
世間の目に触れないスポットと化す、深い森の奥にある重度障害者施設。
この施設で非正規の職員として働き始めた堂島洋子(以下、洋子)に惹かれ、相談に乗っていく坪内陽子(以下、陽子)。
左から洋子、陽子、施設の責任者 |
処女作で文学賞を受賞した洋子が著名な作家であると知ったからである。
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陽子 |
自らも小説家を目指しても思うようにならず、酒で鬱憤を晴らす陽子は坪内家の日常に馴染めず、ストレスを溜めるばかりだった。
「さっきパパ、私の仕事、誇らしいと言った。そういって簡単に嘘がつける人なのよ。見たことある、施設の中?見たことないのに、なんで分かるの?」
陽子の母(左) |
繰り返し浮気しても怒らない母を誹議するのだ。
食前の祈りを唱えるクリスチャンの欺瞞に我慢できないのである。
トラウマを共有しながら助け合っていくものの、時には抱えているものの辛さが耐え切れず軋轢を生んでしまう。
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昌平 |
先天性心疾患の我が子・昌一(しょういち)を3歳で喪い、堪(たま)らずに我が子の写真を大画面で見ている夫・昌平。
その部屋に入って来た洋子に、昌平は嗚咽含みで「ごめん」と答える。
「何で謝るの」
「俺は大きい画面で見たくなって…でも、師匠(洋子をこう呼ぶ)のことは分かんないから」
「気遣いのつもり。その方が嫌なんだけど」
「そういうんじゃないよ。それより仕事の方はどうなった」
「大変に決まってるでしょ。代えができない人、相手にしてるんだから。いいよね、あなたは夢を追いかける時間があるから。自由でいいわ。いつも無責任で。ヘラヘラ笑って、好きな時にすぐ逃げられるから」
この遣り取りで、洋子が小説家を廃業したことが判然とする。
その洋子は徘徊する障害者に暴力を振るいながら部屋に押し込める職員に対して、「いいんですか?」と小さく問うが、返ってきた言葉は「いいんですかも何も、これがここのやり方ですから」 ―― これだけだった。
「陽子ちゃんには、話せそうな気がする」
「何でも話してください」
「かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こるっていう言葉があるんだけど」
「知ってます。旧約聖書(注)ですよね」
「あたし、子供がいたんだけど、生まれつきの病気があって、また同じようなことが起こる予感がして、怖い。夫には、言えない。これ以上、辛い思いさせたくないから」
嗚咽含みの洋子の告白を受け止める施設職員の陽子。
こういう時、一番頼りになるのは程ほどの心理的距離にあって、物理的距離が近接する特定他者の方が話しやすいのだろう。
定職に就くのも覚束(おぼつか)ない夫・昌平との紐帯(ちゅうたい)が堅固であっても、喪失感の大きさと42歳の高年齢出産で迷う洋子には、却って緊張感が増し、心の安らぎが得られないから辛いのだ。
(注)旧約聖書における教訓の書「知恵文学」(「ヨブ記」「箴言」「伝道の書」、「詩篇」の一部)として知られる「コヘレトの言葉」より。
体が全く動けず、光にも反応せず、目も見えないし音も聞こえないきーちゃんの話をする陽子の思いも寄らない告白。
「やっぱり、この仕事嫌いなんです。小説のためになればいいなと思って無理してるんですけど。洋子さんもそうですよね…知ってました?きーちゃんは、この園に来るまでは歩けたんです。でも、暴れるからって、身体縛り付けて拘束して、それが10年以上続いて、足が動かなくなったそうです。元々は目も少し見えていたんで、でも、暗くした方が落ち着くって、誰かが勝手に決めて、ああやって窓を塞いだんです。それから、高城(たかひろ)さんっていう人の部屋は外から鍵をかけて、ずっと閉じ込めてます。誰も近づいちゃいけないんですって。そういうのって隠蔽されるじゃないですか。この社会にとって不都合なことは、全て隠蔽です。そういう施設の闇が事実としてあるんです。私はここで色々見てしまいました」
深刻な表情でその話を受け止める洋子。
その直後、陽子は両親に施設での虐待の実態を語り始めた。
