1 「45年間」という時間の重みが無化されていく恐怖に捕捉された妻の、色褪せた心理的風景
「僕のカチャだ。絶対に君に話したよ。彼女は、50年以上、冷凍庫にいたのと同じだ。やっと見つかった」
英国の郊外に暮らす、結婚45周年の記念パーティーを直前に迎える熟年夫婦に、唐突な情報が飛び込んできた。
夫の名はジェフ。
管理職も勤めた元会社員である。
妻の名はケイト。
元教諭である。
夫のジェフに、若き日の恋人・カチャの遺体が発見された報告と、その遺体確認に来ることができるか否かを問い合わせる、スイス警察からのドイツ語の手紙だった。
温暖化によって雪が溶けたことで、カチャが1962年当時(27歳)の姿の状態で、スイスの高山の氷河の中に冷凍漬けで発見されたのである。
これが、冒頭のジェフの言葉の意味である。
「当時のスイスの警察に、宿に泊まるためにカチャと夫婦であると説明した」
熟年夫婦の関係に“さざなみ”を立てるような言葉が、月曜の夜、ジェフの口から飛び出した。
スイス・アルプスのクレバス(スイスアルプス野外実習 2009年度実習報告) |
それだけではない。
ズンズンと先に進むカチャの悲鳴を、ジェフは耳にしてしまったのである。
「ショックのあまり、肺から漏れる空気のような音。彼女の優しい高い声じゃなかった。低くて、しゃがれた声さ」
その悲鳴は、氷山の裂け目に落ちてしまったカチャの声だった。
火曜日。
夫婦は、ケイトの運転で街に出た。
夫のジェフが図書館に行く目的も、気候変動に関する情報に高い関心を持ったからである。
それでも、昔の二人が出会った頃を思い出し、自宅のリビングでダンスを踊る夫婦がそこにいる。
この流れで、二人は長いこと途絶えていた夫婦の睦みを愉悦する。
しかし、この睦みが刺激になったのか、夜中にベッドから起きた夫のジェフはカチャの写真を屋根裏で見つけ、それに気づいたケイトは詰問する。
誤魔化す夫に、初めて感情を露わにし、強引にカチャの写真を見るのだ。
水曜日。
夫婦の禁煙のルールも、呆気なく破られていく。
夫婦間の規範の崩壊もまた、共に今、異なったベクトルに踏み込み、ストレスが累加されてきた一端だった。
ジェフが元の会社のOB会に乗り気でないという話を友人から聞いたケイトは、その夜、本人に直接訊ねるが、理由を説明せずにOB会の出席を拒むだけだった。
「君は関係ないだろ」
「前からの計画でしょ。欠席するのは失礼だわ」「もういい!」
珍しく怒気を込めて、「“行かない”と言ったか?」と会話を中断させる夫。
そして、ベッドの中の二人。
「僕らは無頓着だった。山の上では、世界情勢に無頓着だった。自分たちの将来にもね。彼女とよく眺めた花を、最近、思い出すんだ。雪の解けた、わずかな場所を見つけて、芽を出す。まるでカチャと僕のようだ。文明社会に背を向けて旅をしてたからね」
カチャとの思い出話をするだけの夫に対して、妻は根源的な問いかけをする。
「彼女が死ななくて、イタリア行きがなければ、彼女と結婚してた?」
「イタリアは行ってないし、彼女は死んだ」「もしもの話よ。答えて」
「イエスだ。そのつもりだった」
「彼女の話は、おしまい…話したいけど、止めておく」
木曜日。
車で夫を送って行く妻。
OB会に出席するためである。
車内での会話は全くない。
自宅に戻ったケイトは、愛犬マックスが吠えるのを遮り、屋根裏に上り、若き日の夫の登山記録を付けた古いノートを見つけたあと、スライドで映し出された、当時のカチャの画像を凝視する。
ケイトに衝撃が走った。
それは、明らかに、ジェフとの子を身籠ったカチャの貴重な画像だった。
ケイトのその思いも分からず、OB会の帰路の車内では、元同僚の話を一方的に捲し立てるばかりのジェフ。
