1 地雷回収を差配する少年 心の闇を引き摺る少女
「空まで奪われちまった。水もなければ電気もない。どれもこれも、サダムのせいだ!戦争が始まろうとしているのに、ニュースも見られない」
初老の男が、そんな愚痴を叫んでいた。
女房がトルコ側にいると言う、村の世話役を任じるエスマイルである。
場所は、イラク北部に広がるクルディスタン(クルド人居住地)の小村。
繰り返される戦争で荒廃した小村に、再び新たな戦争が開かれようとしているが、「ニュースも見られない」と嘆く村人のために、一人の少年が、松葉杖をついて歩く仲間のバショーらを率いて、衛星アンテナの設置という「ビジネス」に勤しんでいた。
少年の名はサテライト。
俗称であるが、言い得て妙である。
時は、フセイン政権崩壊直前の、最も緊張した2003年春。
一人の孤児を探しに、イランから来た男がいる。
パラボラアンテナの「情報価値」を信じず、戦争の開始時期を予言できる孤児を探せば、「金になる」と言うのだ。
今や、「情報砂漠」のクルディスタンの小村では、「確からしい情報」を金に変換できる状況下にあるらしい。
村人と共に、パラボラを買いに、町に行くサテライト。
ラジオと現金で手に入れたパラボラを仕入れて、村に持ち帰って商売をするのである。
ところが、村にパラボラアンテナを設置し、衛星放送を受信するものの、肝心のニュース番組が、村民の誰も理解できない英語放送なので要領を得ない。
片言の英語を話すサテライトも理解できず、通訳の役割を演じ切れなかったというエピソードだった。
それでも、大人顔負けの抜きん出た才能は、先進諸国のように、一方的な保護の対象期としての、「遊び盛りの子供時代」を持ち得ない厳しい貧困の歴史的条件が生んだものと言っていい。
バフマン・ゴバディ監督 |
この痛烈な言辞は、経験した者でなければ分らないメッセージとして受容するしかないのだろう。
まさに今、その経験を刻んでいるサテライトは、手足を喪った子供たちが多いこの小村で、地雷を掘り起こし、その地雷を業者の介在を経て、国連事務所に買ってもらう「ビジネス」にも熱心である。
「アジズさんの土地へ行って、地雷を掘り起こせ!作業をサボった子には、僕がお仕置きをするぞ!」
こんなことを、難民の子供たちを含む大勢の「仲間」に、マイク片手で指示するサテライト。
地主たちから地雷除去を依頼されている彼の「仕事」の価値は、危ぶまれつつも、村の無力な大人たちからの支配力を越えていた。
充分過ぎるほどのアイロニーだが、飢えを凌ぐためには、どんなことでも熟(こな)して生きていく。
自明の理であることは論を待たないであろう。
サテライトらが、視力を持ち得ない幼児を背負う難民の少女と出会ったのは、地雷を掘り起こしている時だった。
「ハラブジャ事件」(クルド住民虐殺事件)で悪名高いハラブジャから逃れて来たという、難民の少女の名はアグリン。
アグリンの兄である。
サテライトが、有刺鉄線に絡まれ、泣き叫ぶ幼児を救って、アグリンに戻しても、誤解されたのか、終始無言の兄妹。
サテライトが、有刺鉄線に絡まれ、泣き叫ぶ幼児を救って、アグリンに戻しても、誤解されたのか、終始無言の兄妹。
アグリンに関心を寄せるサテライトの明るさと、頑なに心を閉ざすアグリンの態度の陰翳感の対比が、貧困の状況下でも闊達に振舞う子供たちの律動を追う物語の中で、いよいよ際立っていく。
夜明け前の闇に抜け出して、村人たちから「汚れた水」と噂される泉で、灯油を被って自殺未遂を図ったアグリン。
「汚れた水」とは、3人の子が溺れた事故に由来する。
昼間、水を運ぶのを手伝ってくれた、サテライトに教えられた話である。
そのアグリンが、幼児の泣き声を聞く。
幻想であるが、アグリンにとって、幼児の存在は、一貫して憎悪の対象でしかなかった。
その憎悪の対象が、今、自殺の障壁と化し、自分の前に立ち塞がっていたのだ。
ヘンゴウも妹の思いを理解しているから、リガーという名の幼児の足を、紐で括りつけている。
リガーが夜中に出歩かないためである。
そのリガーを、「汚れた水」から帰って来たアグリンが折檻する。
「サダムの兵隊の子なんか、どうでもいい」
