1 「自己正当化の圧力」と「複合学習」の困難さ
「単に人種差別、人間の不寛容を扱うのであれば、ドキュメンタリーとして作る方が良いからね。人は皆、他人をあまりにも表面的に判断し、平気で厳しく批判しすぎる。その一方で自分のことは複雑な人間だと思い込み、様々な愚行を正当化しようとする。それが我々の人生にどんな影響を及ぼしているのか、人間らしく生きるために何を強いられているのか、そういったことを描きたかったんだ」(ポール・ハギス監督インタビュー 映画.com 2006年2月15日)
このポール・ハギス監督の言葉が、本作のエッセンスを集約していると思う。
本作に対する私の視座は、ポール・ハギス監督の把握を援用して、二点に要約されるだろう。
その一つは「自己正当化の圧力」であり、もう一つは、「複合学習」の困難さである。
「自己正当化の圧力」とは、簡単に言えば、こういうことである。
人間が、自らが犯した行動の誤謬を容易に認知しないのは、それを誤謬と認知したくない意識が働くことで、却って、同様の誤謬を再生産してしまうという、人間の本来的な脆弱性の心理構造が横臥(おうが)しているからである。
自らの行動の正当性を信じ切ることによって、自我の安寧を継続的に確保できること、これが全てであると言っていい。
そのために、私たちは過去の心地悪い記憶を、「現在の自己像」の文脈に寄り添うように、都合良く書き変えてしまうことも辞さないのである。
行動の一貫性の確保によって手に入れた、自我の安寧の継続性の実感こそが、「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つ「日常性のサイクル」を、常に「安定」の状態のうちに留めておくことを保証するのである。
逆に言えば、これは、「失敗のリピーター」の心理を言い当てている。
なぜなら、失敗した者が、その失敗を認知しないためには、単に、「方法がまずかった」などという把握のうちに原因を収斂させることが、最も都合が良いからである。
かくて、このような「単純学習」の方略の導入によって、一貫して、自分の失敗を認めないような行動傾向が再生産されていくに至るのだ。
或いは、似たような失恋をリピートする者は、単に「優しさが足りなかった」などという、「単純学習」を自我に張り付けてしまうことで「忘れ難い経験」を処理し、繰り返し、似たような相手を選んでしまうのである。
「自分の愛」を一貫させることによってしか、件の者の「忘れ難い経験」の価値の正当性を手に入れられない事象の厄介さ ―― これが相当に手強いのだ。
従って、彼らの反省は、通り一遍のものに終始し、自己の本質に迫れず、やがて、時の流れが痛みを中和して、又候(またぞろ)、蜜の香りに誘(いざな)われていくという負の人生循環に嵌るのである。
蠱惑(こわく)的な対象が惹きつける快楽が、頓挫による反省的学習を常に少しずつ、しかし確実に上回るから、彼らは「失敗のリピーター」であることを止めないのだ。
小さな失敗なら歯牙にかけないものが、重大な失敗になると、それを全否定することによって失うものがあまりに大きすぎる場合、人は失敗をストレートに認知することをしばしば逡巡する。
そこに、いかに無駄な時間が費消されたかということに眼を瞑り、「失敗の過去にも学ぶべき点が多かった」などという「認知的不協和」(矛盾解消のために、自分に都合よく合理化すること)の心理学に流れ込んで、失敗の本質に肉薄する一切の合理的文脈を、丸ごとオブラートに包み込んでしまうのだ。
だから、件の者たちは自己を根源的に相対化し、再構築していくという「複合学習」の艱難(かんなん)な心理プロセスに容易に踏み込めないのである。
どうやら、私たちはこうして、「自己正当化の圧力」を再生産していく負の構造から解放されないようだ。
2 「善悪」が同一の人格のうちに同居する、特化された映像提示の安直さ ―― ライアン警官の「クラッシュ」
本作の場合で考えてみよう。
クリスティンに対する、ライアン警官のセクハラの根源には、「アファーマティブ・アクション」(注1)によって、自分の家族の生活の基盤と絆が壊され、その挙句、「父を介護する息子」という自己像を形成してしまった心理が深々と根を張っている。
物語では、既にセクハラ行為の前に、尿道炎を病んでいる父の件で、病院とのトラブルが発生したエピソードを挿入させていた。
電話の相手が黒人の女性ケースワーカーであることを知ったライアンが、差別的言辞を吐き、一方的に電話を切られるに至ったエピソードである。