金曜日。
ジェフがメモを残し、街に出て行った。
夫のスイス行きを案じ、自ら旅行会社を訪ねるケイト。
夜になった。
以下、ケイトの方から切り出した夫婦の会話。
「スイスに行くの?」
「いいや。村まで歩けない男が、どうやって山を登るんだ?」「それが理由?」
「そうじゃない」
「行くのなら…」
「カチャは関係ないだろ」
「名前を言わないで」
「カチャを切り離してくれ」
「いいえ。関係あるわ。匂いが家を取り巻いている。彼女が、そこら中にいる。今も後ろに立ってる」
「やめてくれ」
「何かを決めるとき、旅行の行き先や読む本、どんな犬を飼うか、どんな曲を聴くか。大きな決断のときは、特に影響してるわ」
「彼女には、何の関係もないだろ」
「私の思ってることや、知ってることをすべて、ブチまけたいけど、できない。抑えてるのよ」
「ああ。分かるよ」
「今の願いは一つだけ。明日のパーティーに出席して」
「もちろん。そのつもりだ」
「私のことが不満なのは、よく分かったけど、それを他人に気づかれたくない」
「ケイト。誤解だよ」
「また、やり直すのよ」
「約束する」
映画の中で、最も重要な会話である。
自分の中で閉じ込めていた不満を、一気に炸裂させるケイトだが、「子供を作れなかった」という捻(ねじ)れ切っていた真情を、なお隠し込む辺りに、彼女のネガティブな自己像が屈折し、このように卑屈な言辞のうちに反応してしまうのだ。
土曜日。
ジェフとケイトの夫婦の、結婚45周年目を祝う記念パーティが開かれた。
ケイトが親友のリーナから、昔の二人の思い出の写真をコラージュしたボードを見せてもらい、感激するジェフ。
その空気に合わせるかのように努めるケイトだが、化粧室に逃げ込み、硬直した表情で溜息を漏らすのだ。
「すべての夫婦と同様、私たち夫婦も、山あり谷ありで、今でも思うのは、“ああすべきじゃなかった。こうすべきだった。間違ってなかったか”と思い悩む。とにかく私が言いたいことは、君を口説いて、結婚にこぎつけたこと。それが僕の人生で、最高の選択だ…愛してる…感謝してる。こんな僕に、長年、付き合ってくれて。これからも頼む」
ここで、感極まって、ジェフは泣き出してしまう。
流麗なダンスの進行の中で、ケイトの表情から笑みが消え、終いには涙に変わり、高々と上げた腕を堪え切れす、振り下ろすのだ。
ベルイマン映画を彷彿(ほうふつ)させる出色のラストシーンである。
2 「親愛・共存・共有・援助・依存」という、相互作用による関係密度の深さと修復力が、衝撃波を突き抜けていく
「記銘」・「保持」・「想起」・「忘却」という流れを持つ記憶の流れが、決して「忘却」し切れない個人史的情報の中で、スイス・アルプスのクレバスに恋人が落下していくときの悲鳴を脳裏に刻むという、深刻で衝撃的な「エピソード記憶」によって、感覚情報としての「意識」にスイッチが入ってしまった。
ケイトなら受け止めてくれると信じる思いがあるからだ。
だから、何も疑っていない。
ケイトもまた、夫のトラウマの深さを知り、複雑ながら、心理的に支えようとした。
これが、衝撃的な情報が闖入(ちんにゅう)してきた月曜日の、熟年夫婦の尖りのない風景だった。
カチャの発見という事実を知ってしまった以上、もう、居ても立ってもいられない気持ちに駆られるジェフ。
しかし、スイスに行きたくとも、近年、心臓のバイパス手術を受けていて、体力的には無理だった。
それが、ジェフのストレスになる。
ジェフの脳裏に焼き付いて離れないカチャの叫びが、永続的な貯蔵庫に送られていたはずの「長期記憶」(大脳新皮質の側頭葉に保存)が呼び出され、彼の内面の一気の膨張を生み、それが、彼の吐露を受け入れてくれたと信じるケイトに襲いかかっていく。