鼻血を出しているリガーを視認したヘンゴウが、朝早く出かけて行った妹を詰問したときの、アグリンの反応である。
「サダムの兵隊の?まだ、そんな言い方を?」
「本当のことだわ。家族を殺して、あたしに乱暴した人の子よ。産めば、母親なの?じゃあ、父親はどこ?」
この会話に、加えるべき何ものもない。
泣き続けるリガーを抱いて、難民キャンプの粗末なテントから出たヘンゴウ。
妹を大切にする兄にとって、今や、リガーの御守をする行為は、「家族」の紐帯を繋ぐ唯一の愛情表現だったのだろう。
2 「赤い金魚」と「予知夢」、米軍という「救世主」に奪われたアイデンティティ
既にこの時点で、ヘンゴウの予知能力が噂になっていて、それを信じるサテライトは、近々、イラク戦争が開かれることを、村民たちに大声でアナウンスする。
「戦争が始まるぞ!裏山へ登ったら、動かずに、じっとしてるんだ!」
一斉に裏山へ登っていくが、ヘンゴウたちだけが動かない。
「予言は本当なんだろうな?はずれたら、僕のメンツは丸つぶれだ」
サテライトはヘンゴウに不安げに尋ねたが、ヘンゴウからの反応はない。
イラク戦争を開いた米軍機がクルディスタンの上空を飛び、無数のビラを撒いたのは、そのときだった。
“弾圧と貧困の日々はこれで終わりだ。我々は君たちの一番の友人であり、兄弟である。そして我々に抵抗する者は、すべて敵だ。この国を楽園に戻すため、君たちの苦しみを取り除くために、我々は来た。我々は世界一だ。他者の追随は許さない”
大国意識丸出しのビラを読むサテライト。
町の市場に出て、所有する対戦車用の多くの地雷と引き換えに、機関銃のレンタルを求め、調達していくのだ。
沢山の「手下」を動員し、村を守る「基地」を構築しようとするサテライト。
銃の訓練をする「基地」である。
「今は、戦い方を学ぶ時なんだ」
勉強を放棄したサテライトに注意する、村の教師に放った言葉である。
自らを守り抜く意志を持つ逞しさに圧倒される。
そこに、アグリンの子・リガーが、地雷原にいるという報告があった。
リガーを憎むアグリンが、我が子を遺棄したのである。
その事実を知らずに、ここでも「手下」を動員して、リガーを救いに行く。
地雷原にいるリガーを必死に救助しようとするサテライトの努力も空しく、移動してしまうリガーに手を貸そうとした瞬間、地雷が炸裂する。
そのサテライトに、ヘンゴウからの予言が届く。
「明日の朝、すべてが終わる」
ここから物語は、一気に反転的な画像を連射させていく。
アメリカ製の地雷(注1)に被弾したサテライトは、自らが拠って立つ、「差配」等の「ビジネス」を喪失してしまう現実に直面する。
地雷を回収し、仲介業者に引き取ってもらう交渉や、パラボラアンテナの設置によって、貴重な情報を村人たちに伝える仕事の一切が、全て米軍の管理下に置かれてしまうのである。
彼の「手下たち」も、米軍管理下に置かれたルールの中で、嬉々として日銭を得る仕事に入っていく。
彼が「差配」していた「ビジネス」の根柢が崩されたのである。
それは、「陣頭指揮を取る年少の大人」という自己像に関わる、彼のアイデンティティの喪失を意味する。
「汚れた水」と呼ばれる泉に生息しているという「赤い金魚」。
それは、リガーの眼を癒す効果があった。
だからこそ、その「赤い金魚」を捕獲し、悩めるアグリンに届けたかったのではないか。
視力を喪ったリガーの存在を呪いながら、「赤い金魚」に拘泥するアグリンが、リガーの絶望的将来を思うとき、そこにはもう、「母子の至福に満ちた共存」というイメージは無化されている。
アグリンの煩悶のリアリティの凄惨さに、誰も入り込む余地などなかった。
そこに入り込めるのは、兄のヘンゴウのみである。
しかし、アグリンに淡い恋を抱くサテライトは、この兄妹の存在に無関心ではいられない。
バショーと共にサテライトを慕うシルクーが、伯父に買ってもらったという、アメリカの「赤い金魚」をサテライトに届けに来たのは、自由に動けず、バショーからの村と町の変化を聞いていたときだった。
そんなサテライトが、すぐに「汚れた水」に向かって、泉の底にまで潜っていったのは、アグリンとリガーの存在を思い起こしたからだろう。
そこで視認したリガーの遺体。
