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2014年8月5日火曜日

めまい(‘58)   アルフレッド・ヒッチコック


<「サプライズ」に振れずに、「サスペンス」を選択した構成力の成就>




1  恐怖のルーツを突き抜けた反転的憎悪が、倒錯的に歪んだ愛の呪縛を解き放つ男の物語



 これは、反転的憎悪が恐怖のルーツを突き抜けた瞬間に、倒錯的に歪んだ愛の呪縛から解き放たれていく男の物語である。

 同時にそれは、消せない愛の残り火を駆動させた挙句、禁断のスポットに立たされることで、自壊する運命を免れなかった女の物語でもある。

 この男と女の捩れ切った愛の物語を、観客を騙すハリウッドお得意の、どんでん返しの「サプライズ」に全く振れることなく、一貫して、パラノイアに呪縛された男の心の風景に寄り添うことで、ヒッチコック流の極上の「サスペンス」にまで昇華させた逸品 ―― それが「めまい」だった。

 些か、乱暴な物語の展開の瑕疵を認めてもなお、男の心の不安感をシンボライズさせた、道路の凹凸が振動となって揺れるような、サンフランシスコの曲折的な海岸のドライブを映し出すカメラワークは、ヒッチコックしか撮れないと思わせる映像の訴求力をを高めていた。

 しかし、どんでん返しの「サプライズ」を捨てたばかりか、捩れ切った愛の風景を描き切った本作に対するハリウッドの評価は、当然ながら低かった。

この映画、ヒッチコックの作品群の中でも高評価が与えられるに至ったのは、「カイエ・デュ・シネマ」に集う若き映画作家たちのトリビュートに因るところが多い。

かくて、どこまでも「映画的」な構成に終始したヒッチコック一代の傑作は、物語の内容とバランスを確保するような柔和なBGMと共に、毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばしながらも、多くの人に鑑賞され、絶賛を浴びてきたアメリカ映画史の経緯がある。



2  「サプライズ」に振れずに、「サスペンス」を選択した構成力の成就



男の名は、スコッティ・ファーガソン(以後、スコッティ)。

元刑事である。

スコッティの恐怖のルーツ
未だ現役バリバリの刑事の職を辞任したのは、犯人を追跡中、高層ビルの屋上から同僚の刑事が転落するという現場を目の当たりにしたからである。

爾来、スコッティは、階段も満足に昇れないほどに高所恐怖症になってしまった。

彼の身を案ずる、かつてのガールフレンドであるミッジの前で、高所恐怖症を乗り越えて見せるというパフォーマンスをするが、事件のトラウマが惹起して、あえなく頓挫する。

これが、男の恐怖のルーツとなっていく。

眩暈(めまい)の恐怖。

それは、経験した者ではないと分らないかも知れない。

余談だが、私もまた、この恐怖にどれだけ悩み、苦しんだことか。

ガードレールクラッシュで、首の骨を3本折って入院した私は、電動ベッドの狭いペースの中で、右手足以外を全く動かせない生活を、約3カ月間続けた。

まもなく、首にコルセットを巻いた状態で、電動ベッドの角度を90°に上げて、車椅子に移動する訓練が開かれた。

看護士の手を借りることなく、車椅子に移動することが叶わなかったが、ベッドの上のリハビリの成果もあって、何とか、車椅子での移動が可能になった。

ところが、ある日、突然、今まで経験したことのないような眩暈に襲われた。

良性発作性頭位眩暈症
耳鼻科の診療を受けたが、「良性発作性頭位眩暈症」という病名を付与させられただけで、それで終わり。

私の眩暈は、いよいよひどくなる一方だった。

ベッドの中でも室内が回転するので、夕食以降は消灯する始末。

仮眠に逃げ込んでも、全く変わらないのだ。

この状況を解決するために、私が求めた手段は、耳鼻科に自律神経調整剤の処方を求めたこと。

そこで処方されたセルシンを飲んだことが幸いしたのか、あれほど悩んでいた問題は、一応解消されたが、器質障害によって平衡感覚を失った私の場合と違って、スコッティのケースは心因性の眩暈だから、その克服は、ある意味で「恐怖突入」以外にないのではないかと思われる。