「ある入所者はね。夜、フクロテナガザルみたいな声を上げるよ。すごい声でね。勿論、虐待もある。ある職員は、身動きが取れない入所者の肛門の中に、ネジ入れたって噂もある。金属のネジだよ。信じられる?」
「この前の(小説の)コンテストがまだショックなんだろ」と父。
「最近少し、飲み過ぎだしね」と母。
「でもね。施設の中より、こっち側の世界の方がよっぽど狂ってるかも。躾(しつけ)と称して、あれだけ私を体罰で苦しめたパパも、今じゃ、隠れてこっそり色々やっちゃってるみたいだし」
「やっぱり、最近変よ」
一方、若い職員の“さとくん”(便宜的にサト君と表示)は、意思疎通ができない患者たちに手作りの紙芝居を読み聞かせる熱心な青年だったが、それを見せられる障害者たちの反応が鈍かった。
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サト君 |
そのサト君を含めて、洋子の家に招かれた陽子は、酔った勢いで、洋子の小説の批判をする。
「結構、いいと思いました。でも、刺さりはしませんでしたね。結構、何て言うか、奇麗ごとが多い気がして…震災を描いているのに、実は、震災に向き合っていない感じがしたんです。現にネットの評価では、嘘っぽくて、好きじゃないっていう意見が多かったですし。震災のこと、ちゃんと取材しました?」
「被災地に行ったよ」と洋子。
「何で震災を書こうと思ったんですか?ウケると思ったから?」
「出版社からの要請があって」
「あたしも、震災直後に被災地に入って、小説のために取材しました。津波で流された後の匂い、凄かったですよね。正直、臭かったです。ですよね?でも、この匂いは、本には書かれてませんでした。洋子さん、それであたし、見たんですよ。夜の闇に紛れて、津波流された後の遺体に覆いかぶさるように蠢(うごめ)く影。何かなと思って見たら、遺体の指から指輪抜いている人の影でした。あと、瓦礫ってほんとに色んなものがあるんですよね。写真とか、家財道具とか。でも、素敵なものばかりじゃない。私はピンクローター(バイブレータのこと)が落ちてるの見ました。でも、それだって人間の事実じゃないですか。洋子さん、あなたの小説には、そういう人の暗部が全く書かれてませんでした。気持ちは分かりますよ。そういう表現が許されなかったんでしょうね、色んな意味で。でも、都合の悪い部分を全部排除して希望に塗り固めた小説書くって、それ実は、善意じゃなくて、善意の形をした悪意なんじゃないんですか?…新しく子供ができて、どうだったんですか?もう、堕ろしたんですよね?なかったことにしたんですよね?すいません。酔ってます。嘘が許せなくて」
「新しく子供ができて、どうだったんですか?もう、堕ろしたんですよね?」 |
その洋子は編集者から、もっと感動的に、読者を励ますような小説を書くようにと忠告を受けていたのだった。
「それ(読者を励ますこと)が小説の力じゃないですか」 |
「それから、何も書けなくなった」(洋子のモノローグ)
もう一つ、この4人の親睦会の中で、死刑執行の際の死刑囚について語るサト君の話が気になった。
「あと臭いもかな。死刑執行の際はやっぱり糞尿を撒き散らしてしまうそうなんです。昌平さん。だから人が死ぬ時の音とか臭いには拘(こだわ)った方がいいです。それが人の事実ですから。どれだけ恰好つけても、音とか臭いには嘘をつけません」
陽子の話の文脈とオーバーラップするものの、そこに死刑執行に対するリアルな言辞が含まれていることは看過できなかった。
実際、他者とのコミュニケーションが成立しないで生きる重度な知的障害者(注)の世話をするサト君は、共に世話をする看護師に向かって言い放つ。
「これで、ただ栄養入れて、ただ漏らしていくばっかり。ただベッドの上で。可哀想ですよ」
この話に反応しない看護師に苛立つ男は、今度は障害者(きーちゃん)に言い放つ。
「あんたは何なんだ。何のために生まれてきた。何で生きてるの。なあ、何のために生まれてきた。可哀想に…」
男の思考が直截(ちょくさい)に言語化されていくのだ。
(注)成人のIQの平均値が90~109程度に対して、知的障害者のIQは70未満とされる。またIQが70~84の場合は「境界知能」と呼ばれる。
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境界知能 |