外すことのないヘンゴウの予知夢。
だから、号泣しながら「汚れた水」に向かうヘンゴウ。
そこには、サテライトがいて、彼もまた号泣していた。
号泣の中で、断崖の岩場に導かれていくヘンゴウ。
アグリンの投身自殺の現場で、ヘンゴウは妹の形見の靴を拾い、それをバショー経由で、サテライトに届ける。
リガーの死によってアグリンの死を確信したサテライトは、彼女と自分を繋ぐ「赤い金魚」を届けることなく、最も大切にしていた対象を喪失する。
一切は、米軍という「救世主」の出現によって出来した現象である。
その米軍の移動を眼の前にして、何の感懐もなく、逆方向に松葉杖をついて歩いていくサテライト。
「アメリカ贔屓」のサテライトにとって、米軍の存在は、今やもう、自分のアイデンティティを直接的・間接的に奪ってしまう何ものかでしかなかったのである。
―― 感想を一言。
いつもながら、素人を使った「俳優」の台詞は棒読み(特に大人)なので、些か閉口したが、しかし、この映画には、厭味なほどの政治的メッセージが特段に感じられないどころか、寧ろ、それを相対化し得るような、アート性の濃密な「映画的空間」によって占有されていて、映画的完成度の高さに驚かされた。
(注1)反欧米のイランの影響力が、中東全域に及ぶ事態を恐れた欧米諸国、とりわけ、「テロ支援国家」のリストから削除してまでイラクを援助した米の存在が、イラン・イラク戦争の帰趨を決定づけた。
3 近代文明社会に呼吸する私たちができること
一見、万人受けするような、単純に比較することの無意味さ。
まず、これを認知することではないか。
なぜなら、その国の文化・経済的条件・宗教的背景・教育観・家族観・私権意識・民度・相対主義の浸透度・自由の達成度と実感度、等々、指摘すれば切りがない程の、様々な落差が存在する現実を無視して、このような「極限的悲惨さ」を印象づける物語を、それ以外にない尺度にして、「近代文明社会に呼吸する私たちの傲慢さ」という、あまりに短絡的で粗雑過ぎる論法で、一刀両断の倫理的裁きを下すことの愚に収斂させないことである。
私たちによって過剰に「同情」される人たちは、人がどう思おうと、命の危機という最低限の生存の保障を確保し得ず、恒常化した戦争の連鎖の渦中に遭っても、子供と大人の区別が無化されるような「日常性」を、ごく普通に繋いでいるに違いないのだ。
どうやら、近代文明社会に呼吸を繋ぐ私たちは、アナーキーな視覚文化の氾濫の中で、却って、溢れんばかりの情報に対する「選択的注意」(特定の情報の取捨選択)の能力を顕著に低下させ、「僅かな情報から生み出す価値ある何か」を手に入れられず、その結果、様々な意味で関与する、対象との有効な距離感覚を劣化させてしまったらしい。
環境や状況における自分のサイズが測定できなくなって、正確な自己像を描けなくなっているのだ。
だから、いつまでたっても、等身大の生き方に軟着できないのである。
私たちによって過剰に「同情」される人たちは、人がどう思おうと、命の危機という最低限の生存の保障を確保し得ず、恒常化した戦争の連鎖の渦中に遭っても、子供と大人の区別が無化されるような「日常性」を、ごく普通に繋いでいるに違いないのだ。
どうやら、近代文明社会に呼吸を繋ぐ私たちは、アナーキーな視覚文化の氾濫の中で、却って、溢れんばかりの情報に対する「選択的注意」(特定の情報の取捨選択)の能力を顕著に低下させ、「僅かな情報から生み出す価値ある何か」を手に入れられず、その結果、様々な意味で関与する、対象との有効な距離感覚を劣化させてしまったらしい。
環境や状況における自分のサイズが測定できなくなって、正確な自己像を描けなくなっているのだ。
だから、いつまでたっても、等身大の生き方に軟着できないのである。
近代文明社会に呼吸する私たちは、その文明が必然的にもたらした過剰な快楽と塵芥の中で、せめて、自分に見合った「日常性」を構築するしかないのだ。
私たちは、このリスキーだが、しかし、快楽の種子が存分に詰まっている社会に呼吸する。
これはもう避けようがない。
いつでも私たちは、「いま」と「ここ」に生きていて、これも避けようがない。
避けようがない私たちの運命は、多分、人類史の運命そのものだろう。