しかし、スコッティの「恐怖突入」は、単に本人の自覚的行為によっては解消され得ないほどに重篤だった。

なぜなら、恐怖のルーツに広がっている甚大なトラウマには、同僚刑事の転落死と、愛する女性の転落死という、二重の対象喪失に因る罪責感が張り付いているからである。

 「重度のウツ病と罪責複合。女性の死は自分のせいだと責めている」

これは、精神病院に入院したスコッティの身を案ずるミッジへの担当医の言葉。

徹底的に自分の「犯罪性」を甚振(いたぶ)って止まない、「罪責複合観念」の虜になったスコッティを救う手立てのないミッジは、ここで物語から消えていく。

何も為し得ないからである。

ミッジスコッティ
この映画の成功の一つには、スコッティが、この恐怖のルーツを突き抜ける心理的推進力に、倒錯的に歪んだ愛の呪縛から解放されていく過程の中で、憎悪感情への反転的昇華の炸裂を据えたことにあると言っていい。

男の感情の強靭さが、恐怖のルーツを突き抜ける決定的契機と化したのだ。

この激甚な展開の着想が、「サプライズ」に振れずに、極上の「サスペンス」にまで昇華させたのである。

実は、原作とは切れ、真実を観客にだけ分るようにさせて、「サプライズ」に振れずに、「サスペンス」の本質に肉薄する構成を選択したという言及については、ヒッチコック自身が語っている。

些か長いが、物語の肝への言及なので引用する。

「第二部の冒頭でジェームズ・スチュアートがブルネットのジュディに出会ったときに、すぐもう、真実 ―― つまりジュディはマデリンと瓜のふたつの別の女なのではなくてマデリン自身に他ならぬこと ―― を観客にばらしてしまうことにした。ただし、観客にだけわかるようにして、主人公のジェームズ・スチュアートにはわからないようにしたわけだ。要するに、サスペンスかサプライズか、という基本的な問題に帰着するわけだ。ジェームズ・スチュアートは、最初、ジュディはマデリンなのだと思いこむ。ついで、彼はそうではない、そんなことはありえないのだ、ただ、ジュディが彼を喜ばせるために何もかもマデリンに似せているにすぎないのだと考えはじめる。しかし、観客のほうはひそかにこのトリック・ゲームについての真実を知らされているから、もしジュディが嘘をついていること、彼女がマデリンであることをジェームズ・スチュアートが知ったときには、どうなるのだろう、とドキドキしながら自間自答することからサスペンスが生まれてくる ―― というのが映画の発想の原点だ」(「ヒッチコック 映画術 トリュフォー」山田宏一、蓮實重彦訳 晶文社)

観る者が、「ドキドキしながら自間自答することからサスペンスが生まれてくる ―― というのが映画の発想の原点」なのである。

日常と非日常を共存させることで、観る者に対して、心理的に最近接させる〈状況〉を作り出すという、ヒッチコック的サスペンスの特徴でもある説明に、もう、加えるべき何ものもないだろう。



3  性的倒錯の極点にまで引き摺りこんでいく「偏執狂の性的フェティシズム」の氾濫



物語を追っていく。

スコッティは、昔の友人のエルスターから、自殺願望を持つ妻の尾行を依頼され、断り切れずに引き受けた。

エルスターの美しき妻・マデリンの、挙動不審の行動を見張る日々の中で、彼女の曽祖母であり、夫に子供を奪われたショックで自殺した、カルロッタの所縁の場所を訪ねて、沈み込む人妻に目を離せなくなる。

マデリンの自殺未遂事件が起こったのは、そんな折だった。

ゴールデンゲートブリッジの朱色が鮮やかな畔で、水中へ身を投げたのである。

慌てて追い駆け、海に飛び込み、マデリンを救い出すスコッティ。

サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ(ウィキ)
彼女を自宅に連れ帰り、必死に介抱する。

「身投げをしたキム・ノヴァクをジエームズ・スチュアートが救いあげ、彼のアパートに運びこむ。彼女は寝室のベッドに寝かされている。キャメラがパンしていく間に、台所に彼女の濡れた衣類が乾してあるのが見える。しだいに彼女は意識を取り戻す。それだけで、ひとことのせりふもなしに、彼が彼女の着ている物をぬがせ、彼女の裸を見たことをはっきりとわからせる」(前出)

これは、「エロチックなディテールは、すべてすばらしく魅惑的です」と感嘆したフランソワ・トリュフォーの言葉。


「ニットの下にブラジャーをしていない」(トリュフォー)という マデリンへの介抱を通して、加速的に、彼女の蠱惑(こわく)的な魅力の虜になっていくスコッティの変容が、このトリュフォーの言葉からも窺えるだろう。

