マルタとクラウディア |
<「『母性代行者』=マルタ」との出会いと別れの物語>
1 メキシコの海で、存分に弾け回る「5人プラス1人」の疑似家族
メキシコにある中米屈指の世界都市・グアダラハラ。
スーパーに勤務するクラウディアが、4人の子を持つマルタと運命的な出会いを果たしたのは、彼女が虫垂炎で入院するに至ったことが契機だった。
「盲腸は不要な臓器よ。一人なの?ご家族は?」とクラウディア。
「外にいる」とマルタ。
「あなたは何の手術?」
「できないの」
「じゃ、何の病気?」
この質問に答えない臨床のマルタは、ここで自己紹介し合うのみ。
まもなく、退院したクラウディアが、術後の重い体を引き摺るようにして帰途に就く。
「体に障るわ、送るから乗りなさい」
車の中からクラウディアを見つけたマルタがやさしく声をかけたことで、子供連れのコンパクトカーに同乗するクラウディア。
迎えがないクラウディアには、身寄りが遠く離れていて、独りで暮らす独身女性であることを話すが、それ以上のプライバシーの自己開示はなかった。
「僕のパパは死んだ」
これは、4人姉弟の末っ子・アルマンドの言葉。
この一言で、マルタがシングルマザーである事実が判然とする。
自宅に招待したクラウディアに、マルタは4人姉弟の我が子を紹介する。
左からアレ、アルマンド、マルタ、ウェンディ、マリアナ |
長女はライターとして働いているアレハンドラ(以下、アレ)、肉好きで肥満気味のフリーターの二女・ウェンディ、自分の母をマルタと呼ぶ思春期盛りの三女・マリアナ、そして末っ子・アルマンド。
マルタとアレの指示で、てきぱきと動く姉弟の性格は母に似て、極めてオープンで陽気である。
だから、姉妹喧嘩も絶えず、狭い家でのマルタ家の活気だけが目立っていた。
明らかに、寡黙なクラウディアとの性格の対比が際立っている現実を、この賑やかな食事の一つのシーンで見せていく。
そのクラウディアが、マルタがHIV患者である事実を知るのは、マリアナとアルマンドの学校の送り迎えをした際に、母・マルタの病院への付き添いに随行したときだった。
交代で母の付き添いをする姉弟たちと共に、そこにクラウディアが加わることになる。
「母はケチな人よ。レストランで砂糖やナプキンをくすねる。父はいないも同然」
病床のマルタに、両親がいても、全く交流がないその天涯孤独の身を告白するクラウディア。
「私が死んだら、ウェンディに渡して。夫はホメオパシー信奉者だった。だからウェンディに」
そう言って、クラウディアにホメオパシーの療法で調合する瓶を渡すマルタ。
因みに、ホメオパシーとは、同様の症状を起こす薬剤を使用することで、病気を治療しようとする民間療法(同種療法=毒をもって毒を制す)のこと。
天涯孤独の身を告白したクラウディアの思いを受け、マルタも複雑な事情を告白する。
マルタとクラウディア |
「長女・アレの父とはパーティーで知り合い、良い仲になったら失踪した。ウェンディの父とは結婚した。4年間続いて別れた。その後、アルマンドと知り合った。マリアナとアルマンドの父親。私が夫と言うときは彼のことよ。病気は彼からうつった。うつされた当初は、顔を見るのも嫌だった。しかし、彼の最期を看取った」
このマルタの告白から判然としたのは、アレの父、ウェンディの父、マリアナとアルマンドの父が異なるということ。
そして、メキシコのHIV感染率が25.6%というデータがある中で、男性間の性的接触である肛門性交の割合が最も高いと言われるラテンアメリカにあって、マリアナとアルマンドの父からHIVをうつされたという事情である。
HIVの末期症状にあるマルタ |
且つ、マルタが感染から抗体検査を受けても陰性になる、「ウインドウ期(ウインドウピリオド)」と呼ばれるHIVの初期症状をとうに通過し、今や末期症状にある事実が明らかにされる。
まもなく、スーパーの仕事に復職したクラウディアは、マルタの入院に付き添い、留守中のマルタの子供たちの相談に乗ったり、自分の職場に案内したりして、彼らの面倒を見るようになる。
そんな中での、マルタとクラウディアの会話。
「いつから一人なの?」とマルタ。
「2歳から。母が死んで」とクラウディア。
「お父様は?」
「知らない」
あっさりとした会話だが、幼少時から生い立ちの不幸を背負って生きてきたクラウディアが、「思い出」となるような記憶を持ち得ない、その孤独の様態を示唆する何ものでもなかった。