散々、甘いものを摂取して肥満になった責任の一切を、自らが拠って立つ国民国家のシステム全般の問題に還元させ、短絡的に押し付けるのは、もう止めたほうがいい。
文明の恩恵に素直に感謝しつつ、相応の覚悟をもって、時代と付き合っていくしかないのである。
私たちは、このリスキーだが、しかし、快楽の種子が存分に詰まっている社会に呼吸する。
これはもう避けようがない。
いつでも私たちは、「いま」と「ここ」に生きていて、これも避けようがない。
避けようがない私たちの運命は、多分、人類史の運命そのものだろう。
散々、甘いものを摂取して肥満になった責任の一切を、自らが拠って立つ国民国家のシステム全般の問題に還元させ、短絡的に押し付けるのは、もう止めたほうがいい。
文明の恩恵に素直に感謝しつつ、相応の覚悟をもって、時代と付き合っていくしかないのである。
近代文明社会に呼吸する私たちができること。
それは、観念的に狭くなった世界で出来する、様々に厄介な問題を謙虚に受け止め、限りなく正確な知識をもって包括的に受容することである。
そして、そこで知り得た情報群を、どこにでも起こり得る人間の様々な事象として深い関心を持ち、それを包括的に受容し、自らを囲繞する〈状況〉から問題意識を抽出することで、限りなく発展的な自己運動を繋いでいくこと。
そして、そこで知り得た情報群を、どこにでも起こり得る人間の様々な事象として深い関心を持ち、それを包括的に受容し、自らを囲繞する〈状況〉から問題意識を抽出することで、限りなく発展的な自己運動を繋いでいくこと。
これが、「ヒューマニズム」についての私流の定義だが、この精神を決して捨てず、どこまでも、自らが置かれた状況下で為し得る自己運動を繋いでいくこと。
これが、「近代文明社会に呼吸する私たちができること」であると、私は考えている。
4 「亀」が「空を飛ぶ」という「不可能性」が揺らぐ現況性
主に、スンニ派(ムハンマド=マホメットの血統を重視するシーア派に対して、言行を重視)のイスラム教に精神的基盤を置き、トルコを中心に、イラク、イラン、シリア等々、中東の山岳地帯の険しい地形に居住するクルディスタンで、半農半牧の生活を営む「世界最大の民族集団」(3000万弱)。
それがクルド人である。
然るに、3つの異なる方言に枝分かれし、ペルシャ・アーリア系(イラン語)の独自の母語(クルド語)を持つが、「主権・領土・国民」で構成される近代国民国家の体制の影響を決定的に被弾したことで、自らが拠って立つナショナル・アイデンティティを持ち得ない「悲劇の民族」 ―― それが、クルド人が負った負荷意識の根柢にある自己像と言っていい。
コンスタンティノープル(イスタンブール)を中心に、バルカン半島の大半を支配下に、地中海の覇権を掌握し、広大な領域に及ぶイスラム世界最大の版図を誇った、並ぶ者なしのオスマン帝国。
近世まで、この帝国の領内にあったクルド人は、第一次大戦後のオスマン帝国の解体と、その領土の分割に際して、念願の独立国家の樹立を求めつつも、近代国民国家の体制の歴史的転換の渦中に呑み込まれ、その居住地すらも分断され,当然の如く、彼らのナショナル・アイデンティティの志向は一方的に砕かれ、散っていった。
この間の経緯を簡単に書けば、こういうことである。
クルド人の居住地域(黄色)・サイトより |
この切迫した時代状況下に、一人の革命家が出現する。
英仏連合軍との戦闘で活躍し、一気に勇名を轟かした、トルコのケマルパシャ(ケマル・アタテュルク)である。
後に「国父」と呼ばれ、脱イスラム(世俗主義)・近代化を目指すトルコ革命を遂行したケマルパシャが、連合軍によるオスマン帝国分割工作に対して徹底的に抵抗したことによって、第一次世界大戦後の1923年、「ローザンヌ条約」の締結に軟着する。
腰の引けた英仏の妥協を引き出したのである。
「クルディスタンの自治の承認」が反故にされ、以降、クルド人居住地域は、新生トルコ共和国の領土化の継続と、英仏よって恣意的に引かれた国境線によって、イラク、シリア、アルメニアなどに分断されるに至った。
かくて,クルド人は、いずれの国においても、少数民族の悲哀を存分に感受する政治的な負荷を抱えていく。