男が女を意識する。

女も男を意識する。

そこから開かれる展開は、もう、約束された世界も同然だった。

深くて、濃密な恋に落ちていく男と女。

マデリンスコッティ
しかし、女の自殺願望は延長されていた。

スペインのコンキスタドールによって、16世紀にサンフランシスコ湾の北部まで占領された、スペイン領時代の名残を残す教会に赴くマデリン。

そこは、カルロッタが自殺した教会なのだ。

不安を感じたスコッティは、教会の高塔に駆け上るマデリンを追っていくが、階段の一角で眩暈に襲われ、立ち尽くすばかり。

高所恐怖症の発作のために動けなくなった男が、そこで見たのは、マデリンの飛び降り自殺だった。

これで、男はダメになった。

事故と処理されたマデリンの転落死。

スコッティに妻の監視を依頼したエルスターは、彼を慰撫しつつ、意を決して、ヨーロッパでの新たな生活に向かうことを告げ、彼もまた、物語から姿を消していく。

二度に及ぶ転落死の現場に立ち会った衝撃の深さは甚大で、良心の苛責に耐えられないほどに、重度の神経衰弱に陥ったスコッティは、精神病院で「罪責複合観念」の虜になっていく。

まして、濃密な恋に落ちた女の自殺の衝撃の深さは、自我の破壊の危機の様相を呈していた。

街に出て、死んだマデリンの幻影を追いかける男が、そこにいた。

そんなある日、スコッティは、ポスト街(サンフランシスコ)のエンパイア・ホテルの一室に住んでいる、マデリンに瓜二つの女性を発見する。

その名はジュディ。

スコッティジュディ
ここから開かれるスコッティの行動は、常軌を逸していた。

スコッティの執拗なアプローチは、ジュディをマデリンの相貌・人格に変換させて、死者を蘇生させるという、倒錯的な快楽への呪縛に捕捉され、歪んだ愛のモノマニアックな様態だった。

スコッティにとって、ジュディはマデリンでなければならなかったのだ。

スコッティの意のままに、髪型や衣装を替えられていくジュディ。

しかし、ジュディは、この強引な「死者の再生」に抵抗する仕草を見せる。

「死んだマデリン」ではなく、「生きているジュディ」を愛して欲しいという、単純な思いの故ではない。

マデリン=ジュディである事実を知られることへの恐怖感と、スコッティを罠にかける陰謀の片棒を担いだことへの自責の念、そして何より、マデリンに成り済ましていた芝居の中で、本気でスコッティを愛してしまったからである。

だから、真実を知られることへの恐怖感が、彼女の内側で膨張してしまうのだ。

「スコッティ。私を見つけたわね。怖れながらも、望んでいた瞬間。もう一度会えたら、何て言おうか。一目だけでも会いたかった。でも、もう二度と探さないで。安心して。あなたに罪はありません。あなたは被害者。私は道具。エルスターの妻殺しのね。彼女に似てるから、選ばれただけ。彼女は町に来ないから、安全だった。あなたは自殺の目撃者に。カルロッタの話の自殺願望の部分は創作よ。あなたの高所恐怖症も計算のうち。綿密に計画され、ミスはなかった。でも、私はミスを犯した。元の計画にはなかったこと。あなたを愛してしまったの。できれば、あなたに愛してほしい。ありのままの私を。過去は全部忘れてやり直したい。でも、そんな度胸は、私にはない」

マデリンへの幻影①
ジュディが書いた手紙である。

しかし、この手紙はスコッティには届かない。

破り捨ててしまったからである。

この余計なシーンの意味は、前述したように、「サプライズ」より「サスペンス」を選択したヒッチコックが、観客にだけ種明かしして、真実を知ったときのジェームズ・スチュアートの心理の変容に、物語の訴求力を集約させるためである。

 以下、ヒッチコックの言葉。

「映画には、さらにもうひとつの興味がある。というのも、ジュディはやがてマデリンに似せてつくられることに抵抗しはじめるからだ。彼女が主人公の意のままに髪型や衣装を変えていくにしたがって、しだいに仮面が剥がれて正体がばれてくることを自覚している、というのがプロットの基盤だ」(前出)