「あんたみたいな女に、有能な白人の男たちが職を奪われてるんだ。親父が不憫だ。清掃員として働いた金で会社を始めた。23人の従業員は全員黒人で、平等に給料を払ってた。30年間、彼らと一緒にゴミを運んでいたんだ。だが、少数民族の雇用主を優先する法律ができて、一夜にして全てを失った。会社も家も妻も。だが、恨み事は言わない。あんたたちの利益のために全てを失った男に、ほんの少し手心を加えてくれるだけでいい」
これは、セクハラ直後のライアンの言葉だ。
「アファーマティブ・アクション」によって全てを失ったと決めつける意識が膨張し、それが黒人に対する差別意識を分娩させた結果、自らのセクハラ行為を正当化させるに至ったのである。
そんなライアンがターゲットにしたのが、中流層の黒人であった事実を無視する訳にはいかないだろう。
「能力がないのに、『アファーマティブ・アクション』のせいで中流層までのし上がっている黒人たち」
彼の偏頗(へんぱ)な自我には、恐らく、このような意識がべったりと張り付いていたと思われる。
この心理文脈で見る限り、一連の差別行為に対する反省など皆無であり、彼の「自己正当化の圧力」の心理構造に決定的な変容を期待するのは無理と言う外にない。
恐らく、こういうことだろう。
彼もまた、後輩のハンセンに語ったように、「警察官としての使命感」を堅持していた時期があったに違いない。
「父を介護する息子」という自己像を形成しているライアンの構図には、尊敬する父への眼差しが映し出されていて、自己像の受容を引き受け切っている寡黙な相貌は、観る者に感銘すら与える何かでもあった。
ライアンは、「極めて誠実なる父」のDNAを継いでいるのだ。
そのDNAが、あの行動の推進力になっていたと思われる。
しかも、あのときの〈状況〉を考えてみると、そこには、自分の行動の是非を判断する「間」がないのだ。
だから、彼は動いたのである。
そして、相手を特定し得ても、彼の行動は変わらなかった。
その心理は、自分のセクハラ行為に対する無意識的な「補償行動」のようにも見えるが、しかし、彼の自我には、セクハラを繰り返す行為への「自己正当化の圧力」が厳として存在するが故に、なお残る「警察官としての使命感」と共存し得る矛盾を根源的に相対化し、再構築していくという問題意識にまで昇華されていかないと考える方が合理的である。
些か極端だが、「善悪」が同一の人格のうちに同居するという、作り手の問題意識の、特化された映像提示であったと把握する外にないだろう。
結論から言えば、彼が「複合学習」という困難な内的行程の重いテーマに、その身を預けていくことは難しいと言わざるを得ないのだ。
ただ、映像構成から言えば、この「奇跡の救出譚」の挿入は、いかにもハリウッドらしい安直なエピソード挿入であった。
(注1)歴史的に差別されてきたマイノリティに対する、雇用機会の優先や、教育上の優遇などの差別撤廃措置のこと。ライアンのケースは、「ホワイト・バックラッシュ」(逆差別論議の中で起こった白人たちの反動的行為)と言っていい。
3 「おまえは俺だけじゃなく、お前自身も貶めている」 ―― 「自己正当化の圧力」の爛れの様態からの生還 ―― キャメロンとアンソニーの「複合学習」の可能性
次に、セクハラの犠牲者であったクリスティンと、夫であるキャメロンのケースを考えてみる。
彼女の場合は、無論、何の落ち度もない。
それ故に、夫であるキャメロンの振る舞いに対する不満が、一気に沸点に達した心理は当然である。
それは、自分がセクハラされているのにアウトリーチしないばかりか、相手のライアンに、「申し訳ない」と謝罪した行為に対する怒りである。
そして、それ以上に由々しき問題は、「優秀なテレビディレクター」であるという夫の自己像のうちに、「黒人」であるという形容が殆ど張り付いていない意識を見透かしてしまったことである。
妻から、そのことを指摘されるようになって、明らかに、キャメロンは変容していく。
「優秀な黒人のテレビディレクター」であるという自己像が顕在化してしまったのである。
一度、アクティング・アウト(封印した記憶が身体表現されること)してしまった意識を、元の状態に復元させるのは困難である。
そのことを象徴的に表現されるエピソードが、本作の中に拾われていた。
二人のチンピラ黒人(アンソニー、ピーター)に襲われたときのことだ。
キャメロンは、自分より遥かに背の高いアンソニーを徹底的に殴り、蹴り飛ばした挙句、「“ニガー”と言ってみろ!」などという下品な言葉を吐いたのである。
「このような無知で、愚かな黒人たちがいるから、俺のような優秀な黒人までもが、白人たちから理不尽な差別のターゲットにされるのだ」