洋子は今、きーちゃんのベッドに行って、静かに語りかける。
「きーちゃんには何が見えてる?見えてるんだよね。私は自分の子供が死んで、何にも見えなくなったよ」
きーちゃんの顔が、いつものように写し出されていた。
2 「私はあなたを絶対に認めない…皆、生きてるの。頑張って、生きようとしてるの」
妊娠した事実を昌平に告白する洋子。
「妊娠したの。今、お腹の中にいる…でも怖い。普通の子なのかどうか…今の所で働いて改めて分かったけど、奇麗ごとじゃ全然済まない。お金も必要。子供が二十歳になった時、私たちは60を過ぎてる。私、自分が生み出すものに自信が持てないの。また同じ思いをするのは、もう耐えられない…やっと言えた…ごめん。やっと言えた」
「妊娠したの。今、お腹の中にいる」 |
「子供が二十歳になった時、私たちは60を過ぎてる。私、自分が生み出すものに自信が持てないの」 |
ここまで告白され、その辛さを受け止めた昌平は嗚咽しながら応えていく。
「何も気づけなかった俺が悪い」
沈黙の中で二人は墓参りする。
「産んでいいのか 分からない」
「俺は今、最高にうれしいよ」
「私だって同じだよ…でもね…」
ここまで話したところで、「俺だって限界だよ」と言うや、昌平は「やったー!やったー!」と繰り返し叫ぶのだ。
一方、サト君が紙芝居をすることに対し、施設の先輩から「余計な仕事を作るな」と詰(なじ)られる。
「俺たちの無駄な仕事が増えてんだよ。な、あんま調子こいたことしてんじゃねぇよ。意味ねぇんだから」
笑っているだけのサト君。
「やっぱ、このバカに何言っても無駄だな。もしかして、お前もあいつらと同じなんじゃねぇか」
「ニヤニヤすんな」と頭を叩かれ、紙芝居を破り捨てられるサト君。
高城の部屋から音がしたと言って、洋子が陽子と共にサト君を探しに行くと、きーちゃんの部屋で、破られた紙芝居を月の形に切って、壁に貼っていた。
「きーちゃんに、月ぐらい見せてあげたいなぁと思って。見えるか分からないけど。バカでしょ、俺」
「きーちゃんには見えてるよ。見えてるに決まってる」
それから、サト君と共に3人で高城の部屋へ行き、鍵で開けた途端、激しい異臭が放たれ、洋子と陽子は思わず口を塞いだ。
「こんばんは」とサト君が懐中電灯で部屋の中を照らすと、高城のオムツが転がって、糞に塗(まみ)れた高城が恍惚とした顔をしてオナニーに耽っていた。
呆然と立ち竦むサト君は、「違う。俺とあんたは違う」と呟く。
異変の前兆である。
事務室に戻った3人。
「洋子さんと僕は同じです。考え方が同じです。洋子さんは、無駄なものならいらない、そう思ったんですよね」
「ごめん、言ってる意味が分からない」
「あの悍(おぞ)ましい臭いは事実ですよね。人間じゃない奴はいらないです。僕は洋子さんと同じ考えです」
そう言い放つサト君は恋人の聾啞者・ショウコの前で大麻を吸っている。
ショウコに対して、「何か言いたそうだね?」と手話で尋ねる |
浮かない表情でそれを見つめるショウコ。
洋子もまた、施設で経験した異様な出来事を観察する中で、それを小説にする意思を固めていた。
彼女の心の中で、小説家としての本来の向き合い方が初めて身体化されていくのだ。
夫婦はここで重要な約束をする。
出生前診断(注)を受けるか否か、そして、その後にどう決断するかについての重要な判断を次回の検診の日(二人が出会った日)までに決めるというものだった。
「どういう結論になったとしても、俺はあなたの意思を尊重しようと思う」
「私も同じ。あなたの思いを大切にしたい」
「じゃあ、それまで解散」
(注)出生前診断(「しゅっせいぜんしんだん」、「しゅっしょうまえしんだん」)とは胎児の発育や異常の有無などを調べる検査のこと。陽性が出た人の中で最も多かったのはダウン症(21トリソミー)である。
机に向かって書き始める洋子。
「私はここにいる。ただ存在している。理由はない。意味もない。うまく思いを伝えられない。でも、やっぱり確かに存在している。当たり前だが、人間として存在している。人間というものが、何なのかは分からないが…。多分、私は人間のはずだ。私も、あなたも。誰もが、同じ人間のはずだ。目は見えなくても、世界が見える。私にしか見えない世界が見える。耳が聞こえなくても、音は聞こえる。感じる。だから同じなのだ。私はここで孤独を感じながら、ひっそりと存在している。全ての人と同じように」