更に、死んだ女と寝る男の行為を、ヒッチコックは〈心理的性交〉=屍姦という言葉で説明する。

以下、トリュフォーとの印象的な会話。

「この映画には、もうひとつ、〈心理的性交〉とでも呼ぶべき一面がある。この世では不可能な性的イメージを追う男の話だからね。もっと単純に言えば、この男は死んだ女と寝ること、つまり屍姦に夢中になっているわけだ」
マデリンへの幻影②
「そのとおりですね。ジェームズ・スチュアートがジュディをブティックに連れていって、マデリンが着ていたものとそっくりのスーツをえらんで着せるところや、靴屋で彼女に靴をえらんではかせるところは、まさに偏執狂の性的フェティシズムがあふれかえったシーンで、この映画のなかで最もすばらしいシーンではないかと思います」(前出)

〈心理的性交〉=屍姦という、ネクロフィリアをイメージさせる映像は性的倒錯の極点にまで観る者を引き摺りこんでいくが、「偏執狂の性的フェティシズム」の氾濫のシーンを評価する、トリュフォーを中心にする「カイエ・デュ・シネマ」の映画作家たちの後押しが、本作の異色性に対する偏頗(へんぱ)な見方を封印させる役割を担った事実を確認しておきたい。

 そのネクロフィリアに夢中になっている男の性的倒錯は、思わぬところで頓挫する。

「ジュディが嘘をついていること、彼女がマデリンであることをジェームズ・スチュアートが知ったとき」の、その瞬間がやってきたからである。



 4  消せない愛の残り火を駆動させた挙句、禁断のスポットに立たされることで、自壊する運命を免れなかった女の物語



マデリンへの幻影の破綻
ジュディの首筋に掛けられた、ルビーの嵌め込まれたロケット(ネックレス)を視認したスコッティは、一瞬にして、マデリン=ジュディである事実を知るに及び、事故と処理されたマデリンの転落死の絡繰り(からくり)を看破するに至った。

「罪責複合観念」の虜になっていくほどの、自我の破壊の危機の様相を呈する男を直撃した「事故」が、その男の「抵抗虚弱点」(最も脆弱な部分)である、高所恐怖症を利用した「殺人事件」であると認知したとき、まんまと罠に嵌められた男の情動は炸裂する。

憎悪に反転した男の感情が、自分を欺き続けた女への報復に向かったのは必至だった。

「もう、一回だけ過去に戻る必要がある。これが最後だ。マデリンはここで死んだ。しばらくマデリン役に。二人とも解放される」

ジュディの拒絶を無視した、スコッティの言葉である。

 「怖いわ」とジュディ。
 「マデリンのことを話そう。あそこだ。最後にキスした場所だ。“失えば分る”と言った。僕は愛したくないから、失いたくないと言った。でも、失った。僕を振り切って。教会へ走って行った。彼女を追ったが、遅かった」

そう言って、ジュディを強引に例の教会に連れて行くスコッティ。

「入りたくない」
マデリン=ジュディの事実を知った男の情動炸裂
「もう、遅い。姿は見えなかった。でも、足音が聞こえた。塔を駆け上がる音だった。最上階にまで行き、はねあげ戸から屋上へ出た。僕は追ったが無理だった。上まで辿り着かなかった。2度目のチャンスだ。亡霊から解放されたい。君が2度目のチャンスなんだ」

教会に着いたスコッティは、今度は階段を登らせる。

教会の鐘楼に連れて行くのだ。

命じられたまま登っていくジュディの後を、ゆっくり追うスコッティ。

階段の途中で、スコッティは、自分の思いの丈をジュディに吐き出す。

「僕が追えないのを知っていたな。上にいたのは、エルスターと妻か。死んだのは妻だ。君じゃない。君はマデリンの偽物だ!妻は既に死んでたか」

「首を折られて」

スコッティの暴力的な攻勢の中で、ジュディは答えた。

「首か。準備万全だな。君が着くと、妻を屋上から落とした!なぜ君は、悲鳴を上げた!」
「止めようとしたのよ」
「止める?なぜ悲鳴を?うまく僕をだましたな。奴が教え込んだんだろ!僕がやったように作り上げた。服や髪形だけでなく、振舞いや口調まで!偽の夢遊状態で、湾にも飛び込んだ。本当は水泳が得意なんだろ。そうだろ!」
「そうよ!」
「君はできのいい生徒だったろうな。なぜ、僕を選んだ。なぜだ!」
「あの事故が・・・」
「あの事故か。僕はカモだった。おあつらえ向きの証人だ!」