このときのキャメロンの心理は、以上の文脈で説明できるだろう。
この文脈こそが、キャメロンの「自己正当化の圧力」の様態だった。
しかし、そんな彼が、自らの人格を甚振(いたぶ)る行為の極点に達したとき、改めて「複合学習」の余地が生まれたのである。
自らの人格を甚振る行為の極点とは、カージャック目的で、キャメロンの自家用車にアンソニーらが乗り込んで来て、敢えて暴走させてしまう行為の結果、それを制止する白人警察官に包囲され、なお尖り切ったキャメロンは、警察官に向かって毒突くことで、自らの安全を脅かす振る舞いのこと。
「俺に用か?ブタ野郎!」とキャメロン。
「腹ばいになれ!」と警察官。
「貴様が腹ばいになって、脚を開け!」
そう叫ぶや、キャメロンは、銃を構えた警察官に向かって行くのだ。
「貴様こそ、ひざまずいてしゃぶれよ」
殆ど、常軌を逸していた。
しかし、彼は幸運だった。
このときの相手の警察官が、若いハンセンだったからだ。
例の、クリスティンに対するセクハラ行為の当事者であるライアンの相棒が、ハンセンだったのだ。
そのハンセンが、キャメロンを特定できたことで、「アファーマティブ・アクション」を素朴に支持するハンセンによる救出に繋がったのである。
しかし、この「救出譚」の経緯は尋常ではなかった。
再現してみよう。
「あんた、そんな態度じゃ撃たれるぞ」
キャメロンの傍に近づいて、ハンセンが囁いた。
「彼は俺の友達だ。武器は持ってない。誰にも危害を加えない」
ハンセンは、そう言って、キャメロンに銃を構える仲間の警官を制止した。
「状況を理解したか?」とハンセン。
「どうしろと?」とキャメロン。
落ち着いた反応を示した。
「死んで、奥さんを悲しませたくなかったら、両手を頭の上にのせて、縁石に座れ」
小声で囁くハンセン。
それを拒むキャメロン。
今や、尖り切った男の自尊心の回復は、若いハンセンの命令を素直に受容する行為に振れていかないのである。
「ならここで、両手を見せて立ってろ」
「それなら」
そう答えたキャメロンだったが、それも受容できないのだ。
「俺は逃げも隠れもしないぞ」
「助けたい」
「助けてくれと頼んだか?」
「行け」
「それならできる」
そう言って、キャメロンは、その場を立ち去っていった。
キャメロンが救われた瞬間だった。
この後、映像は、それ以外にない決定的なカットを挿入した。
車の中に潜んでいたアンソニーと別れるとき、拳銃を手にしたアンソニーに向かって、キャメロンは由々しき一言を言い放ったのである。
「おまえは俺だけじゃなく、お前自身も貶(おとし)めている」
このキャメロンの一言は、彼の内側での「複合学習」を媒介する検証となる振る舞いだったと言えるだろう。
傷つけられた自尊心を回復することが、このときのキャメロンの至上命題だったのだ。
今まで封印してきた矛盾が一気に顕在化し、妻との関係が悪化したことで、彼にはもう、それまでの自己像を保持しつつ、その延長線上に物語を繋いでいくことが限界にきていたのである。
それを認知したことで、彼は「自己正当化の圧力」の崩壊を感じ取ってしまったのだ。
一方、その場に残されたハンセンは、自分の「正義感」による行動を素直に受容できなかった。
キャメロンとの複雑な遣り取りの中で、人種差別の問題が濃厚に絡んだこのようなテーマへの対応の難しさを、否応なく認知せざるを得なかったからである。
このハンセンの自我が捕捉した咀嚼し切れない問題が、やがて顕在化することになるが、これについては本稿の肝なので後述する。
「偶然の幸運」に依拠する「映画の嘘」が、ここでも全開していたにせよ、キャメロンとハンセンとの、このエピソードは、彼らの人物造形を見事に映し出していて、本作の中で最も出色なシークエンスであると考えている。
このときのキャメロンの苦衷を、映像は的確に表現していたからである。
では、「お前自身も貶めている」と言われたアンソニーの場合はどうか。
元より、キャメロン自身に責任がないことを知っているアンソニーは、自分が強引に乗り込んだキャメロンの車内に潜んでいて、ハンセンとの遣り取りを、一部始終耳にしていた。
アンソニーらが最も嫌う白人警官を相手に、堂々と立ち向かうキャメロンの行動の心理的背景が不分明でありながらも、白人警官と渡り合った挙句、「勝利」を掴んだとイメージさせるキャメロンの一連の行為に、アンソニーは少なからぬ影響を受けたに違いない。
思うに、ピーターと同様に、このアンソニーもまた、或る意味で、典型的な「失敗のリピーター」と括れる連中である。
