1 「毎日、色んなことがあって、思い出せません」 ―― 少年の夏が弾けていく
「残されたのは数々の思い出だけです。離れがたい思いのまま、私たちを6年間育んでくれた学校を後にします。深い悲しみに、涙がこぼれます。けれど、私たちは学業を終えたのです」
「仰げば尊し」の歌と重なり合って、台北の小学校での卒業生代表の答辞の一部である。
妹の婷婷(ティンティン)と共に、入院中の母を見舞った後、卒業生の冬冬(トントン)は、母の看病に忙しい父に代わり、冬冬の叔父である昌民(チャンミン)に随伴し、田舎の村・中西部にある銅鑼郷(どうらきょう)で診療所を経営する母方の祖父のもとに、夏休みを過ごしに行く。
途中まで、昌民の恋人である碧雲(ピーユン)が随行する列車の旅である。
途中の駅で降車する碧雲を見送った昌民が、車内に忘れた彼女の服を取りに戻り、走って届けに行く間に、列車は発車してしまう。
珍しい玩具に好奇心をそそられた地元の子供たち。
その一人の阿正国の持つ亀と、ラジコンを交換してしまう冬冬。
その一人の阿正国の持つ亀と、ラジコンを交換してしまう冬冬。
ようやく、兄妹に追いついた昌民と共に、祖父の診療所に辿り着く冬冬と婷婷。
早速、冬冬は阿正国らと遊びに熱中する。
亀と玩具を交換するために、阿正国らの仲間が迎えに来たのである。
交換できる玩具が一つしかないので、一番早い亀と交換するレースに耽る子供たち。
「どけ。女が見る者じゃない。女が見ると、目がつぶれるぞ」
子供たちの中で、婷婷だけは仲間に入れず、追い出された鬱憤を晴らすために、婷婷は男の子たちの服を川に投げ捨ててしまうのだ。
裸のまま、家に戻る男の子たち。
しかし、連れて来た飼牛がいなくなり、それを探しに行った阿正国だけが戻らない。
飼牛だけ戻って来たが、心配する家族や冬冬たちが阿小国を探しに行く。
阿生国は疲れ果て、橋の上で、裸のまま眠ってしまったのである。
その後、教育熱心な祖父から、教科書の言葉を暗唱する冬冬。
蓄音機のレコードが奏でるノスタルジックな音楽を聴きながら、古いアルバムを見る祖父と冬冬。
この音楽をBGMにして、再び、外で遊ぶ子供たちの様子が描かれていく。
子供たちの嘲笑の視線が注がれる中、村人から毛嫌いされている知的障害者の寒子(ハンズ)が祠をお参りし、その前でタバコを吸っていた。
寒子はどうやら、村の男たちの慰み者にされているようだった。
その父親に、折檻されるスズメ捕りの男。
「あんな罪もない娘を、どうしたらいいの?母親もいないし、父親も哀れだわ」
祖父の家の中で交わされた、祖母と叔母との会話である。
一方、冬冬の母の病名が、「胆管閉塞」である事実が判然とする。
母の実父である祖父の言葉によると、母の病気は「胆嚢破裂の恐れがあり、胆汁性腹膜炎を併発しかねない」とのこと。
だから、手術が不可避であるが、今や、担当医師に任せるしかないということだった。
それを耳にし、全く言葉を挟めない冬冬の心の痛みが映像提示されていた。
その冬冬たちが、高架下の路上で昼寝をしているトラック運転手たちから金品を奪っている強盗現場を目の当たりにする。
昌民と碧雲(ピーユン)のカップルと共にビリヤードを楽しんでいる冬冬が、二人の強盗を目視したのは、まさにそのビリヤード場だった。
そして、祖父の診療所には、強盗現場の被害者が運び込まれて来た。
「僕、犯人を知ってるよ」と冬冬。
「子供は口出ししないの」と祖母。
全く相手にされなかった。
「出てけ!帰ってきたら、殺してやる!」
そう叫んで、祖父が息子を追放する。
そんな大人社会の現実を、冬冬は見せつけられるのだ。
相変わらず仲間に入れてもらえない婷婷が、電車に轢かれそうになった。
そんな婷婷を助けたのは寒子だった。
危機一髪だった。
寒子に背負われた婷婷を見て、冬冬は「降りろ!」と言うが、それを嫌がらない婷婷にとって、寒子は寂しさを埋める母親代わりの存在だった。