改めて、高所恐怖症を利用された「殺人事件」であると認知したとき、スコッティの叫びが止まる。

「僕は上がれた・・・やった・・・」

反転的憎悪が、恐怖のルーツを突き抜けた瞬間だった。

怯(おび)えるばかりのジュディを、犯行現場となった鐘楼にまで連れて行くスコッティ。

「君たちはここに隠れ、後で市内に戻った。妻の金も権力も手に入れて、奴は君を捨てたんだ。君は他言できない。何を与えられた?」
「お金よ」
カルロッタの肖像
「それに、カルロッタのネックレスだ。とんだミスをしたな。殺人の記念品を。持っていてはダメだ。感傷的過ぎた。マデリン。君を愛してた」

エルスターに利用され、捨てられた女がそこにいて、スコッティに愛を告白するジュディ。

「無理だ。彼女は戻らない」

それは、倒錯的に歪んだ愛の呪縛から解き放たれていく瞬間でもあった。

そのときだった。

突然、出現した影に恐怖を感じたのか、登って来た修道女を見て、ジュディは体のバランスを崩し、鐘楼から足を踏み外して転落するに至った。

一切が終焉したのである。

―― 「『めまい』はヴェラ・マイルズのために構想した映画だったんだよ。衣装も彼女のためにつくり、キャメラ・テストの結果も上乗だったんだがね」(前出)

 この有名なエピソードに、キム・ノヴァクの起用が成功したという感懐を述べたのはトリュフォーである。

「あなたが、いろいろなインタビューで、キム・ノヴァクに不満を述べておられるのもたぶんそんなことがあったからと思われますが、しかし、この映画のキム・ノヴァクはじつにすばらしいのではないでしょうか。受け身で、動物的なけだるさ、やわらかさをそなえた彼女の肉体的なイメージもこの映画の役にびったりだったのではないかと思われますが」

私もそう思う。

冒頭で言及したように、この映画は、蠱惑(こわく)的な魅力を振り撒いたキム・ノヴァクが演じた、消せない愛の残り火を駆動させた挙句、禁断のスポットに立たされることで、自壊する運命を免れなかった女の物語でもあったのだ。

 

 5  カラースキームの創意工夫による訴求力の高さ



本稿の最後に、この映画の訴求力を高めたカラースキーム(色彩設計)の表現で、ヒッチコックが如何に工夫を凝らしていたのかについても、簡単に書いておこう。

 映画の冒頭で、スコッティがマデリンの後をつけて、墓地にやって来たとき、彼女をとらえたショツトは、全てフオッグ(霧)フィルターをかけて撮影し、夢のような、謎めいたムードを出すようにした。

それは、明るい太陽が輝いているところに、一面に霧が立ち込めているような、淡いグリーンの色調の効果を狙ったもの。

 

また二部に入って、マデリンの幻影を追っているスコッティが、ジュディと遭遇したとき、彼女がエンパイア・ホテルの一室に住んでいる事実を知ったときのこと。

 「HOTEL EMPIRE」という大きなグリーンのネオンサインが、ホテルの入口で常に輝いているから、ジュディがバスルームから出て来たときに、窓の外のグリーンのネオンが、一瞬、彼女の全身を照らし、墓地のマデリンと同じような謎めいた、幽霊のようなムードを醸し出すことができると、ヒッチコックは考えたのである。

「グリーンのネオンに彩られて、彼女は、まさに、死者の中から甦ってくるわけだ」(前出)

 ジュディを凝視するジェームズ・スチュアート。

それから、カメラは、再びジユディの姿を捉えるが、そのときはもう、ネオンの効果は消えている。

それは、ジェームズ・スチュアートが、我に返っていることを示す、ごく普通のショットである。

 「HOTEL EMPIRE」のグリーンのネオンサインが、この映画の中で、カラースキームの効果をマキシマムに生かし切っている例の一つである。 

―― 「裏窓」(1954年製作)、「間違えられた男」(1956年製作)、「サイコ」(1960年製作)、「」(1963年製作)など、ヒッチコック作品は殆ど全て好きだが、何と言っても、私には、この「めまい」が最高にいい。

市民ケーン」(1941年製作)のオーソン・ウェルズのように、「めまい」もまた、ジェームズ・ステュアートの「狂気」が、「アメリカの良心」という、つまらないレッテルを弾いてしまうほど、映画の中で炸裂するのだ。

そこが最高にいい。

この「アメリカの良心」の如き俳優から、倒錯的に歪んだ「狂気」を引っ張り出し、最も映画的なショットを連射させたアルフレッド・ヒッチコック監督の素晴らしさ。

もう、そこに加える言葉を持ち得ない。


【参考文献 「ヒッチコック 映画術 トリュフォー」山田宏一、蓮實重彦訳 晶文社】

(2014年8月)


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