彼らの反省の内実は、常に、「やり方を変えてみよう」という程度の、「単純学習」の表層的な〈生〉を繋いできていた。
だから彼らは、性懲りもなくカージャックを繰り返す。
全て、金に換算するためだ。
「白人が悪い」という文脈で固めた彼らの「自己正当化の圧力」は、たとえ彼らの中に、真面目に生きようという寸分の思いが潜んでいたとしても、「失敗のリピーター」を容易に克服できるに足る内省的な連中ではないからだ。
しかし、本作の最も重要なメッセージとも言えるキャメロンの言葉に、このときばかりは、アンソニーの脆弱な自我に食い刺さってきたのだろう。
それが、アジア人を解放するラストシーンに繋がる至要たる伏線になっていくのだが、しかし、解放した後、ニヤリと笑って見せたアンソニーの表情に、「善を施した黒人」という心理が張り付いていたとしても、その内的継続力は、なお保証し得ないという印象を持たせて閉じていったのである。
「失敗のリピーター」が、「複合学習」という困難な内的過程を立ち上げるのは、殆ど、稀有なケースと言っていいからだ。
4 夫婦間の「クラッシュ」の問題に収斂される「自己正当化の圧力」の脆弱性 ―― ジーンのケースの振れ具合のナイーブさ
ここでは、ジーンのケースを考えてみる。
彼女は、アンソニーとピーターという、二人のチンピラ黒人によるカージャックに遭って以来、マイノリティに対する差別的言辞を露呈させるに至るが、階段から落下する事故を起こしたことで、一層、ディストレス状態が加速されていく。
その根柢には、地方検事である夫のリックとの、夫婦生活に対する不満の鬱積が顕在化するまでになっていた。
夫にとって、公選制の地方検事という立場から、常に黒人票の動向を気にかける習慣が身についてしまっているので、今回のカージャックに対する処理も、「運が悪かった」という程度の受け止め方しかできないのである。
だからリックには、「単純学習」の余地すらなかったと言える。
当然、「自己正当化の圧力」が噴き上げていくこともない。
今や、地方検事がカージャックに遭った事態を、隠蔽する方略を模索するしかないのだ。
その結果、夫婦が受難に遭った事件に対するスタンスが、決定的に乖離してしまうことになった。
そんなとき、今までもそうしてきたような思いを持って、自分に対して親切に介護するヒスパニック系の家政婦との物理的最近接が、彼女の内側に心理的近接感を鋭敏に感受させたのである。
「あなたは親友よ」
これが、家政婦に対するジーンの表現だった。
この小さなエピソードを見る限り、マイノリティに対する彼女の差別意識は、この国の多くの白人層のレベルと変わらない程度の振れ具合が読み取れるだろう。
一切は、夫婦間の「クラッシュ」の問題に起因するのである。
彼女の「自己正当化の圧力」も脆弱であることは了然としている。
「自分のことを顧みない夫の愛情不足が、自分の意識の表層にあったフラットな差別意識を身体化させてしまった」
この辺りが、このときの彼女の意識を構成している内実ではなかったか。
事態を隠蔽する方略を模索するしかなかった、底の浅い受け止め方に終始する夫との間の意識の落差が埋まらないと、ネガティブにイメージさせるまでにはいかないが、家政婦への表現のうちに昇華される彼女の情感系が、必ずしも、病理性を孕んでいるとは思われないのである。
従って、本作のタイトルになった「クラッシュ」の射程が、ポール・ハギス監督の言葉にあるように、人種差別を扱う作品という限定的把握のうちに収斂されず、もっと物理的近接度の高い関係、即ち、夫婦間や母子間に生まれる亀裂をも包括する事実を認知する限り、リックとジーンとの夫婦関係内の「クラッシュ」のケースは、単に、主題提示の射程内に特化されたエピソードの類型として拾い上げられたと把握すべきであろう。
5 えも言われぬ安堵感に流れ込んだ「大クラッシュ」の「お伽噺」 ―― 「魔法のマント」の介在によるファハドの「仮想危機のモデル」の提示
私は、本作の中で、二つの「大クラッシュ」に注目したいと考えている。
それは、この二件だけが、銃を使用した二つの犯罪、或いは、犯罪未遂の「大クラッシュ」であったからである。
後者の場合は、紛れもなく、「自己正当化の圧力」がピークアウトに達したケースでありながら、それが、「魔法のマント」によって救われるという「お伽噺」のうちに収斂されていったということ ―― この虚構性こそが、「大クラッシュ」の厄介さを強調する効果を増幅させていると言えるのだ。