しかし、残念ながら、間が悪かった。
結婚45周年の記念パーティーが目の前に近づいてきて、この夫婦が蓄積してきた「45年間」という「夫婦の時間」の関係性の、その安定感が揺らいでしまうような衝撃的な情報に侵蝕(しんしょく)されてしまったのだ。
この夫婦の、僅か6日間の出来事によって、「45年間」の「人生の重み」が根源的に問われる事態として炙(あぶ)り出されてしまったのである。
それは、衝撃波と言ってよかった。
若き日のカチャのスライド画像に写っていたのは、自分と出会う前の夫・ジェフとの間に、彼女が子供を身籠(みごも)っていたという現実だった。
しかし、ここで私は勘考する。
マタニティ登山(ブログ「海男、日本百名山に挑戦!」より) |
仮に、これが遭難当日の画像でなかったら、既に産んでいて、第3者に預けたのちの登山ということになるので、この重要な伏線は回収される必要がある。
流産後の登山であっても同様である。
或いは、ケイトの幻想・幻覚であったという可能性が考えられなくもないが、もし、その設定なら、リアリズムの主調の映画に水を差すことになってしまうだろう。
以上の疑義を踏まえて考えてみると、このスライド画像の意味は、茶目っ気の多い、若さ弾ける二人の「イタズラ描写」であると解釈したい。
なぜなら、最後のスライドに大きく写し出されたカチャの画像には、お腹が膨らんでいるように見えなかったからである。
不運にも、結婚を前提にした二人が、子供を産み、育てていくという自然な思いが、この「イタズラ描写」に繋がったのだろうか。
しかし、「イタズラ描写」と思えるスライド画像の直撃弾が、ケイトの中枢を撃ち抜いてしまった。
そんなイメージを抱懐(ほうかい)し、ケイトは一瞬にして想像を巡らした。
ジェフと自分との間で築いてきた、「45年間」という時間の重みは、カチャの遭難死なくして存在しなかったのだ。
子供のいない、この「45年間」とは、一体、何だったのか。
温和な二人の、温和な「幸福夫婦」という「物語」は、単に幻想でしかなかったのか。
考えてみるに、スイス警察からの連絡があったばかりに、ジェフの内面が、過去の時間に加速的に引き戻されていくのは必至だった。
それは、ノスタルジーの範疇を超えている。
ところが、当初、夫とカチャとの「物語」をノスタルジーのレベルで受け止めていたケイトは、このスライド画像によって、容易ならぬ、消し難い記憶の痕跡として刻まれていることを認知してしまったのである。
子供のいない人生を送った「45年間」が、自分が知りようもなかった、僅か数年間でしかない、夫の強烈な過去の事実を突きつけられたことによって、急速に萎み、色褪せ、無化されるような不安と恐怖感に捕捉されてしまった。
今や、そこまで想像が及ばないケイトの自我は消耗し、セルフコントロール能力が奪われてしまうようだった。
もはや、結婚45周年の記念パーティの意味が根柢から揺らぎ、その準備に追われる行為との矛盾で、自我分裂状態に陥りつつあった。
「45年間」もの長きにわたり積み重ねてきた、自我の安寧を確保する堅固な関係幻想、即ち、影響力を行使し得る「精神的テリトリー」が侵蝕されることに対する「敵愾心」(てきがいしん)にスイッチが入ってしまったのである。
そのスイッチを入れたのは、間違いなくカチャの存在であるが、自己史において半ば封印していた「インフェリオリティーコンプレックス(劣等感)」(子供を作れなかったという無念な思い)が刺激されたことで、二人の関係を侵蝕する人物として、カチャの存在が過大に拒絶すべき対象としてケイトの内面を食(は)み、観念的に膨張させていった。