「私も、あなたも。誰もが、同じ人間のはずだ」 |
洋子がきーちゃんと心を通じ合わせていると、きーちゃんの母親が部屋に入って来た。
「あなたみたいな職員さんがいてくれて、本当に嬉しいわ。心なんてないだろうって、そういうこと言う方いらっしゃるって聞いたから」
きーちゃんの母 |
洋子は施設長に、施設内の暴力や虐待、身体拘束について抗議するが、県のマニュアル通りに適切な支援をしていると反論され、相手にされない。
嫌な予感がする洋子は、サト君に何を考えているのかを直截に訊ねた。
「普通のことですよ。全然人じゃない奴ら、生産性がない障害者を安楽死させようと思ってます。早く答えを出さなきゃ、出さなきゃって思ってたんですけど、ようやく決心がつきました。頑張ります。この国のためです。意味のないものは僕は片付けます…3.11の震災もそうでしたね。あれって、現実でした?僕、あの津波の映像を見るたびに、今でも悲しくて悲しくて、まるで現実には思えないんです。でも、数年経って、皆、興味失っちゃってるじゃないですか。これが現実です…この頃、よく考えるんです。これだけ働いても、手取りは月17万円で、誰にも感謝されません。それどころか、同僚たちからバカにされます。友達からは、なんでそんな仕事してるんだって言われます。これは現実です。それでね、洋子さん、僕は思うわけです。何かを変える必要があるかどうか…変えた方がよくないですか?」
男は両手を耳に当て、「はい、分かりました。僕が変わりにやります」と独言する。
「ああ、また誰かに見られているような気がする。多分、賛同者たちですね。僕には賛同者が多いんですよ。行動に移したら、もっと増えますよね」
「悪いけど、理解できない。サト君に賛同者なんていないよ」
「冗談ばっかり。洋子さんは賛同者でしょ。洋子さんも、普通の子供じゃなかったら嫌でしょ。ですよね?」
「違う。その問題とは本質的に違うの」
「違いません。建前はいいんです。僕は隠された本音の部分を話しているんです。ね、同じでしょ?…政治家の皆さんは、できることをやってくれています。僕はバカですけど、僕にできることをしっかりやりたいんです。だからこの件は僕にやらせてもらいたいんです。これで、やっと僕も一角(ひとかど)の男になれます」
「誰も、そんなの望んでない!」
「え?一度も?一度も思ったことないですか?」
「人を傷つけるのはダメ。そんなこと、許されないよ!」
「すいません、人ってなんですか?…あいつらは人じゃないんですよ。だから僕、ちゃんと聞きますよ。やる前に。“あなた、心ありますか?”って」
男は、目標は2つの施設で260人だと言い、衝動だけでは無理で、「絶対に頑張るという強い気持ちと持久力が要ります」と話すのだ。
「優生思想って知ってる?何か、誰かに影響されてるの?例えば、ナチスとか」
「ナチスは好きじゃないので知りません。あいつらは悪人です…人を殺すのはいけないことなんです。僕のはそういうのではありません。全く違います。普通です…」
「私は、認めない」
男は、施設の実態を知っているのに何もしなかった洋子を「ズルい」と言う。
「神様もここの現実を見てないでしょうね。誰にも見られていないから、皆、滅茶苦茶するんです。でも、そのお陰で僕は真実に辿り着いたのです。やっぱり、あいつら障害者はいらないんだって。それが、この社会の隠された本音ですよ。つまりね、この施設は幸か不幸か、社会そのものなんですよ」
この言辞を受け、洋子は自問自答していく。
「また昌一みたいな体だったらいらないって考えたんでしょ。ねえねえ、じゃ、きーちゃんが家族ならいい?頬を摺り寄せてハグできる?可愛いねってキスできる?……」
長々と続く葛藤の中で、洋子は断言する。
「私はあなたを絶対に認めない…皆、生きてるの。頑張って生きようとしてるの」
「皆、生きてるの。頑張って生きようとしてるの」 |
3 「これから先、どうなるとしても、これだけはまず最初に言っときます。この先も頑張って、一緒に生きていこう」
程なくして、サト君は政治家に自分の計画を書いて手紙を出したことで、措置入院のため連れて行かれた。
しかし、2週間後に退院し、迎えに来たショウコの車に乗った後、その足で昇平を訪ね、自分の殺害計画に誘う。