ナショナル・アイデンティティの志向を捨てないクルド人は、編入され、押し込められた土地で、当該政府への独立・自治を求めた戦いを繰り広げていくが、未だ、彼らは、世界に認知された「主権国家」としての厳とした地位を獲得し得ないでいる。
独自の国家を持たない「世界最大の民族集団」は、複数の国に分断された歴史の現実の中で、当然の如く、分断された受難の民族の辛酸を嘗めていく。
イラク絡みで書けば、フセイン政権下のイラクでの、クルド人虐殺事件を忘れてはならない。
ここで、私は想起する。
湾岸戦争で救った仲間からの手紙で知らされた息子の所在が、イラク南部のナシリア刑務所に特定されたとき、クルド人の祖母は、12歳の孫を随伴して、900kmに及ぶ遠大なる南下の旅に打って出た。
「フセインが糞なら、アメリカは豚だ」
バグダッドまで乗せてもらったトラック運転手が吐き出した、毒気に満ちたアイロニーだが、当人は、アラビア語の話せない祖母から受け取った金を返す善良な男。
バグダッドで、祖母と少年の二人は、ごった返す人込みで逸(はぐ)れながらも、何とか、刑務所へ行く人たちで混雑するナシリヤ行きのバスに乗り込んでいく。
多くの政治犯らが収容されていたという、半壊状態のナシリア刑務所では、このときを待っていた人々の、肉親縁者を捜す熱気で喧騒状態。
結局、二人が求めるイブラヒムという名前は収監者リストになく、前述した、悲痛のエピソードを置き去りにして、ナシリア刑務所を後にする。
「父さん、どこにいるの!12年も会っていないよ、どこにいるの!」
その旅で、12歳の少年が放った叫びである。
少年の児童期後期の自我が、嗚咽含みで激しく揺動しているのだ。
「息子よ、お願いだから出て来て!嫁はお前の帰りをずっと待っていたのよ!アーメッドは大きくなったのよ!」
祖母もまた、叫んでいる。
まもなく、息子イブラヒムの写真を左脇に抱え、右手で刑務所の土の匂いを嗅ぐのだ。
「ここにいた・・・」
そう呟いて、涙ぐむ祖母。
その姿を凝視する孫。
結局、息子であり、父でもある、一人のクルド人の男の行方は分らず仕舞い。
「バビロンの陽光」より |
案内所の者が放つ冷厳な言葉が意味するのは、既に、「尋ね人」が遺体になっている現実を示唆するもので、とうてい祖母には受容し得ない。
刑務所の土の匂いを嗅ぐ祖母の悲痛の構図は、映像が初めて映し出した、南下の旅の苛烈さを切り取るカットだった。
それは、少年の旅の変容を決定付けるシーンでもあり、悲痛なるラストカットまで続く少年の苦闘の記録をフォローしたものでもあった。
苛酷な旅の現実の只中で動転し、煩悶を炸裂させる祖母を見て、少年はこの旅の本質を実感的に感受するに至るのだ。
この辺りのシークエンスは、観る者の胸を衝く。
この映画は、フセイン政権下のイラクで、1988年に集中的に遂行されたクルド人虐殺事件として悪名高い「アンファル作戦」によって、行方不明になった父親を探し続ける祖母と少年の物語だった。
「バビロンの陽光」は、観る者の心を揺さぶる痛切な映画だったが、クルド人の悲劇が集中的に表現された映画の鮮烈度は、本作の「亀も空を飛ぶ」において、一段と増幅されていた。
「女の子がいつも子供を背負って歩いています。子供を背負って歩いている彼女が亀のように見えてきて、その彼女がうまく泳ぐため、うまく飛ぶためにはこの背負っている『荷』を置かなければいけないと思い、その意味でも亀という言葉を使いました」(バフマン・ゴバディ監督記者会見)
「亀も空を飛ぶ」という、インパクトの大きいタイトルの内実は、以上のバフマン・ゴバディ監督の説明で分明である。
「中東で一番ありそうもないと考えられていた事態の発生を意味している」
クルド人という「亀」が、「空を飛ぶ」=「独立」を果たす事態の困難さ。
その理不尽さを映画的表現に結べば、このタイトルに結ばれるということなのだろう。
高橋和夫は書いている。