然るに、ここで、決定的な「認知的錯覚」(思い違い)が生まれている。
肝心のジェフは、そのケイトの内側で膨れ上がっている敵愾心の本質をまったく斟酌(しんしゃく)しなかった。
あまりに衝撃的な、過去からの鮮烈な記憶のヒットによって斟酌できなかったのである。
しかし、この二人の関係は、単なる「認知的錯覚」のレベルに留まらない。
「匂いが家を取り巻いている。彼女が、そこら中にいる。今も後ろに立ってる。何かを決めるとき、旅行の行き先や読む本、どんな犬を飼うか、どんな曲を聴くか。大きな決断のときは、特に影響してるわ」
ケイトのカチャに対する「敵愾心」が攻撃的に露わになった言辞であるが、この映画の中で最も重要なセリフである。
しかし、これはケイトの「過大評価」と言えるだろう。
既にこの世にいない人物の与える影響力は極めて限定的であるにも拘らず、ケイトはカチャの影響力を「過大評価」したのである。
誰もが始まりがあり、そこから積み重なっていく「人生」がある。
それ故、誰の影響を受けたか否かについての線引きなど、峻別できようもないのだ。
仮に、ジェフがカチャとの関係で築き上げた観念世界が、その後の彼の「人生」を支配したとしても、その範囲もまた限定的である。
何にも増して、「45年間」もの長い時間をかけて、共存・共有・援助・依存し合い、培ってきたものの関係密度の深さの方が切要であるにも拘らず、そのような合理的思考に軟着できなくなるのが、私たち人間の観念世界の為せる業であると言える。
「一部がすべてだ」と考えてしまうである。
これを、社会心理学で「ハロー効果」と言う。
この一連のケイトの心理を、社会心理学用語で言う「比較過程」という概念で説明できるだろう。
「比較過程」とは、易しく言えば、他者の評価の高さが自分の評価を下げてしまう心的現象である。
「自尊感情」(精神的縄張意識)が脅威に晒されている場合に起こる「比較過程」は、集団社会の中で、「敵・味方」を定めて生きる私たちの感情世界の、ごく普通の現象であって、何ら特別な現象ではないのである。
しかし、張り裂けそうなその思いを隠し込んでも、どうしても抑え切れない矛盾が炸裂する。
木曜日以降、この感情がケイトを支配していたのだ。
それでも、ジェフに吐き出した後、結婚45周年目を祝う記念パーティまで必死に耐え抜くのである。
「理性」でネガティブな感情をセルフコントロールし得るほど、人間は完成形ではないのだ。
だから、どうしても抑え切れない矛盾が炸裂し、それ以外にないゾーンで、殆ど反射的に身体化する。
一回だけでよかった。
そうしなければ済まない情動が噴き上げ、反射的に炸裂したのである。
これが、ラストシーンの意味である。
しかし、この夫婦は壊れない。
この夫婦の否定し得ない「45年間」は、トラウマを軟着させていくだろう夫からの愛を静かに受け入れ、そして人生は新たに開かれていくだろう。
些末な価値観の違いがあっても、物理的共存を厭(いと)う感情が、この夫婦には全く見られないからである。
この夫婦が「45年間」で構築してきた、「親愛・共存・共有・援助・依存」という、相互作用による関係密度の深さと修復力は、物語で描かれた6日間の非日常の衝撃波があっても、あっさりと崩壊してしまうような柔なものではないと、私は信じ切れるのだ。
因みに、我が国の「熟年離婚」の原因には色々あるが、その中で目立つのは、物理的共存によるストレス、価値観の違い、性格の不一致、モラルハラスメントやDVなどがあるが、互いに愛し合っているこの夫婦とは明らかに切れている。
(2017年2月)
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