」と化した、不特定他者の〈死〉と共存する日常性に「適応」している彼らの視界に、かつて、慣れ親しんだはずの日常の風景が闖入(ちんにゅう)してきたとき、彼らの心は大きく動揺するだろう。
そのとき、「部品」とされる囚人の遺体を機械的に処理する彼らの作業は、「防衛機制」として「合理化」してきた観念を混乱させ、物理的継続力をも奪われかねない事態に直面する。
「ゾンダーコマンド」が機械的に処理する「非日常の日常」の風景の視界に、近親者が紛れ込んでいる現実を目の当たりにしたとき、動揺を隠せなかった事実を、ルドルフ・ヘスは、先の「告白遺録」の中で報告していた。
心理学的に言えば、「ゾンダーコマンド」の自我が、絶望的な状況に「適応」するために「罪悪感」を抑圧していた心的機構が混乱し、「親愛」の情や「罪悪感」にスイッチが入ってしまうためである。
人間は、状況に応じて「適応」するために、感情のスイッチの切り替え(オンオフ)をしている。
自我を防衛し、生き延びるためである。
しかし、スイッチが入り、「防衛機制」が混乱してしまった感情を、強いられて「適応」していた元の状態に戻すのは容易ではないのだ。
「ゾンダーコマンド」の叛乱もまた、サウルがそうであったように、「防衛機制」が混乱し、強いられて「適応」してきた日常の破壊の危機を目の当たりにして、彼らの情動のスイッチが入ったのだろう。
「人間性」とは、そういうものである。
人間のこの複雑さが理解できない限り、私たちは、物事を表層的なモラルの次元でしか捉えられないだろう。
映画のサウルもまた、そうだった。
もとより、サウルの行動を追うもう一つの視線、即ち、「神の視線」が二重視線となって、観る者に突き付けられるが故に、観る側にいる私たちの安楽な視線もまた、根源的に問われてしまうのである。
この二重視線によって、私たちは否応なく、「今」・「ここ」で起きている歴史の現場に立ち会わされてしまうのだ。
これが、この映画の怖さである。
ともあれ、サウルにとって、歴史の現場の恐怖のリアリティは、彼の視線の中で排除されていた。
これは、サウルの「防衛機制」である。
その「防衛機制」を打ち破って、虫の息だった少年だけが、サウルの視界の中枢にフォーカスされたのだ。
それが、「ラビ探し」という一点に、すべてを懸ける行為に結びついたのである。
サウルの「ラビ探し」の本質は、彼の新たな「防衛適応戦略」なのだ。
「鎮魂」という儀式を自らに課すことで、自分の人生を生きる意味を見出し、全エネルギーを投入していく。
思えば、「ゾンダーコマンド」たちは、この「葬送儀礼」から、最も重要な「鎮魂」の儀礼が奪われていたのである。
「鎮魂」とは、「死体」に魂を挿入する行為であると同時に、「葬送儀礼」を行う主体である自己の魂を復元させる行為でもあるのだ。
「鎮魂」の儀礼が奪われた「ゾンダーコマンド」たちに課せられたのは、苦しみ喘ぎながら「部品」にされていく囚人の遺体処理という悍ましい作業のみ。
彼は、「部品」とされる作業を拒んだのだ。
少年を息子と信じ切ることによって、一人の少年の「葬送儀礼」を自己完結したのである。
―― ここで私は、ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」(みすず書房 原題は「心理学者収容所を体験する」)に綴られた感銘深い文章を想起する。
「ある夕べ、わたしたちが労働で死ぬほど疲れて、スープの椀(わん)を手に、居住棟のむき出しの土の床にへたりこんでいるときに、突然、仲間がとびこんできて、疲れていようが寒かろうが、とにかく点呼場に出てこい、と急きたてた。太陽が沈んでいくさまを見逃せまいという、ただそれだけのために。
そしてわたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をながめ、地平いっぱいに、鉄色から血のように輝く赤まで、この世のものとは思えない色合いでたえずさまざまに幻想的な形を変えていく雲をながめた。その下には、それとは対照的に、収容所の殺伐とした灰色の棟の群れとなるぬかるんだ点呼場が広がり、水たまりは燃えるような天空を映していた。
わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った。
『世界はどうしてこんなに美しいんだ!』
この若い女性は、自分が数日のうちに死ぬことを悟っていた。なのに、じつに晴れやかだった。
『運命に感謝しています。だって、わたしをこんなひどい目にあわせてくれたんですもの』
彼女はこのとおりにわたしに言った。
『以前、なに不自由なく暮らしていたとき、わたしはすっかり甘やかされて、精神がどうこうなんて、まじめに考えたことはありませんでした』
その彼女が、最期の数日、内面性をどんどん深めていったのだ」
「約束された死」の渦中にあっても、「内面性をどんどん深め」、絶望的な状況に、ここまで「適応」した囚人もいる。
そして、絶滅収容所から奇蹟的に生還し、心理学者の曇りない視線で綴った、「夜と霧」の著者・ヴィクトール・フランクル。
家族全員をアウシュヴィッツ強制収容所で喪ったフランクルは、当時、24歳だった妻への深い愛情を生きる糧として、その姿を心中で思い浮かべることで、至福の境地になれるのだと語っている。
先の若き女性囚人と共に、まさに、フランクルの生きた事例こそが究極の「適応」であった。
【ホロコーストについては、「ハンナ・アーレント」、「パサジェルカ」、「夜と霧」、「ソフィーの選択」、「ライフ・イズ・ビューティフル」、「シンドラーのリスト」、「愛を読むひと」などで批評しているので、参考にして下さい】
(2017年2月)
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