「俺はあなたと同じ考えです。あなたの作ったあの人形劇。船からのっぺりした顔の人たち、どんどん投げてましたよね。あれは、いらないから投げていたんでしょ?覚えてます。月がとてもキレイでした」
「よく分からない。俺の、息子が排除された?君のその主張と、俺の息子に何の関係があるの?」
「無駄なもんに税金かけるぐらいなら、あなたの息子さんを救えって話ですよ…」
「お前は、生きるってことが何なのか、分かってねぇんだな。俺の息子は、必死に生きようとしてたよ。舐めたこと、言ってんじゃなねぇぞ!」
昌平は思わず、サト君の頬を殴ってしまう。
「俺は、お前みたいな奴、一番嫌いなんだよ!それと、いいか。師匠に手を出したら、お前、殺すからな!」
その直後、昌平がサト君に殴り返されたことが分かる映像が提示されるが、昌平がそれについて言及することはない。
程なく、ショウコを抱き締めたサト君は、ショウコの聞こえない耳元で囁く。
「俺ね、今夜、障害者たちを殺すよ。この国の平和のためにさ」
そのショウコに手話で「愛してる」と告げると、ショウコはメールで「2人で良い人生を送りたい」と返事を送る。
サト君は髪を金髪に染め、殺害の準備を整えて、車で施設へ向かった。
洋子は原稿を書き上げ、昌平がそれを労う。
洋子が昌平の顔を見ると、サト君に殴り返された傷に気づく。
それを誤魔化す昌平は、応募した作品がフランスの映画祭で受賞したことを報告する。
「賞金は5万円ぐらいなんだ。本当に小っちゃな映画祭だから」
「関係ない。すごいよ、5万円」
二人は涙を流し、喜び合う。
一方、施設に到着したサト君は、ハンマーで入り口のガラスを割って侵入し、入所者の部屋へと走る。
「こんばんは。サト君です。お待たせしました。ちょっと確認させてください。あなた、心ありますか」
懐中電灯に照らされた入所者は、無言でサト君を見つめ返している。
返事がないことで、サト君はその入所者を殺害し、次々に入所者の部屋に行き殺人を繰り返す。
施設内を巡回していた陽子を見つけたサト君は挨拶をすると、血塗れのサト君を見て怯(おび)える陽子の手を縛る。
「ちょっと手伝ってもらえる?今日はウソついちゃダメだよ」と言って、入所者の部屋へ連れて行く。
「これは、話できる?」
陽子が首を横に振ると、目の前で入所者を殺害し、また次の部屋で同じように尋ねるが、今度は泣きながら「話せる」と陽子は訴える。
しかし、次も「話せる」と陽子は言うが、サト君はそれが嘘だと無視して、次々に殺害し続けるのだった。
そして、遂にきーちゃんの部屋に来たサト君は、「可哀そうに」と言って、釜を振り下ろすのだ。
不穏な気配を感じて目を覚ました洋子は、昌平と回転寿司屋に向かうと、パトカーの音を耳にする。
店のテレビのニュースで、昨晩の施設で起きた事件について知った昌平は、そのことに触れず、結論を出そうと言う洋子に自分の考えを話し始める。
「これから先、どうなるとしても、これだけはまず最初に言っときます。この先も頑張って、一緒に生きていこう」
大きく肯く洋子。
「で、俺、昌一のこと、今でも大切に思ってる。それで、あなたのことが好きです。この二人のことが、一生好きです」
笑みを浮かべる洋子だが、昌平が立ち上がってテレビのニュースに目をやり、洋子も画面を見て、その事実を知って衝撃を受ける。
施設ではきーちゃんの母が事情を知って号泣する。
洋子は、「やれること、やらなきゃ」と言うや、急いで店を出ていこうとするが、振り返って正平の元に戻る。
「私もあなたのことが好きです」
洋子は手を差し出し、昌平と手を握り合うのだった。
4 武装可能なゾーンを広げ、虚実の境界を破壊していく
障害者の存在を否定し、差別を助長した旧優生保護法(現在・母体保護法)は我が国の現代史の最大の汚点である。
熊本県におけるハンセン病患者隔離政策の中心人物でもあった参議院議員・谷口弥三郎(日本進歩党/のちに日本医師会会長)、加藤シヅエ(日本社会党)、太田典礼(日本社会党)、福田昌子(日本社会党)ら超党派議員の議員立法として、1948年6月12日に再提出され、衆議院で6月30日に全会一致で可決され、7月13日に法律として発布された優生保護法は、多くの国民に知らされない状態で制度化された障害者差別法である。
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谷口弥三郎と加藤シヅエ |