「クルド人という亀が国を求めた時には、既にトルコ人、イラン人、アラブ人などのウサギたちが国境線を引いてクルディスターンをズタズタに切り裂いていたわけだ。その結果、それぞれの国でクルド人はマイノリティーとなった。イラン、イラク、トルコ、シリアの各国は、いずれも国内にクルド人を抱え込んだので、他国のクルド人の独立には反対である。それが自国のクルド人の民族主義を刺激するからである。この四カ国の関係が常に平穏であったわけではないが、この四カ国の一致した反対があるので、クルドの独立はありそうもないと、これまで考えられてきた」(高橋ゼミナール/放送大学 - 高橋和夫の国際政治ブログ)
ところが、湾岸戦争・イラク戦争の是非を問う前に、歴史的事実を追っていくと、「クルド独立」という「亀」が、必ずしも、「空を飛ぶ」という「不可能性」を意味しなくなったのだ。
「亀も空を飛ぶ」という幻想が、「不可能なことはない」という意味も込められていると、 監督自身が語っていた。
高橋和夫のブログの記事を続ける。
「アメリカによる攻撃開始以降のイラク情勢は不思議である。クルド地域は安定し繁栄している。イラクは既に分裂しているのではないだろうか。クルド地域は実質上は独立している。しかし、周囲の反響を考慮して、公式には独立という言葉を使わないだけである」(前出)
要するに、イラクは既に分裂していて、クルド地域は実質的に独立しているのだ。
では、それは、「亀」が「空を飛ぶ」出来した事実を意味するのか。
また、多くのクルド人を抱え込んでいる中で、クルド人の分離独立を求めて武装闘争を開いていた非合法組織、クルド労働者党(PKK)への封じ込めに成功したのか、2013年5月時点で、トルコ領内からイラク北部の拠点に撤退を開始したというニュースが流れたが、近年のトルコ・エルドアン政権(公正発展党)の「民主化政策」が注目されている。
公共の場でのクルド語使用禁止政策を推進してきたが、選挙絡みとは言え、公立学校でのクルド語教育の認可にまで実現するか否か不透明だが、少なくとも、前述したイラク情勢の激変の渦中で、これらの状況の変容が、「亀」が「空を飛ぶ」現象の予兆と考えるのはオプティミスティック過ぎるか。
「クルド自治政府は、奪取した油田は主に国内の石油製品の不足を補うために使うとしている。しかしイラク政府は、油田の奪取は国の一体性を損ないかねない無責任な行為だと激しく非難した」(2014年07月12日・AFP)
この報道で分明だが、今、イラク情勢の激変の渦中で、イラク北部にあるキルクーク油田などを管理下に置いたクルド自治政府の存在は、マリキ首相への退陣圧力を強める政治行動に象徴されるように、高橋和夫が指摘するように、クルド地域は独立していると言っていいのではないか。
そんな状況下で露呈した内実は、4月の議会選挙において、自らが率いるシーア派の政党が最大議席を獲得したことで、首相続投に固執するマリキ政権の体たらく。
そこで曝されたのは、「挙国一致」を強く求める欧米の欺瞞性と無力感でもあった。
既に、アルカイダ中央(アイマン・ザワヒリ)からの解散命令を無視して、目を覆わんばかりの残虐行為を犯し続け、今や、バグダッドに次いで2番目の大都市・モスルを制圧し
た、スンニ派の過激派「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」に対して、全く対応でき得ないマリキ政権への不満や怒りが充満している現在、3分割されたイラクの将来の不透明感は、いよいよカオスの森に呑み込まれていくばかりである。(注2)
マリキ首相 |
2014年7月現在、イスラエル軍による、パレスチナ自治区ガザ地区への本格的軍事作戦を制止できない、アメリカの外交能力の劣化をここまで見せつけられてしまうと、自らが蒔いた種をも刈り取れず、大義名分が自壊したイラク戦争での無力感だけが曝け出されているようだ。
(注2)「イスラム国」が「石打ちの刑」により女性を「処刑」、殺害したという野蛮な行為がニュース(2014.7.18)を知って、憤怒を抑えられない。
(注2)「イスラム国」が「石打ちの刑」により女性を「処刑」、殺害したという野蛮な行為がニュース(2014.7.18)を知って、憤怒を抑えられない。
(2014年7月)
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