また、前者については、「アファーマティブ・アクション」を観念的に理解するだけの青臭い青年警官が、ライアンを拒絶したエピソードに象徴されるように、「このような警官は人間として失格である。しかし自分は違う」という文脈で観念的に自己正当化してきたものが、「アファーマティブ・アクション」の対象である黒人と物理的に最近接することによって、一瞬にして砕け散っていく物語の崩壊を、他のケースのように「予定調和の感動譚」に流されることなく、そこだけは冷厳なリアリズムで描き切っていたという点にこそ、このエピソードの重大性が読み取れるであろう。
ここでは、後者の「魔法のマント」の「お伽噺」について言及する。
アラブ系ではなく、ペルシャ系(注2)のマイノリティであるという出自に拘泥する小売店主ファハドは、空き巣の難に遭う原因が、自分がアラブ人と誤解されているという主観から、娘のドリを随伴し、銃砲店で銃を入手する。
更に、店の裏口の錠の修理を、ヒスパニック系のダニエルに依頼するが、ドアごと換えなければ意味がないと言われて、「小クラッシュ」。
ヒスパニック系であるほかに、襟首に刺青をしているため、ジーンにも白眼視されたことで、ダニエルは錠前屋の仕事を放棄して、即座に帰ってしまう短気さを持っているものの、根は真面目で、娘思いの優しさの持ち主。
無論、この微笑ましいエピソードは、これから起こる由々しき事態の伏線である。
再び惹起した空き巣の難。
ファハドの店である。
これで、ファハドの堪忍袋の緒が切れてしまった。
ダニエルのアドバイスを無視して、ドアそのものを取り換えることをしなかったために、又候(またぞろ)、空き巣の難に遭ったファハドの憤怒は、同様の理由で保険金が下りない事実によって、ダニエルへの逆恨みとなっていく。
堪忍袋の緒が切れたファハドは、ダニエルの残したメモから彼の家を突き止め、銃を持って、乗り込んでいく。
「全て、失ったんだぞ」
拳銃で恫喝するファハドに、現金を渡そうとするダニエルに吐き出した言葉である。
殺害の意志を持つファハドは、ダニエルの振る舞いに納得する訳もなく、拳銃の引き金に手をかけた。
本気で殺そうとした瞬間だった。
ダニエルの家から出て来たララが、父に抱きついたのだ。
ファハドの拳銃は発射された。
叫びを上げるダニエル。
しかし、娘は無傷だった。
ファハドもまた、自分の犯した行為に驚き、もう何もできなくなった。
呆然とするファハド。
「魔法のマント」が、全てを救ったのである。
このエピソードで重要なのは、ファアドと娘ドリの、以下の短い会話に尽きるだろう。
「どうしたの?」
帰宅した父の、いつもと異なる表情を見て、娘のドリが尋ねた。
「女の子を撃った。その子は無事だ。その子の背中を撃ってしまった。だが、傷一つ負わなかった。私の天使だよ…私を守りに来てくれた。私たちを。そうなんだよ…」
一言ずつ、噛み締めるように、ゆっくり話した後、「持ってくれ」と言って、手に持つ拳銃を、娘に渡すファハド。
穏やかな口調で話す父の表情を凝視して、ドリの眼から涙が滲んでいた。
ファハドの、このえも言われぬ安堵感を映し出したこと ―― それが狙いのエピソードだったのである。
「短気は未練の元」という性格を地で行くようなファハドの、自己コントロールの脆弱性に起因する、「皆、あの男が悪いんだ」という類の「自己正当化の圧力」を極点まで突き進めた果てに、ファハドが見た内的風景は、決してあってはならない凄惨な自己像だった。
「魔法のマント」が介在しなければ、この凄惨な自己像がファハドを急襲し、その人生を根柢から自壊させるところだったのだ。
だがファハドは、「魔法のマント」のお陰で、かつて容易に見せたことがないと思われる、えも言われぬ安堵感を手に入れられたのである。
そのことの有難さを思い知りなさい。
そういうメッセージが、私の耳に届いてくるのだ。
無論、「魔法のマント」など存在しない。
「魔法のマント」の仕掛け人は、ファハドの娘のドリであったことは、「観る者」だけが知っている。
多分、ドリはその事実を、簡単に種明かしをしないだろう。
父のえも言われぬ安堵感の表情を凝視したドリには、これでもう、父は充分に学習したと考えたに違いないからである。
「自分は天使によって救われた」
今だけは、父がそう信じているなら、少なくとも当面の間、語る必要がないのである。
ドリに拳銃を戻した行為こそ、ファハドのこのときの心境の全てを語っているからだ。
彼は「私の天使」のお陰で、「複合学習」への道を開いたのである。
因みに、このエピソードについて、ポール・ハギス監督は語っている。