「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」
「遺伝性疾患の素質を持つ者」に対し不妊手術の実行や、「健全な素質を持つ者」の人工妊娠中絶を制限することなどが定められ、1940年に制定された「国民優生法」が優生保護法の前身となり、人口増加を図る政府の方針によって人工妊娠中絶が認められなかった戦時期の教訓を踏まえ、同意のない手術の合法化と化す人工妊娠中絶の一部合法化なども含め、戦後の混乱期の人口急増対策として8年後に成立し、翌年には中絶の条件に「経済的理由」が加わり、改正されていく。
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優生保護法 |
これが優生保護法の歴史的背景にあるが、何より、立法のコアにあるのは、欧米列強の植民地支配を正当化するために用いられた「社会ダーウィニズム」(自然淘汰や生存競争の観念を人間社会に適用)という「優生学」の基幹的論理だった。
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社会ダーウィニズム |
要するに障害者は不要であるという思想である。
その対象となったのは、精神・身体・知的・神経(運動神経・感覚神経)障害のほかに、ハンセン病患者、性的異常者、浮浪者など広範囲にわたっていて、驚きを隠せない。
彼らに対する強制的な不妊手術を認める立法が約半世紀も続き、およそ25000件もの優生手術の件数が存在する事態に身震いする。
現在、複数の訴訟の結果として、不妊手術を強制された被害者に対して320万円の一時金を支給する「強制不妊救済法」が成立・施行しているが、あまりに長い時間をかけ過ぎた。
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【旧優生保護法』訴訟】全国弁護団が<全ての被害者>補償する新法の成立を国へ要望へ |
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【国を提訴】旧優生保護法下で不妊手術 脳性まひ75歳女性 |
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強制不妊救済法が成立 首相「心から深くおわび」 |
各首相 被害者に会って直接に謝罪する。
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岸田首相が直接謝罪「政府の責任は極めて重大」 面会した被害者夫婦「本当に悲しい経験をしたんだと分かっていただけた」 |
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石破首相、旧優生保護法の被害者に「政府の責任は極めて重大」と謝罪 |
元々、江戸時代には精神障害者を私宅に閉じ込め、軟禁する「座敷牢」が存在したが、明治時代に、精神科医・呉秀三(くれしゅうぞう)によって徹底的に批判された「私宅監置」(「精神病者監護法」)という形で制度化されていった歴史がある。
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座敷牢 |
沖縄では、本土復帰する1972年まで続いた「座敷牢」の合法化である。
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沖縄本島北部に残る私宅監置跡。中は暗く、頑丈な鉄の扉が付いていた |
呉秀三の努力が実り、「精神病院法」が制定されることで「私宅監置」から入院制度に移行するが、地方においては精神障害者の管理は、社会の負担を軽減する家族中心主義の「私宅監置」が過半となる状態が続き、その背景に「治療なき監禁」を是とする「座敷牢」の発想が社会通念と化していた事実をも無視できないだろう。
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日本の精神医学・医療の祖といわれる医師、呉秀三(1865~1932年) |