しかし、クラウディアの生い立ちに同情するマルタ自身の命が消えつつあった。
「時々、死ぬのが怖くなる」
付き添いに立ち会うクラウディアに吐露するマルタの言葉である。
海に行きたいと言うマルタの思いを汲み取って、長女のアレは、クラウディアを含む家族全員を乗せたコンパクトカーで「大移動」を敢行する。
クラウディアから遠く離れたメキシコの海で、存分に弾け回る「5人プラス1人」の疑似家族。
ハンモックに揺られて、笑顔が絶えないマルタ。
しかし、マルタの笑顔は続かない。
夜になって、吐き下してしまうマルタの苦痛が映像提示される。
心配して、母を介護するアレ。
マルタの症状の急変が、疑似家族のほんのひとときの睦みの時間を奪ってしまうのだ。
マルタの入院によって、明るく開かれたメキシコの海と訣別するに至る。
「書けるようになるには、8年は長かったけど、演じるには足りなかった。私を家に置いてたら、最後は迷惑をかける。納骨堂はお代がかかるし、忘れられそう。ずっと映画みたいに、海に灰をまいて欲しいと思ってた。でも、この旅をしてみたら、気が変わった。できれば、町中に私の灰をまいて欲しい。どこででも私を思い出すように」
マルタの遺言である。
その遺言通り、マルタの灰を町中に車から撒いていく家族。
残された家族一人一人へのマルタのメッセージが紹介された後、最後は、クラウディアへの心のこもった「マルタのことづけ」が語られていく。
「ため息は、呼吸だけでは空気が足りていない証拠よ。過去は何も知らないけど、いい男と一緒だったはず。いつまでも一緒にいて。私たちの人生に現れてくれてありがとう」
ラストシーンである。
2 「『母性代行者』=マルタ」との出会いと別れの物語
「予期悲嘆の実行」という、心理学の重要な概念がある。
愛する者の死をしっかり看取りをすれば、「対象喪失」の際の悲しみ・苦しみからの精神的復元が早いという意味である。
左からマリアナ、ウェンディ、マルタ、アレ |
しかし、「予期悲嘆の実行」の主体が子供である時、往々にして、心的外傷の危殆(きたい)に瀕(ひん)するのではないか。
なぜなら、自分の目の前で、愛する母親の死を看取ることの辛さは、大人のそれに比べれば、その心理的重圧感は相当の強度を持つと考えられるからである。
「予期悲嘆の実行」の心理学を遂行するには、子供の自我にかかる負荷が大き過ぎるのである。
「なぜ、私たちといるの?一緒にいて楽しい?」
本作の主人公・クラウディアに対して、ウェンディが放った問いである。
自由闊達(かったつ)のように見えるウェンディは、自傷行為に振れる危うさを持つ肥満気味の次女。
この次女から根源的問いを突きつけられたクラウディアは、反応する言葉を持ち得なかった。
母の死を看取る立場に置かれる負荷を常に感じているウェンディから見れば、赤の他人であるクラウディアが付き添いを申し出る真意が理解できないのだ。
そして何より、クラウディア自身、自分が赤の他人であるマルタへの付き添いをする行為の意味を、正確に答えられない内的風景を抱え込んでいる。
「ママが死ぬのを見たくないの」
「何でいつもこうなるの?」
マリアナ |
前者は、思春期スパート(二次性徴期)の渦中にあるマリアナ、そして後者は、児童期中期のアルマンドの言葉だが、愛する母の「約束された間近な死」に直面する4人の姉弟に共通する感情である。
だから、どうしても、付き添いという特別な行為に対して身構えてしまうのである。
その辺りが、「『母性代行者』=マルタ」への付き添い行為に、一種の「使命感」に変換できるクラウディアとの乖離が読み取れる。
その心理には、今まで手に入れられなかった愛情交歓の喜びを感受する思いがある。
「私が変えられるとしたら、全人生を変えたい」
クラウディア |
一人で働くアレに吐露するクラウディアのこの言葉こそ、マルタの家族への彼女の援助行動の重要なモチベーションになっているのだ。
「全人生を変えたい」と彼女に思わせるに足る感情の変容を起こさせたのが、「『母性代行者』=マルタ」との出会いであったからである。
思うに、両親の愛情を被浴できなかったクラウディアは、他者との能動的関係を構築することを避けてきて、天涯孤独の身である人生に馴致(じゅんち)し過ぎてしまっていた。
そんな彼女に、マルタからの素朴な言葉が唐突に入り込んできた。
「体に障るわ、送るから乗りなさい」