祖父に語る寒子の父親の言葉である。
スズメ捕りの男に孕まされた寒子を、守ってやりたいという思いが滲み出ていた。
そんな折、昌民と碧雲が結婚式を挙げるが、当然ながら、祖父は出席しない。
その結婚式に、冬冬だけが出席する。
「何か、可哀そうだ」と、母への手紙に書く冬冬。
「毎日、色んなことがあって、思い出せません」
これも、母への手紙の一節。
また、寒子と仲良くなった婷婷が死んだ小鳥を川に流す際に、その小鳥を優しく包み、寒子が涙を流すシーンが印象的に挿入される。
その婷婷が拾った小鳥を巣に戻そうとした寒子が木から落下し、祖父の診療所に運ばれて来た。
その手当てのため、台北にいる重体の娘(冬冬の母)に会いに行けなくなったことで、母を心配する冬冬から詰(なじ)られる婷婷。
寒子の寝床の傍で、婷婷は座っているだけだった。
この一件で、流産してしまう寒子。
一夜明け、母の容態が回復した事実を知り、安堵する冬冬。
相変わらず、頼りない息子だが、昌民の勘当を許す祖父。
かくて、台北から迎えに来た父と共に、台北に戻っていく冬冬と婷婷。
2 児童期後期から思春期への通過儀礼を鮮やかに描いた一級の名画
1983年に開園した東京デズニーランドに行くには、15歳という年齢制限があるという冬冬の友人の言葉に代弁されるように、この時代の台湾の政治は、なお戒厳令下にあった国民党による一党独裁(蒋介石・蒋経国)の抑圧的政治が続いていたが(1987年7月に戒厳令が解除)、映画が切り取った風景は、児童期後期から思春期への通過儀礼の鮮やかな様態だった。
J・ピアジェが「具体的操作期」(6歳前後から11歳前後)と名付けた児童期の特徴は、具体的な体験を通して、物事を客観的に見られるようになる時期であり、より抽象的で、一般的な象徴化が可能となる時期であると言える。
冬冬(左) |
強い道徳観念も形成され、観察力・思考力・注意力・記憶力などの認知諸機能が飛躍的に発達する。
冬冬もまた、祖父母のいる田舎での、ひと夏の経験の中で、以上の能力を推進力にして、イニシエーションの洗礼を存分に受けた。
映画が切り取った風景の殆どは、冬冬の視線を経由するから、物語で描かれた出来事に冬冬が関与する構成になっている。
田舎の村で起こる出来事の一部始終を目撃し、自分なりの感性で捉える、児童期後期の自我が様々に反応していくのだ。
そこでの具体的な体験が、冬冬の能力を試し続けるのである。
これは、幼児期にある婷婷(ティンティン)との決定的な違いである。
冬冬が、心理学の概念である「移行対象」(乳幼児がぬいぐるみなどの無生物に特別の愛着を寄せる現象)に振れている、婷婷への関心など特段に持ちようがないのである。
田舎に行く列車内で、婷婷がトイレに入って、お漏らししてしまうエピソードであるが、兄妹を随行させる役割を担っている頼りない叔父・昌民が面倒を見る傍らで、冬冬は全く無関心だった。
夏休みの時間を楽しみにし、広場でラジコン遊びに興じていた冬冬と違って、このような大きな「旅」に馴致(じゅんち)できない、婷婷の不安と緊張感が観る者に伝わってくるシーンである。
田舎に着いても、冬冬たちの遊びから仲間外れにされた婷婷の寂しさを埋めたのは、知的障害者の寒子(ハンズ)だった。
寒子を母親代わりにすることで、婷婷は、たった一人の田舎の村での生活に何とか適応していくのだ。
ここから、冬冬のひと夏の経験の内実をフォローしてみよう。
母親代わりにしていた婷婷と切れ、知的障害者の寒子を嘲笑するが、スズメ捕りの男に孕ませられ、それに同情する祖父母の話を耳にすることで、避妊手術などという言葉の意味することが正確に認識できなくとも、大人社会のリアリズムに触れ、思春期への架橋となるステップを踏んでいくのである。
そんな冬冬が、有無を言わさず、インボルブされてしまったのは、強盗現場を目の当たりにし、その後、偶然、二人の強盗犯を目視してしまった。
「僕、犯人を知ってるよ」と冬冬が祖母に話しても、全く相手にされなかった。
「子供は口出ししないの」
この言葉は、大人社会のフィールドに侵入してくる時の、「子供立ち入り禁止」という、大人サイドからの常套句である。
それまでの関係で作られた、両者の社会的・心理的距離感を崩すのは容易ではない。
「僕は、もう子供じゃない」といきがっても、大人と子供の社会的・心理的距離を埋めるのは容易ではないからだ。
しかし、冬冬は、「子供立ち入り禁止」のバリアの中で、決定的に動いていく。
その概要は、冬冬が二人の強盗犯と、頼りない叔父・昌民の家で遭遇してしまったことから開かれた。
強盗犯に察知された冬冬は、彼らに乱暴を加えられそうになったとき、帰宅して来た昌民に救われる。
「誰にも言うんじゃない」
その際の昌民の言葉である。
事もあろうに、強盗犯は昌民の友人だったのだ。
しかし、恫喝された冬冬は昌民との「約束」を守らなかった。
祖父を通して、警察に告げるに至ったのである。
まだ逮捕されていない強盗犯に対する恐怖感もあったに違いないが、それ以上に、「善・悪」の原理で判断し、それを行動に移す能力が備わっている事実を検証するからである。
自ら警察に通報するだけの能力がないから、最も信頼できる祖父に話す。
当然のことである。
昌民の親であるにも拘らず、「善・悪」の原理で行動する祖父の人間性を信じていたこと ―― これが大きかった。
「父は俺を、見込みのない男だと思ってる」
冬冬に吐露した昌民の言葉である。
決して悪人ではないが、父から勘当され、他の街で暮らしている昌民の人間的欠陥を理解できているから、児童期後期の終焉のステージで形成し得た少年の道徳観念は、「損・得」の原理の発動も絡んで、一つの意味のある行動に結ばれたのである。
その冬冬が、昌民との「約束」を守らなかったことで、申し訳のなさの思いが表情に現れたのもまた、少年の道徳観念の顕在化であると言っていい。
そして、この映画を無言で支配しているもの。
「やはり、体が弱ってるそうだ。今夜中に意識が戻れば助かるが…。様子を見て電話をくれる」
祖母に語る、この祖父の言葉を、冬冬は部屋の外で聞き入っているのだ。
悲しみに暮れる祖母は、居ても立っても居られなかった。
だから、台北に行くという祖母の思いに寄り添って、祖父も同行することになった。
冬冬もまた、母の容態が気になって仕方なかった。
でも、何もできない。
母への手紙も、今や、何の力にもならない。
そう思ったのだろう。
だからこそ、祖父母の台北行きを遮断した寒子の落下事故を恨み、「川に流せば、生まれ変わる」と言って、死んだ小鳥のことしか頭にない婷婷を詰(なじ)るのだ。
「お前のせいだよ。寒子のために。おじいさんが台北へ行けない」
この映画の中で、このシークエンスは、最も辛いエピソードになった。
婷婷は、まだ幼児なのだ。
目の前で戦死した両親の記憶すら覚束(おぼつか)ず、ミシェルを唯一の関係の対象にしたように、婷婷もまた、寒子を唯一の関係の対象にすることで「母の不在」を補足した。
その行為は、未発達ながらも、それ以外にない婷婷の適応機制だった。
―― 説明セリフなし・大写しなし・情緒の抑制的表現。
いつものように、淡々と構築されたホウ・シャオシェン監督の映像宇宙は、文句の付けようがないほど素晴らしい。
「冬冬の夏休み」 ―― いい映画である。
(2016年11月)
私は特にティンティンと寒子の関係が素晴らしいと思いました。線路内に嵌まってしまったティンティンを間一髪で救った寒子。あの場面はどのようにして撮影したのでしょう?最後の方で、起き上がった寒子が眠っているティンティンの髪の毛を撫でる場面、ハッとするほど美しい一瞬で、侯孝賢監督は凄くやさしい人だと思いました。
返信削除コメントをありがとうございます。
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