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映画『夜明け前 呉秀三と無名の精神障害者の100年』 |
今なお、「宇都宮病院事件」・「大和川病院事件」・「滝山病院事件」等々で問題化されている、精神障害者への虐待が横行する現実に言葉が出ない。
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殺人・暴行事件の舞台となった報徳会宇都宮病院(ウィキ) |
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「<東京NEWS2023>(6)滝山病院の患者虐待事件 精神科医療の課題浮き彫り」より |
―― ここから映画について言及する。
虚実の境界に翻弄され、自己基準の心理的なバリアを極小化し、非武装なゾーンで呼吸を繋ぐ陽子。
虚実の境界を破壊し、自己基準の物理的なバリアを無化し、常に臨戦態勢にあって武装可能なゾーン広げていくだけのサト君。
虚実の境界に遊ばれることなく、自己基準の心理的なバリアを維持しつつ、非武装なゾーンに合理的に対応していく洋子。
そして、その洋子にピッタリ寄り添って共有するラインを守らんとする昌平。
この4人の主要登場人物の中で、誰が世間の常識・良識・道徳から乖離しているか自明である。
「この国の平和のために障害者たちを殺す」と恋人に言い放ったサト君の観念の錯乱は、洋子に言い切った以下の言辞で明らかである。
「これで、やっと僕も一角(ひとかど)の男になれます」
障害者たちを殺すことが、世間に対する男の評価を上げるのだ。
然も、自らが犯す行動を待ち望む多くの仲間がいる。
男には、自分が考えていることはは多くの人も考えているという厄介なバイアスがある。
これを心理学で「フォールス・コンセンサス効果」と呼ぶ。
だから、洋子や昌平に対して、こう言い切った。
「洋子さんは(僕の)賛同者でしょ。洋子さんも、普通の子供じゃなかったら嫌でしょ。ですよね?」
「俺はあなた(昌平)と同じ考えです。あなたの作ったあの人形劇。船からのっぺりした顔の人たち、どんどん投げてましたよね。あれは、いらないから投げていたんでしょ?覚えてます。月がとてもキレイでした」
こんなことを言われて、二人が反駁(はんばく)したのは当然のこと。
この男の思考の単純さが露呈されているのだ。
洋子が子供を産むことで葛藤しているのは、昌一を先天性心疾患で喪った喪失感の中で、その悲哀で苦悶したトラウマと、新生児が同様の疾患で悶苦する辛さに耐えられないからであって、単純に「普通の子供じゃなかったら嫌」などというレベルの反応ではないのだ。
反駁する洋子 |
普通の人間の内面の葛藤のリアルを、「意思疎通のできない障害者は物理的に排除する」などと侮言(ぶげん)する男の、救い難き優生思想の賛同者と決めつける愚昧さが、この男の中枢に蔓延(はびこ)っているのは明白である。
ついでに書けば、各フィールドにおいて、優れた能力を保持する者の遺伝子を残す一方、これらの能力に劣っている者の遺伝子を選別し、物理的に排除した結果、優れた能力を保持する人類の遺伝子が後世に継承されていくから、人類それ自身の「進化」が約束される。
かくて、劣等遺伝子を排除することで、「意思疎通ができない障害者」の存在は不要と化し、社会的に淘汰されていく。
これが、「保護」と「排除」によって成る、「優生思想」の基本的骨格であるということだ。
サト君と自称する男の優生思想は、昌平の人形劇での解釈でも明白だった。
のっぺりした顔の人間を船から投げる人形劇を、「個性を持たない障害者」(のっぺりした顔の人間)を海に投棄する話として捉え、その一点にのみ感動し、「俺はあなたと同じ考え」などと独善的な判断を下してしまう度し難い男の単純さ。
まさに、虚実の境界を破壊し、自己基準の物理的なバリアを無化し、「フォールス・コンセンサス効果」に依拠して武装状態を常態化していくのである。
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フォールス・コンセンサス効果 |
加えて特徴的なのは、自分の能力を過大に評価し、他者の能力を過小評価する。
且つ、他者からの賞賛を得ることを目的に行動する傾向が顕著で、自分を「特別な人間」と思い込み、特権意識を有するから、蔑(さげす)む対象となる他者を探し出す。