手術後の重い体で帰途に就くクラウディアへの、マルタからの温もりのある声掛けは、恋人もなく、寄る辺なき関係状況に馴致していた独身女性の中枢に沁み込んできたとき、相手の心の変容をもたらすパワーを発現していく。
程なく、そのマルタがHIVの末期患者である事実を知ったことで、クラウディアは、赤の他人の死の看取りの付き添いをする行為に踏み込んでいく。
孤独の寂しさを紛らわす行為の狭隘性を隠し込む意識。
その意識を呆気なく超えていくのだ。
クラウディアとアルマンド |
マルタの存在を「母性代行者」にする潜在的な感情が、マルタの子供たちの良きパートナーになる実践の中で昇華されていくからである。
演劇を志す思いを持ちながらも、「全人生を変えたい」と言うクラウディアの情動が心理的推進力と化し、限りなく、赤の他人であるという意識を希釈させるのである。
彼女の援助行為が、「5人プラス1人の疑似家族」という物語を仮構し、自分の必要性を感受させ得るに足る「使命感」に変換できたこと。
そして、その「使命感」が自然に胚胎し、そこに自己欺瞞の毒素の侵入を遮断できたこと。
それを可能にしたのは、寄る辺なき関係状況に馴致していたクラウディアの中枢を、見る見るうちに痩せさらばえつつも、命の際(きわ)まで、母親としての責任を全うせんとするマルタの柔和な肉声の、その無限抱擁の包括力の凄みだった。
マルタ |
魂を揺さぶるマルタのパワーの凄みは、それに触れる者の中枢を動かしてしまうのだ。
「私たちの人生に現れてくれてありがとう」という「マルタのことづけ」が、クラウディアの内部に澱む毒素を決定的に浄化する。
それは、円滑な言語コミュニケーションを結ぶ行為から逃げていたクラウディアの魂を掬い上げ、昇華させ、迷妄の森から解放させるに至ったのである。
ここで、私は勘考する。
「天地自然の理(てんちしぜんのことわり)」という老子の名言の中に、マルタの死生観が凝縮されているのではないかと思われるのである。
その意味は、天地自然の変わらなさに比べれば、人間などは微々たる存在であるが故に、天地自然を手本にして生きていけば、いつか必ず死ぬ人間が色々なことで悩んでみても詮無いことと諦め、それより、あるがままに生きていくということである。
以上は、分子の結合体である人間の魂は、死によって身体が分解されることで魂も死滅するという、古代ギリシアのエピクロスの唯物論的死生観を支持する私の死生観と些か乖離するが、「死後の世界」をも包括する老子の死生観は、心が楽になる生き方であることは間違いないと思われる。
縷々(るる)考える時、「時々、死ぬのが怖くなる」と吐露しつつも、命の際(きわ)まで、日常的営為を繋ぐことを放棄しなかったマルタもまた、「天地自然の理」に従うかのように、家族全員で海に行ったラストシークエンスの意味は決定的に重要である。
中央がマルタ |
自らの命を、大自然の懐に任せてしまったからである。
余命幾許(いくばく)もないマルタが、メキシコの海に痩身の身を預ける行為は、今や、日常を繋ぐことすら困難になった現実を受容する彼女の最終的着地点だったのだろう。
そう、思われるのだ。
「天地自然の理」に身を任せて生き切った、マルタという女性の存在それ自身が、クラウディアにとって、掛け替えのない「母性代行者」でもあった所以である。
更に、前述した「予期悲嘆の実行」について書き添えれば、母・マルタの死を常に怖れていながらも、4人の姉弟が、その心理的重圧感に耐えることができたのは疑う余地がない。
4人の姉弟もまた、決定的に救われたのである。
左からマリアナ、ウェンディ、アレ |
それもまた、クラウディアという第三者の介在が少なくない影響を与えたであろうが、それ以上に、母の遺言を素直に受容する4人の姉弟の「予期悲嘆の実行」は、肝心要なところで頓挫しなかったのだ。
―― 稿の最後に、この映画への不満について一言。
時系列に沿ってエピソードを断片的に拾っていくばかりでなく、一つのエピソードを丹念に描くことで物語にリズムが生まれ、抑揚のきいた映画になったのではないか。
その一点において、構築性に欠けていたと言わざるを得ない。
少なくとも私にとって、訴求力の弱さが気になったのは事実である。
【参考資料】 拙稿・人生論的映画評論「マグノリアの花たち」(1989年製作)
(2016年12月)
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