「群像劇では各エピソードを結ぶ鍵が重要ですが、ここでは父親が幼い娘に聞かせる魔法のマントの話がすべてを結ぶ鍵になっています。なぜならそれは、信頼することで初めて見える透明のマントなのですから。
それも後でわかった(笑)。なぜ魔法のマントの御伽噺なんだ!?って書いた後に随分考えて、ようやく信頼というキーワードを見つけて、ラストシーンにつなげたよ」(前掲インタビュー・前者が質問者で、後者がポール・ハギス監督)
「父親が幼い娘に聞かせる魔法のマントの話がすべてを結ぶ鍵」と言い切る質問者の把握こそ「勝手読み」だと考えるが、それに答えるポール・ハギス監督の正直な反応も、坩堝(るつぼ)に嵌ったときの創作者の「生みの苦しみ」が透けて見えて了解可能だが、それでも、「信頼」などという手垢がついた表現を安直に使ってくれるな、と言いたいところでもあった。
だが、表現者の観念系のフィールドに土足で踏み込んで、ケチを付けるのは傲慢であるだろう。
敢えて、「信頼」という言葉を、このエピソードに引き寄せて言えば、ドリは父を信頼してなかったからこそ、空砲の銃丸を買い求め、それを父に与えたのである。
仮にドリが、父の短気が極点に達したときの厄介なイメージを持ち得なかったら、彼女は銃砲店で空砲を買い求めることはしなかったはずである。
「信頼」しないことによって生まれた、父のえも言われぬ安堵感。
しかし、このようなケースが、普遍的に認知された行為でないのは言わずもがなのことである。
それでもポール・ハギス監督は、この「お伽噺」を挿入したのである。
なぜか。
ペルシャ系の小売店主ファハドと、メキシコ系の錠前屋ダニエルのケースの、マイノリティ意識が激発したときの始末の悪さによる、「仮想危機のモデル」の提示という把握も可能だが、私は、「自己正当化の圧力」が極点に達したときの凄惨さを映像提示することで、もう一つの物語と対比させて描いたという「勝手読み」の見方をしたい。
もう一つの物語、それは「ハンセンによるピーター殺し」である。
本作の中で、そこだけはリアリズムを貫徹して構築したエピソードの怖さこそ、観る者に、「大クラッシュ」の厄介さを特段に印象付けているのである。
稿を変えて、言及したい。
(注2)トルコ人とイラン人はアラブ系ではない。ペルシャ系はイラン人のこと。
6 サラダボウルの並立共存型多文化主義の限界点 ―― ハンセンによる袋小路の泥濘の中で藻掻く観念系の自縄自縛の爛れ方
以下、私は本作の肝であると考えている、「ハンセンによるピーター殺し」について言及する。
ヒッチハイクしていたピーターを拾ったのは、「正義感」溢れる若き警官のハンセンだった。
ピーターを快く受け入れるハンセン。
「今夜はどこへ?」
フラットな会話を繋いでいたハンセンが、ピーターに尋ねた。
「アイスホッケーさ。キーパーになるのが夢だった」
「まさか」
「何でだよ。可笑しいか?」
「冗談かと」
「何だっていい」(注3)
ここで突然、ピーターは吹き出してしまった。
フロントに置いてある人形を見つけたからだ。
理由が分からないハンセンは、不快感を露わにした。
「何が?」
「人間だよ、人間」
「俺みたいな?」
まだ、笑っているピーター。
「あんたのことじゃねえよ」
「見れば分るさ。外で笑えよ」
そう言って、ハンセンは、ピーターを外に放り出そうとした。
「急に怒るなよ」
「怒ってないさ。止めるぞ」
ここで、ハンセンは車を止めてしまった。
「あんたを笑ったんじゃないって」
「俺も下りろ、とは言ってない」
「早く車を出せよ」
「やっぱり、降りろ」
「理由を教えてやるよ」
そう言って、ピーターは、ズボンの右ポケットに手を突っ込んだ。
「手を出せ!」
「ふざけるな!」
「早く出せ!」
「そんなに見たきゃ、見せてやる!」
そう言うや、再び、ピーターは手を突っ込んだ。
銃丸が放たれたのは、その瞬間だった。
放ったのはハンセンである。
放たれたピーターの右手に握られていたものは、聖クリストファーのお守りだった。
「何てことを…」
それを見て、ハンセンは茫然自失する。
ピーターが笑ったのは、フロントに同じ人形が飾ってあったからだ。
ここからのハンセンの行為は、ひたすら自己防衛の一点だった。
周囲に目撃者がいないことを確認したハンセンは、ピーターの体を、車外に転げ落とした。
その後、指紋採取を恐れて、そこだけは警官らしく、手袋を嵌めて、車を燃やしたハンセンがそこにいた。
しかし、当然の如く、その表情は、ファハドのえも言われぬ安堵感とは切れて、渡ってはならない河を渡ってしまった者の、深い後悔が澱む陰翳感を映し出していた。
これは、「お伽噺」に流れることがない、正真正銘の「大クラッシュ」なのだ。
「2,3年もすれば分る。お前はまだ青い。分らんだけだ。よく覚えとけ」
これは、17年間勤続のライアンとの相棒関係を切った際に、ハンセンが、そのライアンから放たれた言葉。
このライアンの先輩面した経験則を、厭というほど、ハンセンは味わっていくに至るに違いない。
そこにこそ、問題の根源があるだろう。
「正義感」溢れる若き警官のハンセンは、「大クラッシュ」のリアリズムの渦中で、奥深く潜在する意識が、決して、ライアンのような「ヘイトスピーチ」(差別的言辞)や、それ以上の、「ヘイトクライム」(差別的憎悪犯罪)に流れる愚かさに届かないまでも、しかし、彼の理念系が身体内化されていない現実を、事件が炙り出したことだけは事実である。
ここに、オープニングシーンで、交通事故に巻き込まれたロス市警のグラハム刑事が、プエルトリコの恋人に語った言葉がある。
「町中を歩けば、よく人と体がぶつかったりするだろう?でも、ロスじゃ、触れ合いは皆無。人々はたいてい車の中にいる。でも、触れ合いたいのさ。ぶつかり合って、何かを実感したいんだ」
要するに、ハンセンの場合、積極的に「小クラッシュ」することで、マイノリティとの関係の交叉を深め、そこで継続的に学習していくという実践的テーマが求められていたのである。
「小クラッシュ」もまた、時には必要なのだ。
それを経ずして、自分の未熟さを露呈したエピソードが、キャメロンとの関わりの中で露呈されていた事実を知るべきである。
しかし、もう遅い。
今や彼には、「自己正当化も圧力」の心理構造も瓦解し、「複合学習」の困難さだけを決定的に予想させるのである。
だから、本作を「予定調和の感動譚」と括るのは誤読であるばかりか、軽薄ですらあるだろう。
ハンセンとピーターの、歪(いびつ)に捩(ねじ)れ切って宙に舞う、初発の関係様態が生んだ「大クラッシュ」の根源にある、「アファーマティブ・アクション」の観念系のサラダボウルの、並立共存型多文化主義の限界点。
これが、見えにくい辺りで執拗に残存しているのだ。
一方は、「お伽噺」のうちに収斂されて手に入れた、「仮想危機のモデル」の提示でしかなかったが、他方は、酷薄なリアリズムに搦(から)め捕られた果てに、また一つ増やした死体を置き去りにして、観念系の自縄自縛(じじょうじばく)が袋小路の泥濘の中で藻掻(もが)いていた。
(注3)NHL(北米のプロアイスホッケーリーグ )には、伝統的に人種差別の風潮が色濃く残っていて、黒人選手の活躍は近年の傾向である。しかし、人種差別の風潮の問題以上に大きいのは、NBA(北米のプロバスケットボールリーグ)やMLB(メジャーリーグベースボール)と異なって、装備コストの問題など、ホッケー選手になるための経済的ハ―ドールの高さという障壁がある。
7 「母の非難を黙々と受容する息子」を演じ続ける男の「単純学習」の落とし所 ―― ネガティブな反動形成に流れないグラハムの軟着点
最後に、グラハム刑事の「小クラッシュ」についても言及しておこう。
グラハムは、弟ピーターの行方を母から求められていた。
一向にピーターを探そうとしないグラハムは、母から責めるばかりだった。
そして、自らが視認したピーターの死体。
「悪いのはお前だよ。探してと頼んだのに、ほっとくから。あたしらなんか、どうでもいいのさ」
落胆する母から下された裁きの理不尽さに、ひたすら耐えるばかりのグラハムには、この方略しかないのだ。
一方的に非難し続ける母の攻撃性に、ひたすら耐えて、耐え切ること。
これが、彼の母に対する基本的なスタンスである。
「あなたが甘やかしたから、弟はあんな自堕落な人間になってしまったのだ」
恐らく、彼の心中では、このような思いが塒(とぐろ)を巻いている。
この把握が、グラハムをして、「ひたすら耐えるだけの長男」を演じ続けさせてきた心理的文脈だろう。
これを見て分かるように、彼の「自己正当化の圧力」は、決してネガティブな反動形成に流れていくような声高の推進力になり得ない。
しかし、この把握によって括られている思いが、母に対する攻撃性に転嫁しないのは、屈折的に捩(ねじ)れて延長されてきたはずの母子関係を通して、彼が学習し得た、それ以外にない軟着点であったに違いない。
だからこそ、グラハムは、「母の非難を黙々と受容する息子」を演じ続けていかねばならないのだ。
ピーターの死によって、そんな「厄介」な母が自分に軟化し、擦り寄ってくるイメージなど、彼の中では持ち得ないだろう。
寧ろ、グラハムに対する母の攻撃性は、愈々(いよいよ)尖り切ったものになっていくと思われる。
「もっと頻繁に母を訪ねて、優しく振る舞おう」。
恐らく、これ以外に、彼の「単純学習」の落とし所はないであろう。
その意味で、本作の主要な登場人物が絡み合ったエピソードで拾われた、幾つかの「クラッシュ」の様態の中で、最も変容し切れなかった人物こそ、このグラハムではなかったのか。
そう思われる。
8 複雑な人間関係の交叉をパズル化し、ゲームを解く異質の快楽を挿入した群像劇の瑕疵
思うに本作は、厳密に言えば、殆ど例外なく、「無傷」で生還する者が存在しない一篇であった。
「魔法のマント」のララもまた、「お伽噺」のからくりが認知し得る年齢になった頃には、「銃アレルギー」への過敏な反応を示す少女になっていくだろうし、唯一、無傷で生還したと思われるドリもまた、自分が抱懐した最も悪いイメージに沿った行動を、父が本当に遂行してしまったことで、父に対するスタンスが、一層リアルなものになっていくものと考えられる。
今はまだ、「私の天使」という「お伽噺」への情感濃度が希釈化されず、その延長線上で「複合学習」への道を開くに足る心理的文脈が生きていることで、特段の「えも言われぬ安堵感」が延長されているだろうから、少なくとも当面の間、遣り過ごす時間の余裕があるかも知れないが、実際問題、「魔法のマント」の「お伽噺」は継続力を持ち得る訳がないのである。
だから私は、本作が、前述したように、「予定調和の感動譚」と括るのは誤読であるばかりか、軽薄ですらあると考えているのにも関わらず、そのような印象を観る者に与えた瑕疵について、本稿の最後に、一言加えておきたい。
僅か2日間に満たない時間の制約の中で、「ライアンとクリスティン」、「ハンセンとキャメロン」、「グラハムとピーター(死体)」の出会いという、3つの偶然を嵌め込んだエピソードに象徴されるように、複雑な人間関係の交叉をパズル化し、恰もゲームを解く異質の快楽を挿入することで、人間の心理の複雑な振れ方を、極めて精緻に練られた映像作品とは些か切れて、あまりに上手にまとめ過ぎてしまった瑕疵 ―― これを感じざるを得ないのだ。
従って、私にとって最も完成度の高いと評価する ロバート・アルトマン監督の「ショートカッツ」(1993年制作)が達成した群像劇と比較すれば、映像構築力の差は歴然としていると言わざるを得ないのである。
(2012年4月)
ポールハギスの「サードパーソン」を先ほど見ました。
返信削除「告発のとき」と「スリーデイズ」には本当に感動させられたので、かなり期待してみました。ところが、「案外分かりづらい映画だな」というのが、最初の印象でした。普段でしたら途中でやめていたと思います。でも今回は最後まで鑑賞する事にしました。
最近こちらのブログを拝見するようになって、大げさに言えば私の中での「映画の復権」が起こっているような気がしています。
映画の歴史を見た時に、最近の映画はその主題伝達能力において退行しているのではないかとずっと思っていました。
私が好きな昔の映画というのは、どれも主題がはっきりしていて、伝えたい事が分かりやすく伝達されるという作品が多いです。監督や制作者の主張を伝えるという映画の一面を私は強く求めすぎたのか、最近の映画は何を言いたいのかよく分からないなーという印象を受ける事が多くなっていました。
おそらくそんな気持ちで「サードパーソン」見ていたら、「何のこっちゃ」と片付けていたでしょう。
しかしながら、トリヤーやハネケに関するこちらの作品評を読み進めるうちに、やはり映画も音楽やその他の芸術と同じように、常に進化しているのだろうかと思うようになりました。そうでなければ、理解する事が出来なくらい深い映画が多いと言わざるを得ない気がします。単純に見る側の処理能力不足なんだろう、と。
少しくらい人より映画に関して理解出来ていると思っていても、所詮上には上がいるんだという事をやっと気づかせていただいたような気がしています。
どんな有能な社員や社長であっても、結局は上には上がいるっていう認識を常に持っていなければいけないとも感じています。
学ばせていただいております。
最近年下の知り合いの女性が大失恋をしたと嘆いていたので、「覚悟の一撃」の中で書かれていた、河を渡らなければ得られない物があるという話をしてあげました。
私にはなかなか理解が難しい文章ですが、少し背伸びをして読み進める事を今は楽しく感じています。感謝です。
「覚悟の一撃」まで読んでくださり、感謝いたします。
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