そこに共感性の欠如が併存するので制御不能と化す。
彼の観念・行動様態を推し量る限り、その思考・感情・行動の偏りにおいて、「自己愛性パーソナリティー障害」と呼称される人格障害(注)の発現としか考えられないのだ。
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洋子の家で絵を描いて、その才能を賞賛されるサト君 |
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自己愛性パーソナリティー障害 |
(注)人格障害の定義は難しいが、総じて、日常生活に支障をきたす思考・知覚・反応・対人関係のパターンが長期的、且つ全般的にみられる精神疾患とされている。
彼の攻撃性を象徴するエピソードがある。
絵が得意なサト君が施設の知的障害者に対して、手作りの紙芝居を披露した。
そこでの彼の語りを再現してみる。
「『欲張り爺さんがシロの言うとおりに土を掘る。掘っても掘っても石ころばかり。それでも掘って行きますと』…僕はね、ここが好きなんです。『ぷ~んと嫌な匂いがして、とっても汚いものがウジャウジャと出て来ました。欲張り爺さんは、クサ~いと叫んで、鼻をつまみました。そして、腹立ちまぎれに、いきなり鍬を振り上げて、シロの頭にガツンと打ち下ろしますと、可愛そうに、シロは一声、キャンと泣いたきり、死んでしまいました』。臭くて汚いモノって、なんだろうね」
この紙芝居を貫流するのは、嫌な臭いを発する汚いものをシロに見せられた爺さんが、そのシロを殺す行為を正当化するという邪(よこしま)な思考である。
因みに、仕事で成功し、評価されているのにも拘らず、他者からの評価を否定し、自己を過小評価してしまう「インポスター症候群」という概念があるが、変化や失敗を異様に怖れるという心理学的特性において、男の思考回路とは完全に真逆な性向が読み取れるのだ。
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インポスター症候群 |
「嘘みたいな月が出てます。月って時々、嘘みたいに見えますよね。でも、これが現実なんです」
これも男の言辞。
恐らく、地球から見ると光が当たっている、昼側の細い弓形の月・三日月を「嘘の月」として否定し、真っ暗な月の夜側にこそ地球がある現実を知るべきだと言いたいのだろう。
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細い弓形の月・三日月 |
―― 以上が、この映画から読み取れるサト君の心理分析。
次に、虚実の境界に翻弄され、精神的に自壊している現実を極小化した自我が非武装なゾーンで呻く陽子の性向は、以下の彼女の物言いで判然とするだろう。
「洋子さんには分からないと思いますけど、才能がないっていうのは結構、残酷なことなんです。自分が何のために生きているのか、時々、分からなくなります。いつも嘘ばかりついているから、もうボロボロに壊れているんです、私」
このようにして必死に自己防衛する生き方もあるということである。
そして、何より印象深いのは、洋子にピッタリ寄り添って共有するラインを守らんとする昌平について一言。
この映画で施設に関与することなく、施設に対する告発者としての洋子を命を懸けて守らんとする昌平の存在は、本作を根柢的に救っているヒューマニストであり、理想に向かって普通に努力し続ければ、いつの日か必ず報われるというフラットだが、大切にすべき訓話になる格好の登場人物であった。
―― 本稿の最後に、この施設での問題点を行政レベルで言えば、法に基づいた監査システムが的確、且つ、厳格に遂行されない限り、それでなくても、閉鎖環境下にあって、介護士または看護師と知的・精神障害者の患者との関係の中に「権力関係」が生まれやすくなるということ。この状況が改善されないと、先述した複数の精神病院で起こった事件の発生が後を絶たないだろう。
【拙稿 時代の風景「障害者の『全人格的な生存権』と、『人間の尊厳』の完全破壊の悍ましさ」を参照されたし】
(2025